2013年11月2日土曜日

室戸市の民話伝説 第43話 鯨一千頭の位牌


   鯨一千頭の位牌

 室戸市の中心地、浮津の宮地山に中道寺が鎮座する。このお寺の宗派は日蓮宗であり、本山は広普山《こうふさん》・妙国寺《みょうこくじ》(大阪府堺市)で開基は三好之康《みよしゆきやす》(義賢・実休)であった。もとは香美郡上田村(現南国市)にあった桂昌寺の脇坊の一つであった、が退転していたものを捕鯨浮津組初代頭元《とうもと》宮地武右衛門が、
『注記 捕鯨浮津組に付いて、浮津組の起こりは津呂組に遅れること三十五年後の万治三年(一六六0)藩の援助を受け、地下人共同で始まり、貞享二年(一六八四)より宮地武右衛門の個人に移り弘化三年(一八四六)までの百六十二年間の経営であった。後には佐藤氏が経営したが長くは続かず、浮津捕鯨株式会社へと移った。この地にも近代化の波は襲い、ノルウェー式銃殺捕鯨が明治三十九年(一九0六)に入り、遂に津呂・浮津両組古式捕鯨は二百七十二年間をもって終焉を迎えた』元禄十年(一六九七)に藩に願い出て浮津村へ移し、宮地山中道寺と号した、と伝えられる。
 この中道寺には、鯨にまつわる説話が一つある。ころは宝永地震(一七0七)も落ち着き、正徳年間の、とある秋も深まった頃に、このお寺の住職が夜更けにお勤め、読経を上げていると、山門をトントンと叩き案内を請う者がいた。この夜更けに何方が、と訝しく思いながら住職は読経を中断して山門を開けてやった。そこには、年の頃なら十七八歳で、見目麗しい娘子が立っていた。


                         絵  山本 清衣

 住職が、「この辺りでは、ついぞ見かけぬ娘子だが、さては何所から、何用でお出でかな」と、問えば。娘子は臆する様子もなく、「実を申せば、私は人間ではありません。この海に住む鯨です。明後日には浮津組・宮地幸六殿の網に掛かることが、すでに分かっております。私は女に生まれて、子を宿す悦びすら知らずに一生を終える身にございます。今夜、ご住職様にお願いごとがございます。どうかこの身が生きていたあかしを、来世で浮かばれますようにお祈りを上げて下さい」と、涙を流しながら嘆願した。住職は娘子を大変哀れに思い、「そのことであれば、ご安心くだされ。私も僧侶の身、その方の願いは十二分に聞き届けましょう」と、応えた。すると、娘子は嬉しそうな仕草をして、だんだんに礼を述べたかと思うと、かき消すように居なくなった。しばらくすると、沖の方で雷鳴が走り海が鳴動し始めた。この鳴動は先程の娘子の喜びの現れであろう、と住職は娘子の願いを一心に込め読経を続けたという。
 翌朝、住職は昨夜の不思議な出来事のことと次第を、浮津組鯨方の頭元宮地氏に語った。話を聞き留めた頭元は、この身の生業の罪深いことを改めて思いおこし、「人間は生きとせ生きるものの命の布施に因って生かされている」感謝こそすれど忘れてはなるまい。鯨には畏怖畏敬の念を持って接することを心に誓った。
 宮地浮津組は天保八年(一八三七)、鯨捕獲数が千頭に達したのを期に、鯨の菩提を弔う六角供養塔(昭和九年(一九三五)は第一室戸台風にて倒壊)や現在二基の鯨大位牌が現存、その大きさは( 15.×54.8×106.8cm、位牌正面に、南無妙法蓮華経 鯨魚供養 右には、南無釈迦牟尼佛 有情非情法界平等 左には、南無日蓮大菩薩 一乗法雨率土充治 と記され、裏面には、 宮地氏捕鯨自寛政庚申至天保丁酉凡及 一千因為其鑄鐘寄附中道寺猶託余讀誦玅 經五十部以設供養仰願鯨鯢速脱患苦疾證 得菩提乃至法界利益無窮 天保十一年庚子二月涅槃忌神力山日凝稽首欽 と記されている)鐘楼を造立して供え供養に心血を注いだ、ことは娘子との約束を果たしたと言えよう。 
 今に伝わる、鯨の大位牌を拝観されたい方は、事前に中道寺様に願い出れば、お見せ頂けると存じます。
 尚、六角供養塔は前述の通り無く、梵鐘に付いては、先の大戦時に供出し現存致しません。

                            文  津 室  儿
         

1 件のコメント:

  1. これによく似た伝説に五島列島宇久島の山田紋九郎伝説がありましたね。太地でも明治11年の鯨船遭難事故後、「脊美の子持ちは夢にも見るな」という言葉も生まれましたが、これは大檀那の角右衛門が前夜、堺の住吉神社にお詣りに行く鯨より「往きは見逃して下さい。帰りは捕らえても良いから」と懇願の夢を見たのを忘れ、捕鯨を行ったことによる事故として伝説化され、長く熊野地方で知られていたようです。室戸にも似た伝説が残っているのですね。

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