2012年12月16日日曜日

土佐落語  乳 房  60-3  

 土佐落語  乳房  60-3                依光 裕  著


 香美郡の手結《てい》に、親父と息子の男世帯の漁師がございました。
一日《ひいとい》も沖でクマビキ《しいら》を釣っておりますに、
 「おい、もうソロソロ貰えや」
 「お父やん。貰えち、何を貰うぜよ?」
 「嫁さん、女房よ」
 「お父やん、可哀想なことをいいなや!儂ぁ、まだ四、五年、独身で楽しまないかんきに」
 「そういうけんど、チッタ俺の身にもなってみよ。家に女手がないきに、飯炊きから洗濯まで俺がせないかん。ボツボツ親に楽をさいたらどうなら?」
 「楽をしたけりゃ、お父やんが後妻を貰うたらどうぜよ?」
 「ソレコソこらえてくれェ!今さら後妻の尻に敷かれてノセルか」
 「ソリャ見てみ!儂じゃちこの若さで女房をくくりつけられるは、真《ま》っ平《ぴら》じゃ」
 「まぁ、そういうな。俺がエイ娘に心当たりがあるきに、エイ加減で親孝行をしてくれ」
 息子はつづまり、親父の頼みを受け入れまして、安芸から女房を貰いましたが、これが別嬪の上によう気のつく、なかなかエイ嫁でございます。

         絵 大野 龍夫

 「おい、新婚の気分は、どうなら?」
 「お父やん、魚が釣れゆ最中《さなか》に妙なことを聞きなや」
 「阿呆、色咄《いろばなし》の一つもしもって釣るようじゃないと、一人前の漁師とはいえんぞ。どうなら?俺が見つけて来たばぁあって、エイろがや?」
 「エイエイ、いうこたない!それよりお父やん、隣の部屋で寝よったら、タマランろがよ?」
 「なんの!己《おら》ぁもうそんな気は起らんきに、遠慮せんとジャンジャンやってくれぇ」
 たかで友達同士みたいな親子でございますが、沖が時化《しけ》て漁を休んだ夏の一日。親子が縁先で網の繕いをしておりますに、息子の嫁が、麦茶を持って参りました。
 「お父さん。お茶でも飲んで一服してつかさい」
 「おおきにおおきに、ソコへ置いちょいとうせ」
 「イヤチヤ!お父さん頭に白髪がある・・・・・」
 「息子が嫁を貰う年じゃもの、これでも白髪は少ない方ぞ」
 「お父さん、一本抜かいて頂戴!」
 「ウン、ジンワリ抜いたら痛いきに、思い切って、ツン!と抜いたよ」
 息子の嫁が、親父の前へ回って、白髪を抜きにかかります。親父、頭を下げてヒョイと目の前を見ますに、嫁の浴衣の胸元がハダケておりまして、お乳がコンモリ。
 それがあんまり可愛いらしゅうございますので親父、思わずペロリとやってしまいました。
 ところが、その瞬間を息子が目撃しておりましたので、サァ大事!
 「お父やん!なんぼ親でも、そんなことをするもんじゃないぜよ!」
 コジャンとダン詰めますに、親父は顔を赫《あこ》うしまして、
 「オンシじゃちチンマイ時分、俺の女房の乳をタルばぁ吸うたじゃいか。そう怒るな」と言うた、そうでございます。

                            写  津 室  儿



2012年12月14日金曜日

土佐落語 電報 60-2

 第二話  電報                   依光 裕  著

 憲法第九条がなかった昔は、徴兵検査というオトロシイもんがございました。
 「キオツケ!姓名ッ」
 「ハッ、大岡幾次郎でありますッ」
 「オオ・カイクジロウつか?ザットした名前ネヤ。次!」
 「オオノエイゾ?貴様ッ、それでも、キオツケ!天皇陛下の軍人が務まるかッ」
 大野英造、安芸は西分の若衆でございますが、これが困ったことにトットの芝居気違で百姓仕事に身が入りません。
 そこで親父”女房でも縛《くく》りつけたらチッタ変るろう”と考えまして、川北からお菊という娘を嫁に迎えました。
 時に英造二十一歳、お菊は十八歳。羨ましいような若夫婦でございましたが、この若夫婦の仲を生木を引き裂くようにムシリ離しましたのが、血も涙もない一銭五厘。あの忌まわしい赤紙、召集令状でございました。
   あゝ大君に召されたる
      命栄えある朝ボラケ・・・・・
 外向けには恰好のエイことを申しますが、内側《うちら》では愁嘆場でございます。
 「アンタ、他の人は皆んなァ死んでも、アンタだけは生きて戻ってよ!」
 「親父とお母ァを頼んだぞ!この俺に若しもの事があったら遠慮はいらん。どこぞエイ所へ嫁にいて、幸せになってくれェ」
 屠所に曳かれる羊みたいに、英造がションボリ入隊しましたのが佐世保は鎮守府の帝国海軍でございます。
   海の男の艦隊勤務 月月火水木金金 

絵 大野 龍夫

 軍歌にもありますように、絞りに絞り、鍛えに鍛えられまして六ヶ月。遂に出動命令が下りましたので、わが海軍二等水兵大野英造恋しい女房に大急ぎで電報を打ちました。
 『鎮守府を発《たつ》つきに、佐世保へ面会に来い』
 これでは電報代が高うなりますので、新兵の英造、コジャンと略しまして、『チンタツ、サセコイ』
 ところが、電報を打つと出動延期の待機命令。英造が慌てて打った訂正電報がこうでございます。
 『チンタタン、サセクナ』
 さぁ、一ぺんに二通の、しかも内容《なかみ》が月とスッポンばァ違う電報を受け取って、女房のお菊は面食うてしまいました。
 「お舅《とう》さん、一通にゃ”チンタツ、サセコイ”もう一通にゃ”チンタタン、サセクナ”とありますけんど、どうしたもんですろう?」
 「どりゃどりゃ?”チンタツ、サセコイ”と”チンタタン、サセクナ”か・・・・・。ヨシ!かまんきにオマエは佐世保へ行て来い。英造には儂から電報を打ちょくきに」

 さて、親父から英造宛てに打った電報がございます、が
 『チン、タツモタタヌモ、サセニイク』で、ございました。

                             写  津 室  儿



2012年12月9日日曜日

土佐落語 使い初め 60-1


  はじめに、
「土佐落語タタキ寄席」とは、RKCラジオの帯番組に付けられたタイトルであり、昭和四十八(一九七三)年十月、高知放送開局二十周年を記念して刊行された単行本であります。著者は当時プロデューサーで、ペンネーム河野裕こと依光裕氏が著したものであります。
 本書を当ブログに掲載したく、故兄を通じて親交を重ねさせて頂いている依光様に、お話しましたところ、快諾を頂きました。
 これより六十編の物語を、月二三話を掲載致します。お楽しみ頂ければ幸いです。

 第一話  使い初め   60-1           依光 裕  著

 近頃は「消費は美徳」とか申しまして、何もかにも使い捨ての時代のようでございます。 「モシモシ、あたしゃ大埇《おおそね》の司亭升楽《つかさていしょうらく》でございますが、女房が盲腸でウンウン唸りよりますきに、ヘンシモ来てつかさい!」
 「升楽さんの奥さんが盲腸?そりゃオカシイ、奥さんなら、ほんのこないだ盲腸の手術をしたばっかりで、盲腸はない筈じゃが」
 「先生、そりゃ違います」
 「違うこたない。この儂が手術をしたきに、間違いない」
 「モシモシ、違うチヤ先生!」
 「何が違うぞ?」
 「女房が違います!」
 女房も亭主も使い捨て。エライご時世になったもんでございますが、昔は茶碗から箸、下駄から草履にいたるまで、新規はすべて、正月から使うたもんでございました。
 これを“使い初《ぞ》め“と申しますと、それだけにお正月が楽しみでもございました。
 昔の室戸の漁師と申しますと、なにせ鯨が相手でございますので、“気も荒い、手も早い“、こう思いがちでございますが、中には気の長い男もございまして、新兵衛という漁師が、女房を貰いました。
 ところが、その新兵衛の新妻が思い余った顔をして、仲人の所へやって参りました。
 「どういたぜよ?はや夫婦喧嘩でもしたか」
 「イイエ・・・・・」
 「新兵衛に隠し女でもあったかよ?」


                           絵 大野 龍夫

 「イイエ・・・・・」
 「イイエじゃ判らん。斯く斯くシカジカと訳を話してみや」
 「あのう、嫁入りして二十日もたったに、まだ一ペンもネキへ寝らいてくれません」
 「なんつぜよ?そりゃ本当かよ?」
 「アイ。ウチはウチなりに、一生懸命つとめゆうつもりですけんど、何が気に入らんか、サッパリ判りません」
 「ウーム!」
 「一ペンでも寝えてみて、グツが悪けりゃ、そりゃ仕方がございません。それをサワリもさんはアンマリことでございます」
 「そりゃオマンの言う通りじゃ。使い捨てにするにしても、使い初めだけはせないかん」
 「済みませんけど!仲人さんの口から言うてみてくれませんろうか」
 「言うどころじゃない!コジャンと言うて聞かいちゃる!」
仲人はさっそく新兵衛の家に行きまして、
 「どうなら、エイ嫁じゃろうが?」
 「やぁ、何もかも申し分ございません」
 「こりゃ、新兵衛。使い初めもせんと“申し分ない“とは言わさんぞ。オンシの返答次第では嫁を引き取るが、一体どういう料簡か、チャンと言うてみよ!」
グッと仲人が詰め寄りますに、新兵衛、
 「あんまりことエイ嫁じゃきに・・・・・」
 「エイ嫁じゃきに、どういたなら?」
 「正月に使い初めをしようと思うて、おいてございます」

                            写  津 室  儿 

2012年12月2日日曜日

警察手眼編纂者 植松直久略伝


 警察手眼編纂者 植松直久略伝
           露崎栄一著を写す



 植松直久が誕生(現室戸市佐喜浜町)したのは弘化三(一八四六)年十一月十七日であった。父は豪農植松助四郎、母小丑の間に次男として生まれ、幼名を岩次郎、自らは春人と名乗った、と云われる。
これは彼の学問の師である楠瀬交斎(春平)「交斎は佐喜浜に居住する蘭方医で、私塾弘道館を開く」や後藤松陰(春草・春蔵)などの号に倣ったものである。明治四年頃から直久と称し、後には経峰と号した。
 兄、駒太郎は十八歳年上で学問好きであった。兄から大きな影響を受けた直久は、次第に学問に身を寄せ、浦人は両者を「兄たり難く弟たり難し」と、云って誉め称えたという。
 安政元(一八五四)年二月、直久、九歳の時、交斎の私塾、弘道館に入門した。
 師、交斎は大阪において医術を学び、儒学を篠崎小竹「江戸時代後期の日本の儒者・書家である。本姓は加藤氏。幼名は金吾、名は弼《たすく》、字は承弼、小竹は号であり、別号に畏堂・南豊・聶江・退庵などもある」に師事し修めている。弘道館においては、医学と儒学を教授した。
 直久は弘道館にあって、頭角をめきめきと現した。交斎から篠崎小竹や後藤松陰「江戸後期の儒学者。美濃、現・岐阜県生まれ。
名は機,字は世張,通称は俊蔵。号は松陰,春草,鎌山,兼山。幼くして神童と称され,大垣の菱田毅斎に学んでその塾長となった。文化一二(一八一五)年から頼山陽に師事」の話を聞き、向学の念に燃えた。
 直久十七歳・文久二(一八六二)年九月、大阪に出て後藤松陰(一七九七~一八六四)の門をたたいた。
 松陰は頼山陽「江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は久太郎、名は襄《のぼる》、字は子成。山陽は号である。また三六峰外史とも号した。大阪に生まれる」の高弟で、当時大阪にて「文は松陰、詩は旭荘(廣瀬)」と称された人物であり、後年「警察手眼」編纂に顕われた、直久の学識才能は、ここで育まれたものであろう。
 元治元(一八六四)年六月、直久は一時帰国した。翌年再び大阪に出て後藤桐平門下に入ったが、慶応二(一八六六)年、備中(現高梁市)に出て、生涯の師と仰いだ坂谷朗盧の興譲館にはいる。しかし、当時の国情は江戸幕府から新政への過渡期であり、世情は混沌として不安定であり、わずか一年で帰国することになった。
 郷里に帰った直久は、兵法家宮地左仲から西洋砲術について教授を受けていたが、明治
元年(一八六一)七月二日、請われて高知藩安芸郡々校文学御用御雇となった。こらは直久の藩への出仕の第一歩であった。同年十二月二十日には、官命をもって再び、当時、天下三館の一つと呼ばれた備中興譲館に留学、滞ること一年、翌三年五月、高知藩々校致道館の文学三等助教試補に任ぜられた。
 高知藩における、その後の職歴は次の通りである。
 明治三年十二月七日 任文学二等助教
  々四年一月十七日 任皇漢大得業生
  々四年十二月二十日 免学校大得業生
 この間、明治四年六月二十二日から同年十月二十日まで、幡多郡々校行餘館の寄宿舎々長をも兼務した。

   □浜松・安濃津(三重)県時代□

 明治四年七月一十四日、新政府は近代的統一国家形成の政治的措置として「廃藩置県」を断行した。この結果、藩はすべて廃され、新たに二百六十一県が設置されて、全国は三府三百二県となった。こらはさらに十一月の府県の統廃合により三府七十二県に統合された。
 明治五年二月二十二日、直久は新置の浜松県(静岡)十五等出仕に任ぜられた。しかも僅か二十日余りで安濃津県(現三重県)へ転じた。同県での経歴は次の通りである。
 明治五年三月十二日 安濃津県
(明治五年三月十七日三重県と改称)任少属
 々   五月十日  三重県 任権大属
 々   六月二十三日三重県東京出張所詰
 々   十一月   東京出張所詰相解
 
 明治五年三月、安濃津県少属となった直久は、さらに二ヶ月後には、権大属に昇進している。この背景には、直久の才能もさることながら、後年「警察手眼」に緒言を識した同郷の丁野遠影の登用があったものと思われ、安濃津県在任当時の丁野との運命的な邂逅は、その後の直久の運命を決定づけたといえる。
 丁野は、明治四年十二月三日(「府県史料」三重県の部には十二月四日とある)、任安濃津県権参事となり、翌五年八月二日まで同県に在職した。以後、丁野の経歴は次のとおりである。(「土佐史談」第三十九号)
 明治五年八月二十四日 任司法省七等出仕
 々 六年三月三十一日 任司法権省判事
 々 々 四月十五日  新治裁判所在勤
 々 々 五月二十二日 任警保権助 
 々 七月一月二十四日 任権大警視
 々 十年一月十七日  任少警視
 々 十四年一月十四日 任二等警視
 丁野の安濃津県在任は約五ヶ月間であったが、この間、直久は十六歳年長で同郷の丁野を兄のように慕い、権参事と少属(権大属)
との身分制度的な関係を超え、両者は人間的にも強く密着し安濃津県政の基礎確立に献身した。その後、直久は丁野の跡を追って司法省へ進むことになる。

