2015年9月7日月曜日

手乗り、ヤマガラ

 ヤマガラ達はカレンダーを持っているのか、九月の声を聞くと小さな拙宅の庭にもやって来て、ヒマワリの種をねだる。手のひらを差し出すと、餌があるかと勘違いをして止まる。
無いと知るや忙しなく飛び立つ。餌をかざすと又来る。何時まで見ていても、飽きないヤマガラである。





 


2015年9月6日日曜日

水草 エキノドルス・ラジカンス

 我が家のメダカ鉢に、エキノドルスともラジカンスとも云われる水草が花をつけた。この花は、南米が原産地と云われるが耐寒性を見せる。当地でも大きく成長し、1.50cmの花茎に四の節を付け、節の周りに5.6個の蕾を付けている。花は一日に、一輪だったり二輪だったり三輪だったり、気ままな咲き方をする。この気侭さは、拙老に似て苦笑する。
 一つ、忘れかけていた。花が終わった節からは、葉芽が出、根が出始め繁殖力旺盛である。






2015年9月1日火曜日

室戸路寸感  四  一言地蔵菩薩  

  室戸路寸感  四  一言地蔵菩薩  

こんな話を聞いた。それは室戸岬は津呂の藤原家の御祖母様《おばばさま》が、その前の御祖母様から、またその前の御祖母様らが、囲炉裏《いろり》を囲んでかたり続けた藤原家伝来の「一言地蔵《ひとことじぞう》菩薩《ぼさつ》」の物語であった。
 はなしは室戸岬を東に少し廻った所に、四国八十八箇所二十四番札所、通称東寺・最御崎寺《ほつみさきじ》へ登る東遍路道があり、その遍路道の右側に小さな窟《いわや》がある。その窟がこの物語の舞台だ、という。

画面左、最御崎寺東登り口、中央「食わず芋(石芋)と浜木綿の花」の奥が一言地蔵菩薩窟跡

 この話の始まりは、何時の時代であったか定かではない。とある時、旅に疲れた遍路姿の母と息子の二人が、今夜はこの窟を仮寝の宿にと背中の荷物を解き、粗末な夕餉を分け合いながらすませ、今日最後のお祈りを一心不乱に唱えていた。
 すると、息子の頭上よりかすかな御仏の声が聞こえた。「汝らは、何事を願うや」息子は即座に「母の病を治したい、ただそれ一心でございます」と答え、弘法大師様にお縋《すが》りしたく遍路に出てもう幾歳か、逆打《ぎゃくうち》ちも幾度か致しましたが、未だお大師様にはお目にかかれません。私の信仰心の未熟さゆえでありましょうか、と問いかけた。すると僧侶は「そなたの信仰は、未熟などではない。善く善く届いているは」と聞こえたかと思えたあと、息子の目の前に、白装束の僧侶が地蔵菩薩様を持って現れ、「この地蔵菩薩様を祀り敬いお願いをするがよかろう。さすれば一生に一度、一つだけの願いを叶えてくれよう」と言ったかと思うと、白装束の僧侶の姿はいずこへか消え去っていた。
 息子はさっそく母と相談して、 窟の奥の一段高い所へ地蔵菩薩様に鎮座頂き、百八日間の願掛け参りに入りました。
 岬の冬の花は何故か黄花が多く、人々の気持ちを温かく和ませる。アゼトウナ、シオギク、タイキン ソウ、ツワブキ、ヤクシソウ。なかでも、キバナアマはひときわ鮮やか。これらの花が終わる頃、岬の花々は春を迎える。
 百八日参りの満願を迎えた日は、春のお彼岸の中日にあたった。その日、病に打ちのめされ、疲弊しきっていた母の顔色が一変し、昔の健康な顔色に蘇っていた。これは地蔵菩薩様のご利益の賜だ、と親子は互いに体を抱きしめ喜び合った。その日から親子は、室戸岬高岡下地を終の棲家と定め、息子は漁師見習をして働き、母親はこの地蔵菩薩様に一言地蔵菩薩様と名付け、お世話に心血を注いだ、という。
 このご利益話が、浦々・里さとの人々に知れ渡るのには然程の時は掛からず、一言地蔵菩薩様は願いを叶えて欲しい人々で賑わい続けた、といわれる。
 しかし、時は移り医療の発達により、いつしか一言地蔵菩薩様も忘れられ、ましてや昭和四十六年、国道五十五号線の拡張工事が始まり、奥行き約七、八㍍あった窟も六㍍程削られ窟をなさなくなった。
 心優しい道路工夫が一言地蔵菩薩様もここで一人は寂しかろ、と直ぐ側にある六十数基の水掛け地蔵の仲間にしてしまった。それ以来、どのお地蔵様が一言地蔵菩薩様か分からなくなってしまった。
 今にこの一言地蔵菩薩様を語り続けているのは、藤原家の若い御祖母様だ、という。

                              津 室  儿






2015年7月18日土曜日

室戸路寸感   三  シットロト踊り 

   シットロト踊り
 旧暦六月十日(七月二十五日)、室戸市の歴史を彩る民俗芸能、シットロト踊りが近づいた。この踊りと唄は、いつの時代に始まったか定かでないが、奈良師の地蔵堂の庵主が、ある夏の蒸し暑い晩に浜辺で涼をとっていた。夜もいよいよ更けてきたころ、節も面白く唄い上げながら行く女人がいた。
あまりの面白さに魅せられた庵主は、浜づたいに「硯が浜」まで追いかけ女人に教えを請うて、唄と踊りの伝授を得た、と伝わる。
 今一つは、藩政初期に始まると伝えられ、漁師三蔵なる者が、腕白小僧にいじめられている人魚を助け、お礼に豊漁を招く踊りと唄を授けられた、とも伝わる。
 踊りの構成は、音頭一人、太鼓一人、鐘一人と、踊り子は多数からなる。その姿はそろいの浴衣に赤いたすき、わら草履に手甲、投編み笠。笠の周りには五色の色紙が幾重にも短冊状に張られ彩り豊かである。笠には猿の縫いぐるみが、円錐形状に数十匹飾られ、愛らしい。この飾り物の猿は踊り納めると「難を去る」縁起物として、遠洋への出漁者や旅立つ友の無事を祈って手向けられる。唄は四十八節、今は十四節が残され、「まず急げ」から始まり「引き踊り」で終わる。
 今では踊り子が少なく、誰でも参加出来るが、明治期には各鰹船から二人ずつ選ばれて踊ったもので、ひごろ不真面目で素行の悪い者は踊る事が出来なかった、また、シットロトを踊らせてもらえない若者は、嫁の来てもなかったという。


 この唄と踊りには、魚の供養・豊漁祈願は然る事ながら、船が沖に出、魚群《なぶら》に出会ったときや、漁師の家の祝い事、新船・新築・結婚祝いには必ず踊られたが、今は旧暦六月十日のみに限られている。赤銅色に
日焼けした漁師達の舞姿が楽しみだ。










2015年6月19日金曜日

 室戸路寸感   二  室津古港略記 

         

室 津 古 港 略 記  



                              
                      

                    
   室戸市教育委員会 調査
                  植 松 棟 造                                久保田   博





         

                     

