室戸路寸感 四 一言地蔵菩薩
こんな話を聞いた。それは室戸岬は津呂の藤原家の御祖母様《おばばさま》が、その前の御祖母様から、またその前の御祖母様らが、囲炉裏《いろり》を囲んでかたり続けた藤原家伝来の「一言地蔵《ひとことじぞう》菩薩《ぼさつ》」の物語であった。
はなしは室戸岬を東に少し廻った所に、四国八十八箇所二十四番札所、通称東寺・最御崎寺《ほつみさきじ》へ登る東遍路道があり、その遍路道の右側に小さな窟《いわや》がある。その窟がこの物語の舞台だ、という。
画面左、最御崎寺東登り口、中央「食わず芋(石芋)と浜木綿の花」の奥が一言地蔵菩薩窟跡
この話の始まりは、何時の時代であったか定かではない。とある時、旅に疲れた遍路姿の母と息子の二人が、今夜はこの窟を仮寝の宿にと背中の荷物を解き、粗末な夕餉を分け合いながらすませ、今日最後のお祈りを一心不乱に唱えていた。
すると、息子の頭上よりかすかな御仏の声が聞こえた。「汝らは、何事を願うや」息子は即座に「母の病を治したい、ただそれ一心でございます」と答え、弘法大師様にお縋《すが》りしたく遍路に出てもう幾歳か、逆打《ぎゃくうち》ちも幾度か致しましたが、未だお大師様にはお目にかかれません。私の信仰心の未熟さゆえでありましょうか、と問いかけた。すると僧侶は「そなたの信仰は、未熟などではない。善く善く届いているは」と聞こえたかと思えたあと、息子の目の前に、白装束の僧侶が地蔵菩薩様を持って現れ、「この地蔵菩薩様を祀り敬いお願いをするがよかろう。さすれば一生に一度、一つだけの願いを叶えてくれよう」と言ったかと思うと、白装束の僧侶の姿はいずこへか消え去っていた。
息子はさっそく母と相談して、 窟の奥の一段高い所へ地蔵菩薩様に鎮座頂き、百八日間の願掛け参りに入りました。
岬の冬の花は何故か黄花が多く、人々の気持ちを温かく和ませる。アゼトウナ、シオギク、タイキン ソウ、ツワブキ、ヤクシソウ。なかでも、キバナアマはひときわ鮮やか。これらの花が終わる頃、岬の花々は春を迎える。
百八日参りの満願を迎えた日は、春のお彼岸の中日にあたった。その日、病に打ちのめされ、疲弊しきっていた母の顔色が一変し、昔の健康な顔色に蘇っていた。これは地蔵菩薩様のご利益の賜だ、と親子は互いに体を抱きしめ喜び合った。その日から親子は、室戸岬高岡下地を終の棲家と定め、息子は漁師見習をして働き、母親はこの地蔵菩薩様に一言地蔵菩薩様と名付け、お世話に心血を注いだ、という。
このご利益話が、浦々・里さとの人々に知れ渡るのには然程の時は掛からず、一言地蔵菩薩様は願いを叶えて欲しい人々で賑わい続けた、といわれる。
しかし、時は移り医療の発達により、いつしか一言地蔵菩薩様も忘れられ、ましてや昭和四十六年、国道五十五号線の拡張工事が始まり、奥行き約七、八㍍あった窟も六㍍程削られ窟をなさなくなった。
心優しい道路工夫が一言地蔵菩薩様もここで一人は寂しかろ、と直ぐ側にある六十数基の水掛け地蔵の仲間にしてしまった。それ以来、どのお地蔵様が一言地蔵菩薩様か分からなくなってしまった。
今にこの一言地蔵菩薩様を語り続けているのは、藤原家の若い御祖母様だ、という。
津 室 儿
はなしは室戸岬を東に少し廻った所に、四国八十八箇所二十四番札所、通称東寺・最御崎寺《ほつみさきじ》へ登る東遍路道があり、その遍路道の右側に小さな窟《いわや》がある。その窟がこの物語の舞台だ、という。
画面左、最御崎寺東登り口、中央「食わず芋(石芋)と浜木綿の花」の奥が一言地蔵菩薩窟跡
この話の始まりは、何時の時代であったか定かではない。とある時、旅に疲れた遍路姿の母と息子の二人が、今夜はこの窟を仮寝の宿にと背中の荷物を解き、粗末な夕餉を分け合いながらすませ、今日最後のお祈りを一心不乱に唱えていた。