   □警視庁・警視局時代□

 明治七年一月十五日太政官達第六号により首都警察として東京警視庁が設置され、初代長官には、司法省警保助兼大警視川路利良が任命された。
 司法省から警視庁へ移った直久の経歴は、次の通りである。
 明治八年八月二十四日  補十一等出仕
 々 々  十二月四日  補十等出仕
 々 十年一月四日    補九等出仕
 直久の警視庁入りは、その頃すでに権中警視であった丁野の推挙によるものと思われる。 この間、前述したとおり明治九年九月下旬、直久編纂にかかる警察手眼が上棹された。これについては後述する。
 明治十一年一月十一日太政官布告第四号により、警視庁はいったん廃止され、その事務は内務省に移管されることとなった。これに伴い職制が改正され、直久は同月十五日警視局三等警視属に任ぜられた。
 警視属は文官でその職掌は、「警視ノ指揮ニ属シ文書計算等ノ事ヺ掌ル」とされ、一等警視属から十等警視までに区分されていた。
 警視庁の廃止、内務省警視局への事務移管は、当時の国政の不備と国内不安に対処し、国家警察の樹立と経費節減の施策として採られた措置であった。
 こうした最中の明治十年二月、明治警察史上最大の事件である西南戦争が勃発した。この戦争には警視官(警察官)約八千人が出征し、壮烈な戦いを行い、死者数は二千余人にものぼった。
 直久は、別働第三旅団参謀部の幕僚書記として、参謀長田邉《たなべ》良顕中佐に従い出征、熊本・鹿児島に転戦した。
 明治十六年五月、別働第三旅団の戦歴を伝えるため「西南戦闘日注」が出版された。この書物は、直久の筆記にもとづくものである。田邉中佐から旅団長の川路少将(大警視)宛てに提出された添書には、次のように述べられている。
 随員植松直久其(肥後国植木方面の戦闘)概略を筆記す其記事簡単なりと雖も之を読めば亦以て当時の情況を想見するに足らん
 (「西南戦闘日注」)
 彼の没後、明治十七年四月二十八日、その書物に対する功労の追賞として当時、高知県令であった田邉良顕から遺族に「金二拾円」と「西南戦闘日注」が贈られている。
 これより先、明治十年七月九日、直久は二等警視属に任ぜられ、八月十七日、参謀長田邉中佐に随い東京に帰り、警察本務に復することになった。次いで翌十一年一月十日、一等警視属へ昇進した。

   □警察手眼□

 大警視川路利良は、東京警視庁設置以来、その職務に関し「夙夜孔々不休」日中は役所で仕事をし、夜は連日のように各方面の分署長等を集め、管下の実情を聞き、それに訓戒を与え、深夜に及ぶこともしばしばであったという。この川路の片言集句を、丁野の指示で植松直久が一冊の本に編纂したものが「警察手眼」である。これについては前述した通りであり、次の丁野の緒言に詳しい。 

緒言
 吾長官川路君僚属ヲ諭ス毎ニ劄記スル所ノ片言集字積テ推ヲ成ス予其散逸ヲ惜ミ植松直久ニ嘱シ類似セシム頃日編纂成ルヲ告ク展テ之ヲ読ム其文字タル華麗ノ辞ヲ飾ラス的確明瞭所謂一棒一條痕一掴一掌血ノ乃チ之ヲ名ケテ警察手眼トス蓋シ手快眼明ノ意ニ取ルト云爾
明治九年九月下旬 権中警視丁野遠影識

 私が披見した「警察手眼」は、国立国会図書館所蔵のもので縦十九センチメートル、横十三・五センチメートル、全五十五頁の書物であり、奥付がないところから内部的に配布されたものと思われる。
 その内容は、警察要旨・警察官の心得・警視官等級ノ別・部長心得・署長心得・巡査心得・探索心得の七項目からなり、文章悉く川路大警視赤心の披瀝であり、警察精神の結晶である。また、丁野の緒言によれば、その文章は「手快眼明」(手にとっては気持がすっきりし、読んでは明瞭である)であるところから「警察手眼」と名付けたという。
 当時、直久から兄駒太郎あてにの書翰には「直久儀昨冬以来仏蘭西《ふらんす》学講習傍漢学復習可致」と故郷佐喜浜に所属している漢籍を至急送ってくれるよう要請しており、警察手眼編纂には、なみなみならぬ決意を表している。
 前にも一言したごとく、同書の校閲者は六等出仕佐和正であるが、この校閲作業は、故中原英典氏によると「名義だけでなく、かなり綿密なものであった」と推察されている(中原・佐和正『東野年譜』上・警察研究第四巻一○号)。
 直久の旧友で警察手眼を贈られた坂田文平は、「至極結構なる書殊ニ該官ニ在る人ニ於いて而ハ欠べからざる品なり」と絶賛し、備前岡山栄町の出版社まで紹介し、広く頒布することを勧めている。
 山口県では、明治十年十二月六日、警視局の了解を求め「警察手眼」を印刷し、県下の警部、巡査に警察官教養資料として配布した(「山口県警察史」上巻)。また、明治十七年七月には、福岡県士族吉村增雄によって「警察手眼注釈」(本書は警察手眼注釈書としては最も古いものである)が出版されており、当時から広く警察官の間で愛読された。
 権中警視丁野遠影と直久の交遊については、既に述べたところであるが「警察手眼」の編纂に直久が登用されたのは、おそらく丁野の推薦によるものであろう。
 現在、植松家には、警察手眼原稿の一部が残されている。その原稿には、ところどころに添削が加えられている。次に掲ぐ。
 いかに開的の説を唱ふるも其進歩
の度を知らさしハ行ナハるヘカラス
譬ハ今日一夫一婦の説を主張シ「立」権妻を
廃セ
んとスルに誰歟是を許サン哉「事を主張
センに
到底得へカラさるを信スいかんとナレ
ハ人民の標準タルヘキ官員ニ於テ
先ツ是を拒ムあらん「ニ於先ツ是を拒ムへ
し」况哉他の責
ナキ「自由の」人民ニ於テを哉
当時官員中ニ流弊有リ己レカ
職務ハ第二第三ニして常ニ
高門権家ニ出入シ勤メテ諸官員
と交和を求メ巧ニ己レガ栄利
を謀るを以テ職務とスル如キ時弊
の甚シキものあり

署長
 署員の職務規則進退
 行状ニ付不行届之節ハ責
 を少警視ニ請クルものとす
 探索ノ権
 内密性復ノ権
 警部ノ「甲乙丙一の」当直中ニ決セさる事
 務
 ハ皆署長の権ニ帰スルものトス
 御用の都合ニ因ッテハ出勤時限遅
 速有るへし

警部
 部員の職務規則進退行状進
 退ニ関スル事ニ付不行届之
 節ハ責を署長ニ請ク
 ルものとス
 当直ニ生スル事件ハ署長
 の意見を問うテ決行スベシ
 其数るを渉る事の如キハ
 署長の専任ニ帰スべし
 (朱)第四十二章ニ入ル 騰了
 人の不平心ハ身を害シ或ハ世の
 禍とナるこのナレハ恐レ慎マスン
 ハアラス古人言ヘリ憂患ニ生キ
 安楽ニ死スと然しハ快ニ樂ニハ
 劫テ身不幸の基ひナレハ千辛
 万苦ハ人生の常也と「ニ」安ンスル
 を要ス世人或ハ事の曲折ニ因ッテ
 瑣末の事より不平を起シ生涯
 の栄誉を殷損スルハハ思ハ
 さるの甚タシカラス哉殊ニ仕官「官途ニ」
 の人ハ其「ニ登るの」齢ひハ中年ニ下らさ
 る
 べし斯る齢ひにして再ひ補ふ
 時ナきの「ヘカラさるの」身とナるハ亦病 むへ
 カラス哉人々□「人生」今年今日ハ
 再ひ来らさるを信シ「弁明シ」能堪へ能
 勤メテ怠タラさる時ハ必哉無
 限の幸福有らん
           騰了
 凡警視官の「心得」人民を待遇スル 
 丁寧懇切を尽シ「極メ」恰も其傅
 タルカ如クにして是を慕ハシム
 ルニ在りと虽亦是と泥マさる
 を要ス若是と泥ムハ人民の馴
 侮りを請且警視権を汚スのミ
 ナラス人民の交際の破り基
 とナらん
 とならん故ニ警視官は常ニ
 丁寧深切を主意としテ之「人民と」
 と泥マス人民ハ警察官と
 慕フテ之と馴ス此泥と
 馴るゝの二ツを両官の境界と
 し相持シテ侵ス事ナキヲ
 要ス

 (朱)○第十九章等級心得ニ入ル
 己レ價ひナくして漫ニ不適当の昇
 進を好ムものハ自其名挙を汚サル
 事を好ムもの也如何とナレハ己レ弐
 拾円の價にして三拾円の俸を得
 る如キハ即チ其十円ハ己レ貧る
 ものにして世ニ「官ニ」損害を掛るか故ニ
 必哉怨望セらるゝものとならん若己レ
 三拾円の價にして弐拾円の俸を
 得る如キハ十円ハ己ニ損シテ
 世「官」ニ益スル故ニ必ス哉必哉世ニ信
 用セらるゝ疑ひを容しさるべし
 仮令ハ爰ニ壱等巡査適当の
 人あらん是を四等巡査ニ置カバ
 必ス哉名望あらん若是を「非常ニ」抜擢
 シテ警部と為ス歟如キハ忽チ不
 人望の人とならんいかんとナレハ
 其適当の價ひを昇過シタルニ
 ありソレ官員ハ公衆の膏血
 を以テ買ハレタる物品ナレハ其價
 丈ヶの功用ナクンハ人民ニ疾悪を
 請クル言を竣タさるべし
 タさる辺シ爰を以テ其効用大
 にして其俸になるハ必ス人望有リ
 て安宅ニ住スルもの也ソレ苟も志
 気を養ひ真ニ國ニ尽さんとする
 もの豈自ラ昇進を求ムルの理あ
 らん乎素ゟ《より》仕官「其價ナクシテ」昇進ハ其
 「スルものハ」
 実其名誉を官ニ売渡スものな「其名誉を棄 テゝ却怨望を求ムルもの也」
 
 □幾分を毀損セシものと知るべし
 して固有の名誉ハ既ニ其身を
 追放セシものの如シ
 辞去シタルニあり
 辞去シタルニあり
 
 ○第七章戸口調査之部ニ入ル
 警察官ハ其管内の人物を
 注意シ且善悪理非其善悪理非得失曲直を
 精微ニ区別考察シテ怠ラサル
 べし
 仮令ハ人を十人娶メテ前二人ハ
 上「とし」六人ハ「とし」二人ハ極下と
 歟悪と歟其類を能ク区別スベし
 壱人の性質中ニも其短
 得失「種々有リ」挙ケテ数ふへカラス
 探索
 爭論を察知スルニ道有リ仮令
 ハ爰ニ「甲乙」弐人有リテ論を起セリ「あ らん」
 甲ハ平常品行有リ且実直ナ
 レトモ《異体字》言少クニ訥弁して」質美ナルカ為ニ
 人と
 爭論スルにニ弱シトス
 乙ハ平常不品行且狡猾ナレ 
 トモ弁勇有リテ人を云伏ス「爭論スルニハ人 を云伏ス
 ベキ強情有リとス」
 此爭論を聞ニ「ニ於テ」甲ハ「の」訥弁乙 ハ「の」能弁ニして甲殆ハ云伏セラレ
 「殆ヒ」曲ニ落んとスと「べし」虽警察官
 ニ於
 テ甲の平常を察シ「実直ナルヲ以テ」丁寧
 是を調ヘル時ハ甲の直ニ帰スル
 もの多シとスある「あらん事」察スヘシ
 爰ニ又甲乙二人有リ酒席上
 酔フテ爭論を起セリとス
 甲ハ平常実直無欲無欲の善人
 ナレトモ天性酒失有るものとス
 乙ハ平常強欲ナレトモ平常酒
 を好ム事ナク其一事ハ「慎ムものニして」
 慥カナル
 ものとス
 此論を察スルニ甲ハ実直ナレトモ
 平常酒失有る故ニ「を以テ多クハ」甲の曲
 ナ「ルを」
 ラン事を察スべし
 又此両人金銭取引の事ゟ《より》
 論を起セシ如キハ平生乙
 の強欲ナルを以テ多クハ乙の
 曲ニ帰スルを察スべし
 警察上右等之類挙ケテ
 数フべカラス餘ハ押テ知ル
 べし

   □その後□
 明治十年九月、直久は三重県一等属となり、三重県に赴任した。翌十二年二月五日、同県安濃郡長となり、同十三年二月十九日まで在任した。
 直久の三重県赴任は、転地療養の意図が込められており大警視川路利良から次のような書翰(御見舞状)が送られている。
 御気色如何被為
 在候哉折角御
 保養被成度候
 扨軽微之至奉存候
 得共ソップ《スープ》御用候
 段承候ニ付右之
 御用ニもと存シ
 致献上候御笑留
 被下度伺旁
 早々以上
   一月廿一日 川路利良
 植松直久様

 直久は、三重県安濃郡長在任中の明治十二年八月、西南戦争征討の際の功労により、勲六等単光旭日章が授与された。
 その旭日章は、現在、植松家に大切に保存されている。
 その後、明治十三年六月、直久は再び内務省警視局一等警視属となり、さらに翌十四年一月十四日検事に昇進した(「官位記録」)。
 しかし、このころから、しばしば高熱と吐血に悩まされ床に伏すことが多く、明治十四年五月十三日、医師佐々木東洋の診断書を添え辞表を提出、翌、六月二日依願免本官となった。
 検事を辞職した直久は、故郷佐喜浜に帰り、療養に努めたが、天はこの鬼才に余命を貸さず、明治十五年九月二十一日、三十七歳で故山に没した。
 
   □植松直久の墓□

 直久の墓碑は、室戸市佐喜浜の大日寺(真言宗豊山派)にある。
 墓は、墓地中央に建っており、正面には「勲六等植松直久君之墓」とあり、裏面には「弘化三丙午十一月十七日生 明治十五年壬午季九月二十一日 没享年三十有七」とある。
 その隣には、直久幼少の際の師楠瀬交斎の墓がある。
 現在、直久の墓は兄駒太郎の曾孫にあたられる故植松康正氏の妻聰子氏が守っておられる。

   □おわりに□

 本稿起草に際し、慶應大学名誉教授手塚豊博士には、温かい御指導を賜った。また御援助を賜った真弓六一氏、吉田万作氏、松野仁氏(高知の郷土史家)、貴重な資料の提供をいただいた故植松康正氏同聰子氏らの御厚意に深謝の意を表して筆を擱く。