                        平成22年(2010)晩夏
                                         写  多 田  運







 表示の通り、室津古港前、元和時代(1615)以前の室津河口地形想像図




           上記二枚の室津古港図は、旧港番(港奉行)久保野家蔵

 
 扨、当「寛永の室津古港」植松棟造・久保田博両氏の調査が、いつ行われたのか調査日の記載がなく不明である。しかし、小冊子であるが素晴らしい調査書を遺されていた事に敬意を表したい。この調査書にも記述されているように、野中兼山・一木権兵衛両先人の前に、「最蔵坊こと小笠原一學」が、室津港の基礎的工事をすべて完成していたことに驚きを隠せない。最蔵坊が津呂・室津両港の開鑿に当った元和元年より、約四百年に亘る恩恵に浴した室戸市民は、今一度最蔵坊・小笠原一學を顕彰する事が大切であると信じてやまない。
 なお、調査書を写に当って、読み下しは行わず原本に忠実に一つ一つの字句を丹念に拾い上げた、が誤字脱字が多々有ろうこと、平にご容赦ください。


     一、 寛永の古港の図について
 
 かつて室津港の港番であった久保野家(旧姓・久保)に伝わる多くの記録を調べていると、古い室津港の図面が五部出てきた。その中の一部が一木権兵衛が延宝七年(1679)に港を完成した以前の古港の図である。それが意外に大きなものであるので、先ず驚かされた。私どもわここに改めて、これまで調べて来たものを考え直して見たくなった。

     二、 延宝の新港以前の港番について
  
 久保野家に伝わる港番の記録によると、「承應《じょうおう》二年(1653~延宝七年より26年前)祖父茂兵衛湊《みなと》奉行被仰付御書付写左之通」と前書きして急度《さと》申遺候、室戸湊口船之出入掃除等改之儀、室戸村九右衛門半介加《が》右衛門に申付候得共、九右衛門は湊口より程遠罷居候故、其方ニ半介加湊奉行ニ申付候為御給《たまえ》湊口ニ在之最蔵坊(小笠原一學)屋敷三十代其方ニ遣候。
向後半介同前ニ湊口船之出入、米之改、湊之石垣くづれ申立、船之出入ニ構石掛船之者ニ申付とらせ可申候。崩れ石垣も水主之手ニ相候所は繕わせ可申候。其方諸法度等之儀、半介方ニ書付可在之候間、其分可相心得者也。
                            小倉弥右衛門・事判
 承應二年(1653)八月二日
                            岡村  平次・事判

     室戸茂兵との(殿)                          と述べられている。これによって当時の港は既に港番(湊奉行)を置いて諸事務を執らなくてはならぬ程、港も大きく、船の出入りも相当あったものと頷かざるを得ない。と同時に当時は室戸湊と呼んでいた事も明らかである。

     三、 津呂湊・室津湊のサラヱ(浚《さら》え)普請並に室津湊の堀次請願について
 
 土佐藩主豊昌《とよまさ》(第四代藩主)は寛文十三年(1673ーこの年9月21日延宝と改元)四月八日付けを以て前二つの要件をひっさげて、幕府へ港普請の請願をしている。これは直ちに許可されたが、その請願書には次のように記載されている。
 一、土佐国、安喜郡室戸崎ト申ス所ニ、津呂・室津ト申ス二ヶ所ニ湊御座候。此ノ間二十六町御座候。右両湊ハ前々ノ深サ干潮ニ七・八尺御座候。然ルニ、近年埋リ只今ハ干潮四・五尺。或ハ二・三尺ニ罷成候故、船ノ出入リ難シク成候間・埋リ申分浚ヱ普請仕《つかまつ》リ度奉存候。則チ絵図、別紙ニ差上申候。右両所ノ港浚ヱ、普請仕候テモ、近辺ニ湊無御座ニ付、彼ノ両湊ヘ乗リ掛ケ申ス国中ノ船数多ツトヒ候節ハ、右両湊ニ納リ申サズ、難風ニモ沖合ニ船掛リシ或ハ、風ニ任セテ走リ、度々破損仕ルテイニ御座候間、室津ノ湊浚ヱ、普請ノ序デニ、右ノ絵図ニ記シ候通リ、横三十四間、奥エ五十間堀次、此ノ分並ニ石垣ヲ築キ申度《たく》、存ジ奉候。  以上
  寛文十三年四月八日                松平土佐守(豊昌)

 この寛文十三年は、実際に一木権兵衛が藩命室津港の開鑿《かいさく》を始めた延宝五年三月より、先立つ事四年前の事である。室津港は寛永七年(1630)七月藩命を受けて最蔵坊によって開鑿に着手され、翌八年六月に一応完成したが、その後数回普請も加えられている。津呂港は同じ最蔵坊によって元和四年(1618)試掘せられたとも伝えられるが、野中兼山の決意の下に開鑿に着工したのは寛文元年(1661)であり、その完成は同年三月二十八日であった。
 ここに室津港の堀次を付加工事としているものの、津呂・室津両港の浚え普請をまとめて申請している事から考えると、室津の港(旧港)も相当な規模を持っていたものと、想像されるのである。なお、幕府の許可は得たものの、天変地変のためその着工は、延宝五年(1677)三月迄延期されている。

     四、室戸崎付近に良港の必要性

 山内一豊の新封土佐国への入国は慶長六年(1601)正月二日であったが、彼は難波から舟を連ねて来たにもかかわらず、室戸崎の波濤を避けて、甲浦で上陸、かの野根山十里の難路をえらんでいる。
 一豊以来、歴代の藩主が参勤交代のため江戸出府の途中、浦戸を出て土佐の海を渡航せられる折りは、東寺・津寺・西寺の三山は、何れも藩主の為に海上の安全を祈祷し、寺舟を仕立てて、沖に漕ぎ出し御座船を迎えた。その節、三山の院主や住職は御座船に召され、海上の安穏の御守札を差上げるのが習わしとさえなっていた。
慶長・元和・寛永の頃、一豊・忠義が室戸崎を通過の際、その座船を室津ミナトへ船繋りした事も、記録に示される所である。
 元和元年(1615)大阪夏の陣の時、忠義は徳川家康のため忠勤を盡そうとして出陣する事に意を決したが、室戸岬迂回が困難なのを察し、野根山越えに駒を進め、甲浦にその軍兵を結果して、この港から出帆しようとしたが、折悪しく五月五日から十一日まで風浪のため、出船をさえぎられ、切歯扼腕《せっしやくわん》(感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること。)あたら海上を見つめるのみであった。かくして可惜《あたら》(惜しむ)五月七日の大阪落城にその勇姿を遂に見せる事が出来なかった。
 その後参勤交代のため、藩主の出府・下向が頻繁に行われ、更に平和産業が発達するにつれて、船舶を甲浦から難波に廻送するについて、途中室戸崎付近に避難港を設ける必要を痛感せざるを得なくなった。
 元和偃武《げんなえんぶ》(元和の戦争がおさまる事)の後、早くも東寺の住職最蔵坊によって実現を見、室津港の修築が目論まれた事が、こうした時代の必然的な要求であった。

    

