第56話 最蔵坊こと小笠原一学
津呂・室津両港の開鑿《かいさく》の始祖が、最蔵坊であることを市井では余り知られていない。最蔵坊《さいぞうぼう》(最勝上人)こと小笠原一學《いちがく》は、石見国(銀山・島根県)の出身で毛利秀元に仕えた武将であった。戦いに明け暮れる戦乱に無常をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を離れ、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を廻国し、一国一ヵ所の社寺に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。六十六部廻国聖の起源は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の前世説によるものが有力であるが、判明していない。
最蔵坊が六部(六部とは六十六部を縮めた言葉)姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年に修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を目の当たりにして嘆き、寺の再興に取り掛かった。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を幾度となく目にした。最蔵坊は、凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、津呂港の開鑿を自ら企画した。
最蔵坊の土木技術は、祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴《たたら》吹きなど「土木工事と冶金《やきん》・工具の制作」や銀の積み出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
絵 山本 清衣
当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義公に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。
後の土佐藩家老・野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組んだという。
その工法は、槌《つち》や鑿《のみ》・玄能《げんのう》や楔《くさび》を用いて開鑿し、港口に堰《せき》を作り、空堀をした後に堰を切る(堰を壊し取除く)方法をとり、人力を持つて僅か一ヵ年という驚異的な突貫工事で竣工している。
津呂港の竣工後の三年、元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫《しゅんせつ》し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
尚、津呂港・室津港間の距離、僅か二㌖内に同規模の二つの港の必要性に付いては、江戸幕府から厳しく問い質されている。
津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、津呂港に避難出来ない時は室津港に避難し、室津港に避難出来ない時は津呂港に避難する、という。両港をもって、避難港としての万全をつくす事を訴えた。この訴えが功を奏した事は言うまでもない。その役割は、約四百年後の今も果たし続けている。
その後、繰り返される南海地震による地盤の隆起によって、両港はその都度浅くなり、浚渫工事が繰り返されている。
最蔵坊は室津港の完成を祝して、西波止場に礎石を埋める。寛永七(一六三〇)年七月吉日と刻んである。奇しくも、その礎石が昭和七(一九三二)年七月三十日、室津港ケーソン初進水の日に発見され、有に三百二年目の日の目だった。
『ケーソンとは、防波堤などの水中構造物として使用され、或いは地下構造物を構築する際に用いられるコンクリート製又は鋼製の大型の箱のこと』
最蔵坊の生誕日は分からぬが、逝去したのは当地で慶安元(一六三〇)年九月五日であった。その死の悼むは、津呂・室津両村民全てが共有した、と伝わる。
室津港竣工を祝す礎石と最蔵坊の墓は、室津二六四八番地の願船寺の境内に鎮座し、住職によって手厚く祀られている。
私ども市民は、津呂・室津両港の創始者・最蔵坊こと小笠原一学を今一度敬い、顕彰するべきであろう。
文 津 室 儿
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