2013年3月22日金曜日

土佐落語  法螺の貝  60-10


     土佐落語  法螺の貝  60-10      文  依 光   裕    

 明治の時分、物部川の奥に文作《ぶんさく》という男がございました。
 三十歳の若さで、村の戸長を務めたと申しますから、なかなかの人物でございますが、おまけに”光源氏か業平《なりひら》か”という、男前でございます。
 二里も遠方の役場へ、毎日通うておりますに、その途中の岩屋という所《く》に、酒も飲ましゃァ、饅頭も売る店屋《てんや》がございまして、ここな若嫁さんが、これまた”小野小町か楊貴妃か”という別嬪。
 「戸長さん、お早うございます」
 「お早う」
 「戸長さん、今お帰りですか」
 「やァ、オマサンも、もうおかんかよ」
 朝晩たがいに挨拶をしておりますうちに、なにせ一方が光源氏なら、片や小野小町。ジキにジコンな間柄になりました。
 「戸長さん、一寸寄って、お茶でも飲んでいきなんせ」
 「亭主はまた高山詣りかよ?」
 「アイ、若いクセに神信心らァして・・・・・。今度も先立で、石鎚さんへ行ちょります」
 「神信心はけっこうなことじゃないか?」
 「けんど戸長さん。山へ行くたァび”女を絶つて五体を浄めないかん”、こんなことをいうて、十日も二十日も前から、アテイを・・・・・!」
 「寄せつけんかよ?」
 「アイ。山へ行ったら行ったで、十日も二十日も戻って来ませんろう? ほんでアテイは・・・・・。」
 「たまるか、モッタイない・・・・・!」
 いかなジコン(昵懇)な間柄でも、話がこう無塩《ぶえん》(生《なま》)になってきますと、もういけません。いつしか二人は、人目を忍ぶ深い仲になってしまいました。
 この情事《いろごと》というもんは、一回や二回では人の口にのぼりませんが、度が過ぎますと”天知る、地知る、人が知る”、人に知られてしまいますと、”世間の口”には戸が閉《た》てません。

          絵  大 野  龍 夫 

 「おい、今日からまたお山へ行てくるきに」
 「アイ、気をつけて行てきなんせ」
 店屋の若嫁さんは、愛想良うに亭主を送り出しまして”鬼の居らんうちに洗濯”、さっそく文作との情事でございます。
 ところが、亭主の方は女房の噂を耳にしておりまして、お山へ行くそうをして、コッソリ見張りよったきにたまりません。
 現場も現場、濡れ場の真ッ最中へ、イキナリ踏み込まれましたので、ソコスンダリ。さァ、着るもんもよう着ますもんか。文作はほんでも逃げましたが、若嫁さんは亭主にビットコまえられまして、丸裸のまま、店先の柱へ縛りつけられてしまいました。
 「あんなガイなことをしゆが、亭主はあの女房をよう帰《い》なすろうかネヤ?」
 「あんな別嬪を、よう帰なすか!」
 近所の者は店屋を遠巻きにして、ウゲコトかやりよりますが、事件《こと》が事件《こと》だけに、そこは無責任な弥次馬でございます。
 「オンチャン。オマンは発句が上手なが、一句できんかよ?」
 「面白い、やってみろうかネヤ!
〽高山駆ける先立が 人にも貸さぬ法螺の貝
 戸長が吹いて ナリ(鳴り)の悪さよ」〽

                            写  津 室  儿

2013年3月21日木曜日

土佐落語 再婚 60-12


  土佐落語  再婚  60-12           文 依光 裕
 
 香美郡は韮生《にろう》の大西に、又兵衛・お八重という若夫婦がございました。
 二人の子供にも恵まれまして、至って仲のエイ評判の夫婦でございます。従いまして”帰《い》ぬ!帰《い》ぬる”というような夫婦喧嘩は一ペンもしたことがございません。
 ところが一日《ひいとい》の事、田ンボを鋤《す》きに出かけまして、お八重が馬の鼻先《はなやり》を務め、又兵衛が代掻きをしておりますに、お八重の鼻先が下手糞で、馬鋤きが直《すぐ》うに進みません。
 「コリャ、馬の鼻をよう見て引っ張らんと、鋤けんじゃないか!」
 思わず又兵衛が怒鳴りつけますに、女房のお八重、馬の鼻の孔をのぞき込みまして、「馬の鼻の中は、昔から赤いモンよのうし」

