2013年4月11日木曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 嫁の生活


38話   吉良川老媼譚 七
   
  嫁の生活 (お産のこと) 35-16
 娘の頃は楽しかったと申しましたが、さて嫁入りしてしまうと、存外そうはいかんもんでございます。 
 昔は、姑というもんが、今のようにない、そりゃむつかしいもので、辛いことも多うございました。昼は山から生木の一荷や二荷かは担うて帰るくらいは、どこの女でもやったことで、馬の口(轡《くつわ》・手綱)をようとらんにょうな女はまあないというぐらいなものでごおざいました。夜は、篠巻いうて、綿を指の周りほどにした束を買うてきて、夜なべの行燈の灯で車(紡車)にかけて、姑が寝るというまで糸に取って桛《かせ》に掛けちょいて、それを集めて紺屋へ持っていて(行く)染めてもらうと、地機《じばた》という機《はた》で布に織ったものでございます。
 綿は、家々で作った頃もありましたが、その時は綿をもる(千切る)と、実繰《みくり》りにかけて種を取り、集めて綿打ち屋へ持っていて打ってもらい、それを箸に捲いて篠巻にして五十匁束にして、車にかけて糸にしちょいて桛にとる。桛にとった糸は煮るんとさくい(粘り気が無くもろい)きに煮ちょいて、一桛一絞りなどと勘定して一反にし、紺屋に染めてもらいましたが、この時分、紺屋と綿打ち屋が地下に二軒づつありました。針へ通す糸は、イトソというて杼《ひ》・梭《ひ》(織機の付属具)くのにりぐって(念を入れ)ひいた(織った)もんでございました。阿波から高機(手織機の一種)というのが渡ってきたのは、私が二十四、五歳の頃のように覚えちょります。
 私のほんの子供の時分には、夜なべには松台に松明(灯火用の松を焚く器)をあかし(灯し)ましたが、次は灯し油の行燈で、ランプが出来たのは汽船の来た二十二、三歳の頃だったと思います。亭主が大阪から戻ってきて、ランプを初めて見たという話に、町の砂まで見えると言うて話したほどでしたきに、可笑しなことでした。
 私のお産の時は、その部屋(土間に面した次の間)で障子の格子へささづって(危ない所)、水(尻では?)が障子の腰へたんと(一杯)あたるばあつくなんで(腰を下ろして)したもんで、こんな時、昔の人は「おられん、出て行け」というて亭主は寄りつかず、姑が湯を沸かして持ってきてくれると、側で立っちょって、つつく(手を触れる・もてあそぶ)とお竈《かま》さま(竈の神)が穢れるというので触ってくれず、臍《へそ》の緒もそこでそう切るものじゃ、ああ切るものじゃと、口だけで指図する位で、自分で震いもって元結《もっとい》(髻《もとどり》を結ぶ細い緒)で縛って切ったもんでございました。しおばら(お産の遠い時)であると、男の褌をを吊って下がっちょったらよい、などというたりしたもんでございました。
 今のことを思うと、乱雑なもので、お産というと、血じゃち水じゃち、ぶちまけるばぁ出るもんですきに、畳を剝ぎ上げちょいてざっとした蓙《ござ》でも敷いたりしてすましたもんで、汚れもなんも自分で洗うたし、えらい人は自分で湯まで沸かしたりしたもんでございます。後産は、亭主が床下へ埋けました。
 三日の名付けには、お床のうぶ(産)の神にご飯を供えて、名を書いた紙を床に貼って祝いました。これは七日にする人もあります。だいたい、三十三日までは、女はもの五体にならんというて休むものでございますが、ここでは十一日もしたら外へ出てどんどん働く人が多うございました。産土《うぶすな》の神へは、別に市《いち》(巫女)さんという女の神官に頼んで、八幡様につないでもらいましたが、これは三十三日を過ぎてか、神祭の時でございました。
 三日の間は他人の産屋への出入りを嫌い、三日目には火合わせというて、隣の人を呼んで火を打ちかえたもので、今じゃ七日とか十一日にして、この時に隣り近所から湯上げ襦袢いうて襦袢の布を買うてやるふうがありました。
 乳のない時には、今のようにミルクじゃ牛乳じゃいうもんが無かったので、乳粉《ちちご》いうてお米をひいて、乳のように煮いて食べさしたりしたもんで、これはまた一苦労でございました。
                            写  津 室  儿
          

