2011年12月28日水曜日

ロード

          ロード
                            
  知人が単行本を刊行し、その出版祝賀の宴に招かれた。
 この新刊には土佐一円で一生懸命に暮らし、地域を生き抜いた人々の姿が生き生きと描かれる。幾筋もの道が示され、今を生きる私達への大きなメッセージである。
 招かれた方々は高知市を中心に九市七郡にまたがる。それぞれの地域に活路を見出したユニークで個性豊かな人たちだ。こうし方々が語り、出版物に描かれる土佐の民俗や古老の体験談、方言などは、暮らしの豊かさを感じさせる。
 晩秋の夜を和やかに楽しませてもらった。
だが、こうした風俗や方言にはすたれてしまったものもある。日々の暮らしの中で二度と見ることも耳にすることも、体験することもできないことに寂しさが募った。 
 息子の運転に身をゆだね、帰路につく。二時間あまりの道中の終り近く、「かもしれないロード」と書かれた交通標語標識を見つけた。何があるか分からないと想像力を働かせ、安全運転を、ということだろう。
 そう、この先に何かがあるかも知れない。この日出会った人々の「道」と重ね、思いをめぐらせる。
 このロードの先、私がかえろうとしているところには、「老子道徳教」の「道〈タオ〉」や「徳〈テー〉」のようなエナジーあふれる街がある、かもしれない、と。
                                        儿
            高知新聞「閑人調」掲載

2011年12月24日土曜日

紅葉前線

            紅葉前線
                       
  大幅遅れの紅葉前線の南下と共に物寂しさが重くかさなる。四季の移ろいに左右される心情は日本人の特質であろう。来る秋も、また来る秋も同じ心持ちへといざなう。
 心の時代と言われて久しい。ここ片田舎の書店にも、心の癒しを著した有名無名作家の著作本であふれる。
 マスメディアの扇動に因るといってしまえばそれまでだが、確かに少子高齢化に伴う地方の疲弊衰退は誰もが感じとっている。格差社会が言われ、世情に乗り遅れた者は負け組の烙印が押される。政治とカネにまつわる為政者の腐敗、拝金主義のまん延は枚挙にいとまがない。心の拠り所を求めて迷うのも致し方ないことである。  
  ただ、人の心は世に言われるほど病んでいるのだろうかと、ふと疑問を抱いたりする。どっこい、心健やかな人々は数多くいると叫びたい。
 この季節、良寛の本が良く売れるという。私も無性に読みたくなる。無私をうたった良寛の俳句に心の広さ、情け深さを感じとるからであろう。
 良寛の辞世の句が浮かんだ。「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」。この句は貞心尼の句と伝えられるが、いずれにしても貞心尼を慈しむ豊か人、良寛のエピソードである。
                                                            儿
  前回、「寺田寅彦と室戸」に続き高知新聞「閑人調」に掲載

2011年12月22日木曜日

寺田寅彦と室戸

           寺田寅彦と室戸
  「天災は忘れた頃に来る」、と伝説の警句を遺した寺田寅彦。その切っ掛けは関東大震災の遭遇に因る、と日記に記されているとか。
 寅彦が中学生のころ、父利正の申し付けに従い、甥のRと共に室戸へ初めて旅をした。明治二十六年、暮れも押迫った十二月二十一日であった。
 旅の目的は二つ。もし運が良ければ、鯨との壮絶な闘いが見られる! あいにく漁は無く、「浜は寂しいほどしずかであった」と記している。
 いま一つは、ご先祖のお墓参りである。先祖は最御崎寺(東寺)の住職を務めた一海天梁《いっかいてんりょう》和尚である。和尚は寅彦の五代前、吉村左七の弟であり、幼少の頃より学問に秀で東寺に入ったという。
 捕鯨の盛漁期は文化年代と云われる。と同時に海難事故も多発。憂う一海和尚が願主を務め、鯨の供養と海難に遭った漁師を祀る拠り所として、お寺の境内に水掛け地蔵を設けた。地蔵群の中に一海和尚が建立した等身大の地蔵立像がある。この地蔵を恩師S先生が、平成四年春のお彼岸参りで発見した。その台座正面に「法界萬霊」と刻み、浄らかな浄土の国へのみちしるべと願ったであろう・・・。
 寅彦がお参りした一海和尚の墓は、東寺住職たちの墓地に今も祀られている。
                                                         (儿)

2011年12月17日土曜日

室戸市・津呂港開鑿のあらまし

室戸市・津呂港開鑿《かいさく》のあらまし

 最蔵(勝)坊こと小笠原一學は、島根県・石見国(銀山)の出身。戦いに明け暮れる戦乱に無常観をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を辞任し、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を巡礼し、一国一ヵ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。
 最蔵坊が六部姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を嘆き、再興した。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を目にした。凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、最蔵坊は津呂港の開鑿を自ら企画した。
 
 当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。時の土佐藩執政野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組み、工期は七十一日間という驚異的な突貫工事で竣工した。三年後の元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
 
 最蔵坊の土木技術は、石見国小笠原氏は祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴吹《たたらぶ》きなど「土木工事と冶金・工具」や銀の積出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
 
 尚、津呂港・室津港間の距離、僅か四㌖内に二つの港の必要性に付いては、津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、気象よる波高・風速などの変化に対応し、避難港の役目を三百九十二年
後の今も果たし続けている。

 室戸市の基幹産業・農水産業を顧みれば、農業は約四百年前に入植した崎山段丘、また、二百年前に入植をした西山段丘に農地の拡大を図り、温暖な気候を活かした促成・抑制栽培を確立し、今に至っている。
 漁業では約四百年前に始まった古式捕鯨に辿り着く。そしてカツオ漁、マグロ漁へと変遷を重ねてきた。あたかもそこに鯨がいたから、魚がいたから漁業が始まった、と誰しもが思い、当り前のことだと思っていた。
 その思いが一変したのは、室戸ジオパーク推進協議会の発足による。「時間をかけて成長する付加体形成や地震による隆起、大地の誕生を目の当たりにできるのは世界的に珍しい。そこが室戸である」と海洋地質学者が話してくれた。要は地質の動きによって室戸半島が形成され、たび重なる南海地震に起因する地殻変動が海成段丘を形成した。
 海から続く段丘に遮られた海洋深層水は湧昇流となり表層に富栄養を運び、魚群の食物連鎖を形づくり、一大漁場・宝の海を生んだ。今以て室戸市民は、太古より地質・地形が育んだ大地の恩恵を受け続けている。

 

  海面位置の推移
 永禄八(1565)年 紀貫之の頃・海面は今より、6.0m~8.0m上だった。

 天正九(1581)年 この頃の海面は今より、約1.8m上だった。

 慶長九(1604)年 二月三日午後十時・慶長の大地震 地盤上昇不明 
           津呂・室津で400人死亡 人口の半分

 宝永四(1707)年 宝永大地震M8.4 2.0~2.5上昇
           津呂・室津で1844人死亡

 延享三(1746)年 大地震で加奈木大崩壊 地盤上昇不明

 宝暦五(1755)年 この頃の海面は今より、1m上昇

 天明二(1782)年 この頃の海面は今より、約0.9m上だった。

 寛政元(1789)年 地震あるも津波無し。 地盤上昇不明

 天保三(1832)年 津呂港・室津港津波で破壊する。

 天保八(1837)年 大波(津波?)で津呂港・室津港大破壊

 嘉永六(1853)年 津波のみの記録

 安政元(1854)年 安政の大地震 室戸岬1.2m隆起

 昭和二十一(1946)年 南海地震M8.1 津波3m 隆起0.9m~1.2m

  海面の位置は大雑把に云って、約  m上にあった。  
以上、室戸を襲った南海地震は、両港の浚渫を余儀無いものとした。

                       
                              多 田  運



                             参考文献
                        

                                                                                                  
 最蔵坊小笠原一學について
        山本 武雄

室津港の移り変わりと年表
(1565~1985)