     
   警察手眼
緒言
 吾長官、川路君僚属を諭す毎に劄記する所の片言隻字積て堆を成す。予、其の散逸を惜しみ、植松直久に嘱し類次せしむ、頃日編纂成るを告ぐ展て之を読む。其の文字たる華麗の辭《ことば》(辞)を飾らず的確明瞭、所謂一棒一條痕《こん》一摑《つかむ》一裳《しょう》血のみ、乃ち之を名づけて警察手眼とする。盖《けだ》し手快眼明の意に取ると云爾。
 明治九年九月下旬 
        權中警視・丁野遠影識
警察手眼
 川 路 大 警視 述
         佐 和   正 校閲
         植 松  直久 編纂
  警察要旨
一、 行政警察は豫防を以て本質とする。則ち人民をして過ちなからしめ、罪に陥らざらしめ、損害を受けざらしめ、以て公同の福利を増益するを要する也。

二、海陸軍は外部を護する甲兵也。警察は内部を補う
藥餌也。敵国外患は凶暴威迫の徒也。此等兇徒の為に威迫せられんに、強壮健全なる筋力を以て挺刃(刃)を自在に使用し一身を守護せざるべからず。若夫平常の保養なく身体研弱なるが如きは如何なる精良なる挺刃あるも、之を使用するの気力なくして終に其の斃《たお》るるを竢のみ。然れば人身の健全も國家の健全も、其の理《ことわり》一にして此の健全を保は皆平常の治療にあり。故に警察事務の皇張は、我が日本帝国の健全を大に攝養する所以也。

三、一國は一家也。政府は父母也。人民は子也。警察は其の保傅也。我が国の如き開化未だ洽子《あまねし》からざるの民は最も幼者と看做《みな》さざるを得ず。此の幼者を生育するは保傅の看護に依らざる可からず、故に警察は今日、我が国の急務と為さざるを得ざるの理ある也。

四、警察官たる者は、能く行政・司法両警察の権限を領会す可し、其の一例を挙げん。爰に人あり、争闘を生ぜり。之を停止和解するは行政の権也。既に殴傷を為す者を捕押する等は司法の権也。其の事相牽連し、一人にして両箇の権を行うと雖も判然區域ある者とする。

五、東京地方長官は、他府県長官の行政權を一統轄に歸する者と頗る其の體裁を異にせり。何となれば、警視廰東京府両立して行政事務を分任し、而て警視廰は警察の政を行う者なれば也。

六、國法汎論に曰く、命令或いは禁止の權を施行する事の緊要なるに、方ては權力なる警察専を主となりて事務は之に従属す權力なる。警保決して事務に随行するにあらずと格言と謂うべし。

  警察官の心得
七、警察官は眠る事なく、安座する事なく、昼夜企足して怠たらざるべし。

八、非を治るには、理を以てせざるを得ず。
治を保つには非常の警なくんばあるべからず。譬《たとえ》ば酒を煖るに、其の酒の温もりに勝れる。湯を以てせざれば其の酒、暖まる者に非ず。凡《おおよ》そ事物は皆、其の勝る所を以て為すべし。
故に人を警る者は、先ず己に非常の警ありて、以て人に及ぼすべし。

九、警察官の心は総て仁愛補助の外に出ざるべし。是を以て警察權の発動も亦総て仁慈の外に出ず。故に警察官たる者は人民の憂患を聞き見する時は、己も其の憂いを共にするの心なかるべからず。

一0、警察官は人民の為には保傅の役也。故に人の我に對して、如何なる無理非道の擧動あるも道理を以て懇切を盡し、其の事に忍耐強
すべし。

一一、若し某官の我が警察權を論ずる者あれば、之に答えて曰ん。我は安寧の保護官也。我れ君等に對し平和を破らず、君等は我に對して平和を保たんや。我は信ずる能はざる也。

一二、世の安寧を護せんとする者は、無事の日に於いて、有事の日として怠らざるにあり。

一三、國家は無形の一人也。不逞兇悪の徒は其の病患也。警察權は、其の健全を務むは平常の治療也。而して法官は医師也。法律は藥種也。警察予防の力及ばずして、罪犯すを捕註らえ法官に付するは即医師に渡す也。其の裁判を為すは、適當の藥を與えて之を療する也。其の違註犯の如きは誠に微、恙にして警察官之を處分する。則ち手藥を以て療する也。

一四、人を警《いましめ》るの官たる者は忍耐勉強にして、常に己の液汁を公衆に濺《そそ》がずんばある可らず。

一五、警察長は政務を執行せんより、寧《むし》ろ之を監察すべく、之を監察せんより寧ろ之を指令すべしと、佛國《ふらんす》有名のヴィヴィヤン氏の論如、此に蓋し警察官たる者の性質は己《や》むを得ざるを除く外、政務執行を好まざる也。

一六、人民は兒輩《じはい》也。警察官は其の傅《つく・かしずく》也。兒輩素より悖戾《はいれい》の行なきを保たず。故に警察官たる者は職務上、如何なる兇暴の人に逢うとも決して心を攪乱し憤怒を發するが如きの擧動あるべからず、若し此の輩と怒り爭うときは、則ち其の兒輩同等の一私人たる者にして警察保護の職務を棄てたる者とする。深く戒めざる可らず。

一七、警察官は人民の為には、其の依頼する勇強の保護人也。故に動かず驚かず、軽々しく人を譏誉せず。忍耐忠直にして能く品行を慎み、以て威信を收るを要する。

一八、凡そ警察官の人民を待遇するは丁寧懇切を極め、恰も子の傅う姆たるが如くにして、之を愛慕せしむるに在りと雖《いえど》も、亦執泥せざるを要す。若し此に泥む時は却《かっ》て其の斃
侮を招き警察權を汚すの弊害を醸すべし。
故に警察官は常に丁寧深切を主意として人民と狎《な》れず。人民は警察官を慕いて之を侮らず。狎と侮との二つを両間の境界とし相持して侵す事なきを要す。

一九、凡そ事務に現場実況を聞見して知る職務と人の届出るを待って行う職務との區別あり、能く之を察すべし。

二0、人の正すの官に在る者は常に其の至大至剛の気を養い、所謂浩然の正気を以て他の不良心を討伐するの權なきは勿論にして却って人に討伐せらるべし。然れば一の品行を失すれば輙《すなわ》ち自を其の權力の一部を剝脱せし者となるべし。

二一、警察官は人民の為には勇強に保護人なれば、威信なくんばある可らず。其の威信は人の感ずる所にあり。其の感ずる所は己の行う所の危難の價にあり。即ち人の耐え難き所を耐え、人の忍び難き所を忍び、人の為しがたき所を為すに在り。

二二、口に開化を唱えて身開化の行なき者、口に警察を唱えて身警察の行なき者、姿に警察の徽章ありて心警察の人とならざる者あり。猛省せざる可らず。
二三、人を統御するの官に在る者は、総て公正の二つに由らざるを得ず。然るに私愛を以て下を撫し、人望を収め黨與を結び漫りに己れの顯達を目的とする者あり。此等は理と法とを曲げて一身の威福を恣にせんとするの私心より出る者にして、国家に對し大なる弊害
あり。此の如きの人は其の事に黨せずして多く、其の人に黨する者也。

二四、國長を補助して國光を輝かさんとする者と、己れ其の國を占めて國長とならん事を目的とする者とは大なる逕庭あり。例えば「華聖頓」の私慾を棄て公衆を利し、大徳望を得るに及びて、猶其の國を私せず。我が衆民をして獨立自主の人たらしめん事を庶幾する者あり。又一世「ナポレオン」の如く衆望を得て國を己れに占めん事を謀る者あり。
抑、君主國長に隷属する者は理と法とを遵俸し、一己の殷譽に開せず。公正忠直にして、其の職務に斃る可き也。
二五、凡そ各人皆自主自立を目的とし、人の權利を妨げるを得ず。就中警察官吏に如きは人を警めるの官にして他の標準たるべければ、各自其の分限りに安んじ己れ十分の獨立を為し、其の餘光を人に及ぼす者と心得るべし。

二六、政府の人民を世話するも、父母の其の子を心配するも他に非ず。只各自をして、其の自主自立を得せしむるに止まるのみ。其の既に自立するや事物を交換し相互の便益を為さざるを得ず。是、交際の由て起こる所也。
此の交際に依り不良の人ありて、他の權利を妨げる等の弊あれば、此を防ぐの國法なきを得ず。即ち政府なきを得ざる所以也。夫れ一人の各人に對するも一國の各國に對するも、其の理、此の如し。抑、國にして負債あれば獨立の光榮を減殺《げんさい》し、人にして負債あれば亦自立の權を屈すべし。故に曰く己れが受けたる恩義は無形の負債也。己れが作したる借財は有形の負債也。今、夫れ分身の子にして、其の父母を養うは、其の生育せられたる負債を父母に償う也。負債を償却する事、父母、猶を此の如し、況《いわん》や其の他に於いてや若し此、有形無形の負債にして償却せざる時は、一は道徳に責められ、一つは政法に責められる。然らば則品行、何に由って脩らん。警察官は深く思を玆《ここ》に致す可き也。

二七、一度職を奉せし以上は、其の分に斃而後、己を目的とすべし。事變に際し心を動かし、或は其の名の潔に遁る等の事を為す為す可からず。抑、無官の處士なる時は、其の急なるに向うは、自ら當然なりと雖ども仕官をなせし者、大事に臨み己が官署を棄てて気随に方向を變するは名利に走り且つ一身を深くし、其の妨害を貽《おく》すを顧みざるの賊たるを免
がれざるべし。

二八、官員は元來公衆の膏血を以て買はれたる物品の如し。故に其の値に適當する功用を為さずんばある可らず。若し此の功用なき者は、其の買い主なる公衆に疎まれ、又其の物品中にも猜まるる無論也。故に官員たる者は今日勤める所の效用、其の價に適するや、如何を比較するを要す。若し此を比較すれば果して適せざる者多からん。然らば官員は都で天と人とを欺くの罪なき能はず。西人會て言えることあり。曰く汝が食らう所の粟は額上の汗と為せよと能く此の意を玩味し常に勉強刻苦して、其の額上の汗を絶えず人民に濺がずんばあるべからず。

二九、人の不平心は身を害し、或は世の禍となる者なれば恐れ慎まずんば有るべからず。古人有言曰く、憂患に生き安楽に死すと。然れば安楽は却って不幸の基なれば、艱難は汝を玉にすると云う格言を服膺し、以て千辛萬苦に安んずるを要す。世人或は事の曲折に因りて瑣末の事より不平を起し生涯の榮誉を殷損するは思はざるの甚き者也。殊に官途に登るの齢は中年に下らざるべし。斯る妙齢にして再び補うべからざるの身となるは、亦痛ましからずや、人生今年今日は再び來らざるを覺知し、能く耐え能く勤て怠たらざる時は、必や無限の幸福を得ん。

三0、一度警察官たる以上は従前の長袖を着し、宴飲快樂を恣にするは到底得べからざれば、各其の陋心を断絶し天然固有の良心を復し、職務を勉勵し國家を開明に致すを以て歎歎樂の地とする時は己れの幸福は言迄もなく國家無彊の幸福ならん。 

  警視官等級の別
三一、僚属を使用する依怙偏頗なく命意平等なるべし。

三二、部下僚屬に接する公を以て、決して私を以てすべからず。殊に無名の恵を為し、姑息の仁を行うべからず。何となれば幾百圓の厚給を得るも、元來限りあるの資を以て限なき情に償はん事、到底得べからず。強て是に恵まんとせば之を親疎區別せざるを得ず。
是則人心離反の基也。苟も一身同體と見て國家に從事すべき部下に對し愛憎を用て可ならん乎。

三三、私心
 理と法とを曲て己れ一人の譽を求め毀りを 恐る者
 人の權利を竊《ぬす》んで己れが權利を飾る者
 人の權力を借て己れが聲名を求る者
 人の權力を拒んで己れ之を攘む者
上官は父兄也。屬僚は子弟也。上官は事理に明かなる者とし下官は及ばざる者とす。故に上官は下官を監視するの權あり。

三五、下官は上官の監督を受る者也。何となれば、其の監督するの趣意たるや過誤失錯等を豫防するの仁慈に出る者にして兼て任したる職權を汚さしめざるを要すれば也。

三六、大警視は中警視以下を監視し少警視以下を監視し少警視は警部以下を監視し警部は巡査を監視す。皆、仁慈の意を以てする者也。

三七、下官たる者は、能く其の長上に從順し、其の命令を受て之を賛助するの義務ありとす。巡査は警部補を助け、警部補は少警部以上を助け、少警視は中警視以上で助け、中警視は大警視を助る者とす。皆、從順を旨とし、上官の?身と心得べし。

三八、長上の命令は篤《あつ》く之を信認し、其の代人と為て下官に達すべし。下官の上中を執達する。己れ其の下官と上官との間に中立したる周旋人と為り、其の情實を詳にし具申すべし。若し其の上申の成規に悖り又は非理に出るを見認る如きは説諭して、此の上申を止る事あるべし。決して下輩の意に泥み、之と黨
與すべからず。蓋し命令は信じて下に布き、上申は斟酌して具申するを云う、是則上を明とし下を不及とするの道理あれば也。

三九、俸給の厚薄に依り、其の任ずる所の効用も亦厚薄ある也。夫れ官祿は日々己れが任ずる
課業の價なれば、必ず其の價に適する効用なくんばあるべからず。

四0、等級の重きは、其の重き程、其の責の重きに任じ、其の勞に服せずんばあるべからず。曰く我が官俸は彼に增されり。今勤る所も、亦必ず、彼に勝る効榮なかるべからず。今彼れ一時間を勤れば、我は二時間も三時間も勤むべし。彼れ一事を為さば、我は二事も三事も為さんば、何を以てか彼の上に居らんや。或は此に反對する心得違の者あり。曰く我等級は彼に勝れり。我一度事を行えば、彼は二度も三度も行うべし。我は貴上也。彼は卑下也。彼は我に從うべし。我は彼を使役すべし。我何ぞ彼と勞を同うせんとや。抑人の上に居る者は、己れ何程骨折するも人に對し決して己れの勞を説くべからず。

