2017年10月17日火曜日

   大 隆 丸  漂 流 記


                                         大 隆  丸 漂 流 記
                                        
                                                                            川 本 満  安  著
                           
 昭和十一年十二月十日。
 私が、機関長として乗り組んだ大隆丸は、午前十時、気仙沼港を出港した。船は、針路を東微南により南下した。
 天候も良く、平安な航海が数日続いた。
 
 十二月十六日。東の風強く、天候曇り。
 午前十時頃、当直に当たっていた油差しの岩川君が重油がタンクから漏れているのを発見し、色をかえて報告してきた。私は急いで調査したところ、既にそのタンクには一滴の油も無かった。私はすぐに船長に報告し、船員一同にも事の次第を話した。
 船員は大いに驚き、船長にこの付近で操業する様口々に頼んだ。しかし、船長は、あえて驚く顔も見せず、ただ黙ったまま進路をかえ様とはしなかった。
 もう今日で六昼夜走っている。少なくとも一、○○○マイルは沖に出ている。私は以前から、この船長は、相当無理をするという事を聞いていたので、これ以上沖に出てる事に危険を感じた。そこで、船長に、この付近で投げ縄を始め、事業を終えて早めに帰る様に進言した。しかし、船長には、どの様な考えがあったのか、私の言葉には耳をかそうともせず、尚も沖に走り続けた。
 十二月十九日。風はなく、天候良好。
 重油タンクの漏れを知った日から三日走った。この日の午前五時半から大隆丸は投げ縄を開始した。午後一時、揚げ縄開始。ビン長三百五十尾。一尾、約四貫。
 
 十二月二十日。
 昨夜の大漁に気をよくした乗組員十七名は、休む間もなく第二回目を操業した。その日も大漁であった。
 大漁は二十二日迄続き、乗組員の不眠不休の作業が続いた。その日迄に、ビン長千三百尾、メバチ五○尾余りを釣り上げた。
 
 十二月二十三日。
 船員は、前日迄の作業に疲れはて働く気力もなく、午前四時から寝てしまう始末であった。その日は、エンジンを停め漂泊する事になった。
 
 十二月二十四日。南の風微、曇り。
 休息をとった船員は、元気をとり戻した。朝食後、船橋に行った私は、もはや燃料は余すところ僅かである。この南風に帆をあげ、帰港せねば、西の向い風でも吹けば危険である。と、副船長と共に船長に帰港を勧めた。船長は、ようやく帰港しようという気持になり、午前九時エンジン始動、針路を西にとり帰途についた。
 午後四時頃、曳き縄にトンボが多くかかった。私は船長に操舵室に呼ばれた。船長は、「漁がありそうだから、あと一日操業する。船員にそう言い渡してくれ」と言った。私はあまりの事に気も動転するばかりであった。
 私は、「船長、船は何マイルの沖にいるのか? 何日走れば入港できるのか? 明日一日投縄すれば、燃料は九昼夜走るだけになる。十昼夜はとても無理だが大丈夫か? 」と尋ねた。「向かい風をもらっても八昼夜、この天候ならば七昼夜で帰れる。心配するな。俺はこの船には長年乗っている。機関長をやった事もある。萬一、重油が不足しても、陸の近くには沢山の船が居るから補給してもらえる。大丈夫だ」との答えだった。

 十二月二十五日。
 早朝より投縄。午前中、南東の風強く、漁思わしからず。午後十一時半、揚げ縄終わり帰途につく。トンボ三○○尾。メバチ五○尾余り。総計一、五○○尾。まず満船に近い漁である。風は北西に変わり、次第に強くなり航行困難となる。

 十二月二十六日。
 西の風となり、益々強く航行困難。早くこの風が凪ぐ様に、神に祈りつつ航行を続けた。

 十二月二十七日。
 風は次第に弱まり、天気も良好となる。

 十二月二十八日。
 又、西の風強くなり航行困難。燃料不足を思うと胸が痛む。来る日も来る日も、西の風は衰えない。

 十二月三十一日。
 とうとう本年も今日で終わりである。
 私は不安のあまり、船長に船の位置を尋ねた。「未だ七○○マイルばかりある」との答えに驚いた。「既に六昼夜近く走っている。あと四昼夜走るだけの燃料しかないが、七○○マイルを四昼夜で行けるのか。毎日の向かい風で船足は伸びていない。とても陸に着く事はできないと思うが、船長は自信があるのか?」私は重ねてたずねた。その言葉に船長の顔は、たちまち土色にかわった。
「重油がないとは、それは困った」そして、唯困った。困った。とつぶやくばかりだった。 「船長、あなたは、自分の言った事と、私が言ってきた事は忘れていないでしょうね。」答えはなかった。
 私は、いつかは、こうなるであろうと思っていたが、今更ながら胸がつまった。船員を集めてこの事を話した。
 船員は、ざわめいた。涙を浮かべる者。船長を殺せと叫ぶ者。船内は騒然として収拾がつかなくなった。色めき立つ船員をようやく静めて、不安な一夜を明かした。
 これからは、他船に会うのが助かる唯一の望みである。

 昭和十二年一月一日。
 年は改まった。不安の中にも赤飯を炊いて正月を祝った。
 来る日も来る日、不安はつのるばかりである。風はいよいよ強く雪さえまじえてきた。空はまるで墨を流した様に暗く、寒さで耳はちぎれるばかりであった。

 一月四日。
 ついに来るべき日が来た。燃料はいよいよ底をついた。大隆丸は、最後の最後に供えて少量の重油を残したまま漂流を始めた。
 時に午前十一時三十分。気仙沼沖二○○マイルの地点である。全員蒼白な顔で甲板に集まり、陸の方角を拝し、どうか十七名の生命を助けた給えと神に祈った。
 毎日見張りを立てたが、船の影さえ見えない。白い布に船の位置を書いて海に流した。付近を航海中の船が、これを拾ってくれる事を神に念じながらーーー。
 救助はいつ来るかわからない。食物がなくなれば、飢え死にする外はない。私達は、食事を一日二度にする事にした。

 一月七日。
 漂流して四日目である。船長の天測によって北海道釧路へ西北西二○○マイルの地点である事がわかった。漂流をはじめて大分北に流されている。北の海には船がいない。
 このままだと救助される可能性はいよいよ少なくなる。寒さも加わってきた。耐寒の準備のない船員は、やがて寒さにも耐えられなくなるだろう。事実、雪は益々降りしきり、西の風は愈々強い。水温は六度まで下がっている。見張りの者も、あまりの寒さに船室で火を燃やし、寒さをしのぐ有様であった。

 一月八日。
 天測では金華山へ西微南、四○○マイルの地点に流されている。
 陸の方に船をもって行く事はまったくできない。私達は最後の手段として、沖に流されても良い、とにかく船の航路筋にもって行かねばならないかと考えた。そのためには船を南に進めるのが上策である。この事を船長に話した。これには船長も大いに賛成して船を南にもって行く様苦心した。

 一月十日。
 天の助けか風は北東にかわった。船員一同は狂喜した。互いに励まし合って錨をあげ、帆をあげた。
 マストは風のため折れていたので、マグロ巻き用の柱を下桁とつなぎ合わせて帆を張った。
 この追い風に少しでも南に進めようとエンジンを始動して南西に走った。しかし、喜んだのもつかの間、午後四時には風が吹き止んだ。帆を下ろし、エンジンを停止して再び漂流を始めた。