2013年4月10日水曜日

土佐落語 勘当 60-14


  土佐落語  勘当  60-14 
                            文  依光 裕

 南国市の井ノ沢に、亀吉という百姓がございましたが、こらが”欲の深いことにかけては、お城下から東にゃ居らん”という男でございます。
 「たかァ、メッタかねゃ。今度という今度は、さすがの俺もメリ込んだ・・・・・」
 「亀吉、何をそうメリ込んじょら?」
 「ウン。俺もいつの間にか息子の嫁を探す齢《とし》になってネヤ」
 「ほんで、探しゆか?」
 「探しゆけんど、居らんについてメッちょらや・・・・・」
 「居らんチ、亀吉。そんなもな自分で探さんと、仲人口にかけてみよ。餅は餅屋で、キレイにクルメてくれるぞ」
「そうよ。俺もそう思うて、数々頼んだが、スッポン断わられた」

         絵  大野 龍夫
 「どうせオンシのことじゃ。ガイな条件をコジつけたろが?」
 「ガイな条件をつけるもんか!”器量良し
にゃよばん、気質《きだて》はソコソコ、家柄はホドホド・・・・・”、そういや、たった一つだけ条件をつけた」
 「どんな条件なら?」
 「なにせ百姓の嫁じゃきネヤ。”飯はよけ食わんと、大糞をヒル娘を世話しとうぜ”、たったのこれだけじゃ」
 「亀吉、食うもな食わんと、ヒルもなヒレ”ち、そりゃ無理というもんぞ」
 「なにが無理なら!”転んでもタダでは起きるな、馬の糞でもツマンで起きよ。そこになかったら、ある所まで這うて行け。それでもなけりゃ、馬が来てヒルまで待ちよれ”。これが俺の信条じゃ」
 「オンシはそんな欲いことをいうけんど、世の中で一番大事なモンは、命じゃろが?」
 「ナンノ、命かたけがなんなら!死刑になる者が”銭をやるきに替つてくれ”いうたら、俺ァ喜んで替わっちゃる」
 欲の深い人間のことを”算盤《そろばん》と相談する”と申しますが、この亀吉は”命よりも銭”で、算盤どころではございません。
 「立田の叔母やん。済まんが、今晩儂ン家《く》へ集まっとうせ」
 「今晩チ、エライ急な話じゃが、息子の嫁が決まったがかよ?」
 「息子の嫁どころか、親族会議じゃ」
 「オットロシ!なんのモメごとぜよ?」
 「その詳しいこた今晩話すきに、どういたち来とうせよ」
 息子の嫁をヒガチで探しておりました亀吉が、急に親族一同を集めての、親族会議でございます。
 「亀吉、事の次第を話とうぜ」
 「立田の叔母やん、それに皆んなァ聞いとうせ。儂ァ今晩限り、息子を勘当する!」
 「なんつぜよ!息子が何をしでかいたぜよ?」
 「昨日のことじゃ。こともあろうに息子の阿呆が、他所《よそ》の畑へ立小便をしたッ」
 「なんぼいうたチ、そればァのことで息子を勘当する親がどこに居るぜよ」
 「けんど叔母やん。親の儂が大糞をヒル嫁を探しゆうに、息子が他所の畑へ肥をするこたないろがよ!」

