2017年8月25日金曜日

   岡崎 松太郎翁の事績

                                       岡崎 松太郎翁の事績

 平成四年八月県農業改良普及協会、発行の「くらしと農業」に「先人の碑《いしぶみ》」として、岡崎松太郎についての原稿執筆を依頼され、岡崎左門(孫)西村忠三(三男)に聞く。
稲石・田所政穂氏からも聞きとり。

岡崎松太郎
    父  長太郎    母  利穂 (三津・中屋秀利 家出)
    明治十七年生    昭和三十年六月三日逝去

田所政穂 聞き取り

 耕地整理組合
 大ノ河原(ダンノカワラ)から奥の川原の荒地を田にするつくる。
堤防をつくることから始める。朝五時ごろホラ貝を吹いて組合員を集め、出役で工事をする。
 出役が多く、権利を放棄して辞めたいと言う者も出だした。
初めは田圃《たんぼ》にする計画で合ったが、土をしめる機械もなく、芋畑にした。
 土地はその後、町や津呂の前田政之助など金貸しのものになったところが多い。

西村忠三聞き取り
 
 大敷欠損整理のこと
 郷の人が出資し、紀州でやった大敷網欠損の整理は松太郎が紀州に行ってやった。五万円経費を入れたものを五千五百円で売ったが、
この整理の時、向こうの有力者が米と千円出せんか、出せたらそれで、やってみんかといった。米はあったが千円の金が無く、整理してきたその年、漁があり、千円の金があってやっておったらよかったといっていた。
 帰り、米丸が波が荒く甲浦で下りたが、汽船の切符を払ったら持ち金がなく、甲浦でバス賃を借りて室戸へ帰る始末であった。

 籾摺り機のこと
 大正十一年モミスリ機械と発動機を買って、郷・三津・元まで籾摺りにいった。それまでは臼《うす》ですっていた。
裏面 碑文あり

正面




    岡崎松太郎頌徳碑
            所在地 室津郷上里公民館庭
 
 岡嵜松太郎翁ハ室津郷下里ノ人、性豪放磊落ニシテ識見卓抜、常ニ至誠能ク事ヲ貫ク。
幼ニシテ學ヲ好ミ、長シテ農業ヲ営ム。傍ラ敢テ読書ヲ棄テス。年十六ニシテ腐骨病ニ冒サレ左脚不自由トナルモ意屈セス、郷土ノ為ニ力ヲ盡ス。
 明治四十四年二十七歳ニシテ総代トナリ、數年来紛争ヲ重ネタル共有山問題ヲ解決ス。
郷人、大正六年耕地整理組合ヲ設ケ、室津川上流ニ開墾事業ヲ興シタルモ、中途水害ヲ重ネ世ノ不況ニ遭ヒテ繼續スル能ハス、遂ニ組合長ノ職ニ留マル者無シ。翁、懇望ヲ受ケテ辞スルニ能ハス、遂ニ昭和八年六月、八代目ノ組合長トナリテ、必死、事ニ當リ巧ニ負債ヲ整理シテ繼續、十一町歩ノ田圃ヲ完成シ更ニ昭和二十二年下流大ノ川ニ第二期工事ヲ興シ三町歩ヲ増加ス。
 昭和十一年、資金難ニ陥リタル稲石耕地整理組合長ニ推サレテ、下里大ノ川間ノ道路工事其他ヲ完成ス。
 次イテ、昭和十三年破産ニ瀕シタル室津信用販賣購買利用組合長トナリテ専念同組合ヲ更生ス。
 世ニハ父祖ノ遺澤ヲ籍リテ事ヲ成ス者ハ多シ。或ハ地位ヲ利シ、或ハ時勢ニ乗ジテ功ヲ成すス者亦多シ。而シテ事窮シテ通セサル秋推サレテ當面之ヲ成功ニ導ク者ハ寡シ。
 翁ノ如キハ、當ニソノ人力宣ナリ。昭和十三年郷耕地整理組合長トシテ高知縣耕地協会長ヨリ表彰ヲ享ケ、昭和二十一年二月、篤農家トシテ農林大臣ヨリ勤労顕功章ヲ授與セラレタルハ、尚、加フルニ昭和三年ヨリ九年間郷総代、昭和三年ヨリ一期間室戸町会議員、
    岡 崎  松 太 郎  頌 徳 碑
            所在地 室津郷上里公民館庭
 
