2016年8月12日金曜日

土佐・耳崎 多 田 家 先祖書

 
 一昨日、家族と妹の五人でお墓掃除を終え、猛暑の日々ですが久々に安堵に浸っていますと、明日は入り盆にあたる13日、ご先祖のことが思い浮かび、平成二十一年晩秋に認めました「先祖書」を公開するのも先祖供養の一つと考え、公開いたします。

 初代多田筑後守元平が、戸次川の合戦・天正十四年(1586)十二月十二日「島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・信親父子の戦い」に多田水軍として加勢し、その功により元親公より土佐湾一円の「漁業権」お折り紙を賜り、天正十五年より安芸郡津呂浦耳崎へ住居する。爾来四百三十年、室戸の地にてお世話になっております。この場をお借りして感謝を申し上げます。今後ともどうか宜しくお願い申し上げます。                    





                               先  祖  書
                                                                                                   

                                       多 田  運
                                                                      平成二十一年(二○○九)晩秋

   先祖 多田筑前守元次  本国 美濃(岐阜県・岐阜市)

 清和天皇ヨリ十六代、細川刑部大輔讃岐守頼春、源尊氏公ヨリ四国大将軍ニ被居置《すえおき》、観応三壬辰年(一三五二)閏二月十日、落陽四條大宮ニ而《じ》シテ討
死ニ、阿波ノ国萩原ノ麓ニ葬ル。

 頼春以来、相続ノ末葉《は》細川刑部大輔持隆大夫ノ頃、阿波ノ国坂東郡勝瑞ニ居城、其ノ籏下《はたした》侍大将多田筑前守元次然《しかる》ニ持隆ノ家臣、三好豊前守義賢、謀計ニ而シテ、天文廿一壬子年八月十九日、勝瑞村見性寺ニ而シテ持隆自害スル。及ビ細川家亡ビ三好修理太夫長慶、都へ登リ天下ノ執権抦舎弟、彼《かの》三好豊前守義賢勝瑞ニ居城。

 阿波・讃岐・伊豫・淡路・和泉・河内・攝津・大和・山城・伊賀・近江・備中一二ケ国依為大将軍森勢、暫時節相窺イ、則義賢ノ長男、三好彦次郎長治、天正五年(一五七七)三月ニ持隆ノ御子、細川掃部頭直之ヲ討罸(伐)ノタメ阿波ノ国南方、今切城主、篠原玄蕃正、居城へ一諸ニ立テ籠ル所へ、多田筑前守元次ハ一宮長門守成助、伊澤越前守頼俊、吉井左衛門大輔行康、一同都合二千余騎卒亡君、持隆ノ御子直之ヲ大将ニシテ今切ノ城へ押寄セ、玄蕃正、落チ行ク所ヲ追掛ケ討捕スル。三好長治其ノ夜、勝瑞ノ川下、別宮へ落タマウヲ同勢追掛ケ、天正五年三月二十八日、其ノ年二十五歳、貞宗ノ脇指ニテ自害スル。則勝瑞観音寺へ葬ル。


    第二嫡子 五郎右衛門尉元平

 但、母ハ吉成勘助娘、永禄一二巳巳年(一五六九)正月、京都六條本国寺ニテ、公方霊陽院義照公ト三好一党合戦ノ砌、勘助討死ニスル。元平・正次・父多田筑前守元次一味ノ伊澤越前守頼俊、吉井左衛門大輔行康、天正五年五月、阿州坂西ノ城ニテ各討死ニスル。

 一宮長門守成助ハ同国焼山寺ノ奥ニテ身ヲソバメ、大将細川掃部頭直之公ハ天正十年(一五八ニ)十月八日、同国仁宇谷ノ奥、茨カ岡ニテ為□徒自害シタマウ故、夫レヨリ泉州小島へ立チ退キ母方ノ名字ニ改メ、吉成五郎右衛門ト号ス、泉州小島ニ住居。

 天正十年長宗我部元親公、阿波ノ国三好一党ヲ討チ従へ、同年四国ヲ討捕スル。天正十四年(一五八六)豊後ノ国へ元親公出陣ノ刻、先年四国ニテ好ミ在之《これあり》ニヨリ、五郎右衛門、兵・船・水主トモ九州へ加勢シ、元親公土佐ノ国へ下向致候ヘト依仰、天正十四年土州へ下タリ。暫、窂人分ニテ□度旨、然ラバ當国中ノ諸役免除可□之ト。天正十四年丙戊年十月晦日、元親公ヨリ五郎右衛門へ御折リ紙ヲ被下置《くだされ》。安藝郡津呂浦へ住居。
 