     絵  大野 龍夫
 
 これがそもそもの喧嘩の種、又兵衛は最初《はじめて》の夫婦喧嘩でイキナリ三下り半を叩きつけたと申しますから、夫婦喧嘩は再々しておく方がヨロシイようでございます。
 「又兵衛、エイ加減で嫁さんを許いちゃれ」
 「インネ、一ペン暇を出いた以上、二度と再び儂ン家《く》の敷居を跨がすわけにゃいかん!」
 〽スリバチ抱えてコネにゃならん
  レンギレンギ こりゃレンギ・・・〽
 二人の幼児《おさなご》を抱えまして、早くも後悔しております又兵衛でございますが、お八重を許すとはどういたち言いません。
 そこで一計を案じましたのが、亀の甲より年の功、次馬というジンマでございます。
 「又兵衛、もうソロソロどうなら?」
 「またお八重の話かよ? 儂がイカン言うたらイカンきに、済まんけんど帰《い》んどうせ」 「そうか。俺ァ”新しい嫁を貰う気はあるまいか”こう思うて来てみたが、ほんなら帰《い》のうか・・・・・」 
 「ア、新しい嫁つかよ‼」
 「おお。オンシも子供を二人連れてのマモメ暮らしはたまるまい。それにまだ若いきに、”アッチの方も不自由じゃろう”と思うて来てみたが、エライ邪魔をしたのう」
 「次馬さん、貰う貰う!貰うきに、済まんが世話しとうせ!」
 「そうか。ほんで、どんな嫁が良けりゃ?」
 「さァ、どうせ貰うならお八重みたいに気が優しゅうて、子供を大事にしてくれる女がエイ・・・・・」
 「ほんなら、早速心当たりを当たってみるが、今度の嫁は大事にしちゃれよ」
 次馬はイソシイことに、三日のうちに話を纏めましていよいよ婚礼。ところが又兵衛、次馬に手を曳かれた花嫁を見てノケぞってしまいました。
 「次馬さん!そりゃ、お八重じゃないか!」
 「どうなら瓜二ッじゃろが?それに名前までお八重言うてオンナシぞ」
 「イカンイカン!次馬さん、こんな事をして、この始末をどうしてくれるぜよ‼」
 又兵衛がカンカンになって怒りますに次馬
 「先《せん》の女房と一緒かどうかは、今晩寝てみんと、判るまいが?」

                                                               写  津 室  儿

土佐落語 十七回半 60-11


  土佐落語  十七回半  60-11        文  依光 裕

 明治の時分、物部川の下上岡にお花さんという出戻り女がございました。
 年の頃は二十七・八、色白の肉体美の上に、なかなかの器量良でございます。 
 「おい、お花さんが又戻って来たそうなネヤ」
 「そうじゃとネェ・・・・・」
 「そうじゃとネェち、たかァアッサリ片付けるが、もうチット他にいい様がないや?」
 「そんな事いうたち、縁がなかったら仕方がないろがね」
 「ほんなら聞くがネヤ。お花さんが今度の家へ嫁入りしたは一体いつの事なら?」
 「たしか、こないだの節分じゃったろう?」
 「そうじゃをが? 嫁入りをしてまだ三月も経つちょらんにハヤ暇を貰うち、オカシイとは思わんか」
 「アンタはどうせ妙な事を考えゆうろ? イヤラシイ!」
 「オンシはお花さんが自分の従姉妹《いとこ》じゃきに、ジキ肩を持つたいいかたをするがネヤ。その前の嫁入り先から戻されたは去年の暮れの事ぞ。その去年の暮れに戻った家には、いつ嫁に行ったと思うちょりゃ」
 「アレもたしか、去年の節分じゃったぞね」
 「ほりゃみてみよ!去年の節分に一回、今年の節分に一回、年ごとに二回も嫁入りをして、半年たたんうちに二回も戻される女が何処に居りゃァ」
 「余ッ程縁がなかったというもんじゃネェ」
 「縁があったかなかったか知らんが、あの女が今迄に、何ベン嫁入りしたか知っちゅうか」
 「さァ・・・・・と、何ベンじゃったろう?」
 「エイかや?二回や三回じゃない、十七回ぞ。十七回も嫁入りして”縁がなかった”でコト足るか! オンシも従姉妹の肩を持つ気があるなら、意見の一つもしてみたらどうなら‼」
      絵  大野 龍夫
 