すると、息子の頭上よりかすかな御仏の声が聞こえた。「汝らは、何事を願うや」息子は即座に「母の病を治したい、ただそれ一心でございます」と答え、弘法大師様にお縋《すが》りしたく遍路に出てもう幾歳か、逆打《ぎゃくうち》ちも幾度か致しましたが、未だお大師様にはお目にかかれません。私の信仰心の未熟さゆえでありましょうか、と問いかけた。すると僧侶は「そなたの信仰は、未熟などではない。善く善く届いているは」と聞こえたかと思えたあと、息子の目の前に、白装束の僧侶が地蔵菩薩様を持って現れ、「この地蔵菩薩様を祀り敬いお願いをするがよかろう。さすれば一生に一度、一つだけの願いを叶えてくれよう」と言ったかと思うと、白装束の僧侶の姿はいずこへか消え去っていた。
息子はさっそく母と相談して、 窟の奥の一段高い所へ地蔵菩薩様に鎮座頂き、百八日間の願掛け参りに入りました。
岬の冬の花は何故か黄花が多く、人々の気持ちを温かく和ませる。アゼトウナ、シオギク、タイキン ソウ、ツワブキ、ヤクシソウ。なかでも、キバナアマはひときわ鮮やか。これらの花が終わる頃、岬の花々は春を迎える。
百八日参りの満願を迎えた日は、春のお彼岸の中日にあたった。その日、病に打ちのめされ、疲弊しきっていた母の顔色が一変し、昔の健康な顔色に蘇っていた。これは地蔵菩薩様のご利益の賜だ、と親子は互いに体を抱きしめ喜び合った。その日から親子は、室戸岬高岡下地を終の棲家と定め、息子は漁師見習をして働き、母親はこの地蔵菩薩様に一言地蔵菩薩様と名付け、お世話に心血を注いだ、という。
このご利益話が、浦々・里さとの人々に知れ渡るのには然程の時は掛からず、一言地蔵菩薩様は願いを叶えて欲しい人々で賑わい続けた、といわれる。
しかし、時は移り医療の発達により、いつしか一言地蔵菩薩様も忘れられ、ましてや昭和四十六年、国道五十五号線の拡張工事が始まり、奥行き約七、八㍍あった窟も六㍍程削られ窟をなさなくなった。
心優しい道路工夫が一言地蔵菩薩様もここで一人は寂しかろ、と直ぐ側にある六十数基の水掛け地蔵の仲間にしてしまった。それ以来、どのお地蔵様が一言地蔵菩薩様か分からなくなってしまった。
今にこの一言地蔵菩薩様を語り続けているのは、藤原家の若い御祖母様だ、という。
津 室 儿
一言地蔵菩薩と言うのですか?
返信削除母親が勝手に名づけたといいますが、{一言」が何故ついたのでしょう。
藤原家が伝を説いているようで、若いご祖母様と言いますから、しばらくは大丈夫ですね。
でも早晩消え去ってゆくもので寂しい限りです。私の地区にも「歯神さま」と言うのがあります。子供の時ははの痛む時は母親に手を引かれてお参りに行きました。でもあまり聞かないので、今の岡林電気店の上の方にあった歯医者さんに行きました。
この歯神さん子供にも孫にもご祖父は伝えません。
いつだったか保育に孫を向かえに行ったとき
「あの神様は?」
と聞かれ
「あそこには妖怪が住んでいる。」
と脅してやりました。「妖怪だって?」と目を丸くしていたので
「そうだ。歯の妖怪が住んでいる」
と脅しました。
この子たちは、子供たちに妖怪説を伝えるでしょう。
念のため、人々に祭られることのなくなった神々を(妖怪)と呼び,祠や建屋をその住みかと孫たちに伝えてきました。私の東西一キロの集落に二つの妖怪が住んでおります。
神々は、農村に置いては(農薬や医学)に関する神様は(ようかい)に成り下がったのです。
妖怪がいる!
と言うことで、孫たちに意外と受けたのです。
私にすれば「妖怪になった一言地蔵菩薩さん」で結構楽しい話でした。
今日のryouhennrouさんのブログにマイゴと言う記述があった。私たちのところではある人はジッコと云い、マイゴと言った。この人はくくって(キリ)と言っている。私たちのなじんだ呼び方である。マイゴの井戸はキリの良く取れるところでなかったか?
返信削除さて以下は訂正。
農村の医学や農業に関する神々は、文明のもとに見捨てられて「妖怪」となりさがったのです。
に訂正です。