元親公、御家亡ビ、慶長五年(一六○○)庚子一二月下旬、山内修理亮康豊公、土佐ノ国甲《かん》ノ浦ニ御入国。甲ノ浦ヨリ浦戸迄、船手ニテ案内シ、則□浦戸御城へ入城。
 
 慶長五庚子年一二月二十一日、康豊公ヨリ五郎右衛門へ御折り紙被仰セ付カリ。天正十四年土州へ下リ、宝暦三癸酉年(一七五三)迄ハ、凡年数百六十八年。


   第三嫡子 五郎右衛門義平 (五人ノ男子アリ) 

 土佐藩二代藩主、忠義公御代、寛永年中(元年一六二四)御意ヲ以テ、津呂・三津・椎名ニテ突キ鯨ヲ始メ、其ノ後中絶シ、五郎右衛門ノ伜、吉左衛門ヨリ網鯨シ候。 嫡子吉左衛門 清平  御家へ被届ケ出。
 

   第四 源五郎重正 實ハ、吉左衛門清平ノ弟
 右、源五郎郷士 被届ケ出、津呂ノ中、清水村ニ住居。
 右ノ通リ傳エ聞キ書キニ御座候。



   土佐 多田家系図について
                         

 多田家の系図について、安岡大六氏が「土佐史談」第八四・一六四・一八五号に掲載したものを書き写す。なお、この写しは、茨木市五十鈴町一番二六号在住、「大阪鴻池家と土佐多田家との鯨がとりもつ縁」を著した、島野穰氏(縁者の由)よりご恵送頂いたものであり、それに幾らか補足した。
 
 多田家の元祖は、多田筑前守元次である。元次は阿波國坂東郡勝瑞村に居城していた細川刑部大輔持隆の家臣で侍大将をつとめていた。
しかし、天文二十一年(一五五二)八月十九日、細川氏の家臣、三好豊前守義賢の謀計によって、勝瑞村の見性寺で持隆は自殺し細川氏は滅亡した。
そして三好修理太夫長慶は都に上がって執権となり、その弟三好豊前守義賢は勝瑞村に居城して、阿波・讃岐・伊豫・淡路・和泉・河内・攝津・大和・山城・伊賀・近江・備中十二ヶ國の大将となった。
 
 義賢の長男三好彦四郎長治は天正五年(一五七七)三月に、持隆の子細川掃部頭直元を討伐のため、阿波國南方今切の城主篠原玄蕃正の処へ一緒にたてこもる。
時に多田筑前守元次、一宮長門成助、伊澤越前守頼俊、吉井左衛門太夫行康等二千余騎を率い、亡君持隆の子細川掃部守直元を大将として、今切の城へ不意に押し寄せたので玄蕃正、防ぎきれず、逃げ行くところを追掛け討ち取った。三好長治はその夜に勝瑞村の川下の別宮へ落延びるところを同勢が追掛けたので、長治は天正五年三月二十八日、その時御歳二十五歳、貞宗の脇指にて自害する。直ぐに勝瑞村の隆音寺に葬った。
 
 その後、天正五年五月下旬、多田元次は伊澤越前守頼俊、吉井左衛門大夫行康と共に阿波の坂西城の戦いに討死にした。そして一宮長門守成助は同國焼山寺の奥に身をひそめ、細川掃部頭直元は同國仁宇谷の奥、茨岡で敵に攻められて自害して果てた。
 
 そこで、多田元次の子、輿四郎は泉州小島へ行き、母方の姓をとり吉成五郎右衛門尉元平と号していた。後に長宗我部元親が阿波の三好一党を討ち従え、天正十四年(一五八六)十月、豊臣秀吉の命により、九州島津氏征伐に行く時、吉成五郎右衛門尉元平は、先年の好みによって船で水主と共に軍兵を輸送して土佐国へ下り、しばらく浪人でいたい旨を申述べた処、当國中諸役免除の折紙を賜って、安藝郡津呂浦に住居した。

 舟水主供此度九州之間、当國中において津々浦々諸公事、令二免除一者也。
  天正十四年十月             元   親 華押 
   吉成五良左衛門殿

 慶長五年(一六00)関ヶ原の戦に長宗我部盛親は西軍に組したので、土佐の領土は没収され、山内一豊が領主となった。一豊は入國に先立って弟山内修理太夫康豊を、慶長五年十一月土佐に遣わし人心の収攬につとめた。
 
 この時、多田五良左衛門尉元平は、弟練右衛門尉正次と共に甲浦境に出張して康豊を迎え、海路供をし、十一月二十七日吉良川へ立ち寄り、それから西に向って浦戸城に入ろうとしたが、一領具足の徒が押寄せて来たので上陸ができず、高岡郡新居村に着き、十二月十日用石村の庄屋佐井喜兵衛の案内により東に進み、喜兵衛は襲い来る一領具足を説得し、漸く浦戸に入城することができた。五良衛門は道中警備の功によって津呂庄屋役を命ぜられた。