 二十七・八の年で、結婚歴が十七回と申しますから、これはまた賑やか出入りでございますが、亭主に怒られました従姉妹は、さっそくお花さんに意見でございます。
 「お花さん、オマンはどういてそうサイサイ戻されっるがぞね?」
 「戻されるチ、人聞きの悪いことを言わんとって! アテは自分から戻って来ゆがじゃき」
 「自分から戻って来るチ、どういてそんな事をするぞね?」
 「女はネェ、親から貰うた宝物を生いて使わな損ぞね。アテは貧乏が嫌いじゃきに、嫁入り先が貧乏じゃったら、ワザト戻されるように仕向けて戻んて来る。勿論貰うモンはチャンと貰うきに、戻るたァび財産が殖《ふ》える理屈よね。今迄に十七回半戻んて来たきに、財産も大部できたぞね」
 「お花さん、十七回半チ、その半はどういう意味ぞね?」
 「いつじゃったか、エイ話があってネェ。仲人に連れられて嫁《い》たところが、前に一ペン嫁入りをした家じゃってネェ、門の前から引っ返して戻んて来た。ほんで十七回半よね」

                           写  津 室  儿

室戸市 吉良川老媼夜譚 若い衆・嫁かたぎ 35-11〜12 


  室戸市 吉良川老媼夜譚 五 若い衆・嫁かたぎ  35-11〜12
 
 私が明治十二年ごろの小娘のころには、まだどこの家でも松を焚いて明かりとしていましたので、若い衆らはその明かりで髪の結いやいこをしたりしよりましたが、その時分の若い衆のことは文句の言い手がもうて、野に生《な》ちょる琵琶でも蜜柑でも柿でも黙って取って来て分けてくれたりしたもんで、村のどの家でも若い衆に取られたち平気でございました。
 小松の奥さん(当時の吉良川の豪家《ごうけ》の主婦らしい)が、夜便所に出てみると、若い衆が二人、庭の柿をちぎりよって、「お前らちぎりよるかえ」というと、足下へ「どしん」と落ちてきたなどという笑い話さえあったほどでございました。髪結いの明かりの松明《たいまつ》を持ってやったりすると、喜んで、野良の生り物を持って来てくれたりしたもんでございます。
 こんなに若い衆が勝手をしても、人に文句をいわれざったのは、村の不意の事にはこの若い衆らが一番先に飛び出していて、一生懸命骨折ってくれたからで、部落でも大切にせにゃならざったからでございます。
 よそから若い衆が嫁を貰うたり、よその若い衆を養子に迎えたりすると、「宿入り」いうて、若い衆に酒をやったり、お客に呼ばんといかんことになっちょったほどでした。
 若い衆らの平生集まる所は「寝宿《ねやど》」というて、吉良川の町分には、上・中・西・停士《ほうじ》の四組に分かれて、その宿はお婆さんだけが居るような家をたのんで、世渡りするまでは毎晩集まって、わいさら(註、わいわい)いうて寝泊まりしたもんでございます。男児は十五歳ぐらいからこの宿に入ったと思いますが、その時も「宿入り」いうて、親が酒一升ほどを持たしてやったものでございました。

