2011年11月1日火曜日

 第9話 木食僧・入木の仏海上人



 木食僧・入木の仏海上人

 近郷近在の老若男女から、白《しら》髭《ひげ》のお坊さんと慕われ続けた僧侶が佐喜浜の入木にいました。その人の名を木食僧《もくじきそう》・仏海上人《ぶっかいしょうにん》と言いました。国中の浦々を乞食行脚《こつじきあんぎゃ》した道程は、地球の何週回分にもあたると言われています。
「仏海さんの字《あざな》は「如心《にょしん》」俗名を太郎松《たろうまつ》」と言って、伊豫《いよ》・愛媛県風早郡猿川村(現・北条市)の生まれです。
 仏海さんは、前世の約束に感応したものか、幼心に俗世《ぞくせ》を逃れようと志し、十三歳で父母のもとを出て師を求める旅にでました。粗末な衣服をまとい、飢えを友とし山野に宿《しゅく》し、三年の月日を経ましたが心に適う師範には出会えません。十五歳のとき「俗世解脱《げだつ》」の大願をたて、高野山に登ろうと決意しました。
 紀伊《きい》・高野山の麓、紙漉《かみすき》きで名高い細川村の民家に宿をかりました。民家の主人に、仏海さんは志しを告げました。この志しに耳を傾けてくれた主人は、仏海さんにこう諭しました。「貴男は未だ歳も若いしおまけに貧窮《ひんきゅう》している。いつか遍歴に飽きてしまうに違い有りません、私の言うようになさるが一番よろしい」と、それからの三年間を、此の宿の主人のもとで薪を割り水を汲み労役に従事しました。十八歳にして高野山に登ることができ、一心院《いっしんいん》谷の正法院《しょうほういん》に入りました。ようやく二十三歳にして生涯の師範に巡り合うことができました。その師は正法院の住職・宥秀《ゆうしゅう》阿闍梨《あじゃり》でした。師の教えにしたがって頭髪を剃り、衣を改めて出家しました。
 二十七歳のとき彫刻僧・潜巌《せんがん》和尚に謁見《えっけん》することができました。この潜巖和尚が地蔵菩薩《じぞうぼさつ》の尊像《そんぞう》を彫刻し、有縁《うえん》の人々に施与《せよorしよ》しておられた。それを目にした仏海さんは、地蔵尊の刻像を習い有縁の人々に授与《じゅよ》しなが回国修業することを目標にしました。時に仏海さん三十一歳、元文五年(一七四〇)のことでした。
 三十五歳、再び高野山に登り、宥秀阿闍梨の導きで四度の修業を成就《じょうじゅ》しました。再び、中国・九州を廻って、数々の教典を書き写し道場へ奉納しました。扶桑《ふそう》(日本の異称)の国中の回国巡礼の旅(修業)と共に、総数三千体に及ぶ尊像彫刻が成就しました。三十七歳のときでした。
 仏海さんの行く所には、いつも多くの人々が待ち受け、その徳望と叡知と法力によって病める人の心を癒しました。四国八十八ヶ所修業道場で最も険しい難所の一つに、飛石《とびいし》・羽石《はねいし》・ごろごろ・と言う、交通難所があります。この海岸難所から人々を救うために、飛石庵を結び旅人や遍路の救済に晩年を捧げ、錫杖《しゃくじょう》をこの入木の地に留めました。飛石庵から仏海庵へと名称が替わったのは、仏海さんが入滅後に村人が改名したと伝わっています。この庵は当時のままに再建されたと言われ、間口二・五間、奥行き二間位の小さなお堂であります。そのお堂の前には、仏海さんが刻んだ一字一石の経文を鎮め、その上に建てた地蔵尊像があります。お堂の中には観音像の鋳型《いがた》、地蔵菩薩像の鋳型、弘法大師修業の絵図、不動明王の絵図などの遺品が遺されています。
 仏海さんは明和六年(一七六九)入定しました。今の宝篋印塔《ほうきょういんとう》の下に、三七、二十一日間、五穀を断ち水のみにて、香を焚き鐘を鳴らし、一百万遍の読経に耽り即身仏《そくしんぶつ》になられたと言われ、旧歴十一月一日が命日にあたると伝えられています。
 入木地区は仏海さんを信仰する事によって、裕福な土地になったと言われます。これは仏海さんの功徳の表れでしょう。また仏海さんの、法力にまつわる話が二話のこっている。
 其の一、仏海庵の前に大きな蘇鉄《そてつ》の木があります。蘇鉄の前に県道建設が始まりました。蘇鉄の枝が工事の邪魔になり、村人が相談して切ることにしました。翌朝、刃物を用意して、蘇鉄の前に立ち驚きました。夜の間に蘇鉄の枝は、全て後方に曲っていました。村人は仏海さんが蘇鉄を守った。とその法力に敬服したといいます。明治二十四、五年の話であります。
 其の二、昭和の初め頃、仏海庵に泥棒が入りました。泥棒は仏海さんが祀ってあった本尊や宝物をごっそり盗んでいきました。その夜、仏海庵の甍《いらか》の上に大きな鬼火(火玉)が三つ飛びかい、数人の村人が見ました。入木の若い衆達は、何事かあらんと庵に集り、泥棒と知るや互いに指図しあい、根丸橋と淀が磯の橋の袂へ若い衆を差向け、泥棒を待伏せしました。泥棒はその夜、村境の水尻であっけなく捕えられました。泥棒の白状によりますと「本尊を盗んで水尻まで来た所、鬼火がまとわり飛交い、足がすくんで歩けなくなり、本尊は竹薮に隠して有る」と言ったそうです。早速本尊を探し出し、元の仏海庵へ持ち帰りました。その夜は村中の人々が集まり、本尊の無事を喜び合い、夜もすがら供養をしたといいます。その後庵は、今に至るまで仏海さんの法力を恐れ、不届き者は来ないと言われています。村人は本尊の安寧を心に願い続けていると言われます。
 平成二十二年(二○一○)十二月六日(旧十一月一日)は、仏海上人・宝永七年生れの生誕三百年祭にあたります。盛大なお祭りが行われることでしょう。
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                    無断掲載禁止


