第53話 鱏《エイ》に嫉妬する女房
ころは、津呂浦の山田長三郎が土佐の鰹《かつお》一本釣りを創始した寛永十八年(1641)というから、かれこれ三百七十有余年の往年のことである。
長三郎は、藩の許可を得て坂本集落に立岩崎という小字あり、そこに岩礁の窪地を利用して船曳場(山田港・坂本港と云ったが、今は無い)を設け、二艘の鰹船を造り鰹漁を始めた。
その約七十年後の正徳五年(1715)、六代藩主山内豊隆公が参勤交代の帰路、室戸岬沖で暴風雨に遭い難船した。その時、長三郎の子・喜三衛門がこの船曳場から鰹船を漕ぎ出し、無事に御座船の藩主を助け、山田家は山内家の家紋、土佐柏紋入りの大盃と一文字家紋を拝領した。
この様な歴史背景を持つ坂本集落に、良吉《りょうきち》と夕《ゆう》という、仲睦つましい夫婦が漁師を生業《なりわい》に暮らしていた、だが子供には恵まれていなかった。
満月の晩、良吉はお鼻《はな》(室戸岬)の高巖《たかいわ》の西沖の埋もれ碆《ばえ》、ヤゴスケの礁《しょう》へ夜釣りに出かけた。それは其れは、月の綺麗な晩だった。この夜は、幾ら釣り糸を垂れていても当たりが皆目無く、ふと漁師仲間の諺、「満月の夜は何も釣れない」と云っていた事を思い出しながら、最後の一糸を垂れた。
すると、遥か沖合いから水面《みなも》を仄《ほの》赤く染め、六尺(1.8㍍)四方はゆうにある物が良吉の舟に近づいてきた。
良吉は間もなく、釣り糸に強く重い手応えをおぼえた。 獲物をやっと舟に引き揚げる。そこには、今までに見たことも無い巨大なアカエイであった。
良吉は、エイをカンコ《船倉》(漁船の生《い》け簀《す》)に無理やり入れ、帰り支度にかかった。
絵 山本 清衣
すると、良吉の背中に何か柔らかい視線を感じた。振り返ると、エイがカンコの中から円《つぶ》らな瞳で良吉をじっと見つめていた。「何が言いたいのか?」誘うように、良吉を見る目は乙女の瞳だった。
「良吉は、抑え難い気持に陥った」
良吉は我知らず、エイを抱きかかえると、いっそう愛おしくなった。
「自分の胸の中にいるのは、エイでは無い。乙女子だと幻想を抱く」良吉は夢のように酔い、ふたたび乙女子を力一杯抱きしめると、交合し合い我がものにした。
老漁師曰《いわ》く、神代の頃より「エイの隠し所、特にアカエイは人間の女性の隠し所と良く似ている」と言われしとや。
良吉は、乙女をいくら愛おしく愛らしく想っても、家には恋女房の夕が居る。連れては帰れない。今夜のことは、一夜の秘め事として他言しないと誓って、乙女を愛おしみながら船縁《ふなべり》から海に放した。
月は少しずつ欠け、十六夜、立待月、居待月、寝待月へと移りながら新月を迎えた。良吉は、乙女と契りあった夜の事は新月の頃には薄れかけていた。
しかし又、月は満ち始め、三日月、上弦の月、十三夜、小望月と満月が近づくと良吉は気もそぞろで落ち着かなくなった。
良吉は夜ごと、山田港の東の繁盛ヶ谷の高岩から遥かな海原を眺める日々が続き、満月の夜は疲れ切って帰ってきた。
又、月は満ち欠きを楽しむかのように移り、満月の夜が来ると良吉は繁盛ヶ谷の高岩へ急ぎ、しばし乙女と深い愉楽の世界に浸っていた。
いつしか、良吉の行動を訝しく思った女房の夕は、良吉の後を追った。夕がそこに見た良吉の姿に唖然とし。獣姦は耳にすれど魚族と交わるとは、犬畜生にも劣る、と嫉妬心に燃えた。夕が夫に、三下り半を突き付けたのは言うまでも無かった。
あの、仲睦つましい夫婦の突然の離婚は、小さな集落に広まるのにさほどの時間は掛からなかった。同時に良吉とアカエイとの交わりは瞬く間に広がり、漁師仲間を喜ばした。 思春期を迎えた小若い衆達が、色欲に溺れないよう導く道具立てとして、アカエイとイソギンチャクを利用した、という。
この噺は、津呂浦の漁師仲間が昭和初期まで、兄若い衆が大人への登竜門と云って、小若い衆に”筆おろし”を強要した実話擬きである。
文 津 室 儿
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