四一、己れ價なくして、漫に不適當の昇進を好む者は、自ら其の名誉を汚さん事を好む者也。何となれば、己れ二拾圓の俸を得る時は、則己れは貧淋に陥り官民に其の損耗を負はしむ。故に必や怨望《えんぼう》誹讟《ひとく》せらるる者とならん。若し己れ三拾圓の價にして二拾圓の俸を得る如きは、拾圓は己れを損して官民に益する。故に必や世に信用せらるる疑を容れざるべし。譬《たとえ》ば爰に一等巡査に適當の人あらん。此を四等巡査に置かば、必ず人望あらん。若し此を非常に櫂して警部と為すが如きは忽ち不人望の人とならん。如何となれば、其の適當の價を超過したるに在れば也。夫れ官員は公衆の膏血を以て買われたる物品なれば、其の價丈の効用なくんば人民に疾悪を受るは言を竣たざるべし。是を以て、其の勤勞大にして、其の俸給少なるは、必ず人望ありて安宅に住する者也。
 故に苟も志気を養い、眞誠に國家に盡さんとする者、豈《あに》自ら昇進を求るの理あらんや、其れ然り。故に其の價なくして昇進せんとする者は、其の名誉を棄て却て怨望を求る者也。

四二、當今、官員中、己れ本文に職掌は、第二第三套に付し常に權門勢家に出入し、諸官員と交和を求め巧に己が榮利を謀るを以て務とする如き時、幣め甚《はなはだし》き者あり。豈長大息の至りならずや。

四三、巡査に於ても、亦其れ等の高下に依り、各心得あるべし。則ち一等と二等は何の為に高下あるや。二等と三等とは何の為に高下あるや。三等と四等とは何の為に異なるやを能々考察すべし。夫れ等級の高き者は、其の高き丈け賢ならずんばあるべからず。
其の給の多き者は、其の多き丈け勞なくんばあるべからず。

  部長心得
四四、公權
 部員の勤怠行狀品等才藝等を諳記《あんき》し、上官 に申供する事
 命令を下達し下情を上報する事

四五、部長たる者は、其の責の重に任し、自ら其の困難に當り、其の事に堪る。必ず其の部員に勝るの器量品等なくんばあるべからず。然れども己れ勉勵するを以て、其の部員を責る者にあらず。己れ其の責に任じ安んして職を盡すを要す。

四六、助官は順從を以て長上に事《つか》え、事故あれば其の勞に服し己が譽を長上に譲り長上の難は己れに任じ、常に上官を安心の地位に置かん事を務むるにあり。
四七、部員の爭論を聴く心に偏黨なく、能く兩方の情實を得て公平に決すべし。

四八、部員の上申を取次には、其の事實の成規と道理とに叶うや否やを熟考し、然る後に具申すべし。決して部下の意に黨し偏依して上官に迫る等の事あるべからず。
其の部の議席に臨むには議長たるを以て、議員と討論する事なく必ず先ず議員中に討議塾論を為さしむべし。
四九、上官の為には助官と為り、部下の為には指揮官と為り、或は又、其の中間に立てる周旋人たる事ある可し。

五0、部下に臨むには言い難き所を云い、為し難き所を為し、堪え難き所を堪るは兼て任ぜらるる所の職務なりと心得、決して怠たるべからず。

五一、陰に部員を愛憎し、以て陟を具申し、或は其の未發を洩し、且つ理に背き法を曲げ、己れの譽を求め毀を避る如き卑劣の心あるべからず。

五二、公則私則の別
 公則は警視廳の制規なり。私則は自守の盟 約なり。之に違う者、假令は盟約にて禁ぜし。曾合宴飲を犯せるは内犯也。人民え對し妨害を為し、或いは無禮粗暴の所為有る如きは外犯也。外犯は人民に罪を受くる者にして重きに屬し、内犯は只同僚中に罪を得る者にして輕きに屬する者なり。

五三、署長心得
署長の職務規則進退行狀等に付き、不行届あれば責を少警視に受る者とす。
 甲乙丙一部の當直中に決せざる事務は、皆 署長の權に歸す。
 公務の都合に依り出勤時限遅速あるべし。

五四、署長は、其の署の警部以下、職務上より生ずる爭事あれば、務て之を解説すべし。但し己れと警部等と對向する爭論は、必ず上官の裁斷を仰ぐ者と心得、決して己れの意見を主張し無理に壓伏す可からず。如何となれば、己れ其の被告人にして自ら其の事の裁判を為すべからざるを以て也。
黜陟賞罰、或は職務規則等の施行に付き、部下の者不服を唱て署長の意見を聞んと迫る如きは權外の尋問無用なるを以て説得す。可し猶を承服せざる時は、我は我に任せられたる職權を行う耳《に》、若し此に不服なれば、即、我は君等の為に被告人也。被告人なれば此の事を辨明するの理なし。君等も亦署長を糺問するの權なかるべし。此上は宜く長官の裁可を抑くの外に道なしと答て直に此の事を上申すべし。
  
  巡査心得
五六、上官の命令を遵守し、能く其の勞に服し、任に堪え治するを目的とすべし。

五七、上官を補助する深切なる心は、我れ補助官たる限りは、此の上官をして其の職を安全ならしめん事を保任すべし。上官に失體あれば、己れ其の補助の足らざる者し、外に向て耻ぢ内に取て己を責べし。

五八、己が失體は上官の失體也。上官の失體は己れの失體也と心得るべし。

五九、僚友は素より互に切磋琢磨の交義ありと雖ども、公私の両則を犯せる以上は決して曲屁す可からず。何となれば公私の兩則を犯し六千人の體面を汚す罪人なれば也。

六0、自守盟約は、各自の胸臆を以て誓える者也。決して人を見倣ううべからず。既に其の盟約をなすの條欵に違う可きの事は縱令幾多の人に勸誘せらるるも決して同意すべからず。

六一、巡査の職たるや自位薄祿にして其の品行は勅奏高貴の官を凌ぎ、其の勉強は數拾圓の俸給に値す。是を以て、今や公衆の依信を受るに至る。豈、美ならずや。

六二、今、巡査六千の人民に信ぜらるるは、平生國家の為に、其の分限に超えたる勉強、且つ品行あればなり。若し此の六千の巡査をして総て八九等の官祿を受けしめば、人民に於て決して嘆美する者なかるべし。

六三、巡査の職務たるや、三昼夜七十二時間の内、一人各二十四時間を勤む。其の餘定日の練兵あり、又受持ち戸口の調べあり。加るに、其の品行を失すれば、私則に責られ職務に違えば、公則に責らる。其の嚴束なる推して知るべし。

六四、他の官吏は三昼夜七十二時間に拾八時間を勤るが如しと雖も、其の内土曜日あり日曜日あり、若干時間を減却す。而して其の出勤の時間遅速あるも、其の責なく且つ不品行あるも、只一般の國法に觸るるの外、責る者なし。其の寛なる亦知るべし。

六五、然れば巡査は七十二時間の内、他の吏に比すれば六時間餘計の勤あり。則三口に一日の過勤也。之に練兵と戸口調を加る時は、又若干の時間を増すべし。

六六、他吏は休暇を差除する時は、拾八時間の内、又若干を減却すべし。巡査の嚴束なる勤と日を同うして論ず可からざる也。

  探索心得
六七、警察官は善人を探知するの深切なること、亦兇徒を探索するが如くすべし。

六八、探索の道、微妙の地位に至ては、聲無きに聞き、形無きに見るが如き、無聲無形の際に感覚せざるを得ざる也。

六九、怪しき事は多く、實なき者也。決て心動かすべからず。然れども、一度耳に入る者は未だ其の實を得ずと雖も、亦怠たらざるは警察の要務也。

七0、探索人若くは告發人、等の片言を信じ心を動し、決して疎忽に手を下すべからず。必や双方を照合し、其の實を得て然る後に手を下すべし。

七一、隠密の探索には不容易の事件あれば、能く其の事を察し、其の事に堪え得べき人物を選むにあり。而して其の人物に種々の長所あり。左に述ぶ。
 各國の動静及交際上に明かなる人。
 國内の人物を諳記し、其の心術向背等を熟 知せし人。
 内外商法交易上に達せし人。
 謀反不逞の徒に容しられ、其の動静を察す るに好き人。
 右等の徒に欺き與《く》みして探らしむるに好き 人。
 強竊盗《せっとう》、或は掏模衒騙《とうもげんへん》博徒密賣、淫を探る に好き人。

七二、探索人たる者は、膽《たん》力強勇にして表裏反復臨機應變等、其の詐術え巧みなるを要す。若し或は暗弱なる探索人にして反問に陥る如きは不容意の大害を醸すに至らん。故に探索人を選むには能く々、其の事柄を察し、其の事に堪え得べき人物を見て、然後、之を命ず可し。

七三、右等は、其の人物に因て、此の方の為さんと欲する趣意の彼の心に能く勝ち得るや。如何かを洞察し、然後其の術を施すべし。
亦其の事に於て、臨時一擧に決せざるを得ざる事と平常順序を徑て、徐々として施行する事との分別あるを能々察すべし。

七四、警察官は、其の管内の人物を注意し、其の善悪正否を精微に區別考察して怠らざるべし。例えば爰に十名を擧く、其の二人は上等、其の六人は中等、其の二人は下等とか悪とか、其の類を能く區別すべし。何となれば一人の性質中にも、其の長短得失種々あり。擧て數うべからず。

七五、人と為りを知る事。
 毀譽の輕き者。
 愛憎の甚き者。
 喜怒の速なる者。
 心に飽迄、道理を辨明し口に發する能はざ
 る者。或は又、言行を顧み漫に口に發する を好まざる者。
 心意勇猛にして好んで人を欺く者。
 狀貌婦人の如くにして大膽不適の者。
 狀貌猛者の如くにして實地に臨み見掛なき 臆病の者。
《とうも》 己れに過ちあり、其の非なるを知て改る事 を為さず底意地の強き者。
 己の迷を悟らず眞に理として言い張る者。
 一旦、言張るも、其の非なるを知て忽に改 め大に悔悟する者。
 膽、大にして心密ならず。又膽小にして心 も亦小なる者。
 如何なる難に臨んでも平気活潑にして能く 堪て事を治る者。
 外に笑うが如くにして内に怒る者、又外に 怒るが如くにして内に笑う者。
 初を難して終を丈夫にする者。又早合點に して終なき者。
 上に謟い下に苛き者。又上に抗して下に人 望を求る者。 此弊對建政治に
        少し當今に多し
 上に向て、申述するの器量なく。下に向い て上を非とし、下に人望を求る者。
 心意丈夫にして口の利かざる者、又口のみ 利きて心意なき者。
 強く掛れば弱つて服する者。又強く掛れば
 激して服せざる者。
 穏和に掛れば能く服する者。又穏和に掛れ ば倣漫にして服せざる者。
 人の言を聞て、是非を論ぜず服從する者。
     (俗に云う、早合點也)
 人の言を了解せずして、忽に悦び、忽に怒 る者。 (俗に云う、一刻者也) 
 己れが醸せし難を人に推誘し、遁辭を搆る 狡點の甚しき者。
 人の如何なる擧動あるも、理非曲直を分別 し、泰然として動かず穏に應ずる者。
 人の盛名を聞き、未だ其の人を見ずば鬼神 の如く恐るる者有り。如何なる功名の人に ても不思議に人に勝る者にあらず。舜、何 人ぞ、我、何人ぞと云いし見識なき者は陋 劣の小人なるを知るべし。
七六、事に臨み心の動静を見る事。
 其の眼色面容を見、其の聲音言話を聴き、 其の身の動作を察し、其の手足の措く所を 視る。

七七、情に侵入する事。
 凡そ人に心の浅深厚薄あり、故に此を察せ ずして疎忽に手を下すべからず。此を察す るの術たる、先ず彼の人と為りを察し、彼 に容れられずんばあるべからず。彼に容れ らるる術たるや、其の喜怒愛憎する所を察 し、其の心の趣く所に同意して侵入するを 要す。

七八、情を動す事。
 情を動すの法は、其の胸慮を動し、其の虚 實を察し、或は怒らしめ、或は容れ、或い は拒み、或は詐り、或は信じ、或は威し、
 或いは慄る等、盡く欺術を以てすべし。

七九、情を察する事。
 賊の事たる他にあらず。欲と情との二つに あり。故に賊を探索するには、賊の欲情を 共にせし者に因るを上策とす。即彼の情あ る婦人、彼の恩ある人の類。

八0、事變を察する事。
 凡そ探索上、異變の狀況を聞く時は、能く
 々勘考塾察すべし。決して疎忽の擧動ある べからず。其の横死人等の變ある時、探索 の方向を定る。訣に曰く、爰に人を殺せり 此を殺して益する者は誰ぞ。

八一、兇徒の心素より浩然の養なく、其の気、常に飢えたる者なれば、右等の術に於て必ずや、其の言葉を盡すことを得ず。亦其の虚飾を遂げ得ること能はざるべし。是則天と人とを欺き得ずして到底天網を免れざるの理ありとす。

八二、爭論を察知するに道あり。例えば爰に甲乙二人あらん。甲は平常操行正しく、且つ實直なれども訥辯にして人と爭論するに拙し。乙は平常不品行、且つ狡點にして雄辯快舌爭論するには人を言伏すべき勢力ありとす。此の爭論に於て、甲の訥辯乙の能辯に言伏せられ、殆んど曲に陥んとすべしと雖も、警察官に於て甲の平常實直なるを以て、丁寧此を調る時は甲の直に歸する者あらん。篤く注意すべし。
又爰に甲乙二人、酒席上酔って爭論を起こす者あらん。甲は平常實直無欲の善人なれども、天性酒癖ある者とす。乙は平常強欲なれども、酒を慎む者とす。然れば、甲は實直になれども、平常酒失あるを以て多は甲の曲なるを察すべし。
又此の両人、金錢取引の事より爭論を起こせし如きは、平生乙の強慾なるを以て多は乙の曲に歸するを察すべし。
警察上、右等の類擧て數うばからず。。此其の一例也。餘は推て知るべし。

八三、夫れ無、産業にして坐食する者は、必幾分か良民の權利を妨る者也。故に此等の徒は、其の履歴を査して、其の行狀を知り、其の友を觀て其の人と為りて視。其の既往を微して、其の將來情慾の發動する所を察す。是、警察官の於て戸口調査の止む可らざる所以也。

八四、又曰く凡そ人は、自己れの一身を生活すべきの營業なきを得ず。此を勵む者は良民也。無營業にして坐食する者は不良民也。此の不良民は幾分か良民の權利を妨くるの理あり。故に警察官たる者は、先ず此不良民を注意警戒して怠たらざるべし。是則兇を防ぎ良を護するの意也。

八五、世に兇悪の徒なきを得ず。人に兇悪の心なきを得ず。只警察の手眼を以て、是を抑制するのみ。故に曰く賊よ汝為さんと欲せば為せ汝が為さんとする所は、我が眼盡く視る汝が為さんと欲する心は、我盡く知れり汝能何をか為さん哉。