   嫁かたぎ  35-12
 昔は今のように無い、町に料理屋があるじゃなし、夜になったら村の娘の家へ隣村の羽根からも室戸からでも歩いてきて、夜更けまでただわいさら言うて暮らして、いうたら話にならんほどじゃったことは、前にも言うた通りでした。
 そうしたわいさらの内に、かかりの娘と若い衆ができると、わきの者はつつかんことになっていたので、我ら同士好きやいなら親も仕方のう一緒にしたもんでございました。
 その時分は「嫁かたぎ」いうて、若い衆が好いた娘を朋輩に語ろうて、無理にに連れてくることが平気で行われて、娘の方でも担がれるということを頭に置いて担がれたもんで、親のいい通りの縁づき三分に、担ぐが七分という調子で、順調に嫁入りするというのが不思議なほどで、私らあも走った組でございました。
 娘に気がのう(無く)ても、男の方で好きになったら、娘の外出の時を狙うて、寄ってたかって若い衆が担いで、宿へ連れていて、付け届け(註、娘の親に担いだ事を知らせる)をしちょいて、そして土地のチュウコ(仲裁役?)かトシバイ(年長者)の者が仲に立って、その人に免じて、嫁にくれにゃあならんようになっちょりました。
 隣村の知りもせん家の娘を担いできちょいて、「医者にかからにゃあ坊主がかかれ」じゃいうて、人が大勢仲に立って貰うたりすることもありました。
 それが泣く泣く来ても、一生居着くようにもなるし、好きで来ても暮らしぬかん(徹す)嫁もあったりして、世の中は妙なもんよ。 きょうび(現今)は、料理屋じゃ言うもんも出来て、そんなややこしいことをせんでも結構すませるようになりました。
 普通の嫁入りじゃあ、村のもんが嫁見じゃいうて、祝言の座敷を寄ってたかって覗きこんだりするのは、どこも同じでございます。三里奥の長者野という所では、すぼ(苞・藁包み)で嫁さんの腰をぶっ叩くじゃいうこともありました。古い格式をいう家では、披露宴の座で「姑盛り」いうて、本膳へつけて姑がご飯を盛るじゃいうこともありました。
 赤岡へんでは、嫁さんを貰う家へ町の子供らがつめかけていて、提灯とローソクを貰い嫁を出せ嫁を出せいうて押しかけて、嫁さんの顔のはたへ提灯を寄せ付けて、「嫁を見よ嫁を見よ」いうて騒いだりするのがありました。それから「床入り」いうて、若い衆が新夫婦を連れていて寝さすじゃいうこともありました。

                          写   津 室  儿
          

2013年3月12日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 学校・娘のころ・梅毒の手術 35-8〜10 


 第38話 吉良川老媼夜譚 四
   学校 35-8
 私たち明治元年生まれが、初めて学校へ行ったもんで、初めは八級(義務教育期間は当初八年制度であった。その後四年制となり、就学率の上昇を待って現在に続く六年制度となる)から入りましたが、しつめる(いじめる?)『読者の註、(しつめる)とは、まじめに続ける、とか、かかりっきりになる』じゃいうことはなく、人が笑うじゃいうて隠れていたもんでござました。そして、学校へ行くのも、紺屋へやる糸のエブ(目印・紙札)を書くとか、百姓の家じゃったら、籾俵《もみだわら》のエブを書けるくらいになりゃあ、ことが足りると、思うばあのもんでございました。
 学校ができる前には、お医者さんや士族の家へ読み書きを習いにいたもんでございます。今のようにない、ほんの真似ごとぐらいのことでございました。