2011年10月15日土曜日

   第8話 亀ヶ淵と仁木義長


亀ヶ淵と仁木義長


    亀ヶ淵と仁木義長

 この話は、足利尊氏が京都に室町幕府を開いた頃で、かれこれ六百七十有余年昔のこと。
  羽根川を遡ること二里半(一0㎞)、北生《きたおい》の里にであう。この里に、そりゃたいそう美しい娘がおった。年頃は近づくものの、なかなか婿になる者がいない。その訳は娘の両親が「我が家より格式の高い家柄の者でなければ嫁にやらぬ」と息巻いていたからだった。そのため里の若い衆は、誰一人として娘に近寄らなかった。
 今年も夏は長《た》け、秋風が身に凍み、紅葉が彩りを深めはじめた。栂林《とがばやし》や赤松林から聞こえる牡鹿の妻恋う歌は、胸に染み透る悲しげな響き。娘はこの歌を聞くたびに物憂げに沈む。牡鹿は「カーン・カーンヒョー」と甲高《かんだか》く鳴き誘う。雌鹿は「キーン・キーン」と等間隔に鳴き応えていた。
 万葉集・読み人知らずに「このころの 秋の朝明《あさけ》に 霧隠《きりこも》り 妻呼ぶ鹿の 声のさやけき」と娘の心境そのままに詠んだ歌がある。「ああ、こうしている内にも、私は私はだんだん歳を重ねてしまう。私を妻にと言ってくれる若い衆は居ないだろうか!!!」
ああ、眠られぬ夜が今夜もつづく、溜め息がつのる夜ごとであった。
 やがて、北生の里にも冬は去り、春が訪れた。ある春霞の深い夜のことであった。生暖かい風が吹いたかと思うと、娘は夢とも現《うつつ》とも定かで無い内に、媾合《こうごう》を交わしたように思った。我に返ると、浅葱色《あさぎいろ》の狩衣《かりぎぬ》を着た若者がそばにいた。若者は北生の里ではついぞ見かけぬ優雅な物腰、優しい言葉を重ね重ね娘に囁きかけた。娘の心はいつしか恥じらいも解け、若者を慕いはじめた。
 若者は雨の夜も、嵐の夜も、夜ごと夜ごと通いつめた。いつとはなく、娘の顔は青ざめ身体に異変が起こりはじめ、日増しに痩せてきた。娘の母親が案じて、「おまえ、どこか身体が悪いのではないか」と聞くが、娘はそのたびに首を振った。母親は娘の様子をいぶかしみ、誰か忍んでくる男でもいるのではないか、と様子を窺うことにした。
 その夜のことである。娘の部屋を窺っていると、ふいに生暖かい風が吹いてきた。母親は不思議に眠気《ねむけ》を深くもよおした。
「眠ってはならん、眠ってはならん」と、我が身に言い聞かせたが、気が付いてみると夜は明けていた。こうした晩が幾夜か続き、娘の顔色はますます青ざめていった。 母親は、生暖かい風が吹き眠く成るたびに、我が身の膝《ひざ》に錐《きり》を刺し、痛さで眠らぬように我慢した。娘の部屋の様子をそっと窺っていると、浅葱色の狩衣を着た若者が現われた。
 翌朝、母親は娘を呼んだ。「昨夜、おまえのもとに通って来た男は、何処の誰じゃ」と尋ねた。娘は俯《うつむ》いたまま答えなかった。母親は叱りなだめすかして問い詰める、と娘はようやく顔を赤らめて答えた。「それが、どこに住まわれて居るのやら、名は何と仰《おっしゃ》るのやら明かして下さらないのです」母親は呆れ顔で娘の顔を見た。母親が物陰から見た、若者の狩衣姿は身分の高い家柄の者に思えた。もし、そうであれば婿にしてもよいが、若者が何処の誰か分からないのが案じられた。何とか突き止める思案のすえ、娘に「よいか、母の言う通りにするのだよ」と何ごとか言いつけた。娘は心細げにうなずいた。
 その夜、いつもの時刻に若者が来た。逢瀬の時間は短い。若者が帰る時、娘は若者に気づかれないように、そっと麻糸の緒環《おだまき》を付けた針を狩衣の襟のあたりに刺しおいた。若者が姿をけすと、母親と一緒に糸を辿り後を追った。緒環はどこまでも続いた。赤松林や栂林を抜けると川筋は二股に別れ、山道も東西に別れていた。緒環は西股に沿い、辿ると昼なお暗い大きな亀ヶ淵へと続いていた。
 そのとき、淵の底から大きな呻《うめ》き声が聞こえた。その声に娘はいたたまれない。若者の身に何ごとか起きたのでは、と思わず声をかけた。「どうなされたのです。私はあなたの住むところを知りたく、こうして来ました」淵の底から苦しげな若者の声が答えた。「わしはいま、人の姿ではない。もし、おまえがわしの姿を見たなら、息も絶えん思いをするだろう。だが、よくここまで尋ねて来てくれた。そのことだけは忘れまい」
