観音様と子供たち
江戸、幕末の文久二年(一八六二)八月初め、とある真夏日のことであった。室津郷・領家《りょうけ》の小さな庵のご本尊・観音菩薩様と、近くの子供たちの間に繰り広げられた、珍妙な出来事の話である。領家と言えば幕末の志士、中岡慎太郎の妻、兼《かね》の生まれ里である。兼は庄屋、利岡彦次郎の長女で、十八歳で慎太郎に嫁いでいる。文久元年には慎太郎が、翌二年には坂本龍馬が土佐藩を脱藩するなど、時代は明治維新への激動最中であるが、片田舎の領家では穏やかに時は流れていた。
領家集落の人々が深く信仰している庵、観音堂に仏の道を修業している若いお坊さんがいた。その日は室津浦(町)に用事があり、お坊さんは外出した。この庵や領家の家々に泥棒が入った話などついぞ聞かない。平穏な里で外出の時は、どの家も開け放し、表戸を閉める習慣など全くないところ。
その日、庵の庭で遊んでいた近くの小童《こわっぱ》ら五人が、お坊さんの留守をよいことに、庵へ上がり込み騒いでいた。その内、庵の中央に安置してある二尺位の観音様に目をつけた。一番年上のガキ大将が「あの仏さんを持って川へ遊びに行こうや」と言い出した。観音様を崇《あが》めるものとは知る由もない五人の小童たちは、ガキ大将の言うがままに従《したが》い、観音様を小脇に川へ遊びに行くこととなった。
庵から少し離れた所に室津川が流れる。その川に庄司ヶ淵という所があり、この淵には猿猴《えんこう》が住み、夕方遅くまで遊んでいると淵に引き込むといわれる。また、夜な夜な白馬が飛びかい、子供らを攫《さら》うという空恐ろしい淵である。夏の夜は肝試《きもだめ》し、昼間は子供たちの絶好の水遊び場であった。その淵で、観音様をあっちへ投げこちらへ放りして遊んでいた。室津浦で用事を済ませたお坊さんが、ちょうどそこに通りかかった。小童たちが大声をあげながら、何やら黒いものを投げ合っている。何ごとならんとよく見ると、これはしたり、庵へ安置してあるはずの観音様を、水遊びの道具にしてもてあそんでいる。お坊さんは、吃驚《びっくり》仰天《ぎょうてん》するやら、腹が立つや、「こらッ!観音様に何をしよるか。勿体無《もったいな》いことをする小童ども、こっちへ来いッ!」と呼び集めて河原へ正座させた。「この観音菩薩は阿弥陀如来の左脇にいて慈悲深く、人々を救うために現われたという仏様である」と観音様の尊いことを長々と諭して、今度こんな悪さをしていたら、罰が当って、目が潰《つぶれ》れてしまうぞと脅しつけた。目が見えなくなるというお坊さんの言葉に、子供たちは震え上がって「もうしません、どうかこらえて下さい」と何度もなんども頭を下げ謝った。
お坊さんは観音様を元の位置へ安置して、その夜寝所に入った。間も無く、お坊さんは風邪を引いた覚えもないのに、夜半から三九度という高熱が出た。それから二日間高熱続き、看病してくれる人とてなく、お坊さんは弱り切り難渋していた。三日目の明け方であった。坊さんがうとうと微睡《まどろ》んでいると、夢枕に観音様が現われ、「ご坊は、私が子供たちと楽しく遊んでいるのに、子供を叱って、折角の楽しい気分を台無しにした。その報復《むくい》として高熱を出して苦しめた。ご坊が平素仏に仕える善行を賞して、今日から平熱に戻してやる。これからは子供を慈しむように」とお告げを下すとかき消えた。観音様のお告げの通り、その日から平熱にもどった。今までは、子供が庭で遊んでいると、迷惑そうに、大声で追っ払っていたが、それからは子供を優しく慈しんだそうな。
子供たちと戯《たわむ》れた観音様は、高さ二尺・木像立像にして、欅《けやき》であろうか木地そのままに、台座は三重蓮華座のお姿で、今なお、領家の庵・観音堂に、外観は総黒漆塗り、内壁は金箔の厨子に収まり、里人の信仰を今に受け続けている。
昔から日本人は観音好きと言われる。例えば、四国八十八ヶ所寺の内、約三分の一の三十ヶ所寺が観音菩薩を本尊としている。更に、観音菩薩だけに焦点を絞り、三十三ヶ所寺の観音菩薩霊場が北海道から九州路にかけ、各地に七十ヶ所寺に及んでいるといわれる。この事が、如何に観音好きかを如実に物語っている。私たちは、仏教に措ける各宗派の枠を超え、観音菩薩を主人公とする般若心経や観音経や十句観音経に親しみ、そこに、生きる知恵を学び心の拠り所としてきた。観音菩薩は、まさに日本人の心の象徴であると共に、史上最大級の神仏といえよう。
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文 津室 儿
絵 山本 清衣
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