   娘のころ 35-9
 娘のころを思うと、楽しいものじゃったと
思います。きょうの日が面白うて暮らしたもんで、百姓仕事も至極のんびりしていて、田へは草を刈って入れて、浜から拾うてきた白石を窯で焼いて灰(焼石灰)にして撒いたら、今のように肥料じゃ何じゃいうて心配することも少のうて、できたちできざったち平気で、発明というものが無かったので、ただ面白う暮らしたいという気持ちで、七日の祇園様、十日の金毘羅様、十五日の八幡様というふうに休みが続いて、こんな日には酒を飲んで、娘のある家へは酌をとりに来てくれというて雇いに来て、娘の親もそれを喜んで出したもんでした。そこの席へ出たら、あとで「花」じゃいうて、お金や篠巻《しのまき》(笹巻き鮨)を一把ずつくれたもので、これも楽しいものでございました。
 とくに八月十五日の八幡様の夏祭りには、神祭の宵からしまいまで、若い衆宿へ手伝いに行かにゃならざったもんで、これには町の区毎に花台(山車)が出て、その行列の一番先に曳き船いうて、きれいに飾った船を曳いて行くのがあるので、その飾りつけやら準備に出るためで、この花台にはローソク代だけでも五十円、七十円と要ったので、そんな費用をつくるには、一戸割り当ての他にシツギ(宮への奉納金?)というて別に金を出さねばならざったし、そのためには大阪行きの炭や薪を帆前船に積み込む仕事を請けて、男女で手伝うて何百円もの金を儲けて出したりしたもんでございます。
 そこで、娘のある家で、宿(若い衆宿)へ手伝いに出すのを嫌がったりすると、その家は「省《はぶ》く」いうて、若い衆から勘当同様にされたもんでございました。それで、娘という娘が皆出て、神祭当日には、曳き船の綱につかまって地下地下で御神輿を回したりして大騒ぎしたもんでございました。
 今と違うて、若いもん同士の間が雑なもんで、麦でも米でも機械で搗《つ》くじゃいうことが無かったので、皆食べるばあずつ、毎晩娘等が搗《つ》いたので、唐臼《からうす》(坪に埋め込まれた臼)のある家へは、娘等が寄り集まって、「搗き合」いうて搗きました。そんなところへは若い衆が話しに集まってきて、のんきな話で暮れて、夫婦にならんでもナジュミ(馴染み)いうて娘と若い衆の間に好きやいができて、手伝うちゃろという愛情の深いことこの上のうて、楽しいもんでございました。
 男と女の間が雑なといやぁ、お大家でも番頭さんと奥さんとが仲がええじゃいうことも、当たり前のように思われちょりました。本当に、今時の人らにゃあ思いも寄らんことでございました。有る部落じゃ、娘と若い衆がどしゃ寝(雑魚寝)じゃと、いうことも平気でございました。

   梅毒の手術 35-10
 前々から話してきました通り、私らの十七、八歳のころは、土地の若い衆も娘も面白う暮らしましたので、一度よそから悪い病気でも貰うてくると、うつって困る者が多うございました。
 この時分は、梅毒をヒエと言うて、このヒエカキ(病持ち)を家で手術するには、私の親類の若い衆が切ってもろうたことがございましたが、皆が患うたもんの手や足をぎっちりと押さえつけちょて、口の中へは、いがらん(叫ばぬ)ように手拭いを詰めちょいて、気の強い者が剃刀《かみそり》で切ったものでございました。手術をした後へは、塩を沸かしちょいて、それを冷まして塗りくったもので、それからは日にいっぺんずつ、この塩湯を塗りくって治したものでございました。
 痛いことでございましつろう。口の中の手拭いが、粉々になっちょた程でしたきに。

                                                                 写  津 室  儿
          


  

2013年3月5日火曜日

土佐落語  腰巻き  60-9


 土佐落語  腰巻き  60-9        文  依 光  裕

 昔は男でも一張羅の和服にメカシ込む時は、腰巻きをしたもんでございます。
 「婆さん。メリヤスのシャツと白ネルの腰巻を出いてくれェ」
 「爺さん、今晩も出掛けるがかね?」
 大栃の奥に角さん・おそのと云う年寄りの夫婦がございましたが、角さんは年に似合わんやり手でございまして、他所に女をこしらえております。
 「婆さんよ、シャンシャンしたや!」
 「こんなに遅うに何事ぞね」
 「常会常会。部落の総代をしよったら、毎晩常会よや」
 「毎晩話す事があるもんネェ」
 「それよ。何ヘンカニヘン、先に立つ者が苦労すらァ・・・・・。ほんなら行てくるきに、婆さんは先に寝よったや」
 提灯片手に一歩足を踏み出した角さんの背中へ、
 「爺さんよ、今晩はウンと冷えるきに、ヘチの常会をせんと、早う戻んて来なんせ!」
 男が家を出しな、それも痛い一言でございましたので、カチンときました角さん。
黙ァって行たらエイもんを、クルリと舞い戻ってまいりまして、
 「こりゃバンバ!ヘチの常会た、どういう意味なら?俺が他所へ女でも囲うちゅうと思うちゅうろが、証拠があるかや? 人の噂を真に受けて亭主を疑うもエイが、ソレを口に出いていう時にゃシッカリ証拠を握ってからモノを言え!」
 コジャンと啖呵を切って女の所へ出かけまして、その晩は夜の明け方家へ戻ってまいりました。
 ところがエイ年をして、夜業《よなべ》仕事に精を出してきておりますので、婆さんが目を醒《さ》まいても白川夜舟の高鼾。一向に知らんと寝入っておりますに、おその婆さんは女の執念でございます。