 一月十一日。 西の風強く、波高し。
 船員は皆働きざかりの若者ばかりである。一日二食、一回三升の飯では満腹できない。魚を節にに作って代用食とする。

 一月十三日。
 私は、疲れた身体をハウスに横たえてうつらうつらしていた。午後十一時頃であろうか。突然、
「おーい、船の火が見えたぞ」と誰かが叫んだ。一同はあわてにあわてた。とたんに船内の灯がが全部消えた。
「あわてるな」「港着け」
 ようやく室内に灯がつき、かねて用意してあった石油に火をつけ、何本もの火を振りまわし、声を限りに助けを求めた。
 船の灯は次第に近づいてきた。見れば大きな汽船である。大隆丸に気付いたらしく、赤い灯を振っている。
 助かったと思った。風浪は高い、もしこの汽船が救助してくれぬ限り、皆死ねばならない。船長は、エンジンの始動を命じた。
 この時、自分の目を疑いたくなる様な事が起こった。エンジンが動きだすと、汽船は何を思ったのか、急に針路を右に転じ、船尾を見せたのである。
 ここで見捨てられては事である。エンジンを全開して汽船を追った。しかし、汽船に追いつくには、わが、大隆丸の速力あまりにも遅すぎた。歯ぎしりのうちに彼我の距離はひらくばかりである。とうとう船の灯さえ見えなくなってしまった。
 一同は、うずくまったまま溜息をついた。やがて、あちらこちらで汽船の無情さを罵る声。本船がエンジンをかけたのが悪いのだという声があがった。しかし、もはや後の祭りである。
 とにかく漂流して、はじめて船に会ったのである。気を取り直してその夜から全員交代の厳重な見張りを続ける事にした。
 その日の位置は、東経一五二度四二分。北緯三九度一三分であった。

 一月十五日。
 この頃から風邪気味だった福留武君の容態が次第に思わしくなくなった。食事も進まず、顔色は、日を追って血の気を失っていった。 空腹の毎日が続いた。
 飲料水を節約する為、残っていた氷約一トンを水タンクに入れ溶かして使った。しかし、その為にゴミまじりの水になって、船員は一様に下痢に悩まされ、身体は次第に衰えていった。
疲れた身体を励ましあい、追い風の時には帆をあげ南に下る努力をした。
 こうした日が何日か続いた。

 一月二十七日。
 米は僅かにⅢ俵を残すだけになった。この日より一回二升、一日二食とする。
 この頃になると、皆、国の事を話すより、いっそ死ぬものなら腹一杯飯を喰って死にたい等と話しあう様になった。

 一月二十九日。東経一五七度一○分。
南西の微風、凪良し。
 全員甲板に出て、見張りをしていた。午前十時、船員の一人が「船のマストが見えるぞ」と叫んだ。一同は、総立ちで彼が指す方角を見ると、大きな二本マストを見える。
 それっとばかりにエンジンを始動し、全速で船を追った。船影は次第に近づき、煙突が見え始めた。船体もようやく見える様になった。
 しかし、それ以上どうしても近づく事ができない。   向こうの船からは、こちらの小さな船のもようは見えないのだろうか。
 所詮、追いつけないものと諦めた私達は、張りつめた気が一度に緩み、その場にくたくたと座ってしまった。

 一月三十日。
 夜も明けない午前○時三十分頃より、福留武君の容態が急変した。意外な難病に驚き、
全員が一心に看護をするが薬もない。病人は狂気の様に苦しむばかりである。代わる代わる胸を撫でたり、できる限りの手を尽くした。しかし、そのかいもなく、午後二時二十分、彼は帰らぬ人となってしまった。
 その夜は全員泣きの涙で通夜をした。

 一月三十一日。
 故福留君の死体を船首の室に安置し、黙祷を捧げた。
 私達が幸いであった事は、南の方に船がきてからあまり西風が吹かず、北東又は、南東の風が度々吹いた事で、その度に南に南に帆走する事ができた。

 二月二日。東経一五七度二二分。北緯三一度五六分。
 午前一時頃、船の灯を発見したが、そのまま行き過ぎてしまった。
 大海原を眺めて船の通るのを待つ、単調な毎日が続いた。
 船影は見えても近づかず、無情にも遠くを通り過ぎて行くばかりであった。しかし、大隆丸は大分南に下っている。この付近にはもう漁船の航路筋である。力を落とさず元気を出せと励まし合いながら、次第に弱ってゆく身体にむち打って、なおも見張りを続けた。 
 二月五日。東経一五五度三二分。北緯三一度四八分。
 困ったことに病人が又でた。福留君と同郷の水夫長山下菊馬さんが脚気になり、食事の量が減ってきたのである。

 二月六日。東経一五五度○九分。北緯三一度三六分。
 病人はできる。米は少なくなる。焦燥の色はいよいよ濃くなった。
 ビン長の餌にするイワシの生を食べる者や、人目を忍んで生米を喰う者さえ出てきた。
 私は米の無くなった時の事を思うと、戦慄を感じた。喰う物がなくなれば、みんな半狂乱になるに違いない。そのときには、人間ではなくなり獣と同じになるのではないだろうか。米だけは厳重に監督しなければならない。 この日から、一回の食事の量を一升に減らした。

 二月八日。
 風はなく、まるで初夏を思わせる様な暖かさである。
 午後九時三十分、三崎の放送局より、「徳島県の第七正栄丸が大隆丸の流した漂流物を拾い、それによると、野島沖東僅か南二分の一、南八五○マイルの地点で漂流中の様である。出漁又は、帰港の各船は、その航路を通って救助されたい。又、陸からは早速救助船を出すから、大隆丸の船員は元気でいてくれ」との、ラジオ放送が入った。
 船員の喜び様は一通りではなかった。互いに手を取り合って喜び、正栄丸を神様として心で手を合わせた。
 その夜は、救助された時の事を色々と語りあって夜を明かした。
 二月九日。
 昨夜の放送に元気づき、今朝は一回だけお祝いにと、飯を炊いた。久しぶりに喰う強飯なので、話にならない程うまかった。
 その夜もラジオ放送を楽しみに待っていた。しかし、そのラジオもついに電池がなくなりその日から聞こえなくなってしまった。
 船内には又、不安が広がった。ラジオが聞こえなければ時計を会わすことができない。正確な時刻が分からなければ、天測ができないのである。
 あと十日のすれば、病人も次第に増えてくるであろう。死者も出ないとは限らない。気ばかりあせってどうする事もできない。こうなった以上、運を天に任せて少しでも陸に近づけ様と、陸へ陸へと帆走を続けた。
 四、五日が過ぎた。

 二月十四日。
 風がなく、帆を下ろして漂流していた。
午前八時頃だっただろうか。真っ白い鳥が二羽飛んできて、船の上をしばらく舞っていた。私達の見た事のない鳥であった。神様の使いに違いない。私は、どうか船に会わせてくれと、鳥に祈った。
 これは、後で聞いた事であるが、私達を助けてくれた大盛丸にも同じ様な鳥が二羽飛んできたとの事である。私は、これが偶然の符合であったとは、今もって信じていないのである。
 その日も暮れた午後八時頃であった。見張りの者が船の赤灯を発見し、ただちに用意の火を燃やし、全員声を合わせて救助を求めた。向こうの船も本船に気付いたのか、暫くすると両舷灯を見せて近づいてきた。そして、二個のサーチライトをこちらに向けた。船員は飛び上がらんばかりに歓んだ。
 「助かった」「助かった」と嬉し泣きに泣いた。
 やがて、その船はストップし、大隆丸と船体を並べた。船名は、大盛丸と読めた。
 私達は、「大隆丸だ。救助頼む」と大声で叫んだ。大盛丸から、「大隆丸ではあるまい。位置が違う」と返事が返ってきた。「本当だ。大隆丸だ。助けてくれ」と懇願をした。
 すると、大盛丸からは、「本船は燃料が少ないから、陸に無線を打ってやるからそのままで居れ」言われた。
 私達は驚いた。この船には見放されたら、今度こそ何時助けられるか分からない。歩く事もできない病人もいる。
 私は、大盛丸に泳いで行き、こちらの事情を話さなければと思い、船長に「泳いでみる」と話した。船長は、泳げるなら向こうに行って話しをしてくれ、との事であった。
 相当の波と風があった。私は懸命に泳いだ。ようやく、大盛丸に泳ぎついた。後から機関員の岡本正光君も泳ぎ着き、二人で病人のある事を話し、すぐに救助してくれる様に頼んだ。
 大盛丸は、直ちに救助作業にかかってくれた。ドラム缶にハシゴを縛り付け、それに船員を乗せて大隆丸と大盛丸の間を往復した。
 二時間後、私達は全員無事に救助された。漂流をはじめて四十二日目。野島沖六五○マイルの地点であった。
 それにつけても心が痛むのは、福留君の事である。遺体はとうとう運び出すことが出来ず、心に掛かりながらも大隆丸に残し、霊を祈りながら涙と共に別れを告げた。大盛丸の船首は野島崎に向けられ帰途についた。