 娘は母親がしきりに止めるのもきかず、「たとえ、どのようなお姿であろうと驚きませぬ。どうぞ、出て来てくだされ。お姿を見せて下され」すると、俄《にわか》に淵の水面《みなも》がごうごうと逆巻き、長さ十四、五丈(45m)もあるかと思える大蛇がずりずりと這い出てきた。
 さすがに娘は、その場にへたへたと座り込んでしまった。あの狩衣姿の若者が、こんなにも恐ろしい姿の大蛇であったとは、と生きた心地もしなかった。大蛇は娘のそば近くに寄り添い、満面に涙を浮べた。大蛇の喉仏《のどぼとけ》に娘が刺した針が突き刺さっていた。娘は恐ろしさで逃げ去ろうとしたが、幾夜も契りを交わした仲だもの、呻き声をあげている大蛇を見るにみかねて、喉仏の針を抜いた。
「わしは間もなく死ぬが、おまえの腹の中には、すでに五カ月の男の子が宿っている。ただちに京に上り、都から三河の国に下り、そこをその子の産土《うぶすな》の地にして欲しい。それが叶えば、その子は、人に秀で賢く、心の寛《ひろ》く強い若者に育ち、いずれ、その子は足利尊氏の四天王の一人になろう。恐ろしき者の種と言って、どうか捨ててしまわないでくれ」、と大蛇は言い残すと息絶えた。
 やがて娘は旅立ち、都から三河の国に入ると産気づき男の子を産み落とした。その子は成長するにつれ、娘が契りを交わした狩衣姿の若者と瓜二つ、猛々しく成長した。のちには大蛇の予言通り、四天王の一人りと騒がれ、武名を欲しいままにした右京大夫仁木義長《にきよしなが》がその人という。義長の右胸には大蛇の宿し印か、蛇の頭模様がくっきりとあったという。
 羽根集落の里人は、義長を今もって、平家の落人と思っている様だが、実は清和天皇の孫にあたる、源満仲に端を発した源氏である。
 義長は尊氏に従って転戦し、箱根竹下の戦い後、尊氏の九州落ちにしたがい多々羅浜で菊池氏を敗った。この時、勇戦し直義から鎧《よろい》を賜り、その後、八代《やつしろ》まで進攻し九州探題《たんだい》(鎌倉・室町幕府の職名)となった。この後も、各地に転戦戦功を重ね三河・伊勢・伊賀・志摩の四ヶ国の守護職《しゅごしき》となったが、性質極めて荒く、鶴岡八幡社中で人を殺め男山の神人《しんじん》(神のような気高い人)を殺害し、伊勢の神路山《かみじやま》で平然と狩を行い、五十鈴川で漁を行うなど、神域を恐れぬ強者《つわもの》であった。
 その後、足利尊氏兄弟、諸将の不仲にことを構えたが失脚した。伊勢・長野城に籠ること二年、兵を失い勢い極まって正平一九年(一三六三)三月、後村上《ごむらかみ》天皇に帰順したが、翌年再び足利義詮《よしあきら》に降伏をした。さすがに、強力無双の義長も果てしない戦に無情感がつのったか、これを機に仏教に帰依した。後に京都に帰ると薙髪《ちはつ》(剃髪)した。戦いに疲れ果ててのことか、齢を重ね思慕の念に駆られたのか、未だ訪れたことの無い、愛《うるわ》しい父母の里、北生を終《つい》の住み処と定め、亀山天皇の天授年間に一族二百六十三名と共に、阿波の国撫養《むや》より間道づたいに羽根川の支流「小川《こご》」の上流、御屋敷(地名)に居を構えたが、後に北生の里に移り、稗《ひえ》・田芋《たいも》・粟《あわ》を作り露命を繋いだ。その間、練武を忘れず、弓場・馬場を設け、天授二年(一三七五)に北生の里で没した。
 里人は、義長の鎧兜《よろいかぶと》をおさめる祠堂《しどう》を建てて義長神社とした。夏祭りを旧暦六月一日に、秋の大祭は十一月第一の未申《ひつじさる》の日と定め、沐浴斎戒《もくよくさいかい》(心の不浄・身の過ちを戒める意)して里芋でお鏡餅二百六十三個と幣《へい》を二百六十三本をつくり、玄米の御神酒を供えて、今なお、お祭りを続けている。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣
                              無断転載禁止


