吉良川町・西の川を遡ること三里、長者野の奥に朴《ほお》の木と言われた、戸数十二、三戸の小集落があった。村人はこの集落の名にたがわず、豊かで平穏に暮らしておった。
ある年、集落に疫病がはやり難渋した。村人は頭を集め相はかり、集落の美田を吉良川御田八幡宮に奉納した。すると神の御加護か霊験あらたかなり、たちどころに疫病は治まった。神田の泥が無病息災の妙薬となり、村人を喜ばせた。早少女《さおとめ》が若衆に泥を打ちかける行事、泥打(どろんこ祭り)ち祭りはここに始まった。と言われる。
明暦元(一六五五)年卯月(陰暦四月)十日、この年も村人や早少女が待ちに待った泥打ち祭りの日であった。
ここ長者野は昔から美人の多い所で、吉良川小町といわれ、七浦に知れ渡っていた。白い手拭いで姉さん被り、赤い襷《たすき》、紺絣の出で立ちで、田植え唄をうたいながら苗を植えていく。早少女の舞うがごとしの仕草はあまりにも美しく、近郷近在の若衆連は我を忘れ見とれていた。なかには、この小町娘を女房にしようとたくらむ若者も、そこかしこに多くいた。元々娯楽の少ないこの農山村は、泥打ち祭りが一つの男女の集いの場で、祭りが縁となり結ばれた男女も少なくは無かった。
一通り田植えが終れば、いよいよ泥打ちが始まる。あらかじめ泥を塗られても良い着物で来る者や、中にはこの上なく粧《めか》し込んで来る伊達男もいた。泥を塗ろうと追い駆ける早少女、塗られたくも有り、また塗られたくも無い若衆たちとの戦いが一時続いた。いつの間にか、その中に若い笹飛脚が一人いた。
それに気付いた一人の早少女は、七人の早少女に目配せしあい、突然、飛脚に泥打ちを仕掛けた。驚いた飛脚、身をかわしたがかわし切れず、全身に泥を浴びてしまった。御上の御用を務める飛脚。泥を打ちかけられ、汚辱されたとあっては申し開きが立たない、とばかりに小太刀を抜き一人残らず斬殺してしまった。惨事の模様は、一面血に染まった田中が物語っていた。飛脚も自ら切腹をして果てた。
その後、この田の付近から夜毎、人魂が飛交ったり早少女達の忍び泣く声が聞こえたという。村人達はこの不幸な早少女や、飛脚の霊を慰めるため田の中に祠を建てて祀った。
以後、早少女達の忍び泣く声や、人魂も飛ばなくなったという。この悲惨な出来事より、泥打ち祭りは途絶えたが、朴の木の末裔たちは、永い時を経た今もなお、お祀りは毎年欠かさず続けられているという。
文 津 室 儿
絵 山 本 清 衣
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