                         写  津 室  儿

2013年4月3日水曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 35-13〜15


    吉良川老媼夜譚 六
   早乙女てがい  35-13
 五月の月は「早乙女《さおとめ》てがい」というて、これは若い衆にも若嫁にもうんと楽しいものでございました。
  五月ひと月ゃ 早乙女さまよ
  五月すぎたら ただ女子《おなご》
 と歌にもうとうたほどに、田を植えるのは五月に限っちょって、娘らが田を植え始めると、若い衆らが畦のふちへきて、てがいまわる。すると娘らが、男を追わえて、これに泥を塗りつけたものです。昼間押さえられざったら、娘ら同士で相談しちょぃて、担桶《たご》(担い桶)などへ泥を入れちょいて、田をしもうてから、若い衆の家へ裸足で飛び込んでいって、飯を食べようが仕事をしようが、押さえつけて頭から顔へ塗りくって、きゃあきゃあ騒いだものでございます。
 それが五月中毎晩続いて、平生他口(悪口)をいうたりする若い衆があったりすると、娘一同で捕まえて、田へ連れていって、頭から泥田へ押し込んだりしたもので、それで男もシニビツツ(死に物狂い)で逃げ回ったものでございます。あんまり押さえぬくいと、寝入りばなの若い衆の寝宿へいって、たぶさぎ(褌《ふんどし》)を押さえて、顔から逆さに泥を塗ったりした。男の方でもまた悪さをして、娘の家の戸口へ夜の中に石地蔵を担いできて立てかけちょったり、死に蛇を軒へ吊りくっちょいたり、小便担桶《たご》を出入り口へ置いたりして騒いだもので、地下はこんなことでわんさで楽しいものでございました。もしも、こんな早乙女たちの仕打ちで、娘をしででもしたら、おサバイ様(稲作の神)の罰が当たって気が違うというので、文句をを言う者はありませざった。 始めにも言うた歌のとおり、五月ひと月は權利なもんで、松本(吉良川の豪家)の家じゃ、門を掛けて通さざったところが、梯子を掛けちょいて、それで庭へ入って、裸足でピチャピチャと座敷へ上がっていって、そこで泥を塗ったじゃあ言うこともありました。    
 こんなに一月の間を騒ぎますが、皆の家で田植えがしまうと、泥落としというのをしました。これは、娘らの家の一つを宿にして、酒肴を用意し、若い衆らを案内する田植えしまいの祝いのお客(宴会)で、隣村の羽根から室戸から五升樽をかるう(背負う)てくる若い衆もあって、その夜は太鼓や三味線で、飲めや歌えで暮らしたもんで、この晩、早乙女てがいで破りとったりした着物の袖やら、逃げる時に脱ぎ捨てていた着物類は、きれいに洗濯して糊をつけて、丁寧に返したものでございました。
 泥落としの行事が廃れてきたのは、明治三十四、五年頃からでしつろうか。今ではもう昔話になりましたが、奥の西山あたりでは、田を植え終わると、今でも田でご馳走を食べる日があって、その日は、部落一同が集まって泥落としのお客をしよります。そこで町分の呉服屋やら傘屋らが、この日を当て込んで、荷を担いで売りに行くふうでございました。

   飢饉  35-14
 いつのことでしたか、二十歳の頃のことじゃっつろうと思いますが、ゲンショ(飢饉米?)いうて、村役場へ日に一度づつ米、おかゆを貰いにいたことがございました。
 昔はどうゆうものか、どこからも食糧を運ぶことが出来ざったようで、この時には田のしつけ(春、田起しから田植え終了までの田植に関する農作業の総称)まで、芋もカンバ(切り干し芋)を持っちょる家が無かったほどでございました。大正八年の時化もえろう(大層・甚だ)ございましたが、昭和九年の津波(第一室戸台風)には、なにもかも飛んで野もないようになりました。

   煙草と塩  35-15
 煙草《たばこ》はこの頃あんまり不自由しますので、ぼつぼつ内密で作って呑む人もありますが、私たちの若い頃はなんぼ作ってもかまわざったので、好きな人はよう作って呑んだものでございます。
 室戸岬の津呂や坂本から苗を売りに来たもので、なぜか(梅雨)の手前に、茄子と一緒に植えたもんでございました。大葉になると摘んできて、縄へ挟んでつるして、土間の中などで陰干しにしちょいて、煙草包丁でぎちぎち切ったものでございました。よそからも売りに来ましたが、町分にも煙草を売る店があって、ねじ《、、》というのと葉煙草を売りよりました。ねじというのは、元葉をのさん(縮みを伸ばさず)づく縛って干したものでございました。
 塩もこのごろ不自由になったし、去年あたりまではえらい金儲けにもなりましたので、一時は浜いっぱいに塩焚くきができちょったほどでした。
 昔はこの浜に塩焚きが三軒あって、塩浜へしと(潮水を撒く)を打っちょいて、がじがじになったものを集めて、樽の上へまなご(浜の小石)を置いて、その上に俵を敷