2011年10月1日土曜日

第7話  夢枕の女


       夢枕の女

 戦国時代が終り、太平の世に移った江戸時代初頭の頃と言うから、今から三百七~八十年前の事である。室戸岬の小高い丘に、鬼塚七郎衛門と言う領主の城があったそうな。
 そのころ、土佐の海には沢山の鯨がやってきた。土佐には室戸だけに津呂《つろ》組と浮津《うきつ》組の二つの鯨捕りの組があった。
 ある年の春先、鯨の群れが室戸の沖を通るという知らせが届いた。そこで領主は家来の川中吉左衛門を呼び、鯨捕りの指揮を命じた。吉左衛門がすっかり準備を終えたのは、もうかなり夜も更けてからであった。
すぐに床につき、とろとろっと微睡《まどろ》んだころ、一人の美しい女が吉左衛門の枕元へ座り、丁寧に頭を下げ、「明日の朝、鯨捕りがあるそうですが、私はそのころ室戸の沖を通らねばなりません。どうか、その日を少し延ばして下さい。私はまもなく子供を産みます。子供が産まれたら、いつでもこの命を差し上げますから・・・・・。」と女はこう言って、何度も何度も頭を下げて出ていったそうな。
 やがて朝になった。吉左衛門は夢のことを思い出すと、心が重く痛んだ。しかし浜へ出て、勇ましく鳴る太鼓の音、風にはためく勢子船の旗を見ると、いつの間にか夢の女のことは忘れてしまっていた。
 しばらくすると、狼煙《のろし》が上がる、鯨を見付けた標しだ。勢子船がいっせいに沖に向かった。一番羽差しから、二番、三番羽差しへと、次々に十三番目の羽差しまでが、鯨を的に空に向け銛を投げ放った。数十本の銛を受け傷ついた鯨は深く潜り、水面高く飛び跳ね、もがきながら血で海を赤く染めた。数時間の戦いは終る。鯨は持双船《もっそうぶね》に結えられた。三百人の漁師がジョウラク・ジョウラクと唱え、鯨の霊を慰める中、大剣でとどめが刺され、鯨浜にはこばれた。
 その夜、吉左衛門はすすり泣く女の声に目を覚ました。枕元に昨夜《ゆうべ》の女が血塗れ姿で座っていた。「貴方は、何と言う酷《ひど》い方でしょう。私の願いをとうとう聞いて下さいませんでした。私の子供は広い広い海原を知らずに、とうとう死んでしまいました。」女はさめざめと泣きながら、こう言ったそうな。
 明くる朝、吉左衛門が鯨浜に出ると、昨日捕った鯨が並べてあった。その中にお腹に子を宿した雌鯨がおったそうな。それを見ると吉左衛門は、可哀想なことをした、と心から悔やんだ。
 そこで領主に願い出て、孕《はら》み子を貰い受け、大海原が見渡せる小高い丘に、洗米や果物・お神酒《みき》を供えて葬り、七日七夜は心無い人間や獣に荒らされないように、番人を立て守ったと語り継がれている。
 