2011年12月15日木曜日

桑の木の三次さん噺




    桑ノ木の三次さん噺
   
 今から約百五十数年の昔、幡多郡・現四万十市中村に中平泰作さん。安藝郡・現室戸市佐喜浜には前田三次郎さんと云う、二人の奇人奇行剽軽者《ひょうきんもの》が、文化文政時代(1804~1829)の頃に生れた。この時代は日本の町人文化が最も栄えた時代であり、両雄は生れるべくして生れた、と云えましょう。
 佐喜浜川に沿って二里半(約10㌖)ほど遡ると、桑ノ木という小集落ががあった。そこには前田三次郎さんと言う奇人奇行の剽軽者が暮らし、民話噺の種を沢山残してくれている。仕事は杣《そま》・木挽《こびき》きが本業であったが、野根山街道の保全・道の修繕や柴苅などを請負っていた。仕事に掛ける実直さは目を見張るものがあり、どの仕上がりも際立ち、誰の目おも納得をさせたといわれる。三次さんが残してくれた、幾つかの噺を披露致します。
    一 猿の真似
 さて、猿の真似の噺は三次さんが未だ若い時のこと、岩佐(岩佐の関所)の山の神、日吉神社の山祭りに招かれ、直会《なおらい》(酒宴)も終り、友達と家に帰る時のことでした。「おい相棒、オラは此処から木から木へと伝って家に帰る。一遍も地に降りずに帰ったら一升買うか!」これに相棒は吃驚《びっくり》したが、
「猿じゃあるまいし、木の上をどうしてオンシが一遍も降りずに家まで帰れるか!」と高を括って、よし一升買う、と賭けに応じた。一升と云うのは酒のことじゃ、と云うが早いか街道脇の椎の木に登った。三次さん「相棒よいか行こうぞ」と合図をして下の木の枝から枝へとまるで猿じゃ。木を揺すってその反動を利用して次々と、木を伝って、ぴったり桑ノ木口の我が家の側の川原へ降り立った。時間にして、およそ一時間余りであった、という。相棒の男、一升賭けてあるので三次さんに遅れまいと、下り坂を生爪《なまつめ》を剥すほど駆け降りたが、三次さんはとうとう地上へ降りること無く、猿の姿、様子をそのままに家に帰り着いた。とうとう酒を一升買わされた相棒。「三次という奴は何をするか分からん奴じゃ」と嘆き、一升賭けに後悔したと云う。
 三次さんは時々猟師もした。その時の話、「猿を鉄砲で撃ったら。弾の当たらん奴は枝からすぐ落ちる。占めたと思って拾いに行ったら、逃げていない。弾が当たった奴は、木の枝にしっかりとしがみつき落ちてこない。そいつが当たっている証拠じゃという。また、朝早く猿が目を覚まして、水を飲まないうちなら、捕らえよいものじゃ。オラ四、五匹捕らえたことがある」この鉄砲の話は本当であろうが、猿の目覚めの水話は眉唾ものであろう、と囁かれた。
    二 三次さんの川渡り
 佐喜浜川は全長四里(16㌖)に足らない短い川だが、源流は野根山街道に至り、高低差は約千メートルに及び水の流れの速い川である。この川に、大正三年(1914)木製の橋が架かるまで、旅人やお遍路さんは大変難渋をした。人家三十軒くらいの根丸集落に木賃宿や遍路宿が十数軒ぐらい生計が立ったのは、この佐喜浜川の出水のお陰であったろう。「三次さんの川渡り」はこの頃の話である。
 何しろ三次さんは変わり者。猪《いのしし》が川を渡る時、脇目も振らず一直線に渡ったのに倣ったのか、三次さんは川を渡る時、対岸に目標を定め、その目標に向って最短距離、一直線に渡る。自分の決めた目標より三十㎝外れてしまうと、元に帰って始めからやり直した。
それで三次さんの川渡りは、一度で済むやら、二度、三度、五度もやり直すやら、全く、いつ渡り終るか見当がつかなかったという。
 そんな三次さんが、町へ用足しに来ていた。川端に来てみると、一人のお遍路さんが川を渡れなく困っていた。持ち前の侠気に富む三次さん『背負って渡してやるぞえ、お遍路さん』と声をかけた。お遍路さんは文字通り、渡りに舟と喜び、三次さんの背中に負ぶさった。背負われたお遍路さん「三次さんの川渡り」という、一癖のあることは知る由もない。三次さんは、お遍路さんを背負って向こう岸へ渡るのには渡ったが、予想外に流れが速く、目標から大分下流に着いてしまった。三次さんは『お遍路さん、降りんとうせよ、妙に気色が悪いきに。もう一遍やり直しをやるきにのし』少し分かりにくい方言であるから、お遍路さんは無論納得がゆかない。無理に背中から降りる分けにもいかない。三次さんが、二度、三度と渡り直しをした。背中のお遍路さん恐れ入って、「もうこのへんで降ろして下され、三次さん、勘弁して下され」と悲鳴をあげ泣き出したと云う。
 異説に、三次さんは、何度渡り直しても目標に到着できず、延々と渡り直した。遍路さんは「もう何処でも良うございます。降ろして下され、と泣きだした」という。そこで三次さんは、遍路さんを背負った元の出発地点に戻り、降ろしたという。
     三次さん噺、次回に続きます。
           
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                    無断転載禁止

2011年12月13日火曜日

名沖配・竹蔵と銛の達人・銛の丞




  名沖配・竹蔵と銛の達人・森之丞

 寛政十二年(一八○○)というと、伊能忠敬《いのうただたか》が、後に世界に誇る「大日本沿岸海輿地《よち》全図」作製の為、蝦夷地《えぞち》(北海道)に測量に向った年である。その後、文化五年(一八○八)四月、六十四歳で四国に入り、二十一、二、三の三日間、室戸路を測量している。
 この頃、竹蔵は奈良師に生れた。竹蔵は浮津組(他に津呂組あり)頭元《とうもと》・宮地組に属し、何時の時代に何歳で羽差《はざし》となり、沖配《おきはい》となったかはっきりしない。(羽差・沖配とは、古式捕鯨の役割名であり、沖配に正副二名。羽差各船一名、計十二、三名。網方、漕ぎ方総数約三百名で一船団を組織していた)竹蔵が沖配に昇格したのは、恐らく嘉永元年(一八四八)、五十歳頃に沖配になったと思われる。
 竹蔵が沖配に昇格するや、年々歳々大漁が続いた。しかし、追々に老齢に及んだため、土佐藩(この頃、捕鯨は藩営)に後任者を推薦して隠退した。所がその後、不漁が続き藩は困り果ててしまった。藩の鯨方総裁は竹蔵を再び沖配に命じた。ところが不思議と豊漁がつづいた。竹蔵は再び隠退をした。しかし、彼が隠退すると又も不漁となり、如何とも為す事が出来なかった。藩は竹蔵に三度目の復職を促した。しかし、竹蔵の家族や親戚は、三度復職をして幸いに大漁を得れば名誉なるも、万一不幸にして所期の漁事を得ない時は、これまでの名誉も一朝にして水泡に帰してしまう、との理由で強硬に復職を反対をした。しかし、本人竹蔵は敢えて意に介せず、自分が復職をすれば必ず豊漁して見せるであろう、と断然諸人の忠告を退けて復職をした。
 当時老齢に達していた竹蔵は、終日沖に出ることが出来なかった。その為、鯨方は納屋船と云う背子船一艘を新造した。舳船《へさき》には茶筅《ちゃせん》をあしらい、艏《みよし》には左右一対、海の守り神・「龍神と子持ち筋」をあしらい、右舷左舷の両舷に半菊模様と鯨のミホトと乳房(鯨の繁殖祈願)を図案化して描いた。どの背子船より美しい、「竹蔵船・納屋船」がここに誕生した。  
 山見番所より鯨発見の合図を見るや、即刻、竹蔵を納屋船に座乗して現場に急行する事にした。勿論乗組みの水主《かこ》(漁師)たちは屈強な者のみを選択した。そしてその結果は、竹蔵が声明した通り豊漁を三度果たしたのであった。これを藩主は非常に喜び、竹蔵に出府を命じた。竹蔵は城下に行き参殿、藩主の御前にて褒詞を賜り、又名字帯刀を許され、竹蔵に名字の希望あるや否やを下問した。竹蔵は郷里を出るに際に、山下と言う名字を考えていたが、突然の事で、失念してしまい苦慮の結果、自家の周囲の竹垣を思い浮かべ、竹村という名字を希望した。藩主はただちに、竹蔵に竹村と云う名字を授けた。これが竹村家の始祖である。
 明治三年(一八七○)三月、七十一歳の高齢に達し、藩に御暇を願い出し、これを受理され、遂に十月十二日、永年に亙る輝かしい海上生活に幕をとじた。

 他方、森之丞はもと平四郎といった。何処の在所か、その生年については正確なものは無いが、「銛うちの達人・羽差」であったことは、安政五年(一八五八)二月二日の宮地家文書記録にある。「一ノ銛(一番先に投げる銛)、羽差・森之丞、褒美として銀四十匁《もんめ》」を貰ったと伝えている。平四郎を森之丞と改めたのは、浮津組頭元・宮地佐仲から「お前は銛の達人だから、以後、銛ノ丞と改めよ」といわれて改名したとの話である。
 彼は長年羽差を勤め、沖配に昇格したのは明治二年の秋といわれる。
 明治三年正月九日の巳《み》の刻(午前十時頃)三津沖の網代で背美鯨を二頭発見し網を入れたが、惜しいことに二頭とも前網から抜け出した。その内一頭は沖へ沖へと逃げ出した。背子船はこりゃ逃したら一大事と、必死に力漕をつづけて追い回し、大灘《だいなん》(山が見えなくなる沖合)に出て無事に突き捕った。
 その時、一の銛は赤船・沖配・森之丞船。二の銛は下船《しもぶね》・羽差・竹八船。三の銛は羽差・常作船だった。残る一頭は六ヶ谷前の磯近くに逃げたが、とうとう見失ってしまった。しかし、その翌二月十日の正午頃、三津沖で突き止めて凱歌をあげたのである。
この時の褒美として、一の銛森之丞の船へは、吉米一石を、二の銛、三の銛にも、それぞれ六斗四升の褒美米が下された。更に一の銛、森之丞へは酒一斗、鯨肉・目方二貫目を下された。なお、藩主から名字帯刀を賜り、森之丞の功績を讃えた。森之丞が泉井家の始祖といわれる。
 竹蔵と森之丞の二人は、古式捕鯨の申し子であり、一時代を謳歌したと云えよう。しかし、時の移ろいは早く、近代捕鯨の波は浮津・津呂両浦にも容赦なく打ち寄せ、古式捕鯨の終焉《しゅうえん》は間近に迫っていた。
           