     口 上 覚
 津呂庄屋之事其方へ申付候間諸事従二先規一、従前通之宛前申付候。然し東寺領之田地少も無二不作一様百姓共へ沙汰可二申付一候。其方一人而才覚難レ成候はば練右衛門申談可。
  十二月二十一日               山内 修理 華押
    津呂五良右衛門殿

 多田五良右衛門尉元平は津呂大庄屋として海防のことにも当たっていた。
その長子に五良左衛門尉元久があったが、次男五郎右衛門尉義平が大庄屋を職を相続している。
 
 義平は当時文禄征韓の役後三十年位だった頃で、外國軍船の来冠の不安もあったので、海防のため小禄では多くの軍夫を扶持することができず、いろいろ苦心していた際、西國で突鯨を始めているのを聞き伝えて、直ちにこれを伝習し、十三艘の鯨船を造って捕鯨業を(寛永元年・一六二四)をはじめた。幸いにも大漁が続き、寛永五年(一六二八)には二百余人の軍夫を養うことができた。彼等は海事に馴れているので、非常の際は直ちに海防に当る用意をしていた。五郎右衛門は土佐に於ける突鯨の開祖である。
 
 五郎右衛門尉義平には五人の男子があったが、末子の五郎右衛門尉義次(九郎次郎、覚右衛門)が三代目の大庄屋職を相続して、捕鯨等にも関係していたが、鯨方で不心得なことがあって京都に行き、与力櫛橋平蔵の養子となつたので、従兄に当る多田実右衛門義久が、元禄十四年(一七0一)四代目の大庄屋職をついでいる。
 
 そして長男吉左衛門清平は正保四年(一六四七)郷士に召出された。そして長男吉左衛門清平が後《のち》捕鯨が不漁となり、寛永十八年(一六四一)その業を中止し、後尾張の尾池四郎右衛門尉政次等によって復興したが、不漁が続き又中止になった。
 
 清平は天和元年(一六八一)紀州熊野太地に行き、太地角右衛門頼治から鯨網捕りの法を伝授(この時、太地角右衛門は羽差十名、水主六十名を当地に遣わし漁法を伝える)して帰り、土佐捕鯨を中興した。
 
 清平の弟、正実は吉良川へ行き郷士となる。重正は清水で郷士に、直元は高知に出て山内家に仕えた。そして末子が大庄屋を相続したのは、庄屋より郷士が格式が上だったことと、後には庄屋職と捕鯨が分業になったことによると思われる。

 さて、四代目義久の子惣助言知が五代目を相続したが、子供が無かったので、その弟圓蔵信知が六代目、その子、悦右衛門富信が七代目の庄屋になった。富信の長男、万蔵信方は清水に住し郷士となり、次男網之丞信重、三男圓八元信があり、末子四男、実右衛門治信が八代目庄屋となっている。その子丈之助、滝三郎は早逝し、三男の三作正信が九代目となり、その女、喜世を妻に従兄、三作が養子となっている。その信量、孫治信と伝えて庄屋が明治三年五月廃止となっている。
 
多田家は末子相続が多いが、これは兄が郷士となって弟に格式の下で仕事が煩雑な庄屋職を譲ったものであろう。

            
                   多 田 家 略 系    

              

                       ┌ 信萬 (飛鳥多田家祖、郷士)養子─礼之丞重清─勘蔵─温水信実─
                       │               ↑
                       ├ 信重 (三津多田家祖、)―┬重清
             (四)  (五)    │             ├兄平
        ┌   元久 義久┬ 言知    ├   元信          └正信
        │      │ (六)  (七  │ (八)  (九)        (十)   (十一) 
          │      └ 信知──富信──治信──正信(信重ノ三男)──信量──治信──宗信─ 
 (一)     │ (二)
多田元次――元平――義平――清平(耳崎多田家祖、鯨方頭元―正久―正義―正照―正義―久義―正章─正篤─

                                      元良─正敬─小蜂─勇─        
    │                     │
    └   正次    ├ 正実 (吉良川多田家祖)─
                                    │
                                    │
            ├ 重正 (清水多田家祖)半之丞─平左衛門─平次兵衛─喜代助─銀八─喜太夫─勢右衛門─善蔵─太内─
                                    │
                                    │
            ├ 直元 (高知ニ出テ山内家ニ仕エル)─
                                    │
            │ (三)
              └   義次 (津呂多田家祖・鯨方デ不心得ニ付京都ニ行キ与力櫛橋平蔵ノ養子トナル)


                                                                         

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