 二月十九日。
 懐かしの三崎港に入港した。沢山の人々に迎えられた。
 出港してから七十二日、久方ぶりに土を踏んだ。やがて、病人も全快し全員お互いに、未来の幸福を祈り合いながら別れを告げ帰郷した。


 追記
乗船名簿
 大隆丸(七五トン)の船籍は高知県鰹鮪船主協同組合に属す。
 乗組員 和歌山県串本町出身・船長泉光男(32歳)その弟泉光次郞、高知県室戸町出身・機関長川本満安(32歳)、幡多郡田ノ口村出身岩川景清(23歳)、清水町中浜出身川添慶一郎(31歳)、下川口村鯛ノ川溝渕秀雄(17歳)、岡林庄三郎(28歳)、同村大津岡本正光(23歳)、平林定(18歳)、水夫長山下菊松(43歳)、福留作一(18歳)、宮城県出身菅原勝郎(32歳)、伊藤福蔵(37歳)、小野寺仙蔵(40歳)、小野寺正二郎33歳)、小野寺幸平(28歳)と故人の福留武(19歳)の計17名の乗組員であった。
 以上、大隆丸漂流記は機関長の川本満安氏が記したものでありますが、「奇跡の遭難航路」と題して、船長の泉光男氏の記したものがあります。検索して合わせて、お読み頂ければと存じます。
    
            津 室  儿

2017年8月28日月曜日

新土佐古式捕鯨のあらまし


土佐古式捕鯨史話
津呂組・浮津組


  




堀尾家古文書 勢子舟












土佐古式捕鯨のあらまし
 土佐古式捕鯨とは、津呂組と浮津組・二つの船団組織をさし、津呂浦集落・浮津浦集落の両浦人が主体となって営まれてきた。それは、寛永初(1624)年から昭和621987)年「IWC国際捕鯨委員会によるモラトリアム・商業捕鯨禁止」までの約360年間、若干の休漁期があったとは言えほぼ絶えることなく続いてきた。

1)土佐古式捕鯨の創始
 土佐古式捕鯨が生業として組織化されたのは、寛永初年・近世初頭に西国で捕鯨業が盛んになった頃、土佐東部・室戸岬津呂浦の地にも始った。
突取捕鯨の創始者は、元は細川家の家臣で水軍の武将の経歴を持つ多田五郎右衛門義平であった。五郎右衛門は、長宗我部元親が九州征伐に出陣したとき、泉州小島に牢居中であったが、元親に請われ水軍を率いて軍勢に加わった。その功により、土佐沿岸諸税免除(漁業権)のお墨付き(天正141585」年)を得て土佐に入った。
また、関が原の戦いにて武功を得た山内一豊は土佐の国を得た。土佐入国に当たって一豊に先立ち、弟康豊が海路甲浦に上陸した。五郎右衛門は帰順の意を表して甲浦に迎え、陸路浦戸まで供奉し、翌年、新国主山内一豊を迎え浦戸へ無事送った。
一豊は五郎右衛門の帰順を喜び津呂浦の大庄屋職と海防の任、浦周辺の治安統制の役を命じた。
 江戸幕府は鎖国制度を導入。国土海防の任を負った五郎右衛門は、水軍200人の扶養と教練のためにも捕鯨導入は避けられないものであった。