           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣

                       無断転載禁止

2011年12月4日日曜日

第11話 岩戸の立岩と大力久之丞



              岩戸の立岩と大力久之丞


 貞享《じょうきょう》の時代。元・上の内集落の、岩谷川に架かる橋の東袂《たもと》に、自然石の堂々たる立岩があり、この石碑には、
「貞享二(一六八五)年乙丑《きのとうし》  右寺道
 従是西寺八町女人結界
  二月吉日立之 左なだ道」
と刻んである。所謂《いわゆる》「女人結界《けっかい》(禁制)の道しるべ」であり、「これより西寺領八町内へは女性は入ってはいけないとの意味である」
 この立岩は、岩戸神社の鳥居から約百㍍余り西方の道から、浜への小道の傍らにあった。平成十四年(二00二)に完成した、国道五五号線・元海岸道路工事のために現在の位置に移され、三度目の移転という。碑文の年号、貞享二年から推し計れば三百二十五年ほど前の話になる。今もなお、石碑の周りは一木一草無く清掃され、お墓のように花が添えられ、奈良師の中村家がまっている、と言われる。
 この「岩戸の立岩」に纏《まつわ》る逸話は色々様々に語り継がれている。
 むかし貞享の頃、奈良師に「中村久之丞」という漁師がいた。ある年の秋、岩戸八幡宮の奉納相撲に挑んだ。かかっていってもかかっていっても負けてばかりで、地団駄《じたんだ》踏んで悔しがった。もっと力が欲しい、もっともっと力を、と来る日も来る日も願っていた。
 そのような久之丞の様子を見かねた、隣りのお婆《ばば》が「久之丞や、そんなに力持ちに成りたければ、金剛頂寺・西寺の金剛力士・お仁王様に願《がん》を掛けるが良い。きっと力を授けてくれよう」と教えてくれた。
 久之丞は喜び、早速三七、二十一日間の願を掛け、丑《うし》三《み》つ時《どき》(午前二時から二時半)にお参りを続けた。遂に結願《けちがん》の日を迎え、お寺に登って行くと、山の上から大きな岩が幾つも幾つも落ちてきた。久之丞はその岩を受け止めては側に置き、行く手を塞《ふさ》ぐ岩を片付け片付け、道を開きながら仁王様の前に佇《たたず》んだ。久之丞は仁王様に「今夜は結願の日でございます。どうぞ力をお授け下さい」とお願いをした。すると、仁王様が笑顔でおっしゃった。「力はすでに授けてあるではないか。気が付かぬか」「お前は、岩を片付け、道を開き、ここに来たではないか!」と笑顔を重ねた。それに気付いた、久之丞の喜びは一入《ひとしお》であった。
 久之丞は力を授かった証に、形の良い岩を肩に担ぎ帰ることにした。途中に、黒い牛が道に長々と寝そべっていた。その牛を一跨《ひとまた》ぎにできた。これもご利益の証かと驚きながら、一休《ひとやす》みと、肩の岩をひょいと道端に置いた。暫くの間に身体も安まり、さて帰ろうと、岩を担ごうとしたがびくともしない。
岩をその侭に家に帰り、座敷に上がると根太《ねだ》が折れ、箸を握ると粉々に、手にする物がすべて損なわれる始末。有り余る力に困った久之丞は、再び仁王様に「どうぞ、向う倍力(相手の倍の力)の力に、かえて下さい」とお願いして、直してもらったという。久之丞は娘・「おなか」にも力を分け与えたという。
 久之丞が道端に置いた侭の岩が「岩戸の立岩」と伝えられている。その後、久之丞は大阪の港で北前船の船員と大喧嘩をし、船の帆柱を振り回し相手方数人を海に叩き落とし、勇名を馳せた。後《のち》には、五十集船《いさばせん》(貨物船)の船頭になり、神戸・大阪に行き、五人抜き、十人抜き相撲をたやすく果たし、向うところ敵無く、誰もが久之丞の剛力に目を見はったという。
 また、こんな話もある。
 あるとき、大阪の豪商鴻池《こうのいけ》家に鯨肉を届け、明日は帰ろうと準備をしていた。その矢先に、空は暗がり時化模様《しけもよう》となった。二日ほど足止めを喰らった久之丞は、浜辺をぶらぶらと歩いていた。すると、五、六人の男が、がやがやと何かを掘っている。何を掘っているか見ていたら、大きな錨がちょこんと首を出していた。「そりゃ、どうしているぞ」と久之丞が聞いた。「どうしている!、見たら分かるだろうに。昨日の時化で埋もれた錨を、掘り出しているのだ」「これだけ集《たか》らねば、掘り出せんのか」「これが一人で、引張り出せるか」「ほんなら、おらがやってみようか」「おお、引張り出せたら、お前にやるわ」「よし、約束したぞ」と言うなり、久之丞は手を錨にかけると、いとも簡単に、スポッと引き抜いた。皆が目を丸くしている間に「約束じゃ、もらって行くぞ」といって、軽々と肩に背負い、砂浜を歩きはじめた。所が、妙に錨が揺れ動く、と思ってふり返ると、錨の爪に五人がぶら下がっていた。「どうぞ返してくれ。わしらは掘るのに雇われている。これを取られたら、仕事にならん」と泣きを言った。「そうか、そしたら返してやる。ちょっと、退《ど》いていろ」と五人を遠ざけておき、錨を二、三度振り回して、砂浜に投げ込んだ。元よりよけいに、埋もれてしまった、という。
 久之丞から力を分けてもらった娘、おなかの話。『娘・おなかは、西下町の漁師の女房になったそうな。亭主が沖から濡《ぬれ》れて戻る。おなかは亭主に盥湯《たらいゆ》をさせていたら、夕立がきた。「おい、おなか、雨が降ってきたぞ、夕立ぞ」「まあ、慌てず静かにしてていて下さい」と言ったかと思うと、亭主ごと盥を持ち上げ、どっこい、と家の中に入れたという。 今に、この家の子孫は、みな力持ちだという』
 筆者が子供の頃は、みんな久之丞に肖《あやか》りたく、今風に云えばチッシュを口に含み、唾液と絡ませ紙団子を作り、その紙団子を東寺や西寺の仁王様に投げつけ、くっついたところから力を授かる、と云って良く遊んだが、今その風景は見当たらない。 
                          
                          文 津 室  儿
                          絵 山 本 清衣
                無断転載禁止


2011年12月1日木曜日

室戸の民話・伝説 第10話       菜生谷の蝦蟇


菜生谷の蝦蟇 


 むかしもむかし、室戸岬町が津呂村であったころの話です。津呂村は耕作地が少なく、蔬菜類《そさいるい》の栽培を菜生《なばえ》地区に頼っていました。菜生地区は、春は菜の花からとの古事に倣い、年中温暖で菜の花が絶えない土地であります。その菜の花に由来して生れた地名が、字《あざ》・菜生であると言われます。縁先では、昔から初老たちが草履《 ぞうり》作りにいそしみ、製造が盛んであった、と聞きますが今この風景は見られません。
《あざ》 この菜生谷の近くに、大層腹の据わった孫太郎という猟師が住んでいました。むかしのこの辺は人家もまばらで、田畑の周りは、笹藪が多く昼間でも淋しい所でした。
ところが、田畑の作物が何者かに荒らされ始めた。里人は、「何者か、突止めなければ」と困り果ててしまった。里人は頭を突き合せ相談を重ねた果てに妙案を得ました。鉄砲撃ちの名人・孫太郎に頼み込むことだった。
お人好しで、物怖じしない孫太郎のこと、即座に「おらが仕留めてやろう」と、気前よく引き受けてくれた。
 孫太郎は、それからと言うもの昼間は猟に、夜は畑のそばに番小屋を建て、見張りを続けた。
 ある日のこと。孫太郎はいつものように猟銃を肩に掛け、鼻歌まじりで陽気に菜生谷の奥へ猟に入った。孫太郎がひょいと振り向くと、生茂る雑木林の暗がりから、大《おお》鍋釜《なべがま》を被った正体不明のものが、目を凛々《りんりん》と輝かせてこちらを見ていた。孫太郎は咄嗟《とっさ》に「これは化け物じゃ、うっかりすると、こちらがやられる」と思った瞬間に鉄砲をぶっ放した。確かに手応えがあった、が姿が見えない。「えらい、すばしこい奴じゃあ」と、いぶかりながら探し回る。陽は傾きはじめた。探し切れぬまま里に下りてきた。
 いつか年も暮れ、大晦日の晩の事であった。「明日は正月、ゆっくりするか!」と、久しぶりに番小屋を離れ、我が家で晩酌をちびりちびりと飲んでいた。孫太郎、どうした事か番小屋が変に気にかかる。ほんのりと頬を桜色に染めていたが、ひょいと猟銃を肩に掛けると、通い慣れた夜道を番小屋に向かった。空は星が満天に輝く夜であった。
 番小屋に近づくと、何者かが囁く声を耳にした。孫太郎は足を止め、雑木に身を隠した。雑木の葉陰が孫太郎の姿をすっぽりと覆い隠していた。耳ざとい孫太郎の耳に『今夜は大晦日の晩じゃ、孫太郎は来まい「鍋・釜」を脱いで、踊ろう、踊ろう』と歌っているのが聞こえた。
 孫太郎は目をしばたたせて、じっと一ヶ所を見つめた。確かに畑の真ん中で異様は者が踊っている。孫太郎はそれが何者かぴんと頭に浮んだ。「山の中で遭った、あれじゃ」ほろ酔い加減とはいえ、腕自慢で太っ腹の孫太郎のこと、銃を構えた。幸い至近距離だった。
一発の銃声と同時に、天にも届く悲鳴があがった。その声は里人の耳にも届いたという。「当たった」と、思った瞬間に孫太郎の前をふっと何者かが走り去った。再び薄気味の悪い闇の静寂に返った。
 眠れぬ夜を過ごした孫太郎は、元旦の朝である、が身を起こすが早いか畑に向かって突っ走った。踏み荒らされた畑の真ん中には、一つ、血のしたたる鍋釜が転んでいた。
 孫太郎は、血の後を追った。血は菜生谷の奥へ奥へと続いていた。すると突然、目の前に大きな洞穴が立ちはだかった。洞穴は暗く何も見えない。数秒か!、数分か!、後に孫太郎の目もやっと暗闇になれた。孫太郎の目前には、見た事のない巨大な蝦蟇《がま》(がまがえる)が死に絶えていた。
 猟師・孫太郎は、生き物を殺生する生業《なりわい》である。仕留めた獲物に畏怖畏敬《いふいけい》の念を忘れていなかった。蝦蟇のために、小さなお堂を作り、御霊《みたま》を祀ったと伝えられている。
 その後の菜生地域は、田畑も荒らされる事なく、平穏が続き里人は孫太郎に感謝の気持ちを持ち続けたと言う。現在の菜生地域には、鈴木孫太郎神社が祀られている。ただ祭神はこの物語の主人公・猟師の孫太郎とは関係がない、とも言われている。 今、その真実を知るすべは何処にも見つからない。

