十六 剣の達人
野根山街道、岩佐の関所は関守が五人いた。関守らは勤めの合間に、剣道の鍛練をするのが常であった。又、学問にも励んだ。三次さんが、色々な知識を持ち合わせていたのは、門前の小僧の例えに漏れず、関所の講義に耳を傾け、剣道は関守の川島惣次さんや北川さんに手解きを受けていたからだ。その上達振りは誰もが目を見張ったという。
ある日、稽古の最中《さなか》に、旅の侍が通りかかった。その侍「一手、お手合わせを」と云ってきた。余ほどの使い手か、関守は誰一人敵わない。何を思ったのか三次さん「儂でもかまわんか」と一歩前にでた。旅の侍、「お主は侍では無いが、まあよかろう。何処からでも打ち込んで参れ」といった。三次さんの竹刀は普通の代物ではない。「葛《かずら》」で出来ている。三次さん、上段に振りかぶり打ち下ろした。見事に面が決まる。侍は竹刀を水平に、頭上で受け止めた。しかし、三次さんが打ち下ろした竹刀は、大きく曲り先端は背中からお尻までとどいた。「うおっ」と、何者の声とも云えない叫び声を上げ、気を失ってしまった。気を取り戻した侍、相手が居ない。「あの人は、あの方は、何者でござる」と、狼狽《ろうばい》する。惣次さんは「おおかた、この野根山の天狗じゃろう」と、こたえた。侍は、怪訝《けげん》な顔で関所を立ち去ったそうな。
十七 胴乱
明治の少し前と云うから、慶応年間の話である。佐喜浜の小山《おやま》に田中清次郎という人がいた。清次郎さんの家は庄屋で、庄屋職のかたわら農業と山仕事をこなしていた。冬場は猪狩りに出たりした。狩猟の手ほどきは三次さんであった。田中家の田畑の一角に、山内地(藩有地)が二反ばかりあり、作った米、六割を岩佐の関所に拠出する。そのため税金は免除されていた。秋の収穫期には、岩佐村の人々が米を運び出しに挙《こぞ》ってやって来た。
ある日のこと、田中家で法事が行われ、三次さんも招かれた。話題はこの冬、清次郎さんが仕留めた大猪で持ち切りだった。三次さん、その猪の牙を見て、「清次郎、儂にてんごー(余計な手出し・お節介)させてくれんか」と云って、牙を持ち帰った。四、五日すると、見事な胴乱《どうらん》(革又は羅紗《らしゃ》、布などで作った方形の袋。元は銃丸を入れる袋だったが、後に薬・印・銭・煙草を入れて腰に下げるもの)となって返ってきた。胴の部分は、躑躅《つつじ》の根の瘤《こぶ》で作り、牙は根付《ねつけ》(胴乱が落ちないよう、その紐の端に付ける留め金)にして二行の漢文が刻まれていた。「見事な出来栄えに」誰もが感心した。皆が「三次さん、この文の意味は」と問いかけた。三次さんは、「てんごーよ」と云って微笑むだけだった。
清次郎さんは、気にかかって仕方がない。漢文に詳しい人を尋ね歩いた。中里の植松龍太郎さんに辿り着いた。植松さんは、即座に「諸葛孔明《しょかつこうめい》の出師《すいし》の表《ひょう》(上奏文・誠忠と憂国の至情にあふれた名文)の一節だ、と応えた。一体誰が作った胴乱だ、細工も見事なものの、出師の表を知る人とは」とほめたたえた。三次さんの作だと話すと、「ほうあの人が」と、あんぐり口を開けて見とれていた。
三次さんのユーモア噺のかげに、見識を備えた人間の大きさが伝わってくる噺である。
十八 削《はつ》り
佐喜浜の根丸に、粉川浩然と云う人がいた。根丸で一番の知恵者と云われ、二十三士事件では、佐喜浜側の討伐隊長として岩佐の関所に出向いた。中尾集落に分教場が出きると先生になり、子供たちに慕われた。この人、無類の三次さん好きであった。佐喜浜八幡宮が、明治九年に焼失した。その再建が始まるや、暇を作っては建築現場に足繁く歩を進めた。浩然さんの楽しみは、三次さんがいつも建物の一番高い所で働いている姿、立ち居振る舞いを見ることであった。梁《はり》や屋根の天辺を、地表と同様に、すたこらせっせと容易《たやす》く歩く姿は、まるで芝居の演者と重なると云う。
ことに、前手斧《まえちょうな》(鍬形《くわがた》の斧《おの》)を使う技は見事で、三次さんが削った部材は仕上げ鉋《かんな》を必要としなかった、という。その技術の見事さは、後々まで語り種となっている。
翌、明治十年、八幡宮は竣工した。拝殿の扁額には、多くの奉納・寄進者が名前を連ねている。しかし、前田三次郎の文字は、どこにも見当たらない。三次さんの奥床しき人柄が偲ばれる。
次回も三次さん噺、お楽しみ下さい。
文 津 室 儿
絵 山 本 清衣
粉川浩然、植松龍太郎両氏とも佐喜浜村長をされていますね。そのころは地域の内には、話がよく通って、桑の木の三次さんは名物男だったのでは。腕が確かなのは大野家源内と共通しているようで、惰眠してきた小生どもは申しわけがありません。
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