2)土佐古式捕鯨の変遷
  多田五郎右衛門の創業した突取捕鯨について、
勢子舟十三隻には、王春(正月)夾鐘(二月)沽洗(三月)中呂(四月)等、中国語の雅号を付し、別に閏月の一隻があった。
「其ノ舟ニハ櫓手熟ヲ乗ラシメ平時ハ漁業ニ従事シ、不時ノ際ハ高知言上ノ急用舟トナス」『津呂捕鯨誌』にあるように、舟は軽快で堅固であった。また外冦に備え水軍訓練の意味もあったことから、当然捕鯨の方法も、巨大な鯨を敵艦に見立て、これを取り囲み銛を投じて屠殺した。
 また、『津呂捕鯨誌』は次のように記している。
「毎舟羽刺一人漁夫十二人ヲ以テ乗組ノ定員トナシ、櫓手ハ必ズ小腕返シノ法ニヨリ操縦進退ニ便ナラシメ、毎舟ニ数銛、早銛、大銛、樽銛、ケン等ノ漁具十七挺ヲ用意シ、若シ椎名漁場ニ於テ浄雲寺ノ鼻ヨリ鯨ノ来遊ヲ認ムレバ、武流石ノ鼻ニテ漁舟ヲ十二月ニ備ヘ、林鐘ノ舟ヨリ早銛ヲ突始メ夷則・南呂ト順次ニ銛ヲ投ジ、若シ津呂漁場ニ於テ室戸ノ崎ヨリ来遊ヲ認ムレバ閏月ノ舟ヨリ左右ニ分レテ銛ヲ投ジル、又行当ノ崎ヨリ鯨ヲ発見スレバ耳崎ノ沖合ニテ漁舟ヲ整列シ、王春ノ舟ヨリ突始メ十二月ノ雅号ヲツケタ舟ヨリ、黄鐘、玄冬、梢秋ト逆順ニ銛ヲ投ズル等」
このように堅固で早く進む舟で、山見の知らせに応じ、鯨に近づき、隊伍を整え、銛を投じていったが、その隊列、銛を投ずる順序は厳重であり、さながら水軍が敵船を襲うに似ていた。
このようにして、寛永五(1628)年頃には隆盛をきわめ、200人を扶持するに足りた捕鯨業も、やがて鯨の来遊が少なくなり、寛永十八(1641)年に廃業のやむなきに至った。
「是レ実ニ土佐捕鯨業ノ鼻祖ニシテ、津呂捕鯨組ノ遠祖ナリトス」と上掲書は述べている。   『室戸市史下巻より抜粋』 
 五郎右衛門の廃業後十年を経た慶安四(1651)年、土佐の名索相と言われた野中兼山(若干、二十一歳にて奉行に就任)の知遇を得た尾張の国の尾池義左衛門(後に安芸郡の代官となった)は、土佐沖を多くの鯨が来遊するのを見て捕鯨を思い立ち、故郷尾張から親族の尾池四郎右衛門を招いた。早速、四郎右衛門は六隻の鯨舟に乗ってやってきた。土佐藩も捕鯨を許可し操業を始めた。これが土佐における尾池組の始まりである。
尾池義左衛門の故郷、尾張の国は捕鯨を古くから始め、紀州や土佐よりも早く鯨組みが組織されていた。
 尾池組の本拠地はどこに置かれてか、いまだ定かでないものの、浮津浦・奈良師でないかと考えられている。尾池組が大漁で盛況のとき、西寺(金剛頂寺)、浮津八王子に鰐口を、さらに西寺へ大太鼓(打面、五尺)を奉納していることからも、浮津浦の浜が根拠地であったことを示している。拠り所を浮津に定めた尾池組は、浮津漁場のほかに幡多郡佐賀を選び、冬・春両所を交代で操業をした。幸いなことにこの頃豊漁で、佐賀では十三本の鯨をしとめた。なかには、十三尋(19.5m)の背美鯨が入っていた。なお当時の漁法は勿論、突き取り漁法であった。
 このころ、土佐沖に来遊する鯨おびただしく、尾池組に殿組(土佐藩営)が加勢している。奈良師に拠点を置いた藩営殿組は七年間、尾池組と共に出漁したと言う。
この共同出漁に後の浮津組の萌芽がみられる。この豊漁が全国に伝わり、熊野や西国あたりからも、鯨組が奈良師に渡来し、捕鯨に加わり浮津浦は大いに賑わった。
 しかし漁業は水物である。殷賑(人の往来が激しいようす)を極めた捕鯨であったが、鯨の来遊が止み浮津浦は火が消え静まりかえった。明暦三(1657)年のことであった。尾池組・殿組の操業はわずか七年で終った。
この頃、浮津浦はまだ捕鯨業に従事せず、津呂浦のみの操業であった。
 尾池氏について、次の記録がのこる。
尾池甚太夫ハ以後、室津ニ永住シ後世綿屋ト号ス、子孫今ニ連綿タリ、室津・有光賢次郎ハ綿屋ノ後継者ニシテ、尾池家累代ノ位牌及墓地ヲ管理シテ祭祀怠ラズ、墓地ハ旧円明寺ノ上ニアリ                      (吉岡高吉『室戸漁業史』)
 尾池家墓地は本来、室津愛宕神社の南麓に有ったが、昭和46年、国道55線新設に伴い、西寺・金剛頂寺に移転し、現在手厚く祭られている。
尾池組廃業三年後、五郎右衛門は捕鯨業から離れていたが、大庄屋として地方統治に当たっていた。生業を失った漁民救援のために、浮津の庄屋や年寄り・有力者と諮り、
捕鯨の再興を藩に嘆願した。
藩でも既に、御手先船(藩営)が審議されていたが実現を見ていなかったことも有り、これを許可し、船材一二隻分を両浦に給付した。こうして、再捕鯨操業にこぎつけたのは、万治三(1660)年のことであった。
 捕鯨方法は従来の突取り漁法であったが、浮津は地下組として初めての事であった。また津呂においても五郎右衛門廃業以来20年を経過しており、紀州熊野より漁労幹部として、羽刺一二名を招き、浮津組へは六兵衛・七郎太夫・善四郎・六郎五郎・甚太夫・由太夫・
の六名を津呂組には長太夫外五名が入り指導にあたっている。漁場は佐賀から窪津に代え、
冬は椎名と窪津に両組が分かれ、春は津呂沖で一緒に捕鯨を営んだ。
寛永初(1624)年、多田五郎右衛門によって始められた突取り捕鯨も、紀州熊野太地浦の住人、太地覚右衛門開発の「網掛け突取り捕鯨」を、五郎右衛門の長子吉左衛門清平が導入するまで、約半世紀(47年間)続いた突取り捕鯨は終焉を迎えた。
 網捕鯨の導入
 津呂・浮津両組が突取り捕鯨を行っていたころ、紀州では太地覚右衛門頼冶の開発した網掛け捕鯨が始り、漁法の優れている点が諸国に伝えられていた。吉左衛門はこれを聞き喜び、当地に導入するため、天和元年(1681)浮津覚右衛門・水尻吉右衛門を伴って紀州に赴いた。
太地覚右衛門に面会を求めたが、許されず。浮津覚右衛門と水尻吉右衛門の二人を故郷に返し、自らは残った。
 『津呂捕鯨誌』には、二年間に渡る太地浦の生活模様が記されている。
 延宝五(1677)年、紀州熊野浦太地覚右衛門なる者、鯨網取の法を開始する、吉左衛門之を聞き、天和元(1681)年紀州に赴き覚右衛門頼冶に対面せん事を請う、聴かれず、
此に於いて吉左衛門水夫となり小腕返しの櫓を押し、或は水練の妙術をなし又は市中に入りて碁を囲む、技術群を抜き弟子日に集まる、入る事二年、初めて覚右衛門に対面する事を得たり、覚右衛門曰く、汝何人ぞや、曰く、水夫なり、覚右衛門其の人品の卑しからざるを見、謂いて曰く、に水夫には有らざるべし、何ぞ真実を告げざる、に於いて答えて曰く、予は土州津呂の住人多田吉左衛門尉清平なる者なり、「誠に神妙の至り、及ばずながら網鯨の法を伝授致す、然らば、土佐の突鯨の法と比較し、網鯨の法の改良すべき処あらば、遠慮なく申せ、」然らば申す、当地に来て鯨を網するの業を視る事巳に二年、其の鯨を網し、(剣!)を伐り、舟にるに及びて往々鯨躰を沈没せしむ、これ水練に長せざるの致す所、真に惜しむべきの至りなり、今や予水練の術を授く、応に幾分か裨補する処あるなるべし、予元捕鯨の家に生る、先に乃父五郎右衛門国家を益せん事を思い、突鯨の法を得二百余人を扶持せしに終に漁法の未熟によりて廃せり、実に蓋世の憾とす、足下何とぞ予を門下に致して鯨鯢を網するの法を伝授せざる、然るときは一は以って乃父の遺業を興し、一は以って国恩に報ずる事を得ん、何の喜びか之にかん、予の遠く郷を離れ此地に来り辛酸を嘗めるは斯の一事あればなり、若し聴かれずんば唯一死有るのみ、覚右衛門其の志をれみ、く其の法を授けん事を約す、紀伊の民之を聞きて喜ばず、皆曰く、今網取りの法を土佐に伝へんか、本国の衰微期して待つべし、決して教ゆばからずと、覚右衛門思へらく、既に契約をなす、之を履行せざるは人にあらず、我之を忍ばんやと、に新宮城に到って此趣を君主に申す、命あり曰く、業を建つるは天下の祥瑞なり、宜く羽刺十人其の他漁夫六十人を土佐へ遣わすべし、吉左衛門之を聞きて踴躍し、同三(1683)年漁夫七十人をいて郷にる、則ち之を十二の漁船に分乗せしめ、加うるに津呂漁民を以ってし更に市艇弐艘、持双船弐艘、網船四艘を造り、拮据経営終に網取りの法を習得し、に捕鯨の術一新を来せり(略)。
 貞享元年網取りの法を習得し趣を藩守に上聞し、悉く紀州の漁民を其の本国に皈す、是れ実に土佐捕鯨の創始にして、津呂捕鯨組中興の祖と称すべきなり。
 「浮津組の網漁を始めしは貞享二年なり」
 吉左衛門、網捕鯨法導入の苦心の様子をこの誌面より知る事が出来ると共に、太地覚右衛門頼冶との知遇・新宮藩主水野公のご懇情に触れたことは、身に余る光栄であったろう。
さて、網捕鯨導入を得た津呂組は天和三(1683)年から、また浮津組は貞享二(1685)年から操業に入った。両組共に栄枯盛衰・経営者の変遷を重ねながら、明治三十九(1906)年ノルウェー式銃殺捕鯨が土佐沖に進出を見るや、網捕鯨は忽ちにして廃業の止むなきに至った。古式捕鯨時代は283年間であった。
 銃殺捕鯨の危機を迎えて、旧捕鯨会社は、新しい銃殺捕鯨会社設立を図り、翌明治四十(1907)年7月に大東捕鯨株式会社を設立し銃殺捕鯨を開始した。
また、地元有志と隣村の実業家と相図って土佐捕鯨合名会社を同年設立。
近隣の藤村氏は、丸三製材捕鯨部を設立し、銃殺捕鯨に明治四十一(1908)年一月進出した。
 以上、土佐捕鯨三社は始め浮津に事業所を置き、旧捕鯨漁夫、納屋場等を使用した。
砲手、船長等幹部船員は外部より雇い入れていた。
林兼商店は、土佐捕鯨三社を買収し巨大捕鯨会社へと発展した。始め○は土佐捕鯨と称し、のち大洋捕鯨さらに大洋漁業株式会社と肥大化していった。また、室戸市羽根の山地土佐太郎は、極洋捕鯨、同じく元・出身の柳原勝紀は日東捕鯨株式会社を設立した。
これら捕鯨会社の船員、事業員として室戸から参加する人々も多く、室戸の捕鯨は我が国商業捕鯨の終末まで続けられたと言えよう。