                              文 津室  儿
                              絵 山本 清衣
                 無断転載禁止

2011年11月1日火曜日

 第9話 木食僧・入木の仏海上人



 木食僧・入木の仏海上人

 近郷近在の老若男女から、白《しら》髭《ひげ》のお坊さんと慕われ続けた僧侶が佐喜浜の入木にいました。その人の名を木食僧《もくじきそう》・仏海上人《ぶっかいしょうにん》と言いました。国中の浦々を乞食行脚《こつじきあんぎゃ》した道程は、地球の何週回分にもあたると言われています。
「仏海さんの字《あざな》は「如心《にょしん》」俗名を太郎松《たろうまつ》」と言って、伊豫《いよ》・愛媛県風早郡猿川村(現・北条市)の生まれです。
 仏海さんは、前世の約束に感応したものか、幼心に俗世《ぞくせ》を逃れようと志し、十三歳で父母のもとを出て師を求める旅にでました。粗末な衣服をまとい、飢えを友とし山野に宿《しゅく》し、三年の月日を経ましたが心に適う師範には出会えません。十五歳のとき「俗世解脱《げだつ》」の大願をたて、高野山に登ろうと決意しました。
 紀伊《きい》・高野山の麓、紙漉《かみすき》きで名高い細川村の民家に宿をかりました。民家の主人に、仏海さんは志しを告げました。この志しに耳を傾けてくれた主人は、仏海さんにこう諭しました。「貴男は未だ歳も若いしおまけに貧窮《ひんきゅう》している。いつか遍歴に飽きてしまうに違い有りません、私の言うようになさるが一番よろしい」と、それからの三年間を、此の宿の主人のもとで薪を割り水を汲み労役に従事しました。十八歳にして高野山に登ることができ、一心院《いっしんいん》谷の正法院《しょうほういん》に入りました。ようやく二十三歳にして生涯の師範に巡り合うことができました。その師は正法院の住職・宥秀《ゆうしゅう》阿闍梨《あじゃり》でした。師の教えにしたがって頭髪を剃り、衣を改めて出家しました。
 二十七歳のとき彫刻僧・潜巌《せんがん》和尚に謁見《えっけん》することができました。この潜巖和尚が地蔵菩薩《じぞうぼさつ》の尊像《そんぞう》を彫刻し、有縁《うえん》の人々に施与《せよorしよ》しておられた。それを目にした仏海さんは、地蔵尊の刻像を習い有縁の人々に授与《じゅよ》しなが回国修業することを目標にしました。時に仏海さん三十一歳、元文五年(一七四〇)のことでした。
 三十五歳、再び高野山に登り、宥秀阿闍梨の導きで四度の修業を成就《じょうじゅ》しました。再び、中国・九州を廻って、数々の教典を書き写し道場へ奉納しました。扶桑《ふそう》(日本の異称)の国中の回国巡礼の旅(修業)と共に、総数三千体に及ぶ尊像彫刻が成就しました。三十七歳のときでした。
 仏海さんの行く所には、いつも多くの人々が待ち受け、その徳望と叡知と法力によって病める人の心を癒しました。四国八十八ヶ所修業道場で最も険しい難所の一つに、飛石《とびいし》・羽石《はねいし》・ごろごろ・と言う、交通難所があります。この海岸難所から人々を救うために、飛石庵を結び旅人や遍路の救済に晩年を捧げ、錫杖《しゃくじょう》をこの入木の地に留めました。飛石庵から仏海庵へと名称が替わったのは、仏海さんが入滅後に村人が改名したと伝わっています。この庵は当時のままに再建されたと言われ、間口二・五間、奥行き二間位の小さなお堂であります。そのお堂の前には、仏海さんが刻んだ一字一石の経文を鎮め、その上に建てた地蔵尊像があります。お堂の中には観音像の鋳型《いがた》、地蔵菩薩像の鋳型、弘法大師修業の絵図、不動明王の絵図などの遺品が遺されています。
 仏海さんは明和六年(一七六九)入定しました。今の宝篋印塔《ほうきょういんとう》の下に、三七、二十一日間、五穀を断ち水のみにて、香を焚き鐘を鳴らし、一百万遍の読経に耽り即身仏《そくしんぶつ》になられたと言われ、旧歴十一月一日が命日にあたると伝えられています。
 入木地区は仏海さんを信仰する事によって、裕福な土地になったと言われます。これは仏海さんの功徳の表れでしょう。また仏海さんの、法力にまつわる話が二話のこっている。
 其の一、仏海庵の前に大きな蘇鉄《そてつ》の木があります。蘇鉄の前に県道建設が始まりました。蘇鉄の枝が工事の邪魔になり、村人が相談して切ることにしました。翌朝、刃物を用意して、蘇鉄の前に立ち驚きました。夜の間に蘇鉄の枝は、全て後方に曲っていました。村人は仏海さんが蘇鉄を守った。とその法力に敬服したといいます。明治二十四、五年の話であります。
 其の二、昭和の初め頃、仏海庵に泥棒が入りました。泥棒は仏海さんが祀ってあった本尊や宝物をごっそり盗んでいきました。その夜、仏海庵の甍《いらか》の上に大きな鬼火(火玉)が三つ飛びかい、数人の村人が見ました。入木の若い衆達は、何事かあらんと庵に集り、泥棒と知るや互いに指図しあい、根丸橋と淀が磯の橋の袂へ若い衆を差向け、泥棒を待伏せしました。泥棒はその夜、村境の水尻であっけなく捕えられました。泥棒の白状によりますと「本尊を盗んで水尻まで来た所、鬼火がまとわり飛交い、足がすくんで歩けなくなり、本尊は竹薮に隠して有る」と言ったそうです。早速本尊を探し出し、元の仏海庵へ持ち帰りました。その夜は村中の人々が集まり、本尊の無事を喜び合い、夜もすがら供養をしたといいます。その後庵は、今に至るまで仏海さんの法力を恐れ、不届き者は来ないと言われています。村人は本尊の安寧を心に願い続けていると言われます。
 平成二十二年(二○一○)十二月六日(旧十一月一日)は、仏海上人・宝永七年生れの生誕三百年祭にあたります。盛大なお祭りが行われることでしょう。
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                    無断掲載禁止