   □あとがき□

 本書は、昭和五十六年五月号の千葉県警察本部発行の機関誌「旭光」誌上に発表したもので、今は亡き慶應義塾大学名誉教授手塚豊先生の熱心な御指導の下、その他多くの方々の御協力によって誕生したものです。
 今回新たに、その後、判明した箇所について若干の補筆を加え、更には巻末には、私が披見した国立国会図書館所蔵の「警察手眼」全文を掲載しました。
 本来、もっと早く世に問うべきもんではありましたが、浅学かつ非才、遅牛の歩みを続けてきた私にとって上棹までに幾星霧を数えてしまった。
 この拙い著作がいささかなりとも「警察手眼」研究に裨益するところあれば、望我のよろこびである。
 この拙稿を上棹するにあたり、寿美術印刷株式会社社長佐野兌孝氏に種々、ご助言とご配慮をいただいた。記して感謝の意を表したい。
 終わりになりましたが、貴重な資料を快く提供していただいた故植松康正氏の妻植松聰子氏のご厚意に深謝の意を表すとともに志半ばにして夭折した植松直久の御霊に哀悼の意を表して筆を擱く。

   平成十五年十二月

 著者略歴
   露崎栄一(つゆさきえいいち)

 昭和二十四年四月 千葉県夷隅郡大原町
           日在 生まれ
 昭和四十七年三月 駒沢大学文学部歴史
           学科卒
 昭和四十七年四月 千葉県警察へ奉職


 一部、□はじめに□を割愛させて頂きました、ことをお知らせ致しす。 

2012年12月1日土曜日

室戸の民話伝説 32話 式神の金蔵

                   絵 山本 清衣




式神の金蔵

 昔、むかしの話じゃ。とは言うても、山内の殿様の時代じゃきん、高々四百年よ。
 羽根の冬ノ瀬集落に、金蔵という名の杣《そま》(きこり)がおった。なかなかなイゴッソウで、一生嫁を貰わんづくじゃったという。この金蔵かなりの信心者で、曲がったことは何一つせん男じゃった。 
 ある日、韮生《にろう》(香美市物部町)の奥山へ仕事に行った。そこで長らく仕事をする内に、金蔵の真直ぐな心根を見込んで、土地の行者が『式《しき》神《じん》を打つ法』を教えた。うーん!、式神かよ。式神と言うたらのう。まあ、今で言うたら『御祈祷・呪』と『気合術』を一緒にしたようなものよ。ほら、藁人形をこしらえて、五寸釘を打ち込んで人を呪い殺すと言うものよ。話は聞いたことがあろう!。まあ、あれに似たようなもの。迂闊《うかつ》な者に教えると、これを悪いことに使うと大事じゃきに、なかなか、誰彼かまわず、滅多な者には教えたりせなーよ。
 それで、金蔵が機嫌のえい時に「おらが一つ、面白いことを見せちゃるきに、見よれ」と言うて、地面に三尺(99㎝)ばあな棒杭を掛け矢(木槌)でこじゃんと打ち込んじょいて、パン、パン、パン、と三遍柏手を打つたら、打ち込んである棒杭が、スッと地面から抜け、飛び上がったと言うがのう。
 また、仕事休みの日、家で転寝《うたたね》していた。金蔵が急に顔をしかめて「おお、面倒くさい、たまらん。また、あの喜三兵衛《きそべえ》の内の子が喉へ魚の骨を立ててやって来る」と言うもんじゃきん、隣に居た人が、”まことじゃろうか”と思うて外へ出て見たところが、なんとおなん(母親)に手を引かれて子供が来よったという。それが金蔵の家の前まで来ると、ちゃっくり治って帰《い》ぬる、というきに不思議よのう。
 またある時、金蔵が仕事をしよって足の骨を怪我したもんじゃきん、城下へやって来て医者に掛かっちょった。ところが、ある日のこと、痛い足を引きずりもって鏡川の天神橋で来たところが、山内の殿様の行列とバッタリ出会ったわ。 
 殿様の行列と言うたら、ちゃんと土下座をせにゃあいかざったが、金蔵は「足を怪我しちょりますきに、中腰でこらえてつかさいませ」と、頼んだけんど、「ならん、卑しい下郎の分際で中腰は許さん。あえて土下座をせぬとあらば番所へ引っ立てるぞ」と、言うもんじゃきに、仕方なしに痛い足を堪えて土下座をしたが、さあ、それからが大事よ。
 殿様の行列が橋を渡りにかかり、橋の中ほどに差し掛かった時、どういうもんか、殿様の乗っちゅう駕籠《かご》が、いきなり川の中へドブンと落ちこんだわ。たまるもんか、殿様は駕籠の中で逆さまになってタッパ(手・イカのアオリ、鯨の胸びれ)をこきよらあ。真っ青になった家来どもが、ドボン、ドボンと川へ飛び込み駕籠の中の殿様を助けて岸へ連れ、顔・頭を拭くやら着物を絞るやら大騒動よ。土下座をしちゅう百姓やら町人は笑う分けにもいかず、皆、うつむいて目を伏せ、袖を引くやら、殿様の威厳は丸潰れよ。
 それでも、ようようか行列を整えて、もう一遍橋を渡ろうと中程まで来たところが、なんとまあ、不思議なこともあるものよ。また、殿様の駕籠が、ドボーン、と川の中へ落ちた。わけが、わからん家来!。ドボン、ドボン、ドボンと全員が川に飛び込み殿様を助けると、今度は川をザブザブ、ザブザブ、向こう岸へ渡り、ようよう殿様と駕籠を担ぎ上げたという。
 さて、その帰り道で、金蔵が連れの男に言うことに、「どうなら、おらの下馬落としは・・・、鮮やかなもんじゃろうが。おらが足が痛いきに”土下座は許してつかさいませ”と、あればあ頼むに、どうしても聞いてくれんもんじゃきん、二回、落としちゃったわや」と言うもんじゃ。
 たかあ、昔の人は不思議な術を知っちょたものよのう。

                            文 津 室  儿
         
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2012年11月1日木曜日

室戸の民話伝説 第31話 津照寺のご本尊


               絵 山本 清衣


三一話  津照寺のご本尊

 宝珠山《ほうじゅざん》 真言院《しんごんいん》第二五番札所 津照寺《しんしょうじ》、通称・津寺《つでら》は、大同2(802)年この地を巡錫《じゅんしゃく》「僧侶が、各地をめぐり歩いて教えを広めること」していた弘法大師空海が開基したと伝わる。ご本尊は楫取延命地蔵菩薩《かじとりえんめいじぞうぼさつ》で、空海自身が一刀三礼《いっとうさんらい》「仏像を彫刻するとき、一刻みするごとに三度礼拝すること」の古儀に則った力作であり、南路志は「秘仏・弘法作。四国八十八ヶ所随一也」と讃えている。 
 さてこの津照寺には、火と水に関わる二つの物語が伝わっている。
   火の物語
 今昔物語《こんじゃくものがたり》を繙《ひもと》けば(地蔵菩薩火難自出堂ノ話)とした題目に、「今は昔。土佐の国に室戸津《むろとのつ》と云う所があり、そこに一つの草堂《そうどう》(草ぶきの家・寺)があり、津寺と云う。そこは、海の岸(みぎわ)にして人里遥かに去って難渋しーー」と書き起こし「そのお堂の垂木《たるき》の木尻《きじり》(端)は皆、焦《こ》げていたーー」という事実を紹介して、その理由について述べている。 
 この室津浦に住む老人が、お堂の垂木の木尻の焦げた縁起を語っている。先の年、この地に野火が出て山野ことごとく焼けた。一人の小僧がどこからか忽《たちまち》に現れ出て来て、室津浦の人々の家ごとに走り回りながら叫んで云った。「”津寺只今、焼け失せなんとす。速やかに里の人、皆出て火を消すべし”」と。周りの人々、小僧の叫び声を聞き、津寺に走り来てみると、お堂の四面の辺りの草木が、皆焼け掃いたようになっていた。お堂は垂木の木尻が焦げているが焼けてはいなかった。しかもお堂の前庭には、等身大の地蔵菩薩や毘沙門天、それぞれが本堂より出て立っていた。但し、地蔵菩薩は蓮華座に立たず、毘沙門天は邪鬼を踏んでいない。この時、室津浦の人々、皆これを見て、涙を流して泣き悲しんで云った。「”火事を消すことは、天王(神仏)の為すところ也。人を催《うなが》し集める事は、地蔵菩薩の方便なり”」と云った。
 この小僧を捜し尋ねるが、辺りにそれらしい小僧はいない。浦人は、この事を見聞きし、不思議で慈悲深い菩薩たちだと云って尊だと云っう。
   水の物語
 土佐藩初代藩主・山内一豊公が帰藩の折り、室戸沖で風浪に翻弄され遭難しかかった。そのとき、一人の僧が現われ、船の楫柄《かじずか》を執り室津港に無事に送り届け、一豊公は難を逃れた。一豊公は礼を尽くさんと、そこここに僧を捜すが見当たらない。僧は津照寺に向かっていた、と聞きつけ後を追った。本堂に立ち入ると、御本尊の地蔵菩薩がびっしょりと濡れていた。これを見て驚いた一豊公は、この御本尊に霊神を強く感じ、楫取延命地蔵菩薩と名づけたという。この御本尊地蔵菩薩には、自ら鎮火の霊力と衆生を水難から救済する慈悲の大愛をもっている、と云えよう。
   呼称「ごめん」の誕生
 一豊公は遭難を機に、この地に海難救助組織を定め、浦人をこれに当たらせ租税を免除した。曰く、土地の開墾開拓による免除と異なり、人命救助を行うと云う特異な例である。これが「ごめん」誕生の、一つの由来である。
 『ごめん』の名が初見される「八王子宮當家記」に依れば、この集落の男衆は、往昔藩政時代吉良川住民の二、三男が移住して来たものである、と伝え。「土佐鰹漁業聞書」には、しばしば御座船の水夫として召され、藩主の信頼が篤かった、と伝えている。

                            文 津 室  儿 
           

2012年10月1日月曜日

室戸の民話伝説 第30話 子育て幽霊

             絵 山本 清衣

      子育て幽霊

 むかしも昔のこと。四里(十六㌖)ばかり離れた所に藩境の岩佐の関所があった。そこの番士の娘でお百合と言う者が、佐喜浜の庄屋の一人息子に嫁に来ていたそうな。
 お百合さんは大変可愛らしい人で、両親や夫には良く仕え、奉公人も大事にしたので、たいそう評判の良い嫁であった。しかし世の中は、ままならないもので、姑がめっそうな気位の高い人で、田舎出のおとなしい嫁を馬鹿にして、ことごとに嫁いびりをした。お百合さんは涙のかわく暇がなかったそうな。  
 ある日、お百合さんの不注意から、一枚の皿を割ってしまった。その時の姑の仕打ちは口汚く罵っただけでなく、竹刀で身体の至る所を何遍も殴ったという。その様子を見かねた親戚の者たちは、とうとう親族会を開き離婚をさせることにした。お百合さんはその時すでに、お腹に赤ちゃんを宿していた。お百合さんは、赤児の為に夫や姑に何度も何度も置いてくれるように嘆願をしたが、聞き入れてはくれなかった。
 姑の目論見は、お百合さんを離縁させ、自分の親戚筋の娘を嫁にすることであった。そのような考えの姑であるから、お百合さんの願いを聞く由もない。
 お百合さんは、夜ごと夜ごと、枕を濡らしながら泣き暮らしているうちに臨月を迎え、玉のような男の子が生まれた。それは、お百合さんが実家に返される日でもあった。 お百合さんは、赤児に一口の母乳《ちち》さえ呑ますことも許されず、岩佐より迎えにきた父親に付き添われ、子供を案じながらふり返り、ふり返り父の足下にそった。
 岩佐に帰ったお百合さんは、残してきた赤ん坊のことが心配で心配で、あれや、これやと悩んでいるうちに、重い病にかかり、とうとう身罷ってしまった。お百合さんが身罷った晩のこと、庄屋の門がトントンと叩かれた。門番が不思議に思って、戸を開けると、真っ暗闇の中に、お百合さんが立っていた。「お百合さまっ!」門番がびっくりして、こう呼びかけたが、お百合さんは一言も答えずに家の中に消えていった。門番は夢心地で、ぼんやりと門をしめた。すると今度は、家の中から、淋しそうな女の声で、「トント(坊や)よ、トントよ」という声が聞こえてきた。
 その声がすると、今まで眠っていた赤ん坊は、パッチリ目を覚まし、母親に抱き付く仕草や、顔を傾け、口を尖らせて、チュウチュウと乳を吸う音をさせる。こうしてお腹が一杯になったと思われる頃、にっこりと笑顔をたたえて安らかに眠りにつく。しかしどこにも人の気配はしない。
 次ぎの晩も、庄屋の家で、「トントよ、トントよ・・・」と、子供を呼ぶ声が聞こえ、それが毎晩のように続いたそうな。
 このような不思議な夜が始まってから、赤ん坊は祖母や女中の与える物には、むずかるばかりで食べようとはしない。ただ夜毎に姿の見えない者の乳を吸う様子だけで、丸々と見るも可愛い子供に育っていった。
 庄屋では、今更のようにお百合さんを哀れに思うたが、どうにもならない。
 いつしか、この話しも世間の知る所となり、身罷ったお百合さんが幽霊になって、岩佐の夜道・山坂を四里も歩いて、我が子に乳を呑ませに来るのだろうと噂が広まった。
 今でも、この大きな庄屋屋敷に行くと、どこからか、「トントよ、トントよ・・・」と赤ん坊を呼ぶ、淋しそうな女の声が聞こえて来る、という。岩佐のお百合さんのお墓には、数百年の時を経た今なお、献花や線香がとだえないという。         
                         
                             文 津 室  儿
          

土佐の艶話 第三話 クジラんといて

                 絵 山本 清衣

     
     クジラんといて  

 地球上で最大の哺乳動物、クジラの生殖器は巨大で雌にしても雄にしても、ほかに敵うものはおらん。そんなクジラに纏わる、こんな話があった。
 むかしもむかし、おらんくの池にゃ潮吹く魚《びんび》がどっさり游ぎよった。その頃の室戸の漁師は、未だ未だクジラを捕ったりせざった。
 むしろ、仲ようやりよった・・・!と。
 ある長閑な春の日。耳崎の真言谷《しごのたに》の浜で、一頭のシロナガスクジラの雌が、ぽかぽか陽気にさそわれてヘソ天になって寝込んでおった、と。
そこへ、津呂のオトコシが一人きて、クジラの腹の上に乗ってミホトを珍しそうに見よった。
 ところが、オトコシの足が滑ってミホトの中へスッポリ落ち込んでしもうた、は。
さあ、大変なことじゃ、こりゃ困った。早うここから出んと溺れてしまうぞ。けんど、あたりがヌルヌルで滑って滑ってどもこもならん!。オトコシが、もがきゃぁもがくばぁヌルヌルの御汁が増えてどうにもならん。ところが、ヌルヌルが増えたお陰でミホトからスポッと滑り出てほっとした、と。
 やがて、クジラが目を覚まして云うに「そんなにクジラんといて」と云うて帰り支度をした。クジラは帰《い》にしなに「オオノ、心地がよかった」と云うて、潮を何度もなんども吹きながら、いんだ、という。
                   おおの、ばかばかしぃ〜〜〜。
                            