3)網捕鯨の漁法   
漁舟・漁具等
勢子舟の外形は、船首を尖鋭にして堅固であり、軽捷を旨としている。舟材はなどを鯨組経営者が藩より払い下げを受け、抱え大工(当時は舟大工・屋大工の別無し)に造船を命じていた。勢子舟の外板には、顔料を鯨油で溶かし、模様を描いている。
塗装については、船の保存性・速力の増加・鯨を怖がらせるためなど。なお、塗料の調合法も決められていたが、ここでは割愛します。
 余談になるが、「鯨史稿」によれば、「ある時板を、漆にて塗ると塗らざると二片海上を流したるに、塗りたる板、塗らざる板よりは流れ行く事早し。塗りたるは水離れよき故なりと工夫して、これより鯨舟塗ることになりしなり」と記されている

勢子舟(1215隻)
勢子舟の全長12.30m 幅2.10m     
 剣2挺・大銛1本・早銛1本・萬綱二房・矢縄五筋・大しらせ百尋(150m)
小しらせ百尋・為知樽大小2つ・大印旗1本・小印旗1本・櫓八丁・櫂一丁・
その他小道具数々
乗組員・羽指1人・船頭1人・下櫓押2人・平水夫5人・炊1人・取付2
    計12

網舟(1317隻)                  
 網二十反・アバ板60枚・浮樽60丁・素竹60本・三つ網五房・見縄二房
 抱廻り三筋・帆五反・櫓四艇・櫂一丁・見棹二本・旗一本・舵一丁・その他小道具数々
乗組員・羽指1人・船頭1人・中網操3人・足前操2人・炊1人 合計8
網について 
網捕鯨導入時の天和三年(1683)ごろは網舟四隻・網目六尺・網幅十二尋(18m)海立(高さ)十五尋~二十一尋(22.531.5m)を一反とした。
なお、一隻の網舟に約、ニ十反を積み、網と網とは「ハッカイ」藁縄で結んだ。
時代が下がると共に、網数や網が改良され捕獲が難しかった長須鯨をも取っている。

持双舟 (捕獲した鯨を運ぶ舟)      2隻(各6人)
 大銛3本・早銛1本・剣2艇・一丁・大しらせ百尋・小しらせ百尋・しらせ樽1
 持双からみ四筋・ざい四筋・胴縄十二房(21尋より19尋まで)・手形十二房(二十三尋より二十尋まで)・同合尋手五百尋・剣引綱三筋・なんば2つ・〆その他数々
乗組員・羽指1人・船頭1人・下櫓押2人・平水夫数人・炊1人・合計810
 
市艇(五十集)五十石~百五十石船・帆船(鯨肉販売及び諸道具購入船・ 兵庫・
大阪)  2隻(各4人)
漁船・漁夫 総合計  漁船3135隻  漁夫約300
捕鯨
 漁期が来れば毎朝勢子舟を海上に浮かべ、鯨の来遊を待機する。三・四ヶ所の山見小屋(春漁の山見小屋・樽石に本山見、西は立石・黒耳・行当・耳崎・東は樽石・金比平山・山田山)に、山見番が目を(後には遠眼鏡「望遠鏡」を用いた)光らせて見張っている。
鯨を発見した時は、なに鯨によらず先ず狼煙を挙げ、その鯨の噴気の形で何鯨か判別し、一定の標識を立てる。標識の種別・背美鯨は白木綿四尺角位の物を天秤の形に二つ吊るして挙げる。長須鯨は白木綿二枚を立てに繋げてあげ、鯢鯨は一枚白木綿・能曾鯨は苫二枚・鰯鯨は苫一枚を子連れの時は印の脇下に長方形の旗を立てた。

 勢子舟が山見の印を確認後、白舟・赤舟及び十二隻が先ず先発し、鯨の方向に追跡する。鯨に遭遇すれば舟の向きを変え、白舟・赤舟が鯨の左右に並び、他の勢子舟が鯨の背後に回り鯨と共に進行する。
この時他の勢子舟は、網舟を曳航し網代に進む。鯨の位置(水深三十尋45m)が適当な所に来た時、勢子舟沖配が諸手に一本宛ての采を高く掲げる。機は熟せり、網方用意の合図である。この合図の後、時を少し経て、沖配は采を双方水平に交互に揮う。この動作が網投下の合図である。この合図と共に、網舟沖配は網舟を指揮しつつ鯨の進路を遮断するように、半円形(鶴翼の陣形)に網を四重・五重に敷く。網舟は重く迅速を欠くため勢子舟が曳航しつつ投網をする。各網舟の網を連結する場合には「ハッカイ」と言う藁縄を以って結ぶ。この縄は切れよいものである。なお、網の浮樽もハッカイで結ぶ。鯨が網を被った時に、樽が離れ良い方法である。

 網が敷き終わると共に、勢子舟は鯨の背後に回り狩棒を持って鯨を狩る。(木槌で船縁を打ち鳴らし、鯨を脅す)鯨は驚き突進すると同時に網を被る。
頃合いを見澄まして、勢子舟羽指が早銛を投じ、続いて大銛や万銛を投じる。銛先のみ鋼であるが、銛元は生鉄仕上げである。銛は鯨に刺さった瞬間に柄が向こう側に倒れる仕組みになっている。早銛の綱は舟に連結してあり、鯨が逃れ様とすれば、銛柄が手前に倒れ銛は釣り針の形状に曲り、抜けなくなる。なお、大銛の綱には樽を結束し、海面に浮き鯨が潜った時の目印とした。

 鯨に幾十本の銛が刺さるのを窺がい、下級羽指数人が手形包丁を口に加え、我先にと海中に飛び込み鯨体によじ登り、突き刺さった銛柄を小脇に抱え身の安定を図りつつ、鼻の近くを横並行に二ヶ所を切り開き、更にこの切り口に諸腕を入れ貫通して帰る。
これを手形切り(鈴を切る)という。手形切りが終わると持双舟の下櫓押しが、入れ代わり手形綱を持って入り、貫通した切り口に綱を縛って帰る。手形綱で舟を鯨体に近づけ、剣を取り胸腹部を幾ヶ所も突き立て弱らせるのである。この時周囲の海は血で赤く染まる。
剣切りが終わると、すでに持双柱を以てを組んでいる持双舟の間に鯨を引き入れ鯨体の下部に綱を廻して櫓に縛りつける。これを「櫓を組む・持双を組む」という。
大剣で鯨に最後の止めを刺すとき、全漁夫は「ジョウラク・ジョウラク」と唱えながら刺すのである。鯨への畏怖・畏敬の念の表れと信じる。
 
 最後に勢子舟沖配は鯨捕獲の大印旗をたてる。山見小屋はこれを見ると、鯨見出しの印 を下ろす。全ての作業が終わると、勢子舟は下位の舟より順に二列縦隊に並び、持双舟を曳き、白舟・赤舟が持双舟の左右を守り、隊伍を整え、櫓声に櫓拍子をそろえて陸地へ漕ぎ寄せた。以上が海上での労務である。

 鯨が陸に近づいたら、尾を岸に、頭を沖に向け横たえる。これから後の仕事は魚切りの役である。大切りが大切り包丁を持って、鯨体を大きく輪切りにすると共に、縦にも切る。数機の轆轤を利用し、切った肉塊を浜に引き上げる。轆轤巻きには近隣部落民を臨時雇いした。また、別の魚切りが、浜に上げた肉塊を適度の大きさに切り、囲いの内部の売り場に積む。小切れの肉片や臓物は浜に積む。残った骨は鋸で引き、斧で割って油小屋に運ぶ。油小屋では骨から油をとる。なお、骨粕は肥料に用いた。