    五、室戸古港以前の土地の姿について

 室津港のある現位置は昔は池であった。その口の一部が海に続き、それが室津の古い舟掛かり場の姿であったと考えられる。天正の地検帳(室戸の地検は恐らく天正十五年「1587」と考えられる)を見ると、次の記録が先ず目にうつる。
  同じ(八王子前の事)池ノマワリ         同村(室津村の事)
 一ゝ(所の事)壱反二十代《だい》 サンハク久アレ     同じ(室津分の事)
  同じ 池ノフチ                 同村 三郎二郎 扣《ひかえ》
 一ゝ 十代下                   同じ
  同じノ東                    同村 藤二郎  扣
 一ゝ 十五代下                  同じ
  同じノ東                    同村 右京   扣
 一ゝ 十代  出・中 六代             同じ
  同じノ南                    同村 源三郎  扣
 一ゝ 十五代 出・下 三代             同じ
  同じノ東                    同村 三郎左衛門扣
 一ゝ十代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                    同村 源三郎  扣
 一ゝ十五代  出・下 五代四分            同じ
   同じノ東                      同村 兵部進  扣
 一ゝ五代   出・下 二代             同じ
  同じノ東                            同村 神五郎  扣                          
 一ゝ五代   出・下 五代             同じ
  同じノ南                     同村  藤二郎   扣
   一ゝ十五代   出・下 四代              同じ
  同じノ東                     同村 市衛門    扣 
 一ゝ十五代   出・下 三代              同じ
 この記載によると、これらに囲まれた池は相当広い面積を持ち、随分古い時代から船掛かりであり、港の開鑿には有利な地形であった様である。

     六、室津古港の普請遂に実現

 津呂の古い港が室戸崎付近において難破する人々を救済しようとする最蔵坊の悲願によって、その浄財をもって造られていたものが、一応その形態を整えたのは元和四年(1618)の事である。藩主忠義から最蔵坊宛に送られてきた書簡には次の通り述べられている。
   さと(急度)申遣候
 一、 津呂湊堀被申候事、船より小宛勧進を可被仕候事
 一、 津呂権現之宮并居屋敷共其の方へ申附け候間、上下之船祈念可被仕候事
 一、 足摺之堂建立、思々ニ勧進可被候事
 一、 其方、足摺通いの時、伝馬一疋・人足弐人宿送之儀申附候、船にて被參候共、右同     前たるべく候事
     何も右之通申附候間可有其心得候者也

  元和四年十一月二十二日                      忠義 (華押)

   最蔵坊 

                                 〔山内家文書〕
 「上下之船祈祷」すべきときは、単に藩公の船にとどまらず、ここを通過する一般の船の安穏を祈るようとの意向であると思われる。津呂の港と並んで室津の港を修築する事も、早くより国政にたずさわる人々は考慮されていた事であった。
忠義の在任中(52年間)、室津の港は前後四回に亘って開鑿が行われている様である。寛永七・八年の普請・寛永十七年の普請・寛永十九年・二十年頃の普請・承應元年の普請等がそれである。

     (イ) 寛永七・八年の普請
 最初の室津港の普請は寛永七年(1630)七月に着手し、翌八年六月に至って一応その工事を終え、大要一ヶ年の日月を要している。そして、その主宰は最蔵坊であった。彼は東寺の建立を成就した後、麓の津呂に下って、此処で津呂の港を仕上げたのは前述の元和四年十一月であった。
 忠義はその功績を見るや、次いで室津港の「港掘」を考慮し、彼を招いて室津港に関する子細を聞き、室津に居住を与えて、専心この仕事に当らしめた。この事を久保野家の港番の記録には所右衛門・覚えとして、
 扨《さて》東寺成就、其後津呂へ參、権現之西地三反三拾代被下居住仕申の処、室津港口・算用ば へ・之儀御尋被為成度と御意由にて、御城椿へ被為召寄、委細御尋に相成、即銀子弐枚拝 領仕、其上向後何方へ用事に付參共、伝馬壱疋人足弐人之御珠印被為仰付候。それより室 津に罷り越し、又室津にて居鋪(屋敷)三拾代御拝領仕申候。扨算用ばへ上なみを割、内 堀を堀申し、其後室津御蔵にて米納升三斗入り、弐拾五俵被為仰付候御事。
室津港の築港事業中、最も力の注がれたのは「算用ばへ」の除去であった。
 寛永八年の夏、工事は一応竣工したが、その時、吉日を卜《うらない》して、 忠義を迎えて「御舟
入りの儀」を執り行っている。六月十一日付、忠義から小倉少助に送った消息文によると、
 室津船入之儀見及び候て、最蔵坊と令相談候処、湊口之立石手伝い五・六人相渡し置候  者、割り候て見度候由、最蔵坊被申候に付、其通にいたし候へば、右之大石三分の一取退 け、残所は八つに割り砕き被申候由、奇特成事共に候。弥《いや》、不残可令首尾と致満足候。
これらによって考えて見ても可成り大きな港であった事が、想像されるわけである。
 ここに私共の注意を喚起する事は、 当時の工事中に使用した礎石の発見ある。昭和七年(1932)七月三十一日の土陽新聞(高知新聞の前身)は、次の事を報じている。
  昭和七年七月三十日、室津港の改築工事中、旧築堤の巨石を取除いている作業の最中、 偶然発見された自然石は、二尺七寸角、厚さ五寸の大きさの物で、表面に刻んだ文字は  「寛永七年七月吉日」と判読されたが、これは正しく最蔵坊が室津港を始めた時の礎石で あると、推定されるものである。
この「寛永七年七月吉日」と刻まれた文字と、その発見された昭和七年七月三十日、これは洵《まこと》に奇しき因縁である。只今、願船寺の境内に上人の墓石と並べて立っているのも、なつかしい。

     (ロ) 寛永十七年(1640)の普請
 港番の記録(前述)によると、「右の立石書付の写、祖父所右衛門自筆に事記《じき》(事件を中心にして書いたもの)有之、故写置者也」と後書きをして
   寛永十七年庚辰年           国之奉行   野 中  主 計(兼山)
                             安田 四郎左衛門
   奉掘営御湊成就所                  片岡 加衛門
           国守源朝臣松平土佐守侍従   忠義
                  奉行      祖父江 久右衛門
と記録されている。そして昭和五年に右を記録した碑が、一木神社の下の境内に建てられている。これによって見ると、この年にも普請が行われたものと推定される。右の所右衛門は大体一木権兵衛時代の港番である。

     (ハ)寛永二十年(1643)の港普請
 寛永二十年四月、藩主忠義は江戸へ参勤交代のため、高知を出発し、土佐の海を渡っていたが、十一日の夜中、室津沖にさしかかって天候が急変し、辛うじて室津の港に船を入れてと云う事件が勃発した。その時忠義は筆をとって、野中兼山・小倉少助等に宛てて、次のような親書をとばしている。
 態次・飛脚を以て申し遣わし候。依我我事、是夜玄ノ刻、室津至湊口令着船候。供船共は、悉疾不残相着湊へ入候ぎ。乗船は沖にふりかかり有之候へ共、天気悪候に付、丑に湊入、引入させ候。もはや、天気能成候間、今夜中に可令出船條、二三日中に大阪へ可令上着間、大慶此事に候。特又、當湊初に見候而潰謄候。当津に湊無之候てば、不自由所に存候に一段之湊と令存候。当津普請可申付と存候。関太夫(樋口)指下候砌、委々可申遺候。取急
早々申遣候。謹言
  卯月十二日(寛永二十年)
                                   忠義(華押)
    野 中  主 計  殿
    安田 四郎左衛門  殿
    片岡 加左衛門   殿
    小 倉  少 助  殿                  〔郡方月目録三〕
 この後、果たして工事が起こされたかどうかは、文書に徽《しる》すべきものがない。併せしながら、津呂室津の両港に修築が少しずつ継けられたと云う事は、文書にも示されている。
 然らば先年室津湊堀申候時も、御公儀へ得御意申事も無之、其後御国廻之御上使覧被成候 得共、一段之儀と被仰成事も無之候。云々
これは慶安三年(1650)十一月二十八日附、野中兼山より、高島孫右衛門へ出した書状に見えるものである。