           絵  大 野  龍夫

 「なんとか証拠を」と言うもんで、角さんの身体検査に取りかかりまして、まずジンワリ布団をめくった、その途端、「ややッ‼」
 おその婆さんが白眼をヒン剥くも、角さんの枕を蹴飛ばすも一緒じゃったと申しますから、女の悋気《りんき》は幾つになってもオトロしゅうございます。
 「ア痛《イ》タ痛タ!何をすりゃ糞バンバ!」
 「吐《ぬ》かすな助平ジンマ!常会常会いうて、ようもアテイを騙いてくれた。さァ、女は一体何処の女ぜよ!」
 「またソレを吐かす。悋気をコクなら、証拠を出せ、証拠を!」
 「証拠は、オマンの腰巻じゃッ!」
 角さん、慌てて自分の腰巻を見てみますに、昨夜《ゆうべ》の女がしておりました真っ赤な腰巻でございます。
 「ジンマの白ネルの腰巻が、いつ、どういて赤うなったぜよ?」
 バンバの矢のような追求に、角さん、
 「イ、色の文句は、染物屋にいうてくれ!」

                          写  津 室  儿

2013年3月3日日曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 町の家・昔の女の服装  35-6〜7 


  吉良川老媼夜譚 三
  
  町の家  35-6
 昔から「唐ノ浜のダイダイ、吉良川の石グロ」というて、安田町の唐ノ浜には家ごとにダイダイを植えてあるのが目に付き、吉良川では石グロ言うて、丸石を積んだ土塀があることが目に付きます。これは家が浜に面して風がえらいからで、今じゃこの町分のおおかたが瓦葺きになっちょりますが、私らの子供の時分は、町の全部の家がクズヤ(註、草葺き屋根)でございました。
 だいたい、この町分の家がこじゃんとしたものになったのは、薪や炭を大阪へ積み出す船持ちが始まりで、この町分は昔から地味なところで、物見花見もあんまりせんと、むくる(働く)一方で、それでここでは、ほかの漁師町のように質屋が立って(註、成り立たない)いけません。金持ちの旦那じゃいうても、大なり小なり畑地を持って百姓をしたりして、よう働きよります。
   