陸上の組織
 経営者を堂本(堂許・頭元)・経営者の下に本締番頭・手代・納屋夫及びその他の技術者が多数。これらの人々は、漁期にはなれば漁場内の納屋場(お場所)に詰める。実際の事業采配は本締め番頭である。本〆番頭の下に手代が数人、手代が数人の納屋夫と共に実務を執る。
 職人には、大工・鍛冶・樽屋などがいる。大工は棟梁株の腕利きが二人位、大工納屋に常勤。秋の漁期近くには、三・四十人を鯨場へ雇い入れる。
鍛冶屋も漁期になると、二人位鯨場に詰め銛や剣等の製作や修理をした。
樽屋は一人位であって、浮樽や浮子の製造・鯨肉の塩漬用の樽を作った。
鯨を解剖する魚切りが十人前後いた。その長を魚切り親父と呼んだ。なお、魚切りは鯨の骨から油を採る仕事も行った。
筋師が数人いて、筋の始末をし商品とした。
山見が十人前後おり、この内の長を山見頭という。その他に山見加役とか、単に山見との名のみの者がいた。山見は遠目の利く者が必要であり、鯨場全員の中から選抜した。
山見は毎朝、夜が明けると共に山見小屋(山見番所・遠見番所)に登り、日が暮れると下山した。一漁場に山見は三・四所あり、ニ・三人宛ての山見人がつめた。
山見小屋には松明や采・むしろ・印旗等の泌需品を常備してあった。

天明・寛政(1781~1800)ごろの人的組織は次の通りであった。
  • 堂本・一、本締め番頭・一、手代八人・一、納屋夫八人・一、筋師五人
  • 職人大工樽屋鍛冶屋・一、山見九人・一、魚切十一人・一、内日雇い
  • 商人 浮津組六十八人・津呂組八十九人・内浮津商人全員は入る。
 
上記時代の物的組織
 鯨場には周囲に囲いがあり、その内部には上納屋が大きく位置を占めている。堂本、手代等がここに起居していた。大工納屋・樽屋の細工場・筋納屋・製油所・網庫・米庫
櫓庫・網染場等が、囲いの内部に建てられていた。囲いの前面には広場があり、刻んだ鯨肉をここに積み、鯨組みと鯨商人との間で取引が行われる。また、鯨場の前面・海岸線には轆轤が四台据えてあり、大切りした鯨肉を砂浜に引き上げた。
なお、商人たちは各々に或は数人共同で製油所を持っていた。


    
     浮津組と津呂組の納屋場       山見の鯨種別印旗







網代に於ける捕獲模式図

堀尾家古文書 持双舟 
堀尾家古文書 網舟

津呂・浮津組の剣と銛


太地浦の剣と銛



太地浦の剣と銛

津呂・浮津組の手形包丁



津呂・浮津組の鯨杯  左より五合・一升・八合入り


       
ドンザ               左 子持ち筋入り鉢巻・右 大印旗

以下五点の絵画は、浮津捕鯨会社が全国水産博覧会(明治1631日~68日)に出品し、三等賞に選ばれた誉れ高い捕鯨絵画である。絵画の内容は、捕鯨魚場(網代)関係地図と捕鯨の状況、解体処理場面までを描いてある。
作者は、高知県三等助教諭、西山実和氏であり県の委嘱を受け、西山氏は明治15年夏期休暇中に来村し制作した。




  窪津漁場図                室戸漁場図


 背美鯨二頭発見 網代への図





  鯨・網を被る図


  捕獲した鯨を鯨場に曳航図








  鯨場にて解体図



明治末期~大正期の津呂港


明治末期~大正期の室津港

中道寺の鯨位牌


 中道寺の鯨位牌に繋がる話
室戸史余話より「中道寺を訪れた娘」を記す。
 中道寺は日蓮宗で安芸郡浮津村にある。宝永正徳のころ(1710年前後)の話で有ると言われる。この寺の住職が夜更けにお勤めをし、読経していると、門の戸をトントンとたたいて案内を乞う者があった。住職は座を立って戸を開けてやった。
 すると、年のころは十八・九才ばかりで、見目麗しい娘が立っていた。
住職が、「このあたりでは、見かけない娘さんだが、さてどこから、何の用でおいでかな。」
と問えば、娘は少しも臆した様子もなく、「実は私は人間ではありません。この海に住む鯨です。明後日には宮地幸六殿の網にかかることが、今から分かっております。住職さんにお願いしたいのは、どうか来世はこの身が浮かびますようお祈りをして下さい。」
と涙を流しながら頼み入った。住職は不振に思いながらも、大変哀れに思って、「そのことであれば安心しなさい。私も出家の身、十分にその願いを聞き届けましょう。」と答えた。
 娘は嬉しそうに、だんだんに礼を述べると、かき消すようにいなくなった。しばらくすると、沖の方で閃光が走ったかと思うと、海が鳴動した。
 住職は不思議に思い、ことの次第を捕鯨方の頭元宮地氏に語った。宮地氏もその身の罪深いことをあらためて思い、長年に渡って漁をしてきた数千頭の鯨の供養のため、この寺を再興して田地などを寄進し、住職に朝夕の読経を頼んだと言うことである。

 この巨大な位牌は宮地氏が捕鯨高が千頭に達したとき、鯨の供養のため作ったものである。


土佐古式捕鯨から銃殺捕鯨

 当地の銃殺捕鯨導入経緯を『室戸市史下巻・漁業編』第一章 十 銃殺捕鯨にそって記します。
三〇〇年の時を刻んだ土佐古式捕鯨も銃殺捕鯨という革命の到来により、浮津・津呂・両浦は大騒動となった。両浦人の様子を『八王子宮御当屋記』に記されたものを拾ってみる。

 冬分に至り銃殺捕鯨の議論喧しくなり、浮津捕鯨社長は窪津主張地より帰村して、津呂会社と協議し、交渉を進行せしめつつある側ら、東洋捕鯨会社は十一月中旬頃より土佐海に浸漁し来て、当郡・甲浦を根拠として毎日、長須大太郎(ナガスクジラ)を銃殺し、気勢中々盛に、とても旧式捕鯨の対抗思いもよらず、ここに議を決して旧会社を解き、銃殺組を組み立てることなり、「あせりにあせりて」その方法手段を考究中、やがて新年を迎えて世は四十年の新天地となり、人は屠蘇酒に酔い太平を夢見て、何れも倦怠を生ずる時にも拘らず、銃殺組みの組み立てに狂奔して席の暖まるに暇なく、同志の募集に奔走し、高知市に於いて臼井鹿太郎氏などの同意を得て、浮津・津呂・高知の三地方人士を以って大東漁業株式会社なる大会社を組織することとなれり。
この間、東洋捕鯨会社の漁事は位々盛況を呈し、根拠地の甲浦は日を遂て隆昌に赴き、外来人に供給する家屋に不足を告げ、其処にも此処にも家屋の新築を企て、大工・左官其の他日傭人夫を他村に求め、当地よりも以上の職工おびただしく出稼するにいたる。
当地有志の輩はこの実況を目睹して、当村将来を憂慮し、終に大阪の内外会社を迎えて平等師津に鯨洋なるものを設け、その請負により解剖販売するに至り、日々虚日無く、漁事を重ねしを以って、商人は素より、労働者に至るまで思い寄らざる利益をなすに至り、中々の賑わいなり。

 明治三十九(1906)年、甲浦を基地として東洋捕鯨会社(「室戸市史下巻・土佐捕鯨の変遷年表」の日本遠洋漁業会社は東洋捕鯨会社の旧称)が銃殺捕鯨を始めたことにより、上記「当屋記」が記した様に津呂・浮津・両浦人の狼狽ぶりを窺う事が出来る。