     (ニ) 承應元年(1652)の港普請
 承應元年三月から始まった様だが、いつ終ったか明らかでないが、あまり大規模な工事ではない様である。忠義は参勤交代のため江戸へ上府、この年七月帰国し、九日に甲浦に着船したが、その帰国の前、三月末に江戸から土佐へ送った親書の中に、次のように見えている。猶以《なおもって》津呂・室津普請被申付候よし承候。彌不令油断様可被申付候。右之あかりに手結湊も被申付候よし尤に候。是は少々之事之よし申候間、手間入申ましきと存候。
  三月二十七日(承應元年のこと)                  忠義 (華押)
    野 中  主 計  殿 (以下四名連名)            〔山内家文書〕

     七、 以上のむすび

 右のように記述してくると、右の港普請の中では最蔵坊の主宰した、寛永七・八年の開鑿が一番大きな工事であり、その工事で古港は一応出来上がっているものと見てよい。この寛永の古港の図には、いつ描かれたとの記入がない。併しながら承應二年の室津古港の時代から、相伝えて来た由緒深い港番(港奉行)の家の書類の中から出て来た事に、事実として信ずべきものがあると思う。
 なお、古港と名付けられている所から考えて、或いは一木権兵衛が普請して今猶《こんゆう》その面影を存している。新港の完成して後のものではないかと一応考えられるが、その文字の墨色も他の部分より薄く、筆跡も亦異なっているので、後からの記入と思われる。更に前述したような記録も裏付けられている事などから、綜合して考えると、洵にその意義も深い次第である。私どもはこの図に接して、その規模の大きいのに先ず一驚する。室戸の港は当初、最蔵坊がつくったと聞き伝えて居りながら、その史実や、その規模等が不明瞭であった為の、とかくその偉業は忘れがちであった。ここにこの寛永の古港の図を充分に玩味《がんみ》し、その史実を深く考え、改めて最蔵坊(最勝上人・俗名小笠原一學)を考え直さなくてはならない。幸いに上人の御霊は、港の上、願船寺に安んじられている。

     八、 最蔵坊について

 最蔵坊の事は、世間に色々と語り継がれているが、その根拠となるものは前述の港番の記録(表紙が破損して、この書名がわからないから、私はこう呼ぶ事にしている)である。私は直接その記録の中の「所右衛門・覚」を書き出して見る事とする。
 一 最蔵坊・本国石州之住人、小笠原庄(之!)三郎一家、小笠原一學と申、知行三千石   拝領仕居申由、然所(念書か)に、主人安芸の森殿(安芸ー毛利秀元)・治部少輔    (石田三成)陣より以来(慶長五年九月十五日の関ヶ原の合戦)・御地行被召上候故、   廻国に成、六十六部(六十六部は六分と云われ、六十六部廻国聖のことを指す。これ   は、日本全国六十六カ国を巡礼し、一国一カ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教   者)之法華経を納廻り申、折節東寺岩屋に居留り、東寺建立仕申候。其節忠義公様御
   参詣被為遊、上人之御小袖一重、銀の御煙管《きせる》二本被為遣候。・・・・・・
更に「同・覚」には最勝上人の示寂の前後の事を、次のような手紙文で述べている。
 一 慶安元年(1648)九月十二日、東寺塔堂入仏に付、小倉庄助御越に成候所、殿様より銀弐枚上人へ被為下、拘又最蔵坊東寺へ參、山ノ口を明《あけ》け、女を入申様こと御意被為成之趣、庄助より被仰渡候。然共、上人は同年九月五日に病死仕候故、銀子戻り申候。其後又殿様御意には、一度上人へ遣し申銀子、上人石塔を仕遣候様にと少助殿へ御意被為成候旨、於御前来正長善慥に承由にて候得共、其御何之御沙汰も無御座候。以上
                               所  右 衛 門
   延宝六年(1678)午四月 日
    葛目 与次右衛門  殿


 右の書簡の中に、最初小倉庄助とあり、中頃にも庄助、終りの方に少助殿と出ているが、これは共に小倉少助同一人の事である。

2015年6月15日月曜日

     室戸路寸感   一    紀貫之の歌碑と梅香の井戸 

    これから室戸路を、あれこれ徒然なるがままに筆を下ろします。ご笑読頂ければ幸いです。

  紀貫之の歌碑と梅香の井戸 一
 
 五年間の土佐国司の任務を終えた紀貫之朝臣は、承平(九三四)四年十二月二十一日、土佐の国府(現南国市比江)を立ち、帰京の途についた。
 当時の土佐より京都までの行程は、延喜格式主計式によれば陸路は上り三十五日、下り十八日、海路二十五日と定められていた。しかし、帰京に五十五日を要したことは、その頃の海上交通が如何に難渋を極めていたかが窺える。
 その五十五日間に及ぶ京への船旅を、「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」男が書くという日記なるものを、女である私も書いてみよう、という思いで書き始める。これがかの有名な紀貫之『土佐日記』の書き出しである。この書き出しのように、紀貫之は女性になりきって書き始めている。
 さて、貫之は国府比江の村民共々に、尽きせぬ名残りの涙を流しながら、大津より船を漕ぎ出したのが十二月二十七日だった。年あらたまり
 一月十日 今日はこの奈半(現奈半利町)の泊にとまりぬ。この間十三日、冬の土佐湾は、今も変わらず大西(強い西風)が吹き船舶を悩ませている。
 一月十一日 暁に舟をいだして室津をおふ。人みなまだ寝たれば、うみのありさまも見えず。ただ月を見てぞ、西ひんがしをば知りける。かかる間に、みな夜明けて、手洗ひ例の事どもして、昼になりぬ。今し、羽根といふ所に来ぬ。
 羽根崎は、室戸世界ジオパークサイトの西入口にあたり、往古は室戸崎に対し小室戸崎と呼ばれ大小の岩礁が美しい。右、記述のように、貫之一行は奈半の泊まりを出で、十一日昼頃羽根崎に懸かる。幼童の羽根という名を聞いて、
ーーーまことにて名に聞く所
 羽根ならば
 飛ぶがごとくに
    都へもがなーーー

羽根崎・紀貫之の歌碑

と、貫之は詠み、京へ逸る気持ちがあらわである。
この紀貫之の歌碑は、昭和三十四年、地元羽根町有志の十兵衛会により建立された。(十兵衛会とは、羽根浦「分一奉行」岡村十兵衛浦久のことで、寛文、延宝、天和の飢饉に、藩の許可なく御米蔵を開放し浦人を救った義人)


     室戸崎側より羽根崎遠望・右手前植物群落はハマボウ 

  