2011年10月15日土曜日

   第8話 亀ヶ淵と仁木義長


亀ヶ淵と仁木義長


    亀ヶ淵と仁木義長

 この話は、足利尊氏が京都に室町幕府を開いた頃で、かれこれ六百七十有余年昔のこと。
  羽根川を遡ること二里半(一0㎞)、北生《きたおい》の里にであう。この里に、そりゃたいそう美しい娘がおった。年頃は近づくものの、なかなか婿になる者がいない。その訳は娘の両親が「我が家より格式の高い家柄の者でなければ嫁にやらぬ」と息巻いていたからだった。そのため里の若い衆は、誰一人として娘に近寄らなかった。
 今年も夏は長《た》け、秋風が身に凍み、紅葉が彩りを深めはじめた。栂林《とがばやし》や赤松林から聞こえる牡鹿の妻恋う歌は、胸に染み透る悲しげな響き。娘はこの歌を聞くたびに物憂げに沈む。牡鹿は「カーン・カーンヒョー」と甲高《かんだか》く鳴き誘う。雌鹿は「キーン・キーン」と等間隔に鳴き応えていた。
 万葉集・読み人知らずに「このころの 秋の朝明《あさけ》に 霧隠《きりこも》り 妻呼ぶ鹿の 声のさやけき」と娘の心境そのままに詠んだ歌がある。「ああ、こうしている内にも、私は私はだんだん歳を重ねてしまう。私を妻にと言ってくれる若い衆は居ないだろうか!!!」
ああ、眠られぬ夜が今夜もつづく、溜め息がつのる夜ごとであった。
 やがて、北生の里にも冬は去り、春が訪れた。ある春霞の深い夜のことであった。生暖かい風が吹いたかと思うと、娘は夢とも現《うつつ》とも定かで無い内に、媾合《こうごう》を交わしたように思った。我に返ると、浅葱色《あさぎいろ》の狩衣《かりぎぬ》を着た若者がそばにいた。若者は北生の里ではついぞ見かけぬ優雅な物腰、優しい言葉を重ね重ね娘に囁きかけた。娘の心はいつしか恥じらいも解け、若者を慕いはじめた。
 若者は雨の夜も、嵐の夜も、夜ごと夜ごと通いつめた。いつとはなく、娘の顔は青ざめ身体に異変が起こりはじめ、日増しに痩せてきた。娘の母親が案じて、「おまえ、どこか身体が悪いのではないか」と聞くが、娘はそのたびに首を振った。母親は娘の様子をいぶかしみ、誰か忍んでくる男でもいるのではないか、と様子を窺うことにした。
 その夜のことである。娘の部屋を窺っていると、ふいに生暖かい風が吹いてきた。母親は不思議に眠気《ねむけ》を深くもよおした。
「眠ってはならん、眠ってはならん」と、我が身に言い聞かせたが、気が付いてみると夜は明けていた。こうした晩が幾夜か続き、娘の顔色はますます青ざめていった。 母親は、生暖かい風が吹き眠く成るたびに、我が身の膝《ひざ》に錐《きり》を刺し、痛さで眠らぬように我慢した。娘の部屋の様子をそっと窺っていると、浅葱色の狩衣を着た若者が現われた。
 翌朝、母親は娘を呼んだ。「昨夜、おまえのもとに通って来た男は、何処の誰じゃ」と尋ねた。娘は俯《うつむ》いたまま答えなかった。母親は叱りなだめすかして問い詰める、と娘はようやく顔を赤らめて答えた。「それが、どこに住まわれて居るのやら、名は何と仰《おっしゃ》るのやら明かして下さらないのです」母親は呆れ顔で娘の顔を見た。母親が物陰から見た、若者の狩衣姿は身分の高い家柄の者に思えた。もし、そうであれば婿にしてもよいが、若者が何処の誰か分からないのが案じられた。何とか突き止める思案のすえ、娘に「よいか、母の言う通りにするのだよ」と何ごとか言いつけた。娘は心細げにうなずいた。
 その夜、いつもの時刻に若者が来た。逢瀬の時間は短い。若者が帰る時、娘は若者に気づかれないように、そっと麻糸の緒環《おだまき》を付けた針を狩衣の襟のあたりに刺しおいた。若者が姿をけすと、母親と一緒に糸を辿り後を追った。緒環はどこまでも続いた。赤松林や栂林を抜けると川筋は二股に別れ、山道も東西に別れていた。緒環は西股に沿い、辿ると昼なお暗い大きな亀ヶ淵へと続いていた。
 そのとき、淵の底から大きな呻《うめ》き声が聞こえた。その声に娘はいたたまれない。若者の身に何ごとか起きたのでは、と思わず声をかけた。「どうなされたのです。私はあなたの住むところを知りたく、こうして来ました」淵の底から苦しげな若者の声が答えた。「わしはいま、人の姿ではない。もし、おまえがわしの姿を見たなら、息も絶えん思いをするだろう。だが、よくここまで尋ねて来てくれた。そのことだけは忘れまい」
 娘は母親がしきりに止めるのもきかず、「たとえ、どのようなお姿であろうと驚きませぬ。どうぞ、出て来てくだされ。お姿を見せて下され」すると、俄《にわか》に淵の水面《みなも》がごうごうと逆巻き、長さ十四、五丈(45m)もあるかと思える大蛇がずりずりと這い出てきた。
 さすがに娘は、その場にへたへたと座り込んでしまった。あの狩衣姿の若者が、こんなにも恐ろしい姿の大蛇であったとは、と生きた心地もしなかった。大蛇は娘のそば近くに寄り添い、満面に涙を浮べた。大蛇の喉仏《のどぼとけ》に娘が刺した針が突き刺さっていた。娘は恐ろしさで逃げ去ろうとしたが、幾夜も契りを交わした仲だもの、呻き声をあげている大蛇を見るにみかねて、喉仏の針を抜いた。
「わしは間もなく死ぬが、おまえの腹の中には、すでに五カ月の男の子が宿っている。ただちに京に上り、都から三河の国に下り、そこをその子の産土《うぶすな》の地にして欲しい。それが叶えば、その子は、人に秀で賢く、心の寛《ひろ》く強い若者に育ち、いずれ、その子は足利尊氏の四天王の一人になろう。恐ろしき者の種と言って、どうか捨ててしまわないでくれ」、と大蛇は言い残すと息絶えた。
 やがて娘は旅立ち、都から三河の国に入ると産気づき男の子を産み落とした。その子は成長するにつれ、娘が契りを交わした狩衣姿の若者と瓜二つ、猛々しく成長した。のちには大蛇の予言通り、四天王の一人りと騒がれ、武名を欲しいままにした右京大夫仁木義長《にきよしなが》がその人という。義長の右胸には大蛇の宿し印か、蛇の頭模様がくっきりとあったという。
 羽根集落の里人は、義長を今もって、平家の落人と思っている様だが、実は清和天皇の孫にあたる、源満仲に端を発した源氏である。
 義長は尊氏に従って転戦し、箱根竹下の戦い後、尊氏の九州落ちにしたがい多々羅浜で菊池氏を敗った。この時、勇戦し直義から鎧《よろい》を賜り、その後、八代《やつしろ》まで進攻し九州探題《たんだい》(鎌倉・室町幕府の職名)となった。この後も、各地に転戦戦功を重ね三河・伊勢・伊賀・志摩の四ヶ国の守護職《しゅごしき》となったが、性質極めて荒く、鶴岡八幡社中で人を殺め男山の神人《しんじん》(神のような気高い人)を殺害し、伊勢の神路山《かみじやま》で平然と狩を行い、五十鈴川で漁を行うなど、神域を恐れぬ強者《つわもの》であった。
 その後、足利尊氏兄弟、諸将の不仲にことを構えたが失脚した。伊勢・長野城に籠ること二年、兵を失い勢い極まって正平一九年(一三六三)三月、後村上《ごむらかみ》天皇に帰順したが、翌年再び足利義詮《よしあきら》に降伏をした。さすがに、強力無双の義長も果てしない戦に無情感がつのったか、これを機に仏教に帰依した。後に京都に帰ると薙髪《ちはつ》(剃髪)した。戦いに疲れ果ててのことか、齢を重ね思慕の念に駆られたのか、未だ訪れたことの無い、愛《うるわ》しい父母の里、北生を終《つい》の住み処と定め、亀山天皇の天授年間に一族二百六十三名と共に、阿波の国撫養《むや》より間道づたいに羽根川の支流「小川《こご》」の上流、御屋敷(地名)に居を構えたが、後に北生の里に移り、稗《ひえ》・田芋《たいも》・粟《あわ》を作り露命を繋いだ。その間、練武を忘れず、弓場・馬場を設け、天授二年(一三七五)に北生の里で没した。
 里人は、義長の鎧兜《よろいかぶと》をおさめる祠堂《しどう》を建てて義長神社とした。夏祭りを旧暦六月一日に、秋の大祭は十一月第一の未申《ひつじさる》の日と定め、沐浴斎戒《もくよくさいかい》(心の不浄・身の過ちを戒める意)して里芋でお鏡餅二百六十三個と幣《へい》を二百六十三本をつくり、玄米の御神酒を供えて、今なお、お祭りを続けている。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣
                              無断転載禁止


2011年10月1日土曜日

第7話  夢枕の女


       夢枕の女

 戦国時代が終り、太平の世に移った江戸時代初頭の頃と言うから、今から三百七~八十年前の事である。室戸岬の小高い丘に、鬼塚七郎衛門と言う領主の城があったそうな。
 そのころ、土佐の海には沢山の鯨がやってきた。土佐には室戸だけに津呂《つろ》組と浮津《うきつ》組の二つの鯨捕りの組があった。
 ある年の春先、鯨の群れが室戸の沖を通るという知らせが届いた。そこで領主は家来の川中吉左衛門を呼び、鯨捕りの指揮を命じた。吉左衛門がすっかり準備を終えたのは、もうかなり夜も更けてからであった。
すぐに床につき、とろとろっと微睡《まどろ》んだころ、一人の美しい女が吉左衛門の枕元へ座り、丁寧に頭を下げ、「明日の朝、鯨捕りがあるそうですが、私はそのころ室戸の沖を通らねばなりません。どうか、その日を少し延ばして下さい。私はまもなく子供を産みます。子供が産まれたら、いつでもこの命を差し上げますから・・・・・。」と女はこう言って、何度も何度も頭を下げて出ていったそうな。
 やがて朝になった。吉左衛門は夢のことを思い出すと、心が重く痛んだ。しかし浜へ出て、勇ましく鳴る太鼓の音、風にはためく勢子船の旗を見ると、いつの間にか夢の女のことは忘れてしまっていた。
 しばらくすると、狼煙《のろし》が上がる、鯨を見付けた標しだ。勢子船がいっせいに沖に向かった。一番羽差しから、二番、三番羽差しへと、次々に十三番目の羽差しまでが、鯨を的に空に向け銛を投げ放った。数十本の銛を受け傷ついた鯨は深く潜り、水面高く飛び跳ね、もがきながら血で海を赤く染めた。数時間の戦いは終る。鯨は持双船《もっそうぶね》に結えられた。三百人の漁師がジョウラク・ジョウラクと唱え、鯨の霊を慰める中、大剣でとどめが刺され、鯨浜にはこばれた。
 その夜、吉左衛門はすすり泣く女の声に目を覚ました。枕元に昨夜《ゆうべ》の女が血塗れ姿で座っていた。「貴方は、何と言う酷《ひど》い方でしょう。私の願いをとうとう聞いて下さいませんでした。私の子供は広い広い海原を知らずに、とうとう死んでしまいました。」女はさめざめと泣きながら、こう言ったそうな。
 明くる朝、吉左衛門が鯨浜に出ると、昨日捕った鯨が並べてあった。その中にお腹に子を宿した雌鯨がおったそうな。それを見ると吉左衛門は、可哀想なことをした、と心から悔やんだ。
 そこで領主に願い出て、孕《はら》み子を貰い受け、大海原が見渡せる小高い丘に、洗米や果物・お神酒《みき》を供えて葬り、七日七夜は心無い人間や獣に荒らされないように、番人を立て守ったと語り継がれている。
 