銃殺捕鯨 土佐沖へ
さて、銃殺捕鯨とは大砲で鯨を撃ち取る捕鯨であり、この方式にはアメリカ式とノルウェー式があった。幕末、我が近海に現れ操業をした。かの、ジョン万こと中浜万次郎らを救ったのは他ならぬアメリカの捕鯨船であり、帰国した万次郎はアメリカ式捕鯨を小笠原近海で二ヵ年操業をしている。我が国銃殺捕鯨の嚆矢(始まり)である。
この方法は鯨と舟を繋ぐ物が無く鯨体が沈むことが多く、普遍化しなかった。一方のノルウェー式は、破裂弾が鯨体に撃ち込まれると、これにつけた綱が鯨と舟を繋ぐので効率的であり、現在も継続されている。
 この銃殺捕鯨が日本近海に現れたのは明治二十四(1891)年、日本海に面するロシア領ウラジオストックに露国太平洋漁業会社が設立された事による。同社は帝政ロシアの朝鮮進出政策を背景にして日本海で盛んに捕鯨を行い、大量の鯨肉を長崎に輸出していた。
これに刺激されて、明治三十(1897)年日本遠洋漁業株式会社が設立され、毎年三割から五割の配当金を出すほど鯨を取った。これに続き各社が興り捕鯨魚場は太平洋に広がり、網代式の古式捕鯨は急速に消滅していった。

日本近海での銃殺捕鯨の盛況が当地に伝わり、浮津捕鯨株式会社はその実情調査のため視察員を派遣した。帰国した視察員の報告が新捕鯨法の優秀さを述べても、それを信ぜず、
「彼の強大なる鯨を銃殺さるべき理由なし。弾丸は牛馬に灸せしよりも、尚感覚なからん。万一銃殺したればとて、一本の銛綱を以って如何にして船体に曳きつくる事得んや」といって一笑に付した。
しかしながら、この全く新しい捕鯨が土佐沖に現れるに至って、両浦の人々は驚き、かつ、あわてざるを得なかった。

銃殺捕鯨会社の設立
〔大東漁業株式会社〕明治40年設立
 明治三十九(1906)年冬、甲浦を基地とした東洋捕鯨会社が銃殺捕鯨を始めると、地元で操業していた津呂捕鯨株式会社も窪津にて操業していた浮津捕鯨株式会社も、・両株式会社は古式捕鯨で操業・これに対抗する術もなく、たちまち操業を停止せざるやむなきに至った。
この両社は解散し、新たに大東漁業株式会社を設立した。明治四十(1907)年七月のことである。
資本金八〇万円、払い込み二〇万円をもって本社を高知市浦戸町に置き、社長北川忠淳(後に井上善次)他の役員に高知市・臼井鹿太郎ほか四人、中島美稲や多田嘉七、前田稼一郎、
濱篤次らの旧捕鯨会社役員もこれに名を連ねた。事業船として、キャッチャーボート二隻(「第一大東丸」・「第二大東丸」)と運搬船一隻、解剖船一隻を所有した。
事業所は浮津捕鯨株式会社の跡をこれにあてた。

 〔土佐捕鯨合名会社〕明治40年設立
 前記のように、浮津では大阪の内外漁業を招いて捕鯨業の利益を受けていたが、奈半利村の浜川七之助はこれを見て、この様に大きな利益を上げるものを、他県人に委ねる事はないとして来町し、銃殺捕鯨会社を設立することを説いた。地元では大東漁業設立に奔走しており、耳をかす者は少なかった。
しかし、地元の竹村馬太郎、米沢松之助らの人々がこの経営に加わることを約し、奈半利の浜川氏ら七人で合名会社をつくり、明治四十年五月より土佐沖での操業を始めた。
資本金一〇万五千円、社長浜川七之助で、ノルウェー船を購入し、「福志満丸」と命名し捕鯨を始めた。

 〔丸三製材株式会社捕鯨部〕明治41年設立
 奈半利の実業家・藤村米太郎は、明治三十年頃から製材事業をしていたが、捕鯨業の有望なのをみて捕鯨部を造り、ノルウェーで造船した船を五万円、漁具一切一万円、ノルウェーからの回航費一万円、計七万円で購入し、「丸三丸」(120屯)と名づけ、浮津事務所を設けて明治四十一年一月に操業を始めた。後に藤村捕鯨と改称した。
 これら高知三社のほか、内外漁業二隻、帝国捕鯨二隻などが土佐沖で操業し浜は活況を呈した。
 当時を様子をふたたび『当屋記』に拾ってみる。
「会社の幸運は申すも愚かなる事、村内もために賑いて、何れも奔命に疲れる状況なり」
「兎に角、多数の漁獲船にて、日々鯨を海浜に引き上げざることなく、浮津部落、男女老若共、多大の賃金を得て古今未曾有の繁栄を招き」とある。この記述により当時の活況を窺い知ることができる。

銃殺捕鯨の状況
銃殺捕鯨が土佐沖で繁栄を極めた当時の状況について『高知県漁村調査』(明治四十一年調査・県水産会編)「室戸村浮津」の項を中心に記す。
丸三丸製材捕鯨部
船名 丸三丸   屯数  120
雇い入れた砲手は回航中船長を務め、機関長以下の船員は長崎より帰した。明治四十一年一月七日室戸港着、翌日より事業に着手。
事業場  浮津海岸に事務所、納屋、解剖所設置、轆轤台二台旧捕鯨の物
魚場 室津港を根拠地とし、室戸岬、足摺岬の二大岬角を中心とし、距離20浬以上50浬まで
漁獲 117日より515日の間、ノルウェー人砲手によるもの
長須鯨 19頭 一頭平均 1.640円             
座頭鯨  2頭       500円   
ノソ鯨  2頭       610
68日より97日の間、日本人砲手によるもの
鰯鯨  27頭 一頭平均  88
 解体処理 鯨体を舷側に吊るし帰航し、海岸より沖合い3海里にて信号旗を揚げる。
 陸は信号旗を認めると煙火をあげ、巻き上げ人夫(轆轤)を召集する。
 解剖夫 10人  納屋夫 5人  巻き上げ夫 5080人 解剖、販売は旧捕鯨と変わらず 
船員待遇下表参照
 ノルウェー人砲手は破格の待遇の上、解雇のときは六か月分の給料と帰航費を支払う契約であった。
陸上作業員は解剖夫一ヶ月20円及び食費玄米3斗、
納屋夫同じく1417円食費玄米3斗、鯨一頭毎に上等肉3貫匁が支給された。 
轆轤巻きには一頭につき(四時間程度の労役)50銭と板身(筋骨についた肉)一頭分が全員に与えられた。
 丸三丸給料表


土佐捕鯨合名会社                
 資本金 105千円              根拠地 室戸村浮津及び陸前鮎川
 出資者 7名 内5名奈半利村 2名浮津村    船名  福志満丸 屯数 115
 創立  明治4065日           長崎に於いて購入し明治405
 本社所在地 奈半利村              事業に着手する。

福志満丸の給与表
                                      









      


 捕鯨船「福志満丸」はノルウェー式の中古捕鯨船であり、そのご明治・大正・昭和の三代にわたって働き大洋漁業捕鯨部の基礎をつくった。しかし、第二次大戦で哨戒艇となり、昭和二十年四月十八日・大分県佐伯港で空襲により沈没した。福志満丸の砲手は、エル・ラーセンというノルウェー人であった。
船長は志野徳助といい、わが国近代捕鯨の大先覚者であり、浮津に居を構えたこともある。
志野徳助の捕鯨との関係は土佐捕鯨の船長として招かれたことに始る。
大洋漁業の南氷洋出漁を計画し、「日新丸」船団の総指揮者として南氷洋へ向かう途中、船中で死亡した。
 「福志満丸」創業当時(明治四十年)の船員とその待遇は前表の通り。
解剖夫 10人 1ヶ月15円 食料費は給与せず、鯨一頭に付き上等肉約9.4kgずつ給している。轆轤巻上げ夫65人で一頭に付き50銭(風雨の時は1015銭増し)を給している。