                           文  津 室  儿

2012年9月2日日曜日

土佐の艶話 第二話 使い初め

                 絵 山本 清衣

  第二話  使い初め

 こんな話があった。昔は元旦の朝、正月替えと言って、食器や下着、草履から下駄に至るまで新品に替えた。この風習は、昭和二、三十年頃まであった。
 これを”使い初《ぞ》め”と、言い、それだけに子供らは正月が待ちどうしく、楽しみであった。
 昔の室戸の漁師は、なにせ鯨が相手。”気も荒けりゃ、手も早い”と、この様に思われがちだが、中には気の長い男もいた。その男の名は新之丞と言った。
 新之丞は、鯨漁師で、漁明け(四月~十月)を待って、そりゃー誰もが羨む、別嬪の初《はつ》と言う女を娶った。
 ところが、間も無くして新之丞の嫁が、思い余った顔をして、仲人の所へやって来た。仲人は「どうしたがぜよ?、はや、夫婦喧嘩でもしたかえ」と、問うた。初は「いいえ・・・・・」と、もじもじするばかり。仲人は「新之丞に、隠し女でも居ったかよ」、と聞いた。初は「いいえ・・・・・」と、答える。仲人は「いいえじゃ分からん。斯《か》く斯く然然《しかじか》と、ちゃんと訳を言うてみや」と問いかける。初は「あのう、嫁入りしてから三ヶ月も経ったに、まだ一遍も根際《ねき》へ寢らしてもらえません」と、答えた。仲人、「なんつぜよ!そりゃ、ほんまかよ?」お初は「はい。ウチはウチなりに、一生懸命務めゆうつもりですけんど、何が気に入らんか、さっぱり分かりません」それを聞いた仲人、唸る「う~ん!!!」お初は「一遍でも寝てみて、グツが悪けりゃ、そりゃそれで仕方がございません。それを触りもせんはあんまりでございす」と云った。仲人は「そりゃ、オマンの言う通りじゃ。使い捨てにするにしても、使い初めだけは、せにゃいかん」お初は「済みませんけんど、仲人さんの口から、云うてみてくれませんろか」と仲人に頼む。「言うどころじゃない。コジャント云うて聞かいちゃる」
 仲人は、さっそく新之丞の家に行った。仲人は「新之丞どうなら、良い嫁じゃろが?」と聞く。新之丞「そりゃ嫁は、人も羨む別嬪で気立てよく、何もかも申し分はございません」仲人「こりゃ新之丞。使い初めもせんと、”申し分ない”とは言わさんぞ。オンシの返答次第では嫁を引き取るが、一体どういう料簡ぞ、チャント云うてみろ!」グッと仲人が詰め寄りますと、新之丞「あんまりこと、良い嫁じゃきん・・・・・」と。仲人「良い嫁じゃきん、どいたなら?」新之丞いわく、「儂ゃ、親父や御母が教えてくれたように、正月に使い初めをしようと思うて、大切に、大切に、とってありますらぁ」と云ったといいます。
    そんなに大事にされてたまるか。  おおの、ばかばかしぃ〜〜〜
                          
                             文  津 室  儿

2012年9月1日土曜日

室戸の民話伝説 第29話 衣掛け石物語 小舟で鯨を釣る

         絵 山本 清衣

     衣掛け石物語

 大坂城落城後、余り間もないころであった。夏の日盛りに、吉良川東の川の小股《こまた》峠越えを佐喜浜へ急ぐ一人の人品骨柄卑しからぬ年老いた雲水僧(僧侶)がいた。交通不便な当時のこととて川沿いの小さい道を歩み、広野の当たりまで辿り着いた雲水は、折よく通りかかった猟師に小股峠への道を尋ねた。猟師はしばらく雲水の風采を虎視していたが、やがて材木谷をを指し示し、教えた。雲水は幾度か丁寧に礼を述べ、教えられた材木谷に分け入った。分け入った材木谷は、清流が玉を洗うが如く水が音をたてて流れていた。それを見ると、絶え切れなくなったように傍らの大石に衣を掛け、首に掛けて確りと肌に着けていた頭陀袋《ずだぶくろ》(坊さんが首に掛けている袋で、大切なお経や物をいれる)をずしりと重たげに衣の傍に置いた。かなり離れた所から雲水の一挙手一動に鋭い目を配っていたくだんの猟師は、手にしていた猟銃を取り上げるが早いか、ぐっとばかりに引き金を引いた。轟音一発、放れ行く硝煙の中に、哀れ高僧は虚空をつかんで倒れた。
 人跡絶えた山中の惨劇は、永久に闇から闇へ葬られてしまったかの如く見えたが、滅びないのは、雲水が残した恨みの一念であった。雲水を撃ち殺して金を奪った猟師の家は、その頃から人があやしむほど、目に見えて暮らし向きが良くなった。しかし、その後の日南《ひなた》材木谷からは、幾度か変死者を出した。まずはじめに猟師の家の長男が崖から転落して即死したり、木に登っているところを猿と間違えられて撃ち殺される者もあった。これはきっと、あの雲水の恨みの為せる業に違いないと恐れおののいた猟師は、集落の者と話しあって一宇を建立してねんごろに霊をなぐさめた、という。この雲水は大坂方の名のある武将であった、といわれる。土佐の辺境の地で非業の死を遂げた高僧が衣を掛けた大石は、幾百星霜の歳月を経た今も、昔のままの形で残っている、という。

     小舟で鯨を釣る
 吉良川の街から北へ二里(八㌖)位入った集落に住む六助と信一親子の話である。室戸の親戚に慶びごとがあり、父親の六助が行く事になった。戸数十数戸の小集落から見れば、室戸は都会のようなものであろう、十三歳になる息子の信一が連れて行ってくれとせがんだ。その頃は乗り物のない時代であったから、どこに行くにも歩かねばならなかった。十三歳の子供でも五里や六里は平気で歩いた。父親は街を見せるのも勉強になろう、と思い信一を供にした。
 親子が、ものの二時間くらい歩いた頃、海が見える場所に出た。生まれて初めて見る海の広さにタマゲタ信一が「お父やん、この池にゃ鯉や鮒がうんとおるろう」と山の溜め池を思い出して尋ねた。すると親父は「いんにゃ」と首を振って「これは池じゃないぞ。海と言うてアメリカのカリフォルニアまで続いちょるぞ」と、したり顔で云った。「物知りじゃろが」とちょっと気取ってから「海水というて塩からいきに鯉や鮒はおらんが、百尺(三〇㍍余り)ばあもある鯨という魚《いお》がおるぞ。室戸にゃなんぼでもおるきに、着いたら見せちゃる」「たまるか、百尺もある魚がおるつかよ。早う見たいな」と親子が話し合いながら、やがて室戸に着いた。
 室津の親戚の家への南側に室津港があった。港に係留してある三㌧未満の小さい漁船を珍しそうに眺めて、しきりに数えていた信一が「お父やん、舟が二〇匹おるぜよ。この舟が鯨いうもんを釣りに行くがかよ」隻《せき》とか艘《そう》という舟を数えることを知らない信一が、川で釣るウナギを数えるように漁船を匹扱いにして、子供心にこんなこんまい舟で百尺もある鯨が釣れるだろうかと思いながら親父に尋ねた。息子の奇問に対し、鯨を捕獲することについては知識皆無の六助が、子供に知らんと言えば親の沽券《こけん》にかかわるので、いかにも知っている気で大きくうなずいて「うん、そうよ。この舟全部が鯨を釣りに行くがよ」と自信たっぷりに答えた、いう。

                           文 津 室  儿 
         

2012年8月17日金曜日

室戸の民話伝説 第28話 九死一生の馬太郎


                         絵 山本 清衣


   九死一生の馬太郎
 室戸岬町津呂・王子宮の拝殿に、さほど大きくはないが、一枚の絵馬が奉納されている。その絵馬には「維持明治十六(一八八三)年旧七月十四日当時七歳、九死一生ヲ得シ、王子宮ノ崇高ナル霊験ニヨルヤ」と、報謝文が書き込まれている。
 この噺は、今から約百三十年前の出来事である。 王子宮の「宮ノ瀧」のすぐ東側に中谷と言う家があり、そこに当時七歳の馬太郎という孫がいた。この馬太郎は三歳のとき両親と離別し、ただ一人祖父母のもとで育てられていた。
 今でこそお宮の周りは、数百軒の家が建ち並び賑わいを見せているが、その頃は六、七軒の家があるだけで、周りは田圃《たんぼ》ばかりで、ひなびた風情であった。 
 明治十六年、夏も盛りの土用であった。浜辺は土用波と台風の余波が重なり合い、かなり高い白波が打ち寄せていた。漁師のお爺さん、今日のような波が高く船を出せない日は、岬の鼻へ磯釣りに行くのが常だった。この時、釣り餌を少々馬太郎に残してやることを忘れなかった。岬が波立つと木《こ》っ端《ぱ》グレが良く釣れる。そのグレを素焼きにして、素麺の出汁《だし》を摂れば絶品である。幼い馬太郎も大好物である。
 馬太郎は隣り近所の遊び仲間とお宮の下を磯伝いに、藁草履《わらぞうり》を湿《しめ》しながら浮き浮きと浮き立つ気持ちを抑えながら、ショウクロ巌に立った。ここが木っ端グレを釣る定位置である。早速、釣り糸をたれた。次々と釣れ、予想以上の釣果である。その釣果に、唯々かまける馬太郎は、時として岬の巌に打ち寄せる大きな白波を見定めていなかった。
 アッと言う間の出来事だった。大波がショウクロ巌と馬太郎達を、一瞬に呑み込んでしまった。友達二人は陸《おか》に打ち上げられたが、馬太郎は渦潮に足を取られ沖へ沖へと流されて行った。
 陸に打ち上げられた二人は、泣きながらも機転を利かせ、「大変だ大変だ、馬太郎が流された」と、叫び続けた。宮ノ前や新町の人々が、わいわいがやがやと騒ぎ立てながら、助け船をどのように出すか、と口々に浜辺に大勢集まった、が波は次第に高く荒く遠くへ流される馬太郎を助けるすべが無かった。
 新町の松井のオンチャンや松下・大西・山村のオンチャン等は何とか助けようと、うけ(鰯《いわし》の生簀《いけす》の浮け木)を担ぎ出し内港へ走った。伝馬船《てんません》を早速漕ぎ出し、外港へ出ようとしたが、波が高く船は後ずさりするばかり、仕方なく引き返した。浜辺の人々から「たまるか、かわいそうに」と、言う声が囁かれた。
 馬太郎の祖母は若い時から非常に信心深く、今日も必死で王子宮と金毘羅宮に馬太郎の命乞いの祈願を続けた。どれだけの時間が経ったろうか。不思議な事に馬太郎の姿が、ショウクロ巌の西方のカンゴ巌の近くに現われた。人々はまさか生きている、とは誰一人信じなかった。幸いカンゴ巌の陸は、小さな入江のようになっていて、いつも、外の磯より波が静かな所だった。馬太郎の姿を見とどけた若い衆二人は、海に駆け込んで行き引き上げた。馬太郎は、あの大きな波の中で海水ものまず、至って元気であった。人々は王子宮と金毘羅宮の両祭神が、馬太郎を両脇から抱え上げていたからだ、お婆の信心が両祭神に届いたからに、ほかならないと讃えあった。

                             文  津 室   儿
          

2012年8月1日水曜日

一木神社・一木権兵衛


一木権兵衛翁肖像
       画 山本茂一郎

           高知県 土佐国安芸郡.室津村..北町鎮座
               無格社   一 木 神 社  
 祭神 一木権兵衛.藤原正利霊
 由緒 正利は国主山内氏の家臣也。慶安中.大守忠義公幕府に請い、室津港を鑿開する。寛文元(1661)年辛巳.始めて正利以て役を菫めさせる。既に歳月を経て、将に功を奏せんとするに至ったとき、港口に於いて高さ凡八・九尺、(2.4m2.7m)長さ拾間(18m)余りの巌ありて、力を尽すと云えども取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中良継に乞い三千人の増夫を得る。日々督責、槌鑿「ツチとノミ」を以て推破するけれど、依然として砕けない。却って槌鑿を毀損するのみである。
 正利退いて以為く恐らくは、これは神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴して天神地祇「テンジンチギ」に誓って云った。
この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕より血迸り出て、数千人大朱に染み水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
干時、延宝七(1679)年六月十七日卯刻(午前6時頃)正利六十三歳、於港上、自殺し命を以て天地神明に報いると云う。請人其の忠切を感じ、則その辺に葬り、高さ八尺(2.4m)の碑を立てる。港柱として崇拝する。
明治四(1871)年に至り、一木神社と齊き明治九(1876)年社殿を建設する。

室戸港忠誠傳 上下二冊     山田長則 集   桂木素庵 辯
 義人大意
 古語に日、義を見て爲さるは勇なし。身を殺して以て仁義なおなりと聞いた事を爰に書き残す。
抑々吾が南海、土佐の国に豪傑の侍あり一木権兵衛正利とて、開闢以来、一国独歩の忠臣義臣、去る頃、安芸郡室戸港普請の節、一命を捨て遂に其の功を見る。
其の忠烈普く万民の知る所にして、武名千載に輝き日月とひかりを競へり、夫れ賢君有れば、必ず賢臣有ると聞く。末代までも国の誉れ、武道の盛り、十分の時を知る。吾是を唐土に求める。更にたぐいなし。鉄石肺肝、武士の根元なり。抑々本朝、中世以来東西南北、乱世の間けなげなる働きも大分あり。
智勇兼備の士もあまた多けれども、忠臣義士と名指して云えるかくの如きは稀なり。其の功績普く万代に貫き、国の大用諸民の助け南海往来の舟船時として悪風に至りては、此の港に命をたのみ、今より以後覆溺の災いをのがれる人多かりし。其の土地の当繁栄も日々新たにして亦日々新たなり。
是ひとえに義人の肺肝を押し聞き国家を開く初めとこそ身を立て道を行い、先祖を恥ずかしめず。永く子孫のけがれをなさず。義人の志、誰人か及ぶべき。
古今の武士戦功すぐれてる人多く聞こえけれども或は降り、或は不仁の行に道ならぬ事にまぬがるる人々数多あり、義人の如きは、是を戦場に疑うに其の類いなし。況んか治世の時世なり。噫、無双の義臣港々の肝要を開き、終身の本意を違えず。弓矢の家に身を立てる人、誰か賞せねばなかりけり、かかる目出度い武の士は国の誉れと侍れ。             則長  芳園記