  昔の女の服装  35-7
 私らの娘の頃は、着物というてもみんな家で織った木綿の縞物を身に着けちょったもんで、帯は普段には下がり帯いうて、四寸五分幅の物を二つ回して、一括りして垂らしちゅあったもんでございました。
 着物の一番ええもん言うても、銘仙《めいせん》、南部縞《しま》、秩父銘仙じゃいうもんで、こうと(地味)なもんで、私の十八歳の時にお宮参りじゃいうて拵えた越後の帷子《かたびら》を、今出して仕立て直して着よりますが、ちょっとも可笑しゅうない程の物でございます。普通には、なら(奈良絣《かすり》)じゃいうのを着たりしよりました。よそ行きの帯はお太鼓でございました。 履きもんは、せきだ(雪駄)というて、裏に金を打った物でした。ちょっと上等になると、宮参りに桐台、のぶ台、神戸台などというのを履いたものでございます。こんまい(註、小さい)子供の頃には、表に竹の皮の織ったのを貼った松台の長浜下駄というのを履いたもんでございました。足袋は木綿の紐つきで、小鉤《こはぜ》(留め具)がけじゃいうもんは、その頃はありませんでした。
 髪の形は、娘はみんなちょうちょに結うて、色の綺麗な飾りをかけ、簪《かんざし》を挿したりしました。四十歳ごろには栄螺《さざえ》の壷焼きじゃいうて、もつう(捲く)て頭の上に載せる髪を結うておりました。年寄りは皆さげしたいうて、こうがい(笄)で巻いて下で輪にした髪にしちょりました。こんな髪は、鬢付《びんつけ》けと元結《もっとい》(註、髻を結ぶ細い緒)が無かったら結えんもんで、バイカという油なども使うたりしました。油徳利で一合なんぼで町の荒物屋で買うてきたもので、毎朝金盥《かなだらい》へお茶を入れちょいて、布片で髪をのしちょいて使うたものでした。
 明治二十七、八年頃から三十年頃には、まだ、嫁入りした女はみんな鉄漿《かね》(註、おはぐろの液)を付ける風《ふう》(習わし)があって、それで年をとった女が鉄漿《かね》を落とすと面白いというて、私が落としておりましたら、男の舅に白歯で居るもんじゃないと言われたもんでございました。娘でも嫁入り前につけてゆきました。その頃は世渡りも早うて、十三歳で嫁入りしたりする者は、奥の西山あたりでも多いもんで、十八、二十歳じゃいうと、もう遅いように言うたもんでございました。
 鉄漿を作るには、かなはだいうて古釘の焼いたものへ水を入れて、ご飯か麹《こうじ》を入れて置いたら、ぶすぶす煮えてきました。それをかね筆というて鶏の羽で作った筆ににつけて、五倍子《ふし》(註、ヌルデの若葉・タンニン材として薬用・染織用に用いた)の粉をねぜっちゃ(練る)塗り、塗っちゃ唾を吐いてつけたものでございました。五倍子は奥の人が売りに来ました。鏡は手鏡いうて金で作った物で、嫁入って来るときに持って来ましたが、これはよう曇るもんで、時々研ぎ屋が来て研いでくれたものでございます。
 女が白歯になったのは、明治四十年過ぎてからのことのように思います。それから、女がお腹へ子がはいったら、五ヶ月目に眉を落とすことになっちょいましたが、その時には亭主の膝で剃ってもらうものである、と言われていました。
 嫁が亭主の膝で、眉を落としてもらうひとときは、至福の時であった、と言われたようでございました。
 私も亭主の膝がこいしくて、その時が待ち遠しくてなりませんでした。

                           写 津 室  儿
          

2013年3月1日金曜日

室戸の民話伝説 第35話 物言う鯨・鮹と勝負した話・日沖の大碆の鮑


35    物言う鯨 35-1

 古式捕鯨が始まって間もなくの頃、と言うから寛永時代(約四○○年前)の話で有ろう。三津浦に、岩貞曽右衛門言う羽指《はざし》がいた。
曽右衛門は努力の人で一番羽指を勤め、よく漁をする漁男《りょうおとこ》だったという。
 そんな腕利きの曽右衛門が、ある日の漁で、「子持ち鯨は夢にも見るな、の箴言。子鯨に対する愛情は人間をも凌ぐと云われる」子持ちの背美鯨に挑んだ。先ず、子鯨から捕り掛かる。その時、子鯨の危機を感じ取った親鯨が不意に子と羽指の間に分け入り、手練の曽右衛門を手羽《たっぱ》で打ちのめした。曽右衛門は一撃のもとで死んだ。誠に背美の子持ちは恐ろしい、と浦人達は戒めあった。
 鯨の漁期もあけ数ヶ月、浦も夜釣りの季節に移った。隣の弥五郎が夜釣りに出かけた。その夜は、稀に見る大漁だった。そろそろ帰り支度に取り掛かると、沖の方から鯨が浮きつ沈みつしながらこちらに来る。弥五郎は恐れおののき、逃げ戻ろうとする。いよいよ近寄って来て鯨がものを言うた。「久しく遇わなかったがゆかしいなあ~」と声を掛けてきた。その声は、たしかに羽指の曽右衛門、少しも変わらない声に、あろう事かと恐れ逃げ帰った。
 その一夜のことは、誰彼《だれかれ》や女房にも話さずに居た。そのせいか、何事も起こらず変わりない夜が続いた。弥五郎はあの夜の大漁が忘れられず、又、夜釣りに出かけた。すると、あの夜の鯨が浮き沈みして近より、ものを言い掛けてきた。二度の怪奇に遭遇した弥五郎は驚き、腰を抜かしながら逃げ帰り、ことの次第を妻子に話した。すると妻子は忽ちに乱心した。この狂気乱心は、様々な祈祷をしても治らなかった。子持鯨の祟りじゃろう、と話し合った浦人は、子鯨塚を建てて供養をすると、弥五郎の妻子は回復した、という。  げに奇怪な話しよのう。

