2011年7月31日日曜日

  室戸の民話・伝説 第三話        室戸三美女の悲話

                  室戸三美女の悲話

      その一 お市《いち》
 三津坂・室戸坂、三津の人達が室戸へ行くのを室戸坂を越すと言い、室戸の人達が三津へ向かうのが三津坂を越すと言う。又の名をお市の坂とも言う。
蔵戸(室戸側)の方から登って行くと、峠近くの路傍に花や木の葉に埋もれた小さなお堂がある。祀られている石碑の正面にはお地蔵様を刻み、「花をり地蔵」と彫ってある。右側面には、「三月十八日」左側面には「三つ女中」の文字が見える。「花をり地蔵」の名に相応しく、この坂を行き来する人々は、このお堂前に指し掛かると美しい小枝を手折り供えて行く。遠足時の小学生達も疲れた足を休めて、祀ったものであった。
 むかし、三津に「お市」という美しい女がいた。お市はこの世の人とも思えぬほど美しかった。ある夜のこと、お市は唯一人で三津坂を超え室戸へ急いでいた。峠に指し掛かった時、一人の侍に出逢った。その侍はお市の人間とも思えぬ美しさを見て、一時ギョッとして立ち竦んでいたが、次の瞬間、行き過ぎようとするお市にやにわに躍りかかった。しかし、必死に抵抗するお市の力を押さえかねて、意のままにならぬ一時の憤りから遂にお市を斬り捨てた。
 自分の美しさがかえって禍となった、お市はその苦しさのさなか「美人は身の仇だ。これから後、この三津坂の東西一里四方には美しい女は生まれるな」と言い遺して死んだと言われている。美人薄命と言われるものの、まことに哀れな物語である。
 お市の墓に花を手向ければ、疲れた足が軽くなると言い伝えられ、今もなお、子供や大人諸々は、この坂の悲劇の主人公お市に花を供え敬っている。
                 
    その二 おさご女郎
 室戸岬の東に毘沙姑巖《びしゃごいわ》と言う、ひときわ高く聳える巌がある。その山辺には、若き日の空海が虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》を修められ、仏道に入られた大師修法の聖地・御蔵洞《みくらどう》がある。その近くに小さな茶屋があった。そこに「おさご」という、それはそれは美しい小町娘がいた。いつの間にかおさごの美しさは評判が評判を呼び、近隣の若者は勿論のこと、沖を行き交う船人さえおさごを一目見ようと浜辺に船を漕ぎ寄せた。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の古参道(東登り口)の海辺には、グイメの木が群生し、秋ともなれば赤い実が熟し、まるで一面花のようだった。岩伝いの道を通る若者たちはグイメの実を口にほうばりながら、おさごの噂をした。だが若者が騒げば騒ぐほどに、おさごは自分の美しさを苦にしはじめた。
 いつしかおさごは顔も手も洗わず、髪も梳かさず汚れた着物を着たままに、茶屋の片付けや掃除もしなかった。誰が見て居ようとも鍋の中のものを手づかみで食ったりした。しかし、美しさを隠そうとする細々としたおさごの婀娜《あだ》姿は、一層若者たちの心を捉えて放さない。若者たちの間ではおさごをめぐって争いも起こる有り様であった。 ある月夜の晩、思い悩んだおさごは毘沙姑巖の巖の上に立っていた。「後々、室戸岬一里四方に美人は生まれるな」と祈願して、身投げしたと伝えられている。
 古老の話では、正月や酒宴の場で次の唄を唄ったという。
 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ              (囃し言葉)
グイメの木をてぎ(糸を織る柄)にヨー
こさえてアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎に糸をヨーとらしてアレバイセ、コレバイセ
そのふりを見たい ショウガエー

 津呂のエー 岬のアレバイセ、コレバイセ
おさごの女郎は きりょう はヨー一番
あの手鍋じゃ二番
肌の汚れごきゃ たえやまぬ サンヨーと、哀感を込め唄っておさごを忍んだという。 

    その三 於宮《おみや》
 金剛頂寺《こんごうちょうじ》(土佐西寺)の脇寺に新村《しむら》不動堂がある。かつて、金剛頂寺が女人禁制だったころ、女人遍路はこの脇寺、不動堂にお札を納めたという。新村不動堂をお護りする地区には、前《さき》に記した二人の悲話と全く類似した物語がのこっている。
 この新村には、「於宮が渕」という小さな入江があった。波の侵食により今は無いが、この渕の近くの巖には朝顔に似た「白粉花《おしろいばな》」が咲き誇り、里の人々は於宮と呼ぶ美女の形見の花と言って愛でている。里の子供たちは、赤とんぼの飛び交う暖かい日差しの下で、海辺の貝の皿に「白粉花」を潰し、無邪気に「ままごと遊び」に興じる。
 いつのことか分からないが、この小さな新村の里に、漁村には稀な気立てのいたって優しい美しい娘が住んでいた。その名を於宮といった。村の若者たちは於宮に夢中で、於宮の動くところへは影の形に付き添うように付き慕ってさわいだ。西寺の若い学僧も又、その中の一人だった。彼は僧侶ということも、教義の不瞋恚《ふしんい》(自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)不邪淫《ふじゃいん》(よこしまで淫らなこと)の戒もうち忘れて、せっせと山道を下り於宮のもとに通ったが、於宮はどうしても彼の意にも随わなかった。
 於宮は自分のために多くの若者が悩み日々の仕事にも精を出さない姿を見て悲しんだ。あの若い僧さえ日々の業態をおろそかにして、瞋恚の焔を燃やす。前途のある若僧が十善戒(十種善行)を犯すのは、みな自分のためにおこる罪業であると考えた。捨身住生(生命を投げ出すこと)・・・、遂に生真面目な於宮は自分を殺して若者たちを煩悩の苦から救おうと決心した。
 いつの日か、於宮は不動堂の巖頭に立ち、「美人こそ不仕合せ、ここ一里四方に私のような者が生まれないように」と、言って渕に身を投じたという。
 その後「於宮の渕」の巖の上に、一本の可愛らしく美しい紅の花が咲いた。この花は白粉や紅筆の化粧道具になったという。
 
 この三人三様の願いに添えば、室戸には美人が生まれないはずであるが、三人が命を懸けた願いも空しく、その後の室戸には沢山の美人が生まれ続けている。
 この話は室戸の美しい娘子を他所に連れ出されないように防ごうとする、翁媼《おきなおうな》のはかりごとであろう、とか。           
                              文 津 室   儿
                              絵 山 本  清衣
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