注記 
 孕み子の葬り方は三通りあった。一つは先に記した、小高い丘であるが、今一つは水葬と浜辺の砂を深く掘り葬むる。なお、孕み子が雄の時は、一番羽差しの妻の赤い腰巻きに包み、引き潮に乗じて葬る。雌の場合は、同じく一番羽差しの羽織で包んで葬ったと伝わる。
 母鯨が言い遺した「広い広い海原を知らずに死んだわが子」との言葉には、鯨の母性愛や鯨に畏怖畏敬の念もって接する漁師の心根が伝わる。この孕み子の弔いは、吉左衛門の「夢枕の女」に始まり古式捕鯨が終焉する明治三十九(一九0六)年まで続けられたという。
なお、水葬と小高い丘を、どのように仕分けて葬ったのか、今は分からない。
             
         文  津 室  儿
         絵  山 本 清衣

                    無断転載禁止

2011年9月16日金曜日

   室戸の民話伝説 第六話      狐の報恩(おんがえし)




 狐の報恩《おんがえし》


 佐喜浜生まれの杣人《そまびと》(きこり)・喜之助《きのすけ》が羽根村の山へ働きに出掛けた。江戸幕府が滅び、年号が明治に改まろうとする初冬のことであった。その頃、羽根の御留山《おとめやま》(藩有林)には、杉や檜が何百年も樹齢を重ね、巨木が生い茂っていた。
 喜之助が三十路《みそじ》近くになった頃、廃藩置県が行なわれ、土佐藩が高知県と改まった。それは明治四年七月十四日であった。この日より羽根の御留山や魚梁瀬の千本山、近郷の御留山は、すべて明治政府の直轄となり国有林となった。
 喜之助が働きに来た頃は、まだ藩だの県だのと、差配方が定まらず、けっこうもめごとも多かったという。喜之助は、集落の空き家を借り山へ通った。仕事は順調に進み、あと十日もすれば佐喜浜へ帰れることになった。
 三カ月ぶりに佐喜浜の魚が食える、と舌鼓を打ち楽しみ。今日も馬力をかけて働こうと出掛けた。杣の仲間が伐採する区域のことで手違いを起こし、仕事は昼前に終った。
 帰り道、山の中腹あたり。杣道から右手に三間(五・四㍍)ほどの茂みで、獣の啼く声がする。不審に思った喜之助は、声を頼りに近づいて見た。猟師が仕掛けた罠に、子狐が足をはさまれ悲鳴をあげていた。喜之助は「牛倒し」という異名の持ち主。立派な体格で剛力無双であるが、生まれつき動物好きで優しい気性持ち。「おう、なんぼか痛かったろう」と剛力にものをいわせて、苦もなく罠を引きちぎり、子狐を助けた。喜之助は持っていた弁当を与え、元気づけた。「気をつけて帰れよ」と言いながら子狐と別れた。
 この有り様を茂みに隠れ、じっと見ていた親狐が居た。これを喜之助は知る由もなかった。子狐は喜之助の助けがなければ餓死するか、あるいは猟師の餌食になっていただろう。
 それから五日目の夜であった。喜之助が二町(約二百二十㍍)ほど離れた家に、もらい風呂に行った帰り風邪を引いてしまった。三十路近い今日まで、頑健な体で病気らしい病気をしたことが無かったが、弁慶の泣き所、めっぽう風邪には弱い。三七、八度の熱が出れば重病人となる。その夜も布団を被り唸っていた。
 と、すると、いつの間に入ってきたのか、年の頃なら二十歳過ぎの女が「ご気分はいかがですか」と喜之助の側に佇んでいた。女は水で冷やした手拭いを額に置いてくれた。そして朝まで手拭いを取り替え引っ換え、看病をしてくれた。そんな日が三日間も続いた。何処の誰とも分からない女が、宵に来て朝まで至れり尽くせりの看病をしてくれた。お陰で、喜之助はすっかり快くなった。
 四日目の朝、喜之助は女に向かって「大変お世話になりました」と頭を下げて礼を言った。すると、女は手を振って「何をおっしゃいますか、私こそお礼を申さねば、私は子供の命を助けて下さった貴男様に報いようとしただけです」と言って「それではお大事に」と別れの言葉を残して去って行った。その後、二度と姿を現さなかった。
 喜之助は、何が何やらさっぱり分からない。謎の女は人間では無かったのか、その正体は狐だったのか!、八日前に喜之助が助けた子狐の母が、恩人が風邪で苦しんでいるのを知り、女に化けて看病にきていたのであった。情けは人の為ならず、回り回って我が身の為という故事がある。子狐に施した情けは、喜之助自身の為であった。古来より狐は人を化かすと言うが、そのような狐ばかりではないようだ。母狐が子狐の恩人に報いたという、おはなし。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣

2011年9月4日日曜日

 「室戸の民話伝説」掲載に付いて

「室戸の民話伝説」の掲載を始めて、早3ヶ月目に入りました。本来であれば、最初の掲載時にお知らせすべきであり、遅きに失しましたが叱責を恐れず記します。
 投稿は原則、月二話とし、1日と15日を予定しています。物語は総て室戸で生まれたものばかりで、借り物ではありません。お子様方に、どうか読み聞かせてあげて下さい。又、珍しい話しがありましたら、お教え下さい。コメントも大歓迎です。忌憚のないご意見を、お待ち致しています。

2011年9月1日木曜日

  室戸の民話・伝説 第五話        観音様と子供たち

観音様と子供たち

 江戸、幕末の文久二年(一八六二)八月初め、とある真夏日のことであった。室津郷・領家《りょうけ》の小さな庵のご本尊・観音菩薩様と、近くの子供たちの間に繰り広げられた、珍妙な出来事の話である。領家と言えば幕末の志士、中岡慎太郎の妻、兼《かね》の生まれ里である。兼は庄屋、利岡彦次郎の長女で、十八歳で慎太郎に嫁いでいる。文久元年には慎太郎が、翌二年には坂本龍馬が土佐藩を脱藩するなど、時代は明治維新への激動最中であるが、片田舎の領家では穏やかに時は流れていた。
 領家集落の人々が深く信仰している庵、観音堂に仏の道を修業している若いお坊さんがいた。その日は室津浦(町)に用事があり、お坊さんは外出した。この庵や領家の家々に泥棒が入った話などついぞ聞かない。平穏な里で外出の時は、どの家も開け放し、表戸を閉める習慣など全くないところ。
 その日、庵の庭で遊んでいた近くの小童《こわっぱ》ら五人が、お坊さんの留守をよいことに、庵へ上がり込み騒いでいた。その内、庵の中央に安置してある二尺位の観音様に目をつけた。一番年上のガキ大将が「あの仏さんを持って川へ遊びに行こうや」と言い出した。観音様を崇《あが》めるものとは知る由もない五人の小童たちは、ガキ大将の言うがままに従《したが》い、観音様を小脇に川へ遊びに行くこととなった。
 庵から少し離れた所に室津川が流れる。その川に庄司ヶ淵という所があり、この淵には猿猴《えんこう》が住み、夕方遅くまで遊んでいると淵に引き込むといわれる。また、夜な夜な白馬が飛びかい、子供らを攫《さら》うという空恐ろしい淵である。夏の夜は肝試《きもだめ》し、昼間は子供たちの絶好の水遊び場であった。その淵で、観音様をあっちへ投げこちらへ放りして遊んでいた。室津浦で用事を済ませたお坊さんが、ちょうどそこに通りかかった。小童たちが大声をあげながら、何やら黒いものを投げ合っている。何ごとならんとよく見ると、これはしたり、庵へ安置してあるはずの観音様を、水遊びの道具にしてもてあそんでいる。お坊さんは、吃驚《びっくり》仰天《ぎょうてん》するやら、腹が立つや、「こらッ!観音様に何をしよるか。勿体無《もったいな》いことをする小童ども、こっちへ来いッ!」と呼び集めて河原へ正座させた。「この観音菩薩は阿弥陀如来の左脇にいて慈悲深く、人々を救うために現われたという仏様である」と観音様の尊いことを長々と諭して、今度こんな悪さをしていたら、罰が当って、目が潰《つぶれ》れてしまうぞと脅しつけた。目が見えなくなるというお坊さんの言葉に、子供たちは震え上がって「もうしません、どうかこらえて下さい」と何度もなんども頭を下げ謝った。
 お坊さんは観音様を元の位置へ安置して、その夜寝所に入った。間も無く、お坊さんは風邪を引いた覚えもないのに、夜半から三九度という高熱が出た。それから二日間高熱続き、看病してくれる人とてなく、お坊さんは弱り切り難渋していた。三日目の明け方であった。坊さんがうとうと微睡《まどろ》んでいると、夢枕に観音様が現われ、「ご坊は、私が子供たちと楽しく遊んでいるのに、子供を叱って、折角の楽しい気分を台無しにした。その報復《むくい》として高熱を出して苦しめた。ご坊が平素仏に仕える善行を賞して、今日から平熱に戻してやる。これからは子供を慈しむように」とお告げを下すとかき消えた。観音様のお告げの通り、その日から平熱にもどった。今までは、子供が庭で遊んでいると、迷惑そうに、大声で追っ払っていたが、それからは子供を優しく慈しんだそうな。 
 子供たちと戯《たわむ》れた観音様は、高さ二尺・木像立像にして、欅《けやき》であろうか木地そのままに、台座は三重蓮華座のお姿で、今なお、領家の庵・観音堂に、外観は総黒漆塗り、内壁は金箔の厨子に収まり、里人の信仰を今に受け続けている。
 昔から日本人は観音好きと言われる。例えば、四国八十八ヶ所寺の内、約三分の一の三十ヶ所寺が観音菩薩を本尊としている。更に、観音菩薩だけに焦点を絞り、三十三ヶ所寺の観音菩薩霊場が北海道から九州路にかけ、各地に七十ヶ所寺に及んでいるといわれる。この事が、如何に観音好きかを如実に物語っている。私たちは、仏教に措ける各宗派の枠を超え、観音菩薩を主人公とする般若心経や観音経や十句観音経に親しみ、そこに、生きる知恵を学び心の拠り所としてきた。観音菩薩は、まさに日本人の心の象徴であると共に、史上最大級の神仏といえよう。
                           無断転載禁止
           
