2011年11月1日火曜日

 第9話 木食僧・入木の仏海上人



 木食僧・入木の仏海上人

 近郷近在の老若男女から、白《しら》髭《ひげ》のお坊さんと慕われ続けた僧侶が佐喜浜の入木にいました。その人の名を木食僧《もくじきそう》・仏海上人《ぶっかいしょうにん》と言いました。国中の浦々を乞食行脚《こつじきあんぎゃ》した道程は、地球の何週回分にもあたると言われています。
「仏海さんの字《あざな》は「如心《にょしん》」俗名を太郎松《たろうまつ》」と言って、伊豫《いよ》・愛媛県風早郡猿川村(現・北条市)の生まれです。
 仏海さんは、前世の約束に感応したものか、幼心に俗世《ぞくせ》を逃れようと志し、十三歳で父母のもとを出て師を求める旅にでました。粗末な衣服をまとい、飢えを友とし山野に宿《しゅく》し、三年の月日を経ましたが心に適う師範には出会えません。十五歳のとき「俗世解脱《げだつ》」の大願をたて、高野山に登ろうと決意しました。
 紀伊《きい》・高野山の麓、紙漉《かみすき》きで名高い細川村の民家に宿をかりました。民家の主人に、仏海さんは志しを告げました。この志しに耳を傾けてくれた主人は、仏海さんにこう諭しました。「貴男は未だ歳も若いしおまけに貧窮《ひんきゅう》している。いつか遍歴に飽きてしまうに違い有りません、私の言うようになさるが一番よろしい」と、それからの三年間を、此の宿の主人のもとで薪を割り水を汲み労役に従事しました。十八歳にして高野山に登ることができ、一心院《いっしんいん》谷の正法院《しょうほういん》に入りました。ようやく二十三歳にして生涯の師範に巡り合うことができました。その師は正法院の住職・宥秀《ゆうしゅう》阿闍梨《あじゃり》でした。師の教えにしたがって頭髪を剃り、衣を改めて出家しました。
 二十七歳のとき彫刻僧・潜巌《せんがん》和尚に謁見《えっけん》することができました。この潜巖和尚が地蔵菩薩《じぞうぼさつ》の尊像《そんぞう》を彫刻し、有縁《うえん》の人々に施与《せよorしよ》しておられた。それを目にした仏海さんは、地蔵尊の刻像を習い有縁の人々に授与《じゅよ》しなが回国修業することを目標にしました。時に仏海さん三十一歳、元文五年(一七四〇)のことでした。
 三十五歳、再び高野山に登り、宥秀阿闍梨の導きで四度の修業を成就《じょうじゅ》しました。再び、中国・九州を廻って、数々の教典を書き写し道場へ奉納しました。扶桑《ふそう》(日本の異称)の国中の回国巡礼の旅(修業)と共に、総数三千体に及ぶ尊像彫刻が成就しました。三十七歳のときでした。
 仏海さんの行く所には、いつも多くの人々が待ち受け、その徳望と叡知と法力によって病める人の心を癒しました。四国八十八ヶ所修業道場で最も険しい難所の一つに、飛石《とびいし》・羽石《はねいし》・ごろごろ・と言う、交通難所があります。この海岸難所から人々を救うために、飛石庵を結び旅人や遍路の救済に晩年を捧げ、錫杖《しゃくじょう》をこの入木の地に留めました。飛石庵から仏海庵へと名称が替わったのは、仏海さんが入滅後に村人が改名したと伝わっています。この庵は当時のままに再建されたと言われ、間口二・五間、奥行き二間位の小さなお堂であります。そのお堂の前には、仏海さんが刻んだ一字一石の経文を鎮め、その上に建てた地蔵尊像があります。お堂の中には観音像の鋳型《いがた》、地蔵菩薩像の鋳型、弘法大師修業の絵図、不動明王の絵図などの遺品が遺されています。
 仏海さんは明和六年(一七六九)入定しました。今の宝篋印塔《ほうきょういんとう》の下に、三七、二十一日間、五穀を断ち水のみにて、香を焚き鐘を鳴らし、一百万遍の読経に耽り即身仏《そくしんぶつ》になられたと言われ、旧歴十一月一日が命日にあたると伝えられています。
 入木地区は仏海さんを信仰する事によって、裕福な土地になったと言われます。これは仏海さんの功徳の表れでしょう。また仏海さんの、法力にまつわる話が二話のこっている。
 其の一、仏海庵の前に大きな蘇鉄《そてつ》の木があります。蘇鉄の前に県道建設が始まりました。蘇鉄の枝が工事の邪魔になり、村人が相談して切ることにしました。翌朝、刃物を用意して、蘇鉄の前に立ち驚きました。夜の間に蘇鉄の枝は、全て後方に曲っていました。村人は仏海さんが蘇鉄を守った。とその法力に敬服したといいます。明治二十四、五年の話であります。
 其の二、昭和の初め頃、仏海庵に泥棒が入りました。泥棒は仏海さんが祀ってあった本尊や宝物をごっそり盗んでいきました。その夜、仏海庵の甍《いらか》の上に大きな鬼火(火玉)が三つ飛びかい、数人の村人が見ました。入木の若い衆達は、何事かあらんと庵に集り、泥棒と知るや互いに指図しあい、根丸橋と淀が磯の橋の袂へ若い衆を差向け、泥棒を待伏せしました。泥棒はその夜、村境の水尻であっけなく捕えられました。泥棒の白状によりますと「本尊を盗んで水尻まで来た所、鬼火がまとわり飛交い、足がすくんで歩けなくなり、本尊は竹薮に隠して有る」と言ったそうです。早速本尊を探し出し、元の仏海庵へ持ち帰りました。その夜は村中の人々が集まり、本尊の無事を喜び合い、夜もすがら供養をしたといいます。その後庵は、今に至るまで仏海さんの法力を恐れ、不届き者は来ないと言われています。村人は本尊の安寧を心に願い続けていると言われます。
 平成二十二年(二○一○)十二月六日(旧十一月一日)は、仏海上人・宝永七年生れの生誕三百年祭にあたります。盛大なお祭りが行われることでしょう。
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                    無断掲載禁止


2 件のコメント:

  1. お元気ですか?
    この頃は音沙汰なしですから、また落ち込みかと思ってあんじておりました。何か一言と思ってブログを開きましたが、この手の民話などには、なるほどとオムばかりで、コメントのしようがないものですね。しかしまあ、よく御調べで感心です。でもこの仕事は、本当に優れた仕事で構成に残るでしょう。この継続と根気に頭が下がります。
    ひとつお願い。色つきの文字でで、少し太字になりませんか?ご健闘を祈ります。

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  2. 後で気が付きました。訂正にコメントです。
    思うがオムに後世が構成になっていました。
    あしからず。ikurou kaki

    民話など話題に一杯やりませんか?

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