注記 
 孕み子の葬り方は三通りあった。一つは先に記した、小高い丘であるが、今一つは水葬と浜辺の砂を深く掘り葬むる。なお、孕み子が雄の時は、一番羽差しの妻の赤い腰巻きに包み、引き潮に乗じて葬る。雌の場合は、同じく一番羽差しの羽織で包んで葬ったと伝わる。
 母鯨が言い遺した「広い広い海原を知らずに死んだわが子」との言葉には、鯨の母性愛や鯨に畏怖畏敬の念もって接する漁師の心根が伝わる。この孕み子の弔いは、吉左衛門の「夢枕の女」に始まり古式捕鯨が終焉する明治三十九(一九0六)年まで続けられたという。
なお、水葬と小高い丘を、どのように仕分けて葬ったのか、今は分からない。
             
         文  津 室  儿
         絵  山 本 清衣

                    無断転載禁止

2011年9月16日金曜日

   室戸の民話伝説 第六話      狐の報恩(おんがえし)




 狐の報恩《おんがえし》


 佐喜浜生まれの杣人《そまびと》(きこり)・喜之助《きのすけ》が羽根村の山へ働きに出掛けた。江戸幕府が滅び、年号が明治に改まろうとする初冬のことであった。その頃、羽根の御留山《おとめやま》(藩有林)には、杉や檜が何百年も樹齢を重ね、巨木が生い茂っていた。
 喜之助が三十路《みそじ》近くになった頃、廃藩置県が行なわれ、土佐藩が高知県と改まった。それは明治四年七月十四日であった。この日より羽根の御留山や魚梁瀬の千本山、近郷の御留山は、すべて明治政府の直轄となり国有林となった。
 喜之助が働きに来た頃は、まだ藩だの県だのと、差配方が定まらず、けっこうもめごとも多かったという。喜之助は、集落の空き家を借り山へ通った。仕事は順調に進み、あと十日もすれば佐喜浜へ帰れることになった。
 三カ月ぶりに佐喜浜の魚が食える、と舌鼓を打ち楽しみ。今日も馬力をかけて働こうと出掛けた。杣の仲間が伐採する区域のことで手違いを起こし、仕事は昼前に終った。
 帰り道、山の中腹あたり。杣道から右手に三間(五・四㍍)ほどの茂みで、獣の啼く声がする。不審に思った喜之助は、声を頼りに近づいて見た。猟師が仕掛けた罠に、子狐が足をはさまれ悲鳴をあげていた。喜之助は「牛倒し」という異名の持ち主。立派な体格で剛力無双であるが、生まれつき動物好きで優しい気性持ち。「おう、なんぼか痛かったろう」と剛力にものをいわせて、苦もなく罠を引きちぎり、子狐を助けた。喜之助は持っていた弁当を与え、元気づけた。「気をつけて帰れよ」と言いながら子狐と別れた。
 この有り様を茂みに隠れ、じっと見ていた親狐が居た。これを喜之助は知る由もなかった。子狐は喜之助の助けがなければ餓死するか、あるいは猟師の餌食になっていただろう。
 それから五日目の夜であった。喜之助が二町(約二百二十㍍)ほど離れた家に、もらい風呂に行った帰り風邪を引いてしまった。三十路近い今日まで、頑健な体で病気らしい病気をしたことが無かったが、弁慶の泣き所、めっぽう風邪には弱い。三七、八度の熱が出れば重病人となる。その夜も布団を被り唸っていた。
 と、すると、いつの間に入ってきたのか、年の頃なら二十歳過ぎの女が「ご気分はいかがですか」と喜之助の側に佇んでいた。女は水で冷やした手拭いを額に置いてくれた。そして朝まで手拭いを取り替え引っ換え、看病をしてくれた。そんな日が三日間も続いた。何処の誰とも分からない女が、宵に来て朝まで至れり尽くせりの看病をしてくれた。お陰で、喜之助はすっかり快くなった。
 四日目の朝、喜之助は女に向かって「大変お世話になりました」と頭を下げて礼を言った。すると、女は手を振って「何をおっしゃいますか、私こそお礼を申さねば、私は子供の命を助けて下さった貴男様に報いようとしただけです」と言って「それではお大事に」と別れの言葉を残して去って行った。その後、二度と姿を現さなかった。
 喜之助は、何が何やらさっぱり分からない。謎の女は人間では無かったのか、その正体は狐だったのか!、八日前に喜之助が助けた子狐の母が、恩人が風邪で苦しんでいるのを知り、女に化けて看病にきていたのであった。情けは人の為ならず、回り回って我が身の為という故事がある。子狐に施した情けは、喜之助自身の為であった。古来より狐は人を化かすと言うが、そのような狐ばかりではないようだ。母狐が子狐の恩人に報いたという、おはなし。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣

2011年9月4日日曜日

 「室戸の民話伝説」掲載に付いて

「室戸の民話伝説」の掲載を始めて、早3ヶ月目に入りました。本来であれば、最初の掲載時にお知らせすべきであり、遅きに失しましたが叱責を恐れず記します。
 投稿は原則、月二話とし、1日と15日を予定しています。物語は総て室戸で生まれたものばかりで、借り物ではありません。お子様方に、どうか読み聞かせてあげて下さい。又、珍しい話しがありましたら、お教え下さい。コメントも大歓迎です。忌憚のないご意見を、お待ち致しています。

2011年9月1日木曜日

  室戸の民話・伝説 第五話        観音様と子供たち

観音様と子供たち

 江戸、幕末の文久二年(一八六二)八月初め、とある真夏日のことであった。室津郷・領家《りょうけ》の小さな庵のご本尊・観音菩薩様と、近くの子供たちの間に繰り広げられた、珍妙な出来事の話である。領家と言えば幕末の志士、中岡慎太郎の妻、兼《かね》の生まれ里である。兼は庄屋、利岡彦次郎の長女で、十八歳で慎太郎に嫁いでいる。文久元年には慎太郎が、翌二年には坂本龍馬が土佐藩を脱藩するなど、時代は明治維新への激動最中であるが、片田舎の領家では穏やかに時は流れていた。
 領家集落の人々が深く信仰している庵、観音堂に仏の道を修業している若いお坊さんがいた。その日は室津浦(町)に用事があり、お坊さんは外出した。この庵や領家の家々に泥棒が入った話などついぞ聞かない。平穏な里で外出の時は、どの家も開け放し、表戸を閉める習慣など全くないところ。
 その日、庵の庭で遊んでいた近くの小童《こわっぱ》ら五人が、お坊さんの留守をよいことに、庵へ上がり込み騒いでいた。その内、庵の中央に安置してある二尺位の観音様に目をつけた。一番年上のガキ大将が「あの仏さんを持って川へ遊びに行こうや」と言い出した。観音様を崇《あが》めるものとは知る由もない五人の小童たちは、ガキ大将の言うがままに従《したが》い、観音様を小脇に川へ遊びに行くこととなった。
 庵から少し離れた所に室津川が流れる。その川に庄司ヶ淵という所があり、この淵には猿猴《えんこう》が住み、夕方遅くまで遊んでいると淵に引き込むといわれる。また、夜な夜な白馬が飛びかい、子供らを攫《さら》うという空恐ろしい淵である。夏の夜は肝試《きもだめ》し、昼間は子供たちの絶好の水遊び場であった。その淵で、観音様をあっちへ投げこちらへ放りして遊んでいた。室津浦で用事を済ませたお坊さんが、ちょうどそこに通りかかった。小童たちが大声をあげながら、何やら黒いものを投げ合っている。何ごとならんとよく見ると、これはしたり、庵へ安置してあるはずの観音様を、水遊びの道具にしてもてあそんでいる。お坊さんは、吃驚《びっくり》仰天《ぎょうてん》するやら、腹が立つや、「こらッ!観音様に何をしよるか。勿体無《もったいな》いことをする小童ども、こっちへ来いッ!」と呼び集めて河原へ正座させた。「この観音菩薩は阿弥陀如来の左脇にいて慈悲深く、人々を救うために現われたという仏様である」と観音様の尊いことを長々と諭して、今度こんな悪さをしていたら、罰が当って、目が潰《つぶれ》れてしまうぞと脅しつけた。目が見えなくなるというお坊さんの言葉に、子供たちは震え上がって「もうしません、どうかこらえて下さい」と何度もなんども頭を下げ謝った。
 お坊さんは観音様を元の位置へ安置して、その夜寝所に入った。間も無く、お坊さんは風邪を引いた覚えもないのに、夜半から三九度という高熱が出た。それから二日間高熱続き、看病してくれる人とてなく、お坊さんは弱り切り難渋していた。三日目の明け方であった。坊さんがうとうと微睡《まどろ》んでいると、夢枕に観音様が現われ、「ご坊は、私が子供たちと楽しく遊んでいるのに、子供を叱って、折角の楽しい気分を台無しにした。その報復《むくい》として高熱を出して苦しめた。ご坊が平素仏に仕える善行を賞して、今日から平熱に戻してやる。これからは子供を慈しむように」とお告げを下すとかき消えた。観音様のお告げの通り、その日から平熱にもどった。今までは、子供が庭で遊んでいると、迷惑そうに、大声で追っ払っていたが、それからは子供を優しく慈しんだそうな。 
 子供たちと戯《たわむ》れた観音様は、高さ二尺・木像立像にして、欅《けやき》であろうか木地そのままに、台座は三重蓮華座のお姿で、今なお、領家の庵・観音堂に、外観は総黒漆塗り、内壁は金箔の厨子に収まり、里人の信仰を今に受け続けている。
 昔から日本人は観音好きと言われる。例えば、四国八十八ヶ所寺の内、約三分の一の三十ヶ所寺が観音菩薩を本尊としている。更に、観音菩薩だけに焦点を絞り、三十三ヶ所寺の観音菩薩霊場が北海道から九州路にかけ、各地に七十ヶ所寺に及んでいるといわれる。この事が、如何に観音好きかを如実に物語っている。私たちは、仏教に措ける各宗派の枠を超え、観音菩薩を主人公とする般若心経や観音経や十句観音経に親しみ、そこに、生きる知恵を学び心の拠り所としてきた。観音菩薩は、まさに日本人の心の象徴であると共に、史上最大級の神仏といえよう。
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           文 津室  儿
           絵 山本 清衣


