第44話 猿目の利平
この噺は、天下分け目の関ヶ原の合戦(慶長五年・一六00年)の頃というから、もう四百年を有に越している。
猿目《さるめ》の利平《りへい》さんこと専《仙》頭利平さんは、吉良川・西の川の釣ノ口で、夏はアユやアメゴの川魚を冬はイノシシやシカを、簎《やす》や鉄砲で捕る猟師を生業《なりわい》として暮らしていた。
槍・鉄砲の心得があったのか、その腕前は、土佐一円の郷や浦々にまで聞こえた、という。その腕前を、二三例、記してみよう。
絵 山 本 清 衣
その一、娘子の頭に、幾枚もの短冊を結び付け川向かいを走らせ、その短冊を一枚一枚撃ち落とした、という。
その二、また川のせせらぎに、縫い針を仕立てた笹舟を流し、その針を一本一本撃ち落とした、ともいう。
その三、ある時、鎖鎌《くさりがま》の武者修行者が利平さんを訪れ、一手御教示頂きたい、と他流試合を申し込んだ。
利平さんは「承知した」と応え、鉄砲を取り出した。それを見た武芸者は「鉄砲には敵わない」と言って逃げ出した。
すると利平さん、取り出した鉄砲で逃げる修行者の深編み笠の紐を撃ちきり、ついで笈紐《おいひも》の左右を撃ち切り、さらに草鞋《ぞうり》の紐の左右を撃ち切り「さあ、今度は命をもらうぞ」と鉄砲を構え直した。
武芸者は、「仁王立ちの利平さんを見るや」山道の曲がり鼻に隠れながら、「命は地の利が守ってくれる」と言って逃げ去った、という。
「猿目の利平さん」のいわれは、これらの噺を察すれば分るように、利平さんの目は猿の目のように鋭く、物が良く見えた人であった。そこで村人達は「猿目の利平さん」と、尊称した、という。
この腕前を長宗我部盛親に見込まれ、関ヶ原の合戦に従軍した。合戦は一日で決着、西軍豊臣秀頼軍の敗戦で終わった。
この合戦で利平さんは武勇を振るう。敵方武将を打ち捕り、その生首を槍先に結びつけ、陣に帰る途中戦《いくさ》の疲労が出たのか、道すがらのお寺の縁先を借り仮眠をとった。
しばらく微睡《まどろ》み、目覚めてみると槍先の首《しるし》がない。そこここを探すがない。落武者の身の利平さん気もそぞろ、仏堂の軒先に吊してある鰐口《わにぐち》(振って音を出し、神仏に参詣を告げる鳴り物)を頭《かしら》代わりに失敬して、陣に無事帰り着いた、という。
さてはさて、持ち帰った鰐口に付いて、平成五年(一九九三)五月、枚方市市史編纂室より、「土佐振谷観音堂鰐口」の所在の問い合わせが室戸市市史編纂室にあり、吉良川公民館が対応する。振谷とは吉良川西ノ川の現・古矢のことである。
同町・長者野の岡村武信氏に問い合わせる、と鰐口が現存する事が判明した。同年、枚方市より調査団来訪し鰐口の実測調査を行った。
これより二十三年前、この鰐口の存在を突き止めていた人がいた。長者野出身で仙頭勝氏(明治二八年生)がいる。海軍大佐の前歴のある同氏は昭和四十五年、自らのルーツを辿って、長者野を訪れ、「御先祖の面影を尋ねて」を認《したた》めている。その文章中、鰐口に付いて次のように記述している。
「神社を辞して云々・・・長者野を過ぎ、渓谷と急流の絶景を鑑賞しながら朴《ほお》の木に着きました。ここには無住職の高福寺と言う庵寺があり、村人が語り伝える専頭利平(人呼んで猿目の利平)の伝説を裏付ける鰐口があり、鰐口には次の銘が刻まれていた。
永享十二年十二月二十六日 鋳大工 藤原
家忠
河内国交野郡田宮郷内山上 延命寺
永享十二年(一四四0)に鋳造の物で五三0年前の作であります」と綴られている。
利平さんが仮眠に耽ったお寺は、河内国交野郡田宮郷内山上の延命寺(延命寺は明治十三年廃寺となる)であった。利平さんは持ち帰った鰐口を、郷里の五所権現(現五所神社)に納めたが、居心地が悪いのか!夜ごと夜毎鳴動してやまず、里人は気色ばむ。振谷(古矢)観音堂とか高福寺に納め直すと治まった、とするがその変転は謎が多い。
今として、土佐振谷観音堂が何処にあったか、五所神社と混同されたものか、知るすべが無いが、文化年代の著作とされる「南路志」の記述から押して、五所神社に掛けられていた事は事実である。
そののち、どのような経路を辿ったか不明であるが、朴の木の高福寺に移り、現在は長者野の集落が保存している。
なお、鰐口は平成一五年六月二十日、室戸市文化財として指定された。
猿目の利平さんは、実在の人物であった。仙頭姓の一族は、利平さんを大先祖《おおさきつおや》だと敬い、その子孫達が建てた墓には、「専頭利平 了笈信士 行年八十八歳」と刻まれ、釣の口集落にあり、手厚く今に祀られている。
文 津 室 儿
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