 土地絶嶮
 我が土佐の国安芸郡室戸御崎は一国南海の難所の地にして、海中に突出せること幾何里、人々此の地を恐れて御崎とぞ云いにけり。波濤盤渦として満山谷に波打掛け、其の響き天地を動かし、さも順風にて此の地へ来るにも俄に逆風にて風濤、一とつせさりし、所、御崎半腹に船をつなぎ泊りしけるに、纜(ラン・ともづな)絶え、南極星を真空に見なし漂流人々生害年々多かりし、浦戸・甲の浦の用船も此の所に至っては楫(舵)を折り帆を破れ怒濤に遭う時は空しく覆没し、人々是を恐れること云わん方なし。
御崎は紀州熊野の岬に向かい、淡路島より南海に見なし、播州(兵庫県西南部)地よりは南に見なすとぞ。幾何里も南に出たるとぞ。故に南海の御崎という。

 太守公忠義・御乗船慶長以来 神君 五我七道を定め、民太平を唱える中にも、当国・従四位侍従兼大朱公、江府(江戸幕府!)として御乗船にて御出帆、安芸郡室津御崎御通船の時、俄に逆風浪を巻き、帆を破し、楫(舵)を絶つ。
そもいかに御供の人々災難、云わん方なし。室津・浮津の境に御船を寄せ有りける。此の時に御上陸あり。御歩行あらせられ室戸なる、梵刹一宇あり、津照寺と号する。御入あらせられ、是より彼の寺、ますます、御修復あり、翌年奇麗に御作事あり。同国永代覆補を定められ、並びに口禄御寄付あり、是より港、
御普請被り仰せ出之。

 
室津港普請評定初堀の事
 去る程に寛永年中、室戸海、難所の地にして 是国用のため港築き候ばやと国司御一決あり、仝?七年、始めて掘り、弐ヶ年、御普請、又同年中掘り、十九年成就する。休み年あり、慶安三(1650)年まで九年、御普請少(?不明)の普請故、溝の様に掘り、小舟釣り船出入りの用を達しけれ。是を寛永の古港とは言伝える。既に此の地理を案じ、安積氏・衣斐氏・野村氏計なし。
井上氏・江口氏両人して此の地の状を描く。是を江戸へ申し上げ御普請のこと相定まる。

 古港奉行、立石、 寛永七(1630)年より、掘り初め候 小(比?)港の奉行人々立石あり。此の奉行記、立石は(共?)七年より慶安三年の頃の御奉行名なり、後に港掘り、次に随って此の石へ刻附申とて立石の中半より下は、
姓名知(記か!)さえ、後々奉行可刻と申しける。

   

立石図碑文

      国主藤原朝臣土佐太守侍従忠義
        時之奉行  野中主計(兼山)
              安田四郎左衛門
              片岡 加衛門
              小倉 小 介
        二月八日ヨリ八月一日迄
            御普請目付
              祖父江口久衛門

      此碑 港供養石ナリ
        梵字 捧掘営御港成就所
          延宝七(1679)年 建立之

 二度目掘、津呂浦港堀次御普請 慶安四(1651)年正月より初め寛文元(1661
年正月相済む。
同四月引渡し成就。尚寛文元年正月十六日より室津港二度目国普請。諸泛夫、津呂普請成就の後、室津へ引移る。既に寛文元年にも年移りければ御仕置、御奉行、室津(戸では?)港普請以前は小分(?)の小溝故、国用に立不申、此れを之として、大港になさはや、国用第一とぞ?、御家老には野中主計、惣御奉行なり。(誤写か?)
御仕置は渡辺小兵衛、御普請、諸奉行には一木権兵衛とて野中主計宅にて仰とり、兼ねて彼の地は用意にて御用人五十人、普請の仮場指図にて材木山をなし、本陣仮所小屋は津照寺より少し右南かたより、十間に四間の小屋。ご用人小屋は津照寺南左になし、十間に四間役夫小屋、五六十間、寺、西東(南の誤写か?)門前西浮津、方々を小屋十二ヶ所、室戸十三ヶ所、正月十六日、御普請とて御奉行御立(越か?)、人々野中傳右衛門殿、一木権兵衛殿、用人小役人八十六人、十四日高知出足、田野泊、翌出足室戸着。村、人夫二百人餘、
村々出夫の事。同三月二十八日二度目御普請引拂、成就。
寄夫は三十六万五千八百人餘、金 壹千百九拾両なり。室戸港記の文よりとる。

三嵒(ガン・いわ)奇怪
 既に寛文之中、普請に至っては、西浮津(現・室津・室津川の誤りでは?)川より高く石垣を築き、浮津川より水の通路を塞ぎ湊内堀立て南に嶮巖一帯にして、土小石かってなら湊口となさけ、行口あせさりけりと、二月十七日よりは、湊の口一帯、大盤巖を碎き、石地を堀立て郡々人彼は雲の如く集まり、日々四五千人の群集をなしたる。かかる所に嶮嵒あり、斧巖とて高さ八尺(2.4m)、鮫巖とて七尺(2.1m)、鬼牙嵒とて高さ七尺、或は浪を出たり、或は浪を沈めたり、船これに向かうに必ず損する。鬼牙巖は海中へ向出たること六七軒(間?)(土責)七万五千を以て海底を西浮津の方向に築き、潮を塞ぎ役夫昼夜、瓶を以て水を干し三嵒少し出たり、湊内つつみ土俵をきりはなし見れば瞬間に湊内に水引、三嵒益出たり。役夫三千餘人、手毎に鉄槌・大鉄槌を以て三嵒を碎く、口も碎けず、雨四日、一日大雨にて休息なり。既に大鉄槌・小鉄槌禿げて山 山の如き積立て処々あり、湊上、廣小路なる処にて鉄槌禿げるを斗桶にて斗(はか)り、小役人へ馬に着け相渡す。其の有様云わん方なし、実に一国の大普請とぞ人々驚き申さぬはなかりける。
既に野中傳右衛門殿にも是地御見聞、両一日御滞留あり。否 御帰りあり。
萬端一木権兵衛殿へ御まかせあり。此の度三嵒砕くに付き、野中へ免御用御指立の一通あり。人役、五郡、高岡郡、吾川郡、不残、出役、相触れ、十九日より大郡、人々村々多分残りなし。人役は前に十増せり、下役御用人六十人。夜は火の用心の番人、一刻一刻、十六人小屋を廻り厳重に見えけり。
廿大日より三嵒砕けがたきにつき、大鉄槌五千餘、小鉄槌数千丁、御用人別府五兵衛、濱田清より夫々村々役人へ相渡す。大小槌、別紙目録、御奉行目付所、一木権兵衛殿へ其の日即刻引合本陣へ持参。四つ時(朝の四つ時であれば午前10時)(午後の四つ時であれば午後10時頃から午前6時頃までの間)御奉行本陣より帰る。今日、四つ時より三嵒へ役夫の指図あり。万端如是・役人人々大槌小槌を以て先に三嵒打ちかかりけるに、こは少しも砕ける事なし。如何とも作すべき様なし。是に仍て、御奉行始め、五奉行役人の申し伝える。此の巌は開闢以来多分海底にあり候故、中々難しく砕けよし出者あり。
両三日役夫碎くとても少しもその甲斐なし。種々手を尽しけり。人々恐れ怪しみけり。惣奉行所へ申し達す文言は不知。野中の御答書翰あり。
「如是返翰」湊中 一国の用に立申事に無之、兎角ことの溝、不及是兆候儀普請に着手前、急度改り申所に附候。若し相滞り候はば、奉行人初きはあし者無念にて相成り候ことの外、人少々而計(対?)候よし。及候 御老?其の外用人とも、さしこし所申、直ちに可申付候、早々増人を入り候様に可申付し不宜。
                六日。         野中傳右衛門
一木権兵衛 様
 既に三月大日にも成りければ、野中の書状、七日室戸本陣着。別紙に曰く、室戸着浦奉行方へ申し達候御用あり、村々急送を以て、相届可申者也(相届け申す者なるべし か?)江ノ口より室戸迄。

同士、嘲、一木氏
 扨も当月には太守公、東寺御参詣として室戸普請をも御一覧のためとて此の度御通りありける時、家中同志某一木氏へ申す。御苦労千万、数日之忠勤、しかし、大地を御堀りあり、定めてこの池には鯉鮒を養うにはよかるべし。
拙者は時々遠路ゆえ見物はいたしがたし儀と申し嘲る。一木氏は少しも動ぜず、性質静かにて実に一方の義臣の器と此の時見えたりという。

義人誓天感應
 三嵒砕け難しきに港口西へ引き寄せ、入り口に役人認めて指図出て来たり。けれども何分一木氏には後日のため、又々潮の指引にて今日とても、潮西の地はかかりーーーママ  
申、ぬい如し 不及と申しければ、御用人一言に平向(閉口か?)し、何分三嵒の地へ入り口とぞ申しける。その夜一木氏其の三嵒に寄せ滄々たる大海に向い海神に誓いありぞ曰く武士の任、戴天の所君命を以て当今普請の役に当り、君命至って重き處、賢君又仁愛の至る處也。之、これ南海漂没の人民、此の地昔より其の数を知る事なし。君至って仁愛の感、発する所なれば、神必ず哀愍有らん。否、不肖なれども此の役、功成るに至り候へば、奉、君に奉った命、則、隊・脱?性と成て君に捧と滄々たる大海に向い誓い申したる。
かくて義人の忠誠にて南海漂没の人民をなからしむ。永く幾代までも国の助け、義人の念力偏に天地を動かし神明も感應ある。
やがて本望、遠?(達の)しける。忠臣義人とは申しける。されば侍の情は岩をも通すとは、此の人なるべし。

念力貫(抜?)岩
 既に日を重ね、港口の三岩には大槌小槌、禿缺(ケケカク)数を知らじ。
当日、三岩に取りかかり、除くべきこと御奉行御指図とて前日の役に付き、寄夫とも三岩は砕きがたき事、結勺力を費やし、岩は其の儘さも甲斐なし。されども今日も又々百姓とも合力にて除くべき御下知前日の通り。
役夫等は蟻のもぶれ附たる様にたかり、その岩を砕くに思わず砕けて粉になり、
其の砕けにより、赤き血、泉の様に出て、又は散るもあり四方八方一帯血の岩なり。こは如何にもと人々怪しみ、七八百人と其の岩の血に染まりたり。
戦場に立ちたる思いにて皆々その岩を砕きたり。以前に引替り、除きよきこと云わん方なし。こは不思議只事にあらずと人々囁きあえり。此の時より人々義人が聖天申し、後に思い合いたる人ありとぞ。

一木氏格式勤事考
 一、寛文元(1661)年ヨリ              御普請奉行
    格式御留守居組、
 一、同七年ヨリ                    御普請奉行
    格式御小姓組列 御普請奉行 後而、馬廻りに進む

一木氏分限世禄考
 一、分限    七百石     知行、役知共
 一、御蔵米  二十四石
 一、五人扶持  御蔵米
 右分限七百石の餘、寛文七(1667)年御加増被仰付、勤功あまたあり人々知る所、布師田村(現高知市)の権兵衛井流 高岡大噲(口偏でなくサンズイ偏が正字)後掘(再掘り)一木掘りと云う。
仲(沖)島境、論笹山一対汰野市野開 指図其の外累々。

寛文普請御奉行   
 御家老     一万石知行             野中主計
 御仕置役                      渡辺小兵衛
 御普請奉行                     一木権兵衛

延宝御普請奉行
 御家老惣奉行                    孕石小左衛門
 御仕置役                      松下彦四郎
 御仕置役                      不破甚右衛門
 御普請奉行                     一木権兵衛

堀次大普請
 延宝五(1677)己年港堀次大普請、正月十一日前年の如く小役人右十人立、兼而、前年より小屋修補、本陣に至るまで、夫々小役人御用意相達す、諸郡人役不残、村々日割りを以て順々通々御用相勤めさせ、浮津川より南まで石垣を高く築く。其の高さ二丈(6m)餘、南北長さ前年に百増、港奥行き五十間(900m)餘堀次。此の度別而結構、港内石垣夫々御成就。別て前年に万増し、役夫諸事厳重に相見えたり、同七年六月一日成就。
諸雑費、公役夫、百七十三万千百五十人。御金 拾萬千三百両餘。
初堀 中堀 後堀 御普請都合入用 寄夫 百七十六万五千餘。
費金 拾萬弐千五百餘両也。
 桂井記云う。人役は弐百萬以下にては、あるまじと云う評。

一木氏再帰室戸
 斯て普請成就に至得者 諸事引渡可有と高府へ罷り帰り可申。此の度用意出来、家来とも其の仕度致させ、両四人御召連れて浮津の浜まで罷り帰るに怱々一体しびれ一歩も進みがたし。これは不思議とて、始め元室戸へ帰れば、其の足の軽きこと、云わん方なし。又、翌日、始め元、浮津の地に掛れば一体しびれ一足も西に向い候はず。これは不思議なる哉とて、又々室戸へ御返り有れば、義士申しけるは過ぎにし日、港口岩、一命の捧げによって成就に至る事、吾日頃此れを知る。然れども公役の重きを以て高府へ罷り通り、再び当地へ罷り越し一命可捧云處、斯く帰るさの有様は天のなす處。嘗て帰り不可申、是時の至れりと云う。御用人とも高府へ罷り返り夫々引渡可申旨述べられたれば、人々その通りにて御仕置へ引渡相済、其の由。室津へ相達したれば、一木氏へ兼ねて引渡しの始終を相待を并。子孫方遺言もありければ、兼ねて十八里の遠路を罷り越し可申旨、申し達しありたれば、十六日子孫人々罷り越し公辺(汀?)渡し與に相済み、目出度くして万代不朽と唱えたる。

(義士)一家遺事
 扨は一木子孫方は俄に山海を越えて、室戸役家へ罷り出可申旨、謹言只事にはあらず。十五日より十六日夜は港の上、石崎(波止崎?)には定紋付の幕を張り、一木氏の遺言・骨髄に通り、御御供の人々さも冷むかり、是を聞き感涙衣を湿し讚嘆の聲、天を動かすばかりなり。十七日卯の刻(午前6時)暁、意ろ静かに役察にて御生害(自ら命を絶つ事)有りたれば、人々驚きあへぬ。自殺の身体、人々その体想に驚き入り、千載美談、一人義臣天下無双と賞したるも此の時なり。



贈号文字由来
 東寺・津照寺僧にも、義臣の体想、凡夫に非ずとて、驚感人々不斜やがて法号贈られたるとぞ、東寺権大僧都、時の大知識にて此の段は御自識あり。
此の方よりも文字極められ、室津・浮津の諸人も、吾が父の如く歎し惜しみ、晴天六月十七日も諸人の涙に曇り涼風港を吹く。夜の嵐も、十七日の夜の風も諸人の涙に曇り、こは如何なる今月今日と義臣を相惜讃歎かぎりなし。
高府人々、義臣功業第一と賞讃不斜。
則ち贈号は覺岸院常譽と溢る。覺岸は以前の三岩の義にとる。常譽は文字の通りと云う。