           文 津室  儿
           絵 山本 清衣


2011年8月15日月曜日

   室戸の民話・伝説 第四話        シットロト踊り


                         シットロト踊り



  今年も旧暦六月十日(七月二十一日)が間近い。この日一日、室戸漁業協同組合所属の漁師たちは一斉に漁を休み、豊漁への感謝と魚類一切への供養、豊漁の願をこめ神社仏閣や船主の家々を巡り終日踊りぬく。シットロト踊りは漁師の念仏踊りであろう。
 いつの時代の事か皆目分からない。奈良師の地蔵堂の庵主(僧名三蔵とか)がある蒸し暑い晩、浜辺に出て涼をとっていた。夜もいよいよ更《ふ》けてきたころ、節《ふし》筋《すじ》面白く手踊りを交えて唄いながら、西に向かう旅の乞食僧《こつじきそう》が一人いた。庵主はその仕草に魅せられ、元の硯ヶ浜まで追っ掛けて、その唄と踊りの伝授を請い得たと言われる。
 唄を教えた主は人なのか何者か、今もって一切分からない。庵主の墓は地蔵堂の右側の大きな自然石の碑と伝えられ祀られているが、その碑文は風化がすすみ剥落《はくらく》して、解読できないのが惜しまれる。
 また、一説に浦の小童《こわっぱ》に苛《いじ》められていた人魚が漁師に助けられ、お礼に豊漁を招く踊りを授けた、と人魚説が伝わる。
 また、今一つは、江戸藩政中期以前に始まると伝えられる。漁師三蔵(定説)が中心となり、漁師が集い夏の不漁期に魚の供養と漁招きをかねた踊りを創始したという。はじめのころは、浮津下町の恵比寿堂と津寺山麓の金刀比羅宮の二ヶ所で踊り始めたといわれるが、今は十数ヶ所で踊っている。
 尚、今は旧室戸町のみで踊られているが、かつては三津や津呂・ほかの地域でも、昭和初葉《しょよう》まで踊られていた、と古老はかたる。
 押船《おしぶね》(櫓《ろ》船)時代の鰹釣り船には大体七名位の乗子《のりし》(漁師)が乗っていた。その中から日頃勤勉に働く者が、それぞれの船から二名づつ選ばれて踊ったもので、不真面目で品行の良くない者達は踊ることができなかったという。鰹釣りの若い衆は「シットロト踊り」に推薦され参加出来ることを喜びと誇りとして、日頃から勤しんだといわれる。シットロトに加われない若い衆は、嫁の来ても稀だったという。
 鰹釣りが沖で鰹の魚群《なむら》に当ると、喜びを満身に表し船上で踊ったと伝えられ。また、大正二年室戸岬南方沖、約20㍄(約37㌖)地点に大漁礁が発見され、鰹・鮪の大漁が続きこの漁礁を大正礁《じ》と名付け、終日踊り明かしたと語り継がれている。また、ある鰹釣り船が三陸沖の漁からの帰り、大漁を祝して船主の庭で踊り、祝儀に祝い手拭いや、反物を貰ったとも伝えられる。日頃の慶事を、シットロト踊りに託していたことがうかがい知れる。
 この踊りの唄は四十八節、あるいは三十六節からできていたと言われるが、現在は十四節が残され、各節に三、四、五の小節があり、口伝《くでん》で唄い継がれてきたもので、歌詞の変化もあったことと思われるが、古典文学の香りを醸している。
 シットロト踊りの、題名と歌詞を幾節か拾ってみる。
  まず急げ
一、ヤー まず急げ ソーリャ急げ
  しんぼし あとから 
  ソーリャ しぐれがア しいてくる
  ヤー あとから ソーリャしぐれが 
  アしいてくる
二、ヤー このごろは ソーリャお寺
  通いのホリヤ よう鳴る
  ソーリャ尺八を みつけた
  アー よう鳴る ソーリャ尺八をみつけ  た
三、ヤー 取り上げて ソーリャ吹いて 
  みたれば よう鳴る
  ソーリャ お節が アー三つある  
  アー よう鳴る ソーリャお節が
  アー 四つある
  