室津の泊 十二日 曇り模様であったが、雨にはならなかった。
この日、文時《ふみとき》・惟茂《これもち》の乗った船が奈良志津《ならしづ》(奈良師)から遅れてきた。
 十三日 雨が止むと女たちは湯浴みをするため船から下りていった。月の光は殊の外趣がある。海の神を恐れて、船に乗った時から紅の色あざやかな着物を着てないのに、陸に上がると海神も見てないと思ってか、着物の裾を脛《すね》の上までまくりあげて、「ほやのつまのいずし・すしあわび」(女性の隠し所)まで見せている。
 註、海の神は、財宝とか綺麗な衣服などを、とりわけ好むから、それを身に着けていようものなら、思わぬ災難を受けるかも知れないと言う伝承が信じられていた。
 この湯浴みした場所が、この井戸周辺だと伝えられて、周囲に老梅が生い茂っていた事から貫之は、この井戸を「梅香の井戸」と名付けた、と今に伝えられる。「まいご」とは梅香が転化したものと思われる。


                      室戸市史・室戸町誌より引く



                     昭和25年頃のまいごの井戸

    
          現在の室津港・黄色い電柱控えの位置に井戸があった。
                    
           平成10年頃、岸壁改修工事のため移設。
          現在のまいごの井戸・水は汲めない。

2015年5月17日日曜日

大山レンゲ

 五月八日、拙宅の庭の一隅に大山レンゲが咲いた。
もう、五十有余年前に成ろう。徳島県境に近い白髪山(1469.55 m)に二つ年上のY先輩と登った。頂上までは、未だほど遠い藪の中に迷い込み、やっと藪を潜り抜け頂を仰ぎ見た。そこに、せいそなそれは清楚な白い花が私をみていた。これがこの花と初めての出会いであった。この花の名前など知る由もない私は、先輩に尋ねた。先輩は事も無げ、即座にこれは「深山侘助」だ、と答えて下さった。侘助って藪椿のことですよね・・・!、と畳みかける。そうだ侘助の白だ、と即答。以来五十有余年先輩の言葉を信じ込んでいた。その先輩は、先ほど私に一言の言葉を遺さぬまま旅立った。
 昨年春早くに、妹から貴男が好きそうな花だから、と三尺程の苗木をもらった。その苗木に、わずか一年で花を付けるとは、思いのほかだった。しかも、あの忘れもしない深山侘助が我が庭に咲く、気持ちは爆ぜった。カメラに納めプリントし、妹に去年貰った苗木に深山侘助が咲いた、と悦に入って見せた。
 何というこれは大山レンゲだという。改めて花を覗く、先輩がやっと判ったかとほくそ笑んでいた。


2015年3月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん

 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん

 三津港は、古式捕鯨が網掛け突き捕り漁法に代わった貞享《じょうきょう》元(一六八四)年の昔より沖合に網代を設けるなど、捕獲した鯨を引き揚げたスロープが今に遺る。鯨との関わりは三百三十有余年の長い繋がりを持つ土地柄である。
 そんな地域の定置網に平成二(一九九〇)年二月二十二日、ゴンドウ鯨がかかった。久し振りの鯨に、漁師は早くも舌鼓を打っていた。港に帰った漁師は先ず鯨を市場の片隅に揚げ、今日の漁獲の仕分けにいそしんでいた。
 すると、そこへ突然、塩土老翁《しほつちのをぢ》(海の神)が今朝の漁模様を覗きに現れた。老翁《をぢ》は鯨を目聡《めざと》く見付けるや、これは孕《はら》み鯨ぞ、といった。その言葉を耳にした漁師は手が止まり青ざめた。先人の漁師の戒め「孕み鯨と子持ち鯨は、夢にも見るな」鯨に対し、慈しみと畏怖の念を忘れるな、と言う格言だった。
              絵 山本 清衣
 漁師は老翁の教えに直ぐさま応え、鯨を漁港内に放した、が何が気に入ったのか一昼夜二昼夜たっても外洋へ出る気配がない。「プハーッ、プハーッ」と規則正しい呼吸音を発しながら、ゆっくりと時を過ごしている。  この鯨は、ゴンドウ鯨の仲間で小型のハナゴンドウらしい。全長二・五㍍程度で花柄模様の白っぽい文様が特徴だ。五日目の朝のこと、漁師がさぞ腹も空いたことだろう、と大敷き網の朝持ち取れのスルメイカを口先に投げ与えた。するとパクリと頬張った。つづいてイワシを与えると、これも喜んで頬張った。少しずつ元気を取り戻したか、腹が空くと岸壁に寄りそい餌をねだりはじめた。
 新聞やテレビで報道されるや、三津漁港は絶え間ない見物客で賑わい、にわかに鯨ウオッチングの場となった。朝から家族連れが車を連ね多い日には二千人、子供らは”ゴンちゃん”と愛称した。見物人は日ごとに増し、観光バスも立ち寄りはじめ二週間で延べ一万人の集客となった。
 三月二十八日正午頃、大敷き網の晩持ち揚げの準備をしていた漁師が、ゴンちゃんの異変に気づいた。ゴンはピンク色の何かをくわえている。最初はビニールかと思ったが、よく見ると違う。「ひょっとすると赤ちゃん?」市場の職員たちも次々出て観察。午後二時半頃、赤ちゃんと確認したが残念ながら死産であった。
 赤ちゃんは体長七十㌢程、鮮やかなピンク色である。本来ゴンドウ鯨の赤ちゃんの体色は黒っぽく、もっと大きい、と桂浜水族館の職員はいう。
 ちょうど一ヶ月間、ゴンちゃんを見守ってきた漁協関係者は「残念だ。可哀想じゃのう」としんみり。ゴンは死んだ赤ちゃんを離そうとせず、チーズのような乳を出して与えようとする。胸鰭《むなびれ》で持ち上げたり、盛んに背中に乗せて息をさせようとしたりする。人間に劣らぬ母性愛、愛情溢れるその姿に人々は涙をいざない見詰めていた。
 「ゴンちゃんめっきり衰弱」お産時に感染症か、と高知新聞に大見出しで載ったのが四月七日。食欲も減退し、泳ぎもぎこちない。二月二十二日に、港内にに離され餌をたらふく食べていた時のような、張りつめた体ではない。背鰭《せびれ》周辺から尾鰭《おびれ》にかけて白い筋が目立ち、骨が浮き出ている様子。首の部分のくびれが目立ち、頭部も角張ってきた。
 ゴンちゃんを見詰め続けてきた桂浜水族館の飼育係も「普通の痩せ方ではない。お産の時に感染症にかかったようで、命にもかかわる状態」まだ少しでも餌を食べるのが不思議なくらいだ。このまま痩せれば一週間くらいの余命という。飼育員から提供を受けた抗生物質を混ぜ合わせ、急場をしのいでいるが、これから港内の水温が高くなると、水の汚れが進み、ますます条件が悪くなる。三津漁協でも、「ゴンちゃん、そのうち外洋に出て行くと思ったが、これだけ長く居るとは意外。死ぬ前になんとか外洋に出す算段をしなくては」と話しはじめた。
 ゴンちゃんの死産や、衰弱が報道されるたびに、室戸市商工観光課や三津漁協にも「ゴンを助けてあげて!」との声が相次いだ。ゴンちゃん三津港去り難し・・・、外洋への、第一弾誘導作戦は失敗に終わった。
 内容は前日より空腹にしておいたゴンちゃんを、餌でつって港外に誘い出す。補助としてダイバー四人が後ろから追い立てる、という作戦であった。
 しかし、餌に混ぜた抗生物質が効いたのか!、ここ数日のゴンちゃんは一時の衰弱から脱した。食欲も回復して、九日朝はイカ四十匹、イワシ二十匹を平らげた。
 ゴンちゃんは、誘導船から投げ与える餌をくわえては港の奥に舞い戻る。まるで出口に向かうのを嫌がるように。ゴンちゃんの居る内港から港口までは、わずか二百㍍であるがゴンちゃんは誘いにはのらなかった。ゴンちゃんは港を安住の場と決めてしまったのか、それとも死産した我が子が眠る地から離れたくないのか!!!。
 四月十六日、ゴンちゃん第二弾目の救出作戦が行われた。この日は前回の轍を踏まじ、とばかりに大掛かりなものとなった。五隻の大敷き船に縦五㍍横幅九十㍍の特製捕獲網を作成した。港のスロープへ餌で誘導しながら、網周りを段々に縮めて捕獲した。
 ゴンちゃんは、一旦担架に包まれ大敷き船に揚げられた。こうしてゴンドウ鯨のゴンちゃんは、三津沖合い三㎞の外洋に放す作戦に成功した。ゴンちゃんをそっと海に降ろすと、一瞬、状況が分からないのかぽかりと浮かび放心状態であったが、やがて大きく息を
吸った。そして漁師たちの方に体を向け、頭を立て深々と三度お辞儀をして、大きく潜っていった。「ゴンちゃん元気でな。早く仲間に出合えよ」と四十人の関係者が見送った。
 二月二十二日、三津漁港に居ついたゴンちゃんは五十四日間、延べ四万人の胸に様々な思いを刻んで去っていった。
 ゴンの赤ちゃん、死産であった三月二十八日より数えて四十九日の五月十六日、三津漁協関係者数人と地区長が、最御崎寺・東寺の住職を招き、喧騒からとかれた三津港でしめやかに法要がおこなわれた。大海原で遊ぶこともなく、黄泉の国へ渡ったゴンの赤ちゃんへ畏怖畏敬の念を現したものである。