               絵 山本 清衣

   鮹と勝負した話 35-2

 三津に船おんちゃんと言う大工がおった。曰《いわ》く、船大工である。三津浦の漁師、覚治《かくじ》おんちゃんが話し始めるに、「船おんちゃんは、一月《ひとつき》に三十五日働く働き者じゃった」と、いう。ある日、船おんちゃんがひょっこりやって来て、「ほんまに昨夜《ゆうべ》はやられた」という。「どうしたなら」と聞いたら「鮹《たこ》と勝負をした」と船おんちゃんが言うに、「茄子《なす》を海岸ぶちの畑に作っちょる」所が、毎晩茄子をちぎられて仕様がない。そこで、「わりゃ、人が一生懸命に作っちょるもんを盗りやがって、見よれ」と、一晩、夜通し待ちよった。そうしよったら、頭がピカピカ光る坊主が来た。覚治おんちゃん、かまえちょった荷内棒で、頭に一発ぶちこました。そしたら、逃げる逃げる。追わえて押さえて見ると、なんとざまんな《大きな》鮹じゃった。鯨が遊ぶ三津の海じゃき、こんなざまな鮹も居ったもんよのう。
 幕末の絵師金蔵は、笑絵の中に満月の夜、里芋を担いで逃げる大蛸を描き、また弟子の河田小龍も、胡瓜《きゅうり》を背負って桂浜に逃げる大蛸の姿を描いている。

     日沖の大碆の鮑 35-3

 椎名の日沖に「大碆《おおばえ》」という大きな碆がある。この大碆に、稀代未聞《きだいみもん》の大鮑《あわび》が張り付いておったそうな。なんと箕《み》(農具)ばああった。その鮑に鉄梃《かなてこ》を八本ぶち込んで、舟二艘で曳き漕いだが離れざった、と。
 ほんで暫く放っちゃあった。所が、それを近くのコウロウ(石鯛《いしだい》)が嗅ぎつけた。この魚はサザエやアワビが大好物ながよ。鉄梃をぶち込まれ、アワビの汁が流れたろう。それを嗅ぎつけて来があよ。それで何とかしようとしたが、何とも太いきんどうにもならん。
 それじゃあと言うことで、室戸岬の鼻に居るコウロウの親分の所へ相談に行った。相談を受けた親分、何とかせんと沽券《こけん》に関わるというた。その親分の姿形は、なんと畳一枚半ばぁあるという。件《くだん》の大鮑、鉄梃を八本もぶち込まれ、少々堪《こた》えちょる。親分は歯がえらき(強い)鮑の殻を食い破ったが、一匹じゃあ食い切れん。そこで自分の一族を呼び寄せた。上《かみ》は甲浦から下《しも》は羽根崎まで、狼の千匹連れならぬ、コウロウの千匹連れよ。それらがやって来て、食いついて食いついて、とうとう喰うてしもうた、と言うきに大したもんよのう。
 日沖の大碆に、あんまり一杯コウロウが押し寄せて来もんじゃきん、大碆の周りの海が真っ黒になって波立った。見ていた者は、こりゃ龍宮さんが怒ったにかあらんいうて、浦人皆なが漁を休み、神さんにノリトをあげたり、仏さんに祈ったそうな。
 そりゃそりゃ、大騒動な一日《ひいとい》じゃったそうな。               

                            文 津 室  儿