 岡崎松太郎翁《おう》は室津郷下里の人で、性格は豪放磊落《ごうほうらいらく》で識見は卓抜で、常に極めて誠実で良く事を成しとげる。
幼い時から学問が好きで、成人になり農業を営む。仕事の傍《かたわ》ら、何時も読書をしていた。歳が十六歳の時、腐骨病《ふこつびょう》(骨髄病)に冒され左脚が不自由になったが意(心に思うこと)屈せず、郷土の為に力を尽くした。
 明治四十四年二十七歳で郷の総代となり、数年来紛争を重ねた共有山問題を解決した。
郷の人たち、大正六年耕地整理組合を設け、室津川上流に開墾事業を興したが、、途中、水害に何度も会う、又、世の不況に遭い継続する事は出来ず、誰も組合長の職に留まる者はいない。翁は、懇望を受けて辞退する事もできず、ついに昭和八年六月、八代目の組合長となって、必死で事に当たり巧に負債を整理して事業を継続し、十一町歩の田圃《たんぼ》を完成した。更に昭和二十二年、下流の大ノ川に第二期工事を興し三町歩を増加した。
 昭和十一年、資金難に陥った稲石耕地整理組合長に推されて、下里大ノ川間の道路工事、其の他を完成した。
 続いて、昭和十三年破産に瀕《ひん》した室津信用販賣購買利用組合長となり専念し、同組合を更生する。
 世の中には父祖の遺沢《いたく》(後世まで残る恩沢・遺産)を借りて事を成す者は多い。或は地位を利用して、或は時勢に乗って功を成す者は又多い。こうして事が行き詰まって進まない秋ごろ、推される。当面はこれを成功に導く者は少ない。
 翁の人となりは、すでにその力量を伝えた通りである。昭和十三
昭和十七年ヨリ六ケ年間、推薦翼賛議員トシテモ大イニ盡瘁ヲ重ス。
 翁、齢、正ニ六十九、氣、猶、壮者ヲ凌グ、ソノ徳ハ年ヲ遂ウテ高ク、世人ノ景仰ヲ受ク。
 茲ニ郷人、相謀リ翁ノ生前ニ於テ其ノ高徳ヲ勤シ、永ク後世ニ傅ヘントスト云フ。

   
        昭和二十七年二月
                久 保 田  博  撰 
                川 谷 廣  次  書 


        (平成四年八月二十二日
                   島 村 泰 吉 写)


 長年郷耕地整理組合長として高知県耕地協会長より表彰を受け、また、昭和二十一年二月、篤農家として農林大臣より勤労顕功章を授与する。尚、加えて昭和三年より九年間郷総代、昭和三年より一期間室戸町会議員、昭和十七年より六ケ年間、推薦翼賛議員として大いに尽瘁《じんすい》(自分の苦労を顧みず全力を尽くすこと)を重ねる。
 翁は齢《とし》、正に六十九歳である。しかし、気力・気持ちは、尚、壮者(働き盛りの人)を凌《しの》いでいる。其の徳(身に得たm 優れた品性)は年を追ってますます高く、世の人々の景仰《けいぎょう》(人格の高い人を仰ぎ慕うこと)を受けている。
 ここに郷の人々、相、集まって諮《はか》り、翁の生前に於て其の高徳を勤め、永く後世に傅えようと云った。

   昭和二十七年二月
                久 保 田  博  撰 
                川 谷 廣  次  書 


        (平成四年八月二十二日
                   島 村 泰 吉 写)


         平成二十四(二〇一二)年七月 盛夏
                   多 田   運 
                         (読み下し) 

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