津照寺法要供養
 扨も室戸浮津諸人は厚く供養致し、報恩申渡し旨にて二七日には供養、導師東寺大僧都御坊兄権師、津寺大和尚、位小僧八人、祭文役者、香花師、對揚、師表白師等なり。室戸浮津惣中、焼香いたしたる名順帖一巻あり。

 一金子     拾弐両         室戸惣人中
                     浮津惣人中
 右の者、一木権兵衛様御供養香花料として両組申合せ、御布施目録如件。
                          津寺方丈

義臣ノ衣装鎧兠(ガイトウ・よろいかぶと)
 斯て人々は義臣の衣装に至るまで賞讃し、かかる目出度い武の士の具は家の守りとて人々分ち取り、又は船の守りとて錦の袴きりぎりになすこそ取り去りけり。海に沈めし紫威鎧兜は明珍(姫路市の明珍鍛冶師・現五十二代)長門宗政の作。又、太刀は相州(神奈川県)行光の作なり。
後に海中を詮鑿したる人あり。だれとも其の武士の具、行方なし。定めて竜宮へ相納め候と皆々今は申しける。

諸人築忠義墳
 木石ならぬは人の心、善なればこれを感ず性は善なりと聞く、中あれば是を慕う、南海はこの海の中にも性は善なり。漁夫、賊の女までも、老若男女群衆をなし海辺にありける岩を曳き上げ、津寺なる梵刹の西山中に大いなる石塔を新たに建立する。是一向に義臣の忠誠を感じ衆人築きあへり。義臣を敬慕し斯文字彫り付け出来、不日に成就、此の事あまねく所へも相聞え、永く一国の美談とは申しける。
石碑図曰く自然石、高さ九尺七寸(2.91m) 幅三尺二寸(96cm

斯くて一木氏の方より申し来るには、此の度、忠死も表向き作法あること申され、病卒と文字相添え可申事、これに付其の心得にて彫り成就に候。
扨こそ諸人義臣を賞讃し、百ケ日に到り候而、者は日密諸々の草花山をなし焼香朝夕忠義墳に絶ゆることなし。香の煙に雲を起せり。
播州(姫路市・赤穂市周辺)竹本屋、兵衛、とて同行三人、———
二人は熊澤先生の門人儒者なり。当国順拝の折り柄、室戸に一日泊り、旅屋亭主、義臣の忠功の次第、一々夏の夜の月西寺の岸に入るまで物語ければ、三人とも一入感心し治世にてもかかる武士のありけるは、何分当国大守様の御仁君に基づく所、何故かかる忠臣の侍ありけると賞讃しけり。翌日忠義墳へ参詣し、竹本屋の和讃あり。この時あまた人々の和歌・京・大阪の人々和歌の訪杯あり、
手向ける忠義墳尊崇益々高し。                
            

義人書簡遺事
 口上書を以て申し残すこと
港八・九を成就に到候得共、先度殊の外入り口六ケ敷(むつかしく)候に付、増夫入候而相文候得共、至って難題至極と申し、此の上は武士の道の心得にも御座候へば、神明へ捧げ申すべしの誓文、明、御見分けの通り述べ本意候事、一日千秋の大祝、拙者本懐の至り、死後、御推案可被、不朽不具
   十六日     一木権兵衛正利  花押
 津寺方丈御房  殿
津寺に義人の手文あり。此の一ケ通の文遺事は一日住侶御他行にて対面なし。残念に相思い一書残されたる事ぞ。
官裁一木氏二代相続
 去る六月十七日、一木権兵衛病卒と相届け、御侍頭右の通り相届無相達、八月十四日相続被仰付、目出度くよろしく後は御馬廻りなり。


三岩跡奇怪
 港成就の直後、三岩は義臣の誓天て不朽の港たる事、普く人々の知る所、南海道にては第一の堀港なりとて諸国諸人申しける。皆々此の港の石を築き岩をたたみ、岩を切り、水を通し様々の仕度には目を驚かせり。
入り口は嶮岩高さ八九尺、横十八間半、其れを砕き、皆々取り上げて後、三岩の跡と思い候所に大釜をかけ可申、忽ちに岩の根砕けて残りあり。
其の岩を御釜とす。漁夫相唱える。是、去る御普請の節の血の岩の取り残しなり。此の奇岩、小分、のこり故如何、答は後世、如是、奇岩もて、金岩、有糸
?や、故余、小分、永方?、百千年、(意不明の所多し・・・棟造)
今は、此の岩、夜、潮にひたし見えざりけり。今又、見る人なし。然れども其の御釜岩に非禮不敬の時は必ずそのしるしありと云う。
曰く朝夕出入り漁士、諸国大船とも其の岩根想い得て港、出入りありけり。
是一重に奇怪なり。後、御分一役、小屋、新たに出来、国用第一、国家を開き始めとこそ。

忠義の跡書
 一木氏事は、大守忠義公様の御時より此の港の御普請の以後、慶安の頃御覧相済ませ、延宝の頃御成就。港は凡成就に至り候節、港の入り口と覚え候当りに三岩あり、各高さ七・八・九尺、此の岩除き不申は入り口空けず。
寄夫、日に夜な夜な鉄槌を以て其の岩を砕くに、却って槌禿げて、岩其の侭なり、是に付一木氏、野中傳衛門殿へ此の事申達候に増夫、御意あり三千餘人
一時にかかり砕くに、又幾万丁も禿げ、石鑿幾万丁も折れ、少しも岩碎くる事なし。数日の間、手を尽くしたる。是に付、一木氏決定して曰く、此の岩は天の関所候、謹而、一心に海岸、海中に向い誓って曰く、我此の役に当り、此迄堀なし候所、此の一事にて港、空しく相成り候。時は無念に付、依って早々岩砕き成就の日に至り候得ば、我不肖ながらも一命を捧げ可申上天に誓い申し候て、翌日是を碎かせば忽ち砕けて粉となり、其の碎より赤き血、泉の様に出、
寄夫七百余人も岩の血に染みたり。誠に前代未聞の奇怪なり。
義臣の念力天地を感じ、清心すぐ様、受納ありければ、是、古今珍しきこと、一国のこの鉄石の心底の者は又もあるまじ。港成就又堀普請成就の後、去る延宝七年曙のころ、静かに最期みちたり。義臣が功を感じ申さぬはなかりけり。


港成就石図
 延宝七年港成就の日、供養碑石建立、御祈願、津寺大和尚住十七日、阿口羅明王、護摩供御、祈泉僧、二夜三日御祈祷、国土安全、別ケ当ユ諸人繁栄、丹誠、抜祈、可也、請願三日ママ?て一方立碑、石図

          
統論
 世に伝う一木権兵衛、功栄専ら忠臣と称す。是は本朝神武天皇以来抜群の忠臣、希代の英傑と云う。良く一木氏の義胆を伝うに、忠臣と称えるは天下にこの人なり。往昔、楠木正成を上忠臣と称しけるが、是は天子に命ぜられ禄の為になす所なり、楠、もし利運に乗じ本意を相達しなば、定めて大国、如何程も賜り申すべし。されば楠、数国を領し後代を栄えさんとの事を以て知るべし。
禄の為になさざる一木氏に比べるに、一木氏は死を一事に極め、国家を開きその身又、後栄をうにあらず。身を捨て道に死すは臣の当る所と云う。
功をたて、後の事を願う筋なし。是を以て考えうるに、一木氏は楠にまさる。
況又、君に忠し、民に功あるの先言に至は楠、却って一木氏におとれり。
時を論ずれば楠は乱世、是は治世なり、乱にして刃を用いにあり。治世にて、刃を踏むは難きにあり。一木氏は治世にて死を極めるもの天下の大忠と云うべし。されば一木氏の功は一国の大用のみにあらず。
四海外、異朝に至るまで、一木氏の手柄による事、そのあたり知るべし。誠に誰人か肩を並べん。近時赤穂の家臣其の大夫、大石内蔵助等四十余人復讎(復讐)、忠臣と称しけれども、これは主人の讐を報いる道、計りなり。是は全く義にして忠にあらず。只世上の希代の敵討故忠臣と称ける。是は愚昧の評する処なり。忠とは云い難し。此れは義人なりとて知るべし。凡、忠臣と申すは国に功あり民に功あるを以て忠臣と謂はるべし。されば、我が師、室鳩巣先生、赤穂復讐の始終を著して義人録と題せり。忠臣録とは言はず、を以て義人たる事知るべし。
     元禄161703)年刊 
 忠臣と云うは一木の如き、是真の忠臣なり。君に功あり民に功あるを専らとし、人民の助け広く申せば天下の助け、不朽を永く万世に委ねり。
忠と云い、義と称して誰人か之をいなまん。其の大功を民に蒙るに至っては大石返って一木氏に及ぶべからず。されば一木氏は本朝独歩の忠臣と称すべし。
天下の臣たる者一木氏の如く忠義を忘れずんば、国中堅固にて、忠義たいたいにあたる処に顕れ申すべし。凡世上を論ずるに歎に命を失うあり、是は血気のなすなれば、同日の論にあらず。又慾の壁の譬は今日天下を譲り、明日は死に極まるべしというは、粗食非人たりとも、僅かに一日の天下は、頼むにあらずや。是、人々覚えるある処なり。誠に天下にも替え難き命を抛ち、万世に其の手柄を残す。鳴呼、和漢古今ためしなし。精忠国士の譽とぞ、数歳の人に於て天下希代の忠臣とや、感にもあまりあり。










一木氏系図
 一木権兵衛藤原正利 中世元祖
 寛文元(1661)年・御普請日付
同七年小姓組列被仰付 都合七人扶持二十四石 右七年加増被仰付
室津港普請奉行ス、其ノ功業国用万人ノ助ケヲナス
延宝七(1679)年己未六月十七日、普請成就良否損命、分限、七百石、家富饒當代無並トアリ。三男二女アリ。
 室津諸人延宝年中、其ノ地へ墓築キ表向キハ室戸ニテ権兵衛病気宅へ帰リ病卒ト相届ケ、然レドモ此ノ時、権兵衛忠死其ノ名高キ故、後々ハ自宅ニテ自殺トモ云ウ故、両親ハ公辺へ相対表向キニヨル。実説ハ世間家々ノ筆記ニ相伝ワル如ク室戸港上ニテ忠死。
嫡子
 山之凾政次  早世
 
 女子   中村九兵衛 嫁ス   享保年中、断絶
 
 市之助  後改 新兵衛、御馬廻リナリ、横山某養子トナル。
      知行、二百五十石 享保元年九月卒

      文九郎 宝暦三年卒

      泰兵衛 寛政二年卒

      内蔵之助 御馬廻知行二百五十石 世山氏、又、後ノ本系今ノ
       横山性、一木氏ニハ他族トナル。鳴呼痛哉、於レ是血
       性断絶、養子女ヲ娶ル。故ノ池家トナル鳴呼痛哉

 阿古   
       前、元親公ノ侍、正保二年百人衆ニ被招出 忠義公様
       横矢件助宣               御用相勤ナリ
      嫡男
       清左衛門  早世

      二男
       曽一兵衛
        阿古二子ナリ 宝永六年、百人衆指上ル
        横山氏養育、御馬廻一家終ル
       
       為之丞  充実ト云ウ 同養育御馬廻リ
      
       鴻然   
        仮(後?)改三省、良忠ト云ウ 横山氏養育御馬廻一家

       壹作良朝  自ラ郷浪人トナリ 天保八年

       孫之助  天保十一年、依病辞、嫡子、出孫作


       喜三郎  早世


       女子                     (記載ナシ)

 市三郎 父権兵衛、跡式相続 
        宝永年中、御馬廻リニ進厶 同五年断絶ス
        市三郎ハ真辺大次兵衛門妹ヲ娶ル 女子ヲ生厶 名・浮代

       女子
        浮代ハ一木断絶後、池田惣五郎ニ嫁具ス
        惣五郎無嗣、家名断絶ス
        尤モ女子一人アリ、此人 片岡国之丞ニ嫁ス





室戸港忠臣略記
 土州・安芸郡室戸崎は日本第一の海難関所、去るによって御崎と云う。
新に堀立ての室津港 寛永年中初・延宝年中成就 ここに一木権兵衛とて、
 格式御小姓組、次にこの家御馬廻り分限七百石、知行役地共
義人あり。权(権・はかる)は港口の巖は数万の役夫も鉄槌を断。其の堅き事類なし。これより一木氏誓日、我此の役に当り巖砕き、成就を得ば、君の為に命を捨てたれば命を抛て成就を誓はん、夫れより翌日砕かせば忽ち砕け散り、義士の念力、天晴忠臣・天神地祇も汭受あり。天下士臣の耳目を驚かせり。
千年、万年、億兆不朽の港々、不朽の忠義、最後の場所は室戸縄取り手柄を来世に顕せり。

琉球国・有銘拝書
 (◦山田長則著――室戸港忠誠伝に対する江戸大儒の批評)
 林大学顕評日、(寛政年間―12年 1800年)
  刹身為牲仰神助天下之忠臣、不可不伝誠是祢矣

 安積艮齊評日
   此翁刹身開港、 建百世之長利、可謂不世之豪傑矣、 安政三年春三月

 室戸港記   野中良継












一木神社     由緒に関する事項
 神社名に関する事項
  神社名の沿革 延宝七年乙未六月十七日より梵文覺巖院常譽霊位と奉号、
  石塔を建立して奉齊

  安政四年巳年、石塔破損に付、塔を立替え霊位を神儀となす

  明治四年、一木神社と改称

 祭神に関する事項
  主祭神  一木権兵衛藤原正利霊

 鎮座に関する事項
  鎮座の由来と境内地の沿革 明治九年より昭和九年まで室戸町大字室津字
  北町 寶珠山・津照寺の麓に鎮座
  昭和五年十二月二十二日より寶珠山中腹、現在地に鎮座

 神殿造営に関する事項
  社殿の沿革、明治九年社殿建築
  本殿及拝殿 流造り
  大正五年  造替え 本殿春日造り   拝殿 流造り
  昭和五年  造替え 本殿春日造り   拝殿 権現造り

 一般崇敬に関する事項
  崇敬者、区域の沿岸 延宝七年以来、室戸町全町民の崇拝する戾たり

一木権兵衛墓     神石御釜礁

   遺烈碑
                            鳥居

                        手水鉢
湊   (室津港)     南路誌
 満潮の時は船出入り有り。干潮の時は猟(漁)船も出入りなし。
 浦戸より拾八里二十一町
 長百四十三間 幅三十六間より四十三間迄、但し丁子に西の方向、深さ五尋。
 地面、一町九反二十四代(畝では)、右湊先年は只今の形の通り成り。入江の
 小湊にて大手取込む。