                           文  津 室  儿
       
 本号を持って、五年間にわたる「室戸市の民話伝説」の掲載が終了致しました。長い間のご笑読にお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。


 参考文献    
                             佐喜浜村を語る       小堀 春樹    著
                    木喰佛海上人        鶴村 松一    著
                    佐喜浜町史         町史編纂委員会  著
                    室戸岬町史         安岡 大六    著
                    室戸町誌          室戸町誌編集委員会編
                    室戸市史 上巻・下巻    専任編集委員                                                        島村 泰吉
                             室戸市余話         島村 泰吉    著
                    吉良川町 歴史めぐり    吉良川史談会   編
                    土佐路のはなし       N H K 高知放送局編
         羽根村史          山本 武雄    著
                             高知・ふるさとの先人    高知新聞社    編
                    伝説の里を訪ねて      高知新聞社    編
                    小説 武辺土佐物語     田岡 典夫    著
                    怪奇・伝奇     田中貢太郎著   春陽 文庫
                    笑話と奇談   桂井和雄著 高知県福祉事業団
                    耳たぶと伝承  桂井和雄著 高知県社会福祉協議会
                    俗信の民俗   桂井和雄著 岩 崎  美 術 社
                    生と死と雨だれ落ち 桂井和雄著    高知新聞社
                    土佐の海風     桂井和雄著    高知新聞社
                    明治生まれの土佐  河野 裕著    金高堂書店
                    ラジオ拾遺珍聞土佐物語 河野 裕著    
                    珍聞土佐物語    河野 裕 編著 高知市文化振興事業団
                               日本の民族高知 坂本正夫・高木啓夫著   第一法規
                    土佐の民話 第一集・第二集 市原麟一郎    編
                    日本の民話 35 土佐編                   未 来 社
                    高知県方言辞典       高知市文化振興事業団
                    日本昔話集成  全6巻   關 敬吾     著
                    日本の民話   全12巻   角 川    書 店
                    日本の伝説   全49巻   角 川    書 店
                    定本 柳田國男集  全31巻   筑 摩    書 房                                                別巻5巻
                    口語訳 古事記    三浦 佑之著   文芸春秋刊
                    中西進  著作集古事記を読む一・二・三     四 季 社              

室戸市の民話伝説 第59話 岡村十兵衛浦久

  第59話  岡村十兵衛浦久

 岡村十兵衛浦久が羽根浦(現室戸市羽根町)の分一奉行《ぶいちぶぎょう》(分一とは、物品の課税・徴収・民政役人)として赴任したのは、元和《げんな》元年(一六八一)春二月であった。
 十兵衛が、ここ羽根浦に赴任する前の寛文・延宝の頃の「日本災異志《にほんさいいし》」によれば、寛文九(一六六九)年「是歳諸国飢民多シ。諸国連年米穀実ラズ、且ツ去年ノ大旱魃ニテ民力労瘁ス」。延宝二(一六七四)年「是歳春諸国大饑饉ナリ。是歳春諸国大ニ飢エ餓死スル者街ニ盈《み》ツ三月ヨリ五月ニ至ルマデ…。阿波ノ若江郡渋川郡蔵人拾ヶ村(総人口四千九百十二人アリ)ノ内、飢エ者三千七百五十二人アリ…」と記されている。寛文・延宝時代の諸国の飢饉の窮状がうかがえる。
 十兵衛は着任するやいなや、羽根村の庄屋・左近右衛門(檜垣左近右衛門)を呼び村内津々浦々を案内させ、民情を詳しく視察し、その惨状を救うのに心を砕いた。
 日本災異志にあるように羽根浦も例外ではなく、餓死者は日を追って増え惨状は目を覆うばかりある。農民は相次ぐ凶作に泣き、漁民は時化がつづき漁に出られず不漁で浦人の生活は困窮の極みにたっしていた。
               絵 山本 清衣
 十兵衛が先ず取り掛かったのは、藩に願い出て、黑見のお留め山を明けてもらい(伐採許可)、松材を五万三百六十二本、保佐《ぼさ》(雑木)十八万四千三百十二束を仕成して上方方面に売り、銀八十七貫六八四匁余りを得ることができた。杣《そま》の日雇い賃、四五貫余りを差し引き、残り四二貫余りを地下人に用立てて、浦人の救済に充てた。
 しかし、こうした努力も、自然の力の前では遺憾ともしがたいものがあった。十兵衛赴任後の天和の三年間も、災害や凶作、不漁はなおも続いた。言いかえれば、天和元(一六八一)年夏より秋にかけての風雨、洪水が相次ぐ、翌二年には生活苦に耐えかねて、室津浦の浦人は六二人が駆け落ち(他国へ逃亡)をし、浮津浦でも数十人が逃散《ちょうさん》している。
 天和三年も暮れようとしたが、事態は好転の兆しすら現れず、売掛米代金返済の目処も立たず、十兵衛は藩と地下人の間の下級武士として苦悩の日々を過ごしていた。十兵衛は、幾度となく藩に浦人の窮状を訴え、藩の援助を願ったがはかばかしい返事はなく、年は明けて貞享《じょうきょう》元(一六八四)年となった。

