第54話 四十寺山
弘法大師空海・幼名佐伯眞魚《さえきのまお》が、京の大学の学問に飽き足らず、延暦《えんれき》十一(七九二)年十九歳の頃より約五年間、山岳修験を続けた。 空海が二十四歳で著した戯曲「三教指帰《さんごうしいき》」には、自ら「阿國大瀧岳に躋《のぼ》り攀《よ》ぢ、土州室戸の崎に勤念《ごんねん》す。谷響きを惜しまず、明星来影す」とあり、室戸崎の洞窟「御厨人窟《みくろど》」や室戸山(現四十寺山)で虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》(この法は真言「真言とは大日教など密教経典に由来し、真実の意」を百万回唱えると、すべての経典を暗記できるという、ある種の記憶術である)を満行《まんぎょう》した、とされる。
最御崎寺《ほつみさきじ》の寺伝によれば、空海は大同二(八0七)年、嵯峨天皇の勅願《ちょくがん》を受け本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開基したとされる。 最初に室戸山 明星院 最御崎寺 通称 東寺が創建された場所は今の四十寺山山頂であり、そこに奥の院を残し本堂を現在地・室戸半島先端に移したのは寛徳初年(1044)の頃だという。
寺院は元来勤行・祈願の道場であるから、山中の勝地を選んで建立された。一時期、室戸山にはお堂が四十堂伽藍《がらん》が点在した、という。このお寺の数に因み、この頃より室戸山が四十寺山と言われだした、と伝う。
青年眞魚は、阿波の大瀧岳で虚空蔵求聞持法を勤修し、更にここ室戸崎を勤行の地と定めて来訪した。それは、今を去る千二百二十有余年昔のことであった。
眞魚は時を惜しみて、室戸崎の巌頭に座禅を組み、又、ある時は四十寺山山頂の巨巌にて座禅三昧する。
勤行の最適地と選んだ室戸崎であるが、実際に座禅を組んでみると、この地には沢山の天魔や地の妖怪が魑魅魍魎《ちみもうりょう》とした世相で勤行の邪魔をした。
しかし、大宇宙は眞魚の勤行に応えて、明星(明星は虚空蔵菩薩の化身)が飛来し眞魚の口に飛び込んだ。この時をもって悟った眞魚は、名を室戸崎の空と海に因み空海と号した。この時のことを空海は、
「御遺告《ごゆいごう》」に「土左《とさ》の室生門《むろと》の崎に寂暫《じゃくせき》す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来たりて、菩薩の威を顕し、仏法の無二を現ず」といつて無二一体(眞魚という小宇宙と虚空蔵菩薩という大宇宙の合体)と成ったことを記している。
絵 山本 清衣
仏教の教えは人間の為にある事を悟った空海は、初めて住人に目を向けた。してみると、この地の民百姓は天魔地の妖怪が百鬼夜行し苦しめられていた。
ことに、崎山台地の字《あざ》西坊、東坊(現龍頭山 光明院 金剛頂寺 通称 西寺境内地)の椎や楠の大木の洞《うろ》には、沢山の天狗が住み着き災いを起こしては民を苦しめていた。空海は天狗と問答するや「火界呪(印相を結び、火焔が無限に放出する呪文)」を唱えて競い合い、天狗を遙か彼方の足摺岬に封じ込めた、という。
この話を耳にした、四十寺山の麓の集落の農民は喜んだ。毎年、秋には収穫物を搾取され田畑を荒らすや、娘を強奪するなど妖怪・魔物を、空海の功徳によって退治して貰おう、と嘆願をした。
空海は「それは、お困りであろう。拙僧でよければ」と願を酌んでくれた。
空海は早速、加持祈祷の儀式に入り、印を結び、「大般若波羅蜜多心経」を天空に指でなぞりながら真言を唱えた。すると、金色の経典が突如天空に現れ、民百姓を泣かせ苦しめた妖怪・魔物たちは、たちまちその功徳によって、空海の手のひらに鎮まってしまった。そして空海はかつて四十寺山山頂の巌頭で座禅三昧した巨巌に押し込めてしまった。
その四十寺山の巨巌は、高さ七八㍍、幅十一二㍍強あり、巨巌の表面には空海が閉じ込めた時の足跡が今なお遺り、閉じ込められた妖怪・魔物たちは、今に至るも生きているのか巨巌の中でも暴れているのか、巨巌は、年間数ミリずつ下方へ下がっており、「にしり巖」と名付けられている。
その昔、四十寺山のお寺は山桜に囲まれ、桜寺と親しまれた、ともいう。
今、四十寺山を取り巻く麓の青壮年たちが、四十寺山を往時の桜山にしようと「四十寺山桜美人《さくらびと》の会」を結成し、領家弘山に自生していた桜に「室戸桜」(大島桜と山桜の自然交雑種・新種)と命名し植樹して、市民の森づくりを目指している。
文 津 室 儿
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