土佐銃殺捕鯨の終末
          銃殺捕鯨捕獲高

 
丸三・土佐・大東の土佐捕鯨三社の操業当時(明治四十年九月~四十二年九月)二ヵ年の捕鯨頭数は上記表の通りである。
網捕鯨の頃は一組で年間約20頭前後の漁獲であったから、約5倍以上獲得している。当時土佐沖には土佐の三社以外にも、乱立した捕鯨会社が来遊する鯨を次々と捕獲していた。当時全国の捕鯨会社は12社を数え、その捕鯨頭数は明治四十一年1784頭・翌四十二年には1404頭を記録している。これは明治十五~二十四年の十ヵ年の全国主要捕鯨会社の網取り捕鯨による捕鯨頭数・合計1496頭に匹敵する。
銃殺捕鯨は導入後、たちまち資源の枯渇を招いたのである。
 捕鯨会社に於いても、近年鯨は室戸岬沖合いに鯨群の集まりも之なき故、捕獲数も充分の漁業御座無く候                        (明治四四『当屋記』)
 一方乱立した捕鯨各社は生き残りをかけ競争は激しくなり、砲手・船員に好餌をまいて引き抜いた。「北川組捕鯨会社は砲手に人を得ずして銃砲発火せず、或は発火するも的中せず、夫が為船内は統一を欠き益々不漁なりという」(明治401127「土陽新聞」)と伝えるように、砲手・船長らに人を得ることが創業時は特に重要視された。
こうした過当競争は鯨肉市場の供給過剰となり、市場価格を暴落させて経営の不振を招いた。

 大手の東洋捕鯨会社(明治四十一年資本金200万円)のイニシアチブにより、当時の捕鯨会社十二社中六社が合同し、20隻の事業船と20か所の事業所を持って市場の支配力を手中に収めた。こうした捕鯨業界の中で土佐の捕鯨三社も買収合併されていったが、最後まだ残った大東漁業株式会社の動向をみる。
 同社は「第一大東丸」・「第二大東丸」の二隻の捕鯨船で創業した。冬場は土佐沖で捕鯨を行い、浮津が基地であり、土佐沖が終わると三陸牡鹿半島の荻浜(宮城)へ出漁した。浮津を事業場としたのは五年程であり、大正に入ると荻浜から両石(岩手)、さらに釜石、鮎川(何れも宮城)へと捕鯨場を移し、金華山沖が主要漁業となった。
北海道東部の花咲、紋別に進んだのは昭和に入ってからである。室戸と同じように藩政期から網捕鯨を行っていた佐賀県の呼子や紀州の太地も長く捕鯨基地としてしようしてきた。 同社は捕鯨業だけでなく、大正三年頃から宮城県で定置網(大謀網)の経営に乗り出し、大正六年からは三津長碆沖漁場の貸付を受け大敷網を昭和四年まで経営をしている。
次いで手繰網や鰤飼付漁業にも進出するなど、経営の多角化に乗り出したが、昭和九年大洋漁業の傘下に入った。
 丸三の捕鯨は思わしく成績が上がらなかった
明治四十三年に解散し、会社の業務を本来の製材と捕鯨に二分し、藤村米太郎は丸三丸など捕鯨部門を一切引き受け、新たに資本金135千円の藤村捕鯨株式会社を設立し事業を継続した。同社も三陸沖に出、牡鹿半島鮎川の九十九成に根拠地解剖場をおいた。
藤村米太郎もまた、大正の定置網ブームの中で大正四年津呂村椎名、大正五年野根村水尻で定置網を経営している。
藤村捕鯨が林兼(大洋漁業)に買収されたのは昭和六年であった。
林兼と土佐捕鯨
 大洋漁業は下関の林兼商店の後身であり、室戸との関係が深かった。林兼は明治三十年代の終わり頃には出買船を室戸まで廻漕して鮮魚の仲買をしていた。
明治四十一年頃には石油発動機のボート(鮮魚運搬船)で来港した。これが室戸の動力船化のきっかけという。
 林兼の生ボートが室津港に現れたころ、室戸では捕鯨の産業革命ともいうべき銃殺捕鯨が入り浜も町もわきかえっていた。「丸三の浜」といわれた室津川河口に続く下町の浜には丸三捕鯨(後の藤島捕鯨)が、その西側現室戸中学校の下、磯田の浜には大東・土佐捕鯨の捕鯨場があり、冬から春にかけては鯨の巨体が引き上げられ解剖されていた。土佐沖でノルウェー式銃殺捕鯨が全盛期を迎えたのである。
 しかし、この土佐沖の捕鯨ブームも長くは続かず、土佐の捕鯨三社はやがて吸収合併されていった。このことについては前述した。
 土佐の捕鯨三社(土佐捕鯨・藤村捕鯨・大東捕鯨)を吸収合併し、わが国を代表する捕鯨会社に発展したのが林兼商店であつた。大洋漁業の捕鯨部門は土佐の銃殺捕鯨会社の買収から始った。
土佐捕鯨の後輩たち
 室戸は大洋漁業取締役という異色の砲手 泉井守一(大物撃ちの泉井)、良きライバルであった小松菊一郎(数撃ちの小松)、極洋捕鯨の名砲手山下竹弥太ら、多くの優れた砲手群像を輩出している。南氷洋捕鯨の隆盛期(第二次大戦で一時中断)には船員、解剖夫ら多くを南氷洋に出漁させている。
 経営者としては極洋捕鯨創立者・山地土佐太郎・、近海捕鯨の雄で日東捕鯨創立者・柳原勝紀・両人は共に室戸市出身者である。
 三〇〇年の伝統を誇る津呂、浮津の捕鯨組は、近代を迎え銃殺捕鯨の導入という科学漁法前に一朝にして滅び去ったが、培われた捕鯨漁夫の命脈は、土佐の銃殺捕鯨会社から、さらに大企業である大洋、極洋捕鯨などの南氷洋出漁まで脈々としてわが国捕鯨業の終末まで受け継がれた。  


 明治四十年網捕鯨の消滅は、これまで全村挙げて捕鯨に生きてきた、津呂・浮津の人々にとって大きな衝撃であった。旧捕鯨会社は解散(津呂捕鯨株式会社は明治四十一年六月二十一日、浮津は同年九月)し、両会社併せて600700人の捕鯨漁夫は失業した。
銃殺捕鯨のため設立された土佐捕鯨三社に雇用された労働者は総計約200人であった。
したがって多くの捕鯨漁夫は捕鯨業から離れていった。
旧網捕鯨漁夫の多くは、捕鯨漁閑期の夏はカツオ漁を中心とする漁業に従事していたから、
これらの漁業を専業とした。今日の遠洋漁業の根源となる。
 銃殺捕鯨会社に雇われた人々にとって、旧捕鯨で生涯をかけ培い育んだ技術は価値なきものとなってしまった。















  大洋漁業創立期のキャッチャーボート


  浮津鯨浜の賑わい 明治末期から大正初期と思われる  
タイトルに「土佐国室戸町・・・」が記されている。ちなみに室戸町町制施行日は明治43112日 
          
あとがき
 上記に記した事柄は一時代の抜粋であり、勢子舟・網舟の隻数・漁具等の改良は時代の流れに沿って大きく変遷している事をご承知いただきたい。
 なお、上記記述で土佐捕鯨のすべては語り尽くせず、尻切れトンボのきらいは免れません。鯨に関係する資料は枚挙に暇がありません。紙面の都合もあり、又、次回機会あることを念じて委ねます。
 さて、余談になりますが平成362024)年は、室戸市の基幹産業・水産業の起因となった突取り捕鯨(寛永元年1624)の始まりより400年の節目を迎えます。これを機に新たな水産(環境を含め)を模索する好機と捉えるべきではないでしょうか。

熊野の記述






参考文献

堀尾家古文書
津呂多田家古文書
津呂捕鯨誌
室戸岬町史
室戸町史
日本常民生活資料叢書
熊野太地浦捕鯨史
室戸市史下巻
室戸史余話

室戸市鯨館
室戸市立図書館


平成212009)年930
多  田   運   拙著