 もはや飢餓に苦しむ浦人を救う道は、藩の御米蔵の年貢米を施すより外はない、と判断した十兵衛は再三にわたり実情を報告して、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを藩庁に願い出た。
 しかし藩は仕来りと掟を盾に、なかなか腰を上げない。古今変わらぬお役所仕事というべきか、藩から何の沙汰も無いまま数ヶ月がたった。その間にも浦人の苦しみは増すばかりで餓死者の数が増えた。今はこれまでと覚悟を決めた十兵衛は、庄屋檜垣左近右衛門を呼び、「後日重罰あるは必至であるが、事態を座視することはできない。私の一命に代えて今日の危急を救おう」と話し、尾僧の米蔵を藩の許可なく開いて、蔵米を餓死寸前の浦人に施し浦人を救済した。
 御上の許しなく、藩の米蔵を開いた罪は重い。追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、心静かに事務整理の日を送った。一応の整理を終わった十兵衛は、庄屋、年寄り等を集めて事態の推移を説明し、その夜、藩主豊昌公に一人別れを告げ、役宅の一室において罪を一身に負って割腹して果てた。
時に貞享元年七月十九日未明であった。
 浦人は慈父を失った如く嘆き悲しみ、羽根八幡宮の傍らに葬って、朝夕香華を絶やすことはなかったと伝えられている。
 明治四(一八七一)年、羽根村組頭、地下惣代十数名が高知県庁に願い出て「鑑雄神社」として祀り、明治七(一八七四)年、正遷宮(正遷宮とは、神社の改築・修繕が完了して、御神体を仮殿から新殿に遷座すること)の儀を営んだ、と伝う。
 貞享元年七月十九日未明、役宅の一室に於いて割腹し果ててより三百三十一年後の平成二十七年の今も、鑑雄神社は十兵衛さん、十兵衛さんと親しみ深く畏敬をもって祀られている。
                  室戸市史・高知新聞より

                            文  津 室  儿
        

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

室戸市の民話伝説 第58話 一木権兵衛

第58話  一木権兵衛

 本名・一木権兵衛藤原政利《いちきごんべえふじはらのまさとし》は、元和《げんな》三(一六一七)年布師田(現高知市)に生まれる。弱冠十九歳にして、土佐藩百人衆鄕士から鄕士頭に進み、更に藩の奉行職・野中兼山の小姓となり、七人扶持二十四石を支給されている。
 一木権兵衛が、野中兼山に抜擢されたのは権兵衛が発案し普請した水門、”権兵衛井流《ゆる》”が兼山の目に留まったことに由来する、という。
 その水門とは、通常は水量の調節を行うが、河川の洪水など増水時には用水路の水門を閉め下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開き国分川に水を流し、上流域を浸水から守り、堤防の決壊を防ぐ仕組み、だという。
 当時、土佐藩は基盤の強固拡大を図るために、開墾・灌漑・干拓・築港事業等を強力に進めていた。執政・野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中、布師田でこの灌漑”権兵衛井流”を目にして驚き、村人に誰の普請か問いただした。
 兼山は、呼び出された権兵衛に如何なる考えで、この水門を造ったか、を述べさせた。権兵衛は、上記に記した機能を考えて普請したことを兼山に伝えた。その考えは、兼山が山田堰から多くの用水路を造る計画の中で考えていた仕組みと正に符合するものであった。 この権兵衛の発想の豊さ、井流がみせる技術力の確かさを見抜いた兼山は、権兵衛を鄕士に取り立て自らの小姓とした、という。これが権兵衛が兼山に大抜擢された由来だ、と言われる。
               絵 山本 清衣
 ここで寛文の「中普請」に付いて「室戸港忠誠伝(室津港の事)」よりひろう。
 室津港の西側を流れる室津川の左岸の石垣を高く築き、川の増水の浸水を防ぎ港内を掘り進めていた。港口一帯の岩石を砕き、岩盤を掘り下げる工事には役夫の数は蟻が物を運ぶがごとく集まり、日々四、五千人が働いた。 工事の進む中、一木権兵衛の身に大きな難題が立ちはだかった。港口に巨大な三巌があらわれた。その巌には古来より浦人が、御釜碆《おかまばえ》(高さ九尺2.7m幅十間18m)・鮫《さめ》碆《ばえ》(高さ八尺2.4m)・鬼牙碆《おにがばえ》(高さ八尺2.4m)と名が付けられていた。浦人はこの三岩を人智の及ぶところ無しと恐れ、波間に出没しては船がよく座礁していた。しかし、この巨巌を除かなくば、内堀が掘られても用をなさない。
 この三巌の破砕にかかり、数日後のことであった。役夫が使う石鑿《いしのみ》の破損がはやく、鍛冶屋を困らせたり、碆から落ちて怪我をする者が多く出始めた。そのうち、妙な事を口にする者が出始めた。ことに、御釜碆のこと。碆に石鑿を打ち込むと、血が出たとか、前日に破砕してあった所が、翌日行くと、元通りに治っていたとか、夜な夜な小坊主が五六人集まり、訳の分からぬ談義をしているから、声を掛けると一斉に居なくなる、といいます。この御釜碆には龍王様が宿っている、と役夫たちが口々に喋り仕事を怖がりだした。
 そのような最中、藩主が東寺に参拝の途中、室津港の普請を御覧になるとお通りになった。その時、家臣の一人が一木権兵衛をあざけ笑いながらいった。「一木氏ご苦労千万、数ある忠勤、しかし、この様な大きな池を掘られて、さてこの池には鮒や鯉を飼われ釣り堀にしたらよろしかろう。拙者は遠路だから見物には来られないだろうが」と。声高に罵ったという。
 一木神社記念碑には、以下のように記されていた。
 一木権兵衛、力を尽すと云えども、三巌を取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中兼山に乞い三千人の増夫を得る。日々督責《とくせき》、槌鑿《つちとのみ》を以て推破すれど、依然として砕けない。却《かえ》って槌鑿を毀損《きそん》するのみである。
 権兵衛退《しりぞ》いて以為《おもえ》らく恐らくは、これ三巌は神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴《さいかいもくよく》して天神地祇《てんじんちぎ》に誓って云った。この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕《さいこん》より血迸《ほとばし》り出て、数千人大朱に染み水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
 さて、室津港の開鑿《かいさく》は数次にわたって修築が行われ、本格的な竣工をみたのは延宝七(一六七九)年六月であった。なお、この工事を延宝の堀り次ぎといって、港普請奉行は一木権兵衛であった。
            神社記より。
 野中兼山の失脚後も、一木権兵衛が室津港の難工事を成功させた時、延宝七(一六七九)年六月十七日夜、御釜が碆上に祭壇を組、一木家の定紋「丸に九曜」をあしらった紫の幔幕を張り巡らし、明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の太刀海神に捧げ、翌未明に切腹を果たし、自らの身体を約束通り海神に捧げた。
 この行為は、一木権兵衛が野中兼山に対する恩義と忠誠のほかに、野中兼山を失脚させた土佐藩に対する痛烈な抗議の意思表示であったであろう。
 室津港築港の口火を切った最蔵坊こと小笠原一学、中次ぎ普請を担った土佐藩家老・野中兼山、竣工にこぎつけた普請奉行・一木権兵衛の三氏に因って成ったことに、畏敬の念を表すべきであろう。