2011年8月15日月曜日

   室戸の民話・伝説 第四話        シットロト踊り


                         シットロト踊り



  今年も旧暦六月十日(七月二十一日)が間近い。この日一日、室戸漁業協同組合所属の漁師たちは一斉に漁を休み、豊漁への感謝と魚類一切への供養、豊漁の願をこめ神社仏閣や船主の家々を巡り終日踊りぬく。シットロト踊りは漁師の念仏踊りであろう。
 いつの時代の事か皆目分からない。奈良師の地蔵堂の庵主(僧名三蔵とか)がある蒸し暑い晩、浜辺に出て涼をとっていた。夜もいよいよ更《ふ》けてきたころ、節《ふし》筋《すじ》面白く手踊りを交えて唄いながら、西に向かう旅の乞食僧《こつじきそう》が一人いた。庵主はその仕草に魅せられ、元の硯ヶ浜まで追っ掛けて、その唄と踊りの伝授を請い得たと言われる。
 唄を教えた主は人なのか何者か、今もって一切分からない。庵主の墓は地蔵堂の右側の大きな自然石の碑と伝えられ祀られているが、その碑文は風化がすすみ剥落《はくらく》して、解読できないのが惜しまれる。
 また、一説に浦の小童《こわっぱ》に苛《いじ》められていた人魚が漁師に助けられ、お礼に豊漁を招く踊りを授けた、と人魚説が伝わる。
 また、今一つは、江戸藩政中期以前に始まると伝えられる。漁師三蔵(定説)が中心となり、漁師が集い夏の不漁期に魚の供養と漁招きをかねた踊りを創始したという。はじめのころは、浮津下町の恵比寿堂と津寺山麓の金刀比羅宮の二ヶ所で踊り始めたといわれるが、今は十数ヶ所で踊っている。
 尚、今は旧室戸町のみで踊られているが、かつては三津や津呂・ほかの地域でも、昭和初葉《しょよう》まで踊られていた、と古老はかたる。
 押船《おしぶね》(櫓《ろ》船)時代の鰹釣り船には大体七名位の乗子《のりし》(漁師)が乗っていた。その中から日頃勤勉に働く者が、それぞれの船から二名づつ選ばれて踊ったもので、不真面目で品行の良くない者達は踊ることができなかったという。鰹釣りの若い衆は「シットロト踊り」に推薦され参加出来ることを喜びと誇りとして、日頃から勤しんだといわれる。シットロトに加われない若い衆は、嫁の来ても稀だったという。
 鰹釣りが沖で鰹の魚群《なむら》に当ると、喜びを満身に表し船上で踊ったと伝えられ。また、大正二年室戸岬南方沖、約20㍄(約37㌖)地点に大漁礁が発見され、鰹・鮪の大漁が続きこの漁礁を大正礁《じ》と名付け、終日踊り明かしたと語り継がれている。また、ある鰹釣り船が三陸沖の漁からの帰り、大漁を祝して船主の庭で踊り、祝儀に祝い手拭いや、反物を貰ったとも伝えられる。日頃の慶事を、シットロト踊りに託していたことがうかがい知れる。
 この踊りの唄は四十八節、あるいは三十六節からできていたと言われるが、現在は十四節が残され、各節に三、四、五の小節があり、口伝《くでん》で唄い継がれてきたもので、歌詞の変化もあったことと思われるが、古典文学の香りを醸している。
 シットロト踊りの、題名と歌詞を幾節か拾ってみる。
  まず急げ
一、ヤー まず急げ ソーリャ急げ
  しんぼし あとから 
  ソーリャ しぐれがア しいてくる
  ヤー あとから ソーリャしぐれが 
  アしいてくる
二、ヤー このごろは ソーリャお寺
  通いのホリヤ よう鳴る
  ソーリャ尺八を みつけた
  アー よう鳴る ソーリャ尺八をみつけ  た
三、ヤー 取り上げて ソーリャ吹いて 
  みたれば よう鳴る
  ソーリャ お節が アー三つある  
  アー よう鳴る ソーリャお節が
  アー 四つある
  
  不動神
一、アイヨー不動の神と伊勢すみ
  アーリャよし当《と》ヤー熊野のソーリャ神当  ヤー
  結んでは アリャうぐいすと
  ソリヤ 当《と》かれたよ
  アイヨーアザイザーヤお若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうやアイヤ ヨイヤ
二、ホリヤ 花や あさぎと
  コリヤ 橘と とかれたよ
  アイヨアイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよアイヤ ヨイヤ
  
  これの殿様
一、イヤー これの殿様に 福の舟作らしょ
  アヤ 福の舟作らしょ  
  アイヤーお舟オヤ踊りはよ
  踊ろうやアヒンヤコーイコーラヨー
  ヒンヤコラサイのヨイヤ
二、イヤー お舟の下積みに 板金《いたがね》を敷か   しょや
  アリヤー板金を敷かしょや 
  イヤ お舟踊りはよ
  踊ろうアヒンヤアツコラサのヨイヤ 
  ヒンヤコラサーヨーヤ
三、イヤー お舟の上積みに 
  小判千両を積ましょや
  ンヤー 小判千両を積ましょや
  アイヤ お舟アリヤ 踊りはよ
  オン踊ろうアイヤオンオノーヨヒンヤ
  コラサのヨイヤ
  
  はりんりきさま
一、ハアー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー 親の はしみじみと
  親の はしみじみと 
  オン踊ろうアイヤおんおどろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ
二、ハアー 親に隠れてメが出たかヨー
      殿に隠れてメが出たかヨー
  ヤー 親と殿ごに隠れては
  アイヤ 順礼踊りはヨー
  アー踊ろうアーイヤ踊ろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ

  西方《かた》
一、ヤー西方ちや 叔母子の方から
  細衣一反 出て来た
  細衣一反 出て来た
  トントヂャ シットロトのヨイヤ
二、イヤこーれ ここで染めよも染めようや
  書こうも書こうや
  かたおば何とつけようや /\ /\
  トントジャ シットロトのヨイヤ 
三、天竺で御染申した
  肩に浮雲 腰に有明
  裾には近江の湖
  ヤ裾には近江の湖
  トントヂャ シットロトのヨイヤ

  引踊り
一、アー今年のヤー年は目出度い年じゃ
  アーリャ浪速のソーリャ寺の
  鐘を鋳る 浪速のコリヤ 寺の
  鐘を鋳る ヨイヤソリヤ
  トントロトントロト エイヤサのヨイヤ二、アー恋しき人は尋ねてこんせ
  ヤー堺のソーリヤ浜の北の町《ちょう》へ
  堺のコリヤ 浜の北の町へヨイヤ ソー  リヤ    
  トントロトントロトントロトエイヤ コ  ラサのヨイヤ
三、ヤー兵庫の鋳物師《いもし》は鐘鋳《かねいり》の上手
  ヤー息子はアリヤ 刀の方に上手
  息子はホリヤ 刀の方に上手ヨイヤコリ  ヤ
  トントロトントロトントロト エイヤコ  ラサのヨイヤ
 等々と十四節が残っている。

