2012年9月2日日曜日

土佐の艶話 第二話 使い初め

                 絵 山本 清衣

  第二話  使い初め

 こんな話があった。昔は元旦の朝、正月替えと言って、食器や下着、草履から下駄に至るまで新品に替えた。この風習は、昭和二、三十年頃まであった。
 これを”使い初《ぞ》め”と、言い、それだけに子供らは正月が待ちどうしく、楽しみであった。
 昔の室戸の漁師は、なにせ鯨が相手。”気も荒けりゃ、手も早い”と、この様に思われがちだが、中には気の長い男もいた。その男の名は新之丞と言った。
 新之丞は、鯨漁師で、漁明け(四月~十月)を待って、そりゃー誰もが羨む、別嬪の初《はつ》と言う女を娶った。
 ところが、間も無くして新之丞の嫁が、思い余った顔をして、仲人の所へやって来た。仲人は「どうしたがぜよ?、はや、夫婦喧嘩でもしたかえ」と、問うた。初は「いいえ・・・・・」と、もじもじするばかり。仲人は「新之丞に、隠し女でも居ったかよ」、と聞いた。初は「いいえ・・・・・」と、答える。仲人は「いいえじゃ分からん。斯《か》く斯く然然《しかじか》と、ちゃんと訳を言うてみや」と問いかける。初は「あのう、嫁入りしてから三ヶ月も経ったに、まだ一遍も根際《ねき》へ寢らしてもらえません」と、答えた。仲人、「なんつぜよ!そりゃ、ほんまかよ?」お初は「はい。ウチはウチなりに、一生懸命務めゆうつもりですけんど、何が気に入らんか、さっぱり分かりません」それを聞いた仲人、唸る「う~ん!!!」お初は「一遍でも寝てみて、グツが悪けりゃ、そりゃそれで仕方がございません。それを触りもせんはあんまりでございす」と云った。仲人は「そりゃ、オマンの言う通りじゃ。使い捨てにするにしても、使い初めだけは、せにゃいかん」お初は「済みませんけんど、仲人さんの口から、云うてみてくれませんろか」と仲人に頼む。「言うどころじゃない。コジャント云うて聞かいちゃる」
 仲人は、さっそく新之丞の家に行った。仲人は「新之丞どうなら、良い嫁じゃろが?」と聞く。新之丞「そりゃ嫁は、人も羨む別嬪で気立てよく、何もかも申し分はございません」仲人「こりゃ新之丞。使い初めもせんと、”申し分ない”とは言わさんぞ。オンシの返答次第では嫁を引き取るが、一体どういう料簡ぞ、チャント云うてみろ!」グッと仲人が詰め寄りますと、新之丞「あんまりこと、良い嫁じゃきん・・・・・」と。仲人「良い嫁じゃきん、どいたなら?」新之丞いわく、「儂ゃ、親父や御母が教えてくれたように、正月に使い初めをしようと思うて、大切に、大切に、とってありますらぁ」と云ったといいます。
    そんなに大事にされてたまるか。  おおの、ばかばかしぃ〜〜〜
                          
                             文  津 室  儿

2012年9月1日土曜日

室戸の民話伝説 第29話 衣掛け石物語 小舟で鯨を釣る

         絵 山本 清衣

     衣掛け石物語

 大坂城落城後、余り間もないころであった。夏の日盛りに、吉良川東の川の小股《こまた》峠越えを佐喜浜へ急ぐ一人の人品骨柄卑しからぬ年老いた雲水僧(僧侶)がいた。交通不便な当時のこととて川沿いの小さい道を歩み、広野の当たりまで辿り着いた雲水は、折よく通りかかった猟師に小股峠への道を尋ねた。猟師はしばらく雲水の風采を虎視していたが、やがて材木谷をを指し示し、教えた。雲水は幾度か丁寧に礼を述べ、教えられた材木谷に分け入った。分け入った材木谷は、清流が玉を洗うが如く水が音をたてて流れていた。それを見ると、絶え切れなくなったように傍らの大石に衣を掛け、首に掛けて確りと肌に着けていた頭陀袋《ずだぶくろ》(坊さんが首に掛けている袋で、大切なお経や物をいれる)をずしりと重たげに衣の傍に置いた。かなり離れた所から雲水の一挙手一動に鋭い目を配っていたくだんの猟師は、手にしていた猟銃を取り上げるが早いか、ぐっとばかりに引き金を引いた。轟音一発、放れ行く硝煙の中に、哀れ高僧は虚空をつかんで倒れた。
 人跡絶えた山中の惨劇は、永久に闇から闇へ葬られてしまったかの如く見えたが、滅びないのは、雲水が残した恨みの一念であった。雲水を撃ち殺して金を奪った猟師の家は、その頃から人があやしむほど、目に見えて暮らし向きが良くなった。しかし、その後の日南《ひなた》材木谷からは、幾度か変死者を出した。まずはじめに猟師の家の長男が崖から転落して即死したり、木に登っているところを猿と間違えられて撃ち殺される者もあった。これはきっと、あの雲水の恨みの為せる業に違いないと恐れおののいた猟師は、集落の者と話しあって一宇を建立してねんごろに霊をなぐさめた、という。この雲水は大坂方の名のある武将であった、といわれる。土佐の辺境の地で非業の死を遂げた高僧が衣を掛けた大石は、幾百星霜の歳月を経た今も、昔のままの形で残っている、という。

     小舟で鯨を釣る
 吉良川の街から北へ二里(八㌖)位入った集落に住む六助と信一親子の話である。室戸の親戚に慶びごとがあり、父親の六助が行く事になった。戸数十数戸の小集落から見れば、室戸は都会のようなものであろう、十三歳になる息子の信一が連れて行ってくれとせがんだ。その頃は乗り物のない時代であったから、どこに行くにも歩かねばならなかった。十三歳の子供でも五里や六里は平気で歩いた。父親は街を見せるのも勉強になろう、と思い信一を供にした。
 親子が、ものの二時間くらい歩いた頃、海が見える場所に出た。生まれて初めて見る海の広さにタマゲタ信一が「お父やん、この池にゃ鯉や鮒がうんとおるろう」と山の溜め池を思い出して尋ねた。すると親父は「いんにゃ」と首を振って「これは池じゃないぞ。海と言うてアメリカのカリフォルニアまで続いちょるぞ」と、したり顔で云った。「物知りじゃろが」とちょっと気取ってから「海水というて塩からいきに鯉や鮒はおらんが、百尺(三〇㍍余り)ばあもある鯨という魚《いお》がおるぞ。室戸にゃなんぼでもおるきに、着いたら見せちゃる」「たまるか、百尺もある魚がおるつかよ。早う見たいな」と親子が話し合いながら、やがて室戸に着いた。
 室津の親戚の家への南側に室津港があった。港に係留してある三㌧未満の小さい漁船を珍しそうに眺めて、しきりに数えていた信一が「お父やん、舟が二〇匹おるぜよ。この舟が鯨いうもんを釣りに行くがかよ」隻《せき》とか艘《そう》という舟を数えることを知らない信一が、川で釣るウナギを数えるように漁船を匹扱いにして、子供心にこんなこんまい舟で百尺もある鯨が釣れるだろうかと思いながら親父に尋ねた。息子の奇問に対し、鯨を捕獲することについては知識皆無の六助が、子供に知らんと言えば親の沽券《こけん》にかかわるので、いかにも知っている気で大きくうなずいて「うん、そうよ。この舟全部が鯨を釣りに行くがよ」と自信たっぷりに答えた、いう。

                           文 津 室  儿