  不動神
一、アイヨー不動の神と伊勢すみ
  アーリャよし当《と》ヤー熊野のソーリャ神当  ヤー
  結んでは アリャうぐいすと
  ソリヤ 当《と》かれたよ
  アイヨーアザイザーヤお若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうやアイヤ ヨイヤ
二、ホリヤ 花や あさぎと
  コリヤ 橘と とかれたよ
  アイヨアイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよイザーヤ お若い衆
  何踊ろうよアイヤ ヨイヤ
  
  これの殿様
一、イヤー これの殿様に 福の舟作らしょ
  アヤ 福の舟作らしょ  
  アイヤーお舟オヤ踊りはよ
  踊ろうやアヒンヤコーイコーラヨー
  ヒンヤコラサイのヨイヤ
二、イヤー お舟の下積みに 板金《いたがね》を敷か   しょや
  アリヤー板金を敷かしょや 
  イヤ お舟踊りはよ
  踊ろうアヒンヤアツコラサのヨイヤ 
  ヒンヤコラサーヨーヤ
三、イヤー お舟の上積みに 
  小判千両を積ましょや
  ンヤー 小判千両を積ましょや
  アイヤ お舟アリヤ 踊りはよ
  オン踊ろうアイヤオンオノーヨヒンヤ
  コラサのヨイヤ
  
  はりんりきさま
一、ハアー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー はりん力馬の馬乗りはヨー
  ヤー 親の はしみじみと
  親の はしみじみと 
  オン踊ろうアイヤおんおどろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ
二、ハアー 親に隠れてメが出たかヨー
      殿に隠れてメが出たかヨー
  ヤー 親と殿ごに隠れては
  アイヤ 順礼踊りはヨー
  アー踊ろうアーイヤ踊ろうよ
  ヒンヤコラサのヨイヤ

  西方《かた》
一、ヤー西方ちや 叔母子の方から
  細衣一反 出て来た
  細衣一反 出て来た
  トントヂャ シットロトのヨイヤ
二、イヤこーれ ここで染めよも染めようや
  書こうも書こうや
  かたおば何とつけようや /\ /\
  トントジャ シットロトのヨイヤ 
三、天竺で御染申した
  肩に浮雲 腰に有明
  裾には近江の湖
  ヤ裾には近江の湖
  トントヂャ シットロトのヨイヤ

  引踊り
一、アー今年のヤー年は目出度い年じゃ
  アーリャ浪速のソーリャ寺の
  鐘を鋳る 浪速のコリヤ 寺の
  鐘を鋳る ヨイヤソリヤ
  トントロトントロト エイヤサのヨイヤ二、アー恋しき人は尋ねてこんせ
  ヤー堺のソーリヤ浜の北の町《ちょう》へ
  堺のコリヤ 浜の北の町へヨイヤ ソー  リヤ    
  トントロトントロトントロトエイヤ コ  ラサのヨイヤ
三、ヤー兵庫の鋳物師《いもし》は鐘鋳《かねいり》の上手
  ヤー息子はアリヤ 刀の方に上手
  息子はホリヤ 刀の方に上手ヨイヤコリ  ヤ
  トントロトントロトントロト エイヤコ  ラサのヨイヤ
 等々と十四節が残っている。

 踊りの構成は音頭、太鼓、鉦《かね》それぞれ一名が囃子手となり三十数名の踊り子(男衆)が車座に踊る。揃いの浴衣《ゆかた》に赤い襷《たすき》、藁草履《わらぞうり》に手甲、投網笠。この笠の周りには五色の紙垂《かみしで》が幾重にも短冊状に貼られ彩り豊か。笠の上には手製の縫いぐるみの猿が円錐形状に数十匹飾られ、愛らしい。踊り納めると飾りの縫いぐるみ猿は、「難を去る」縁起物として遠洋への出漁者や旅立つ友の無事を祈って手向けられる。
 シットロトの語源は、鰹節製造十二工程の、頭切り、生切り、を指して執刀《しっとう》(解体処理)より転じているといわれ、また、「しっかり踊ろう」から転化したともいわれる。「しっとーと」「しとと」情の細やかなさま。しっぽり。しめやか。の古語に由来する説がある。舞姿や、リズム、歌詞が醸しだすものは、後説に近いと思うが定かでない。
 赤銅色に日焼けした顔に、海の男とは思えぬ優にやさしい舞姿が心にのこる。
  なお、このシットロト踊りは、昭和三十七年高知県無形文化財として指定された。                      
            文 津室  儿
            絵 山本 清衣