 踊りの構成は音頭、太鼓、鉦《かね》それぞれ一名が囃子手となり三十数名の踊り子(男衆)が車座に踊る。揃いの浴衣《ゆかた》に赤い襷《たすき》、藁草履《わらぞうり》に手甲、投網笠。この笠の周りには五色の紙垂《かみしで》が幾重にも短冊状に貼られ彩り豊か。笠の上には手製の縫いぐるみの猿が円錐形状に数十匹飾られ、愛らしい。踊り納めると飾りの縫いぐるみ猿は、「難を去る」縁起物として遠洋への出漁者や旅立つ友の無事を祈って手向けられる。
 シットロトの語源は、鰹節製造十二工程の、頭切り、生切り、を指して執刀《しっとう》(解体処理)より転じているといわれ、また、「しっかり踊ろう」から転化したともいわれる。「しっとーと」「しとと」情の細やかなさま。しっぽり。しめやか。の古語に由来する説がある。舞姿や、リズム、歌詞が醸しだすものは、後説に近いと思うが定かでない。
 赤銅色に日焼けした顔に、海の男とは思えぬ優にやさしい舞姿が心にのこる。
  なお、このシットロト踊りは、昭和三十七年高知県無形文化財として指定された。                      
            文 津室  儿
            絵 山本 清衣

「声ひろば」「後免」もう一つの由来


 終戦記念日十五日の今朝、高知新聞「声ひろば」の欄に掲載された(「後免」もう一つの由来)の原文を掲示します。  
   
     ・後免・もう一つの由来
 本紙、月曜カルチャー「土佐・地名往来」も、回を重ねること四〇六回、約八年と有余月が経過し、静かなフアンが数多いる。
 さて、去る八月一日、同欄に掲載された【後免室戸にも残る小字】を拝読した。子供のころ、爺婆や近隣の翁嫗に聞かされた、もう一つの由来を記してみる。
 土佐藩初代藩主・山内一豊公が帰藩の折り、室戸沖で遭難しかかった。その時、一人の僧が現われ、船の楫を執り室津港に無事に送り届け、一豊公は難を逃れた。一豊公は礼を尽くさんと、そこここに僧を捜すが見当たらない。僧は津照寺に向かっている、と聞きつけ後を追った。本尊の地蔵菩薩がびっしょり濡れていた。一豊公はこの本尊に霊験を強く感じ、楫取延命地蔵菩薩と名づけた。
 一豊公はこれを機に、この地に海難救護組織を定め、住民をこれに当たらせ租税を免除した。曰く、土地の開墾開拓による免除と異なり、人命救助を行うと云う特異な例である。これが「ごめん」誕生の、もう一つの由来である。
 『ごめん』の名が初見される「八王子宮當家記」に依れば、この集落の男衆は、往昔藩政時代吉良川住民の二、三男が移住して来たものである、と伝え。「土佐鰹漁業聞書」には、しばしば御座船の水夫として召され、藩主の信頼が篤かった、と伝えている。

2011年7月31日日曜日

  室戸の民話・伝説 第三話        室戸三美女の悲話

                  室戸三美女の悲話

      その一 お市《いち》
 三津坂・室戸坂、三津の人達が室戸へ行くのを室戸坂を越すと言い、室戸の人達が三津へ向かうのが三津坂を越すと言う。又の名をお市の坂とも言う。
蔵戸(室戸側)の方から登って行くと、峠近くの路傍に花や木の葉に埋もれた小さなお堂がある。祀られている石碑の正面にはお地蔵様を刻み、「花をり地蔵」と彫ってある。右側面には、「三月十八日」左側面には「三つ女中」の文字が見える。「花をり地蔵」の名に相応しく、この坂を行き来する人々は、このお堂前に指し掛かると美しい小枝を手折り供えて行く。遠足時の小学生達も疲れた足を休めて、祀ったものであった。
 むかし、三津に「お市」という美しい女がいた。お市はこの世の人とも思えぬほど美しかった。ある夜のこと、お市は唯一人で三津坂を超え室戸へ急いでいた。峠に指し掛かった時、一人の侍に出逢った。その侍はお市の人間とも思えぬ美しさを見て、一時ギョッとして立ち竦んでいたが、次の瞬間、行き過ぎようとするお市にやにわに躍りかかった。しかし、必死に抵抗するお市の力を押さえかねて、意のままにならぬ一時の憤りから遂にお市を斬り捨てた。
 自分の美しさがかえって禍となった、お市はその苦しさのさなか「美人は身の仇だ。これから後、この三津坂の東西一里四方には美しい女は生まれるな」と言い遺して死んだと言われている。美人薄命と言われるものの、まことに哀れな物語である。
 お市の墓に花を手向ければ、疲れた足が軽くなると言い伝えられ、今もなお、子供や大人諸々は、この坂の悲劇の主人公お市に花を供え敬っている。
                 
    その二 おさご女郎
 室戸岬の東に毘沙姑巖《びしゃごいわ》と言う、ひときわ高く聳える巌がある。その山辺には、若き日の空海が虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》を修められ、仏道に入られた大師修法の聖地・御蔵洞《みくらどう》がある。その近くに小さな茶屋があった。そこに「おさご」という、それはそれは美しい小町娘がいた。いつの間にかおさごの美しさは評判が評判を呼び、近隣の若者は勿論のこと、沖を行き交う船人さえおさごを一目見ようと浜辺に船を漕ぎ寄せた。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の古参道(東登り口)の海辺には、グイメの木が群生し、秋ともなれば赤い実が熟し、まるで一面花のようだった。岩伝いの道を通る若者たちはグイメの実を口にほうばりながら、おさごの噂をした。だが若者が騒げば騒ぐほどに、おさごは自分の美しさを苦にしはじめた。
 いつしかおさごは顔も手も洗わず、髪も梳かさず汚れた着物を着たままに、茶屋の片付けや掃除もしなかった。誰が見て居ようとも鍋の中のものを手づかみで食ったりした。しかし、美しさを隠そうとする細々としたおさごの婀娜《あだ》姿は、一層若者たちの心を捉えて放さない。若者たちの間ではおさごをめぐって争いも起こる有り様であった。 ある月夜の晩、思い悩んだおさごは毘沙姑巖の巖の上に立っていた。「後々、室戸岬一里四方に美人は生まれるな」と祈願して、身投げしたと伝えられている。
 古老の話では、正月や酒宴の場で次の唄を唄ったという。
 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ              (囃し言葉)
グイメの木をてぎ(糸を織る柄)にヨー
こさえてアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎に糸をヨーとらしてアレバイセ、コレバイセ
そのふりを見たい ショウガエー

 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎は きりょう はヨー一番
あの手鍋じゃ二番
肌の汚れごきゃ たえやまぬ サンヨーと、哀感を込め唄っておさごを忍んだという。 

    その三 於宮《おみや》
 金剛頂寺《こんごうちょうじ》(土佐西寺)の脇寺に新村《しむら》不動堂がある。かつて、金剛頂寺が女人禁制だったころ、女人遍路はこの脇寺、不動堂にお札を納めたという。新村不動堂をお護りする地区には、前《さき》に記した二人の悲話と全く類似した物語がのこっている。
 この新村には、「於宮が渕」という小さな入江があった。波の侵食により今は無いが、この渕の近くの巖には朝顔に似た「白粉花《おしろいばな》」が咲き誇り、里の人々は於宮と呼ぶ美女の形見の花と言って愛でている。里の子供たちは、赤とんぼの飛び交う暖かい日差しの下で、海辺の貝の皿に「白粉花」を潰し、無邪気に「ままごと遊び」に興じる。
 いつのことか分からないが、この小さな新村の里に、漁村には稀な気立てのいたって優しい美しい娘が住んでいた。その名を於宮といった。村の若者たちは於宮に夢中で、於宮の動くところへは影の形に付き添うように付き慕ってさわいだ。西寺の若い学僧も又、その中の一人だった。彼は僧侶ということも、教義の不瞋恚《ふしんい》(自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)不邪淫《ふじゃいん》(よこしまで淫らなこと)の戒もうち忘れて、せっせと山道を下り於宮のもとに通ったが、於宮はどうしても彼の意にも随わなかった。
 於宮は自分のために多くの若者が悩み日々の仕事にも精を出さない姿を見て悲しんだ。あの若い僧さえ日々の業態をおろそかにして、瞋恚の焔を燃やす。前途のある若僧が十善戒(十種善行)を犯すのは、みな自分のためにおこる罪業であると考えた。捨身住生(生命を投げ出すこと)・・・、遂に生真面目な於宮は自分を殺して若者たちを煩悩の苦から救おうと決心した。
 いつの日か、於宮は不動堂の巖頭に立ち、「美人こそ不仕合せ、ここ一里四方に私のような者が生まれないように」と、言って渕に身を投じたという。
 その後「於宮の渕」の巖の上に、一本の可愛らしく美しい紅の花が咲いた。この花は白粉や紅筆の化粧道具になったという。
 
 この三人三様の願いに添えば、室戸には美人が生まれないはずであるが、三人が命を懸けた願いも空しく、その後の室戸には沢山の美人が生まれ続けている。
 この話は室戸の美しい娘子を他所に連れ出されないように防ごうとする、翁媼《おきなおうな》のはかりごとであろう、とか。           
                              文 津 室   儿
                              絵 山 本  清衣
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