                        文  津 室  儿
         

 


 

 


2015年1月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第57話 野中兼山

  第57話   野中兼山

土佐藩家老・野中兼山《けんざん》は、元和元年(一六一五)播州姫路(現兵庫県姫路市)に父良明、母は大阪の豪商の娘・秋田万《まん》との間に生まれ、幼名を左八郞といい、長じて伝右衛門良継と言った。 兼山は号で、後に別号として高山と改め、致仕《ちし》(官職を退き隠居する事)して明夷軒と号した。ちなみに、祖父・野中良平の妻は、山内一豊の妹・合姫《ごうひめ》であり、山内家との血脈は非常に濃い。 
 兼山四歳の時、父・良明没し、五歳にして母万と流浪に入る。その間辛酸を嘗めること八年、それでも母万の訓育・学問は怠らず十三歳にして祖父の野中権之進良平の弟、主計益継の嫡男・野中玄蕃直継を養父とする。
 養父直継には、嫡男がいたが早世して家を継ぐ者が居なかった。これを介意した小倉少助政平『小倉少助政平とは、初期の土佐藩を支えた重臣であり、初代一豊に長浜にて仕え、一豊の土佐入国に従って来国した。二代藩主忠義公に起用され、奉行職の野中直継と共に土佐藩財政の赤字克服を目的とした元和《げんな》の改革を推進した。特に土佐の豊かな山林に注目し、領内の山地を巡視し、五十年を期限とする輪伐制を創始した』が仲介役を務め、直ちに高知城下に迎えられ、十五歳で元服し良継と名乗った。後に直継の娘・市の入り婿となった。
                絵  山本 清衣
 兼山は、養父直継の元にて初めに禅学を修め、儒学を極める。又、南学『土佐で起こり発達した朱子学の一派。室町時代末期の南村梅軒を祖とし、谷時中・小倉三省・野中兼山・山崎闇斎らが著名。現実社会における実践を重視した』を学んだことを実践する側ら、小倉少助政平に経済及び財政学を学ぶ。ここに書き落としてはならない事は、母万によって注がれた愛情溢れる教育が兼山の人格の陶冶がなされたことを。
兼山二十二歳にて、養父直継が寛永十三年(一六三六)十一月五十歳を以て歿する。ただちに、直継の家督を継ぎ併せて土佐藩奉行職をも受け継ぐ。藩主・忠義公は、奉行職に就いた兼山に藩政改革をすぐさま命じる。
 まず兼山は、河川の氾濫を防ぐために堤防の建設、米の増産を図るために平野部の開墾、灌漑用水路の敷設工事、森林資源の乱伐を防ぐために小倉少助政平が創始した、伐採を五十年周期とした輪伐制の導入。築港を推し進め、藩外から植物、魚類等を輸入し藩内で養殖につとめた。又、陶器の製造、養蜂など技術者の招聘に努め殖産興業・専売制の強化を図り、今でいう地産地消・地産外商に努めた。その結果、藩財政は好転をみる。
 これより、兼山が当市に遺した偉大な業績・築港を尋ねてみる。
 兼山が先ず手掛けたのは、津呂港であるが、当時兼山は津呂港の事を室戸港と呼び、室津港との混乱を招くため、現在の呼称に倣い津呂は津呂港に室戸は室津港として記す。
 最初に津呂港の試し堀を着手したのは、最蔵坊こと小笠原一学で元和四(一六一八)年十一月のことであった。最蔵坊は、わずか一カ年で竣工を成し遂げているが、釣り舟出入りの利用にとどまり、藩が参勤交代に使用する御座船や百石船の停泊は不可能であった。
 最蔵坊が手掛けて一八年後の寛永十三(一六三六)年、執政となった兼山は、津呂港、室津港、佐喜浜港、手結港、柏島港等の改修工事を次々と手がけていった。
 中でも、兼山が自ら総裁となり、津呂港の完成を一挙に図った寛文の築港をとりあげてみる。兼山がこの工事の完成を記念して記したと言われる『室戸湊記』による、築港工事の概要では、以下のように記してある。
 ここ津呂の地は、険しい岩場であって平地はなく、難工事となるだろう。しかし、工事が成功すれば海底に砂なく、磯に泥土がないから、後々、港が埋まったり、港口がふさがったりする事はないだろう、と予想した兼山はその成功を期して幕府の認可を得た。
 そして安積幸長、衣斐勝光、野村成正を責任者として、井上康正を奉行に、工事の責任者を江口延光を登用して工事にかかった。
 その時、漁師の意見を聞いたら、「港の口となるべき処に三つの大岩があり、それを鯵《あじ》岩、斧《おの》岩、鬼《おに》岩という。従来船が破損するのは、専らこの岩によってである。たとえ港が出来ても、この三岩を除かねば後日の害は従前より減らないだろう」と言った。
 この三岩は水際から百二十歩余りのところにあって、堤のように支える岩石がない海中にある。そこで、兼山はこれを砕く為の工法を考え、扇を張った形の堤を造ることにした。 それは海中に扇の要に当たるところを定め、そこから扇の骨を張りだすように水際まで堤を造って海水を防ぐという方法である。衆議のうえ、巨松数万本を四列に櫛《くし》の歯が並ぶように立て、巨木細木を縦横に交差して組み、その中に土俵七万俵余りを入れて海水の流入を防いだ。これが有名な兼山の「張扇式の堤」である。
 こうした予備工事のうえ、堤内に更に堤を築いて二区とし、人夫数千人が内側の水を汲み出した。そのうえで、大鉄鎚《つち》や大鑿《のみ》で岩石を砕いた。こうして地下三尺まで掘り、干潮時八尺の泊地ができた。次いで三岩破砕に取りかかった。干潮時に外堤の上部を切って中堤との間の海水を外海に出し、次いで外堤の欠所を防いで、内堤を切ると海水はすでに掘り下げている泊地に流れ入って、三岩がその全容をあらわした。人夫達は、大鉄鎚や大鑿、もっこを持って、また、役人や地下人らも蜘蛛《くも》の子のごとく集まり歓声をあげた。さらに堤内に淵を掘って大雨の時、雨水が溜まるようにした。こうして三岩破砕に全力をあげ、工事は完成した。
 これに要した人夫、述べ三十六万五千有余、費用、黄金一一九○両であり、寛文元年正月十六日竣工式を行い室津港の開鑿にかかる。
 この頃、すでに隠居していた忠義公であるが、津呂港築港に寄せる思いは尋常ならぬものげあり、兼山への絶対の信頼を読み取ることができる。兼山は「室戸港記」において、自己の事績はいささかも記さず、すべて主君忠義公の仁政に帰している。歴史の皮肉は、津呂港竣工一年有余の後の寛文三(一六六一)年、兼山失脚の憂き目に遭わせ、その年の大晦日に死に至らしめた。その上、主君忠義公も後を追うかのように、寛文四年に逝去した。
 津呂港・室津港こそ、後世に残る兼山の数々の大工事の掉尾《とうび》を飾る大事業であった。
津呂・室戸の浦はこの両港あってこそ、水産業の起因・その命脈を保ち、その恩恵は計り知れない。最蔵坊小笠原一学、野中兼山、一木権兵衛の諸先覚者の業績を忘れてはならない。    
                  偉人野中兼山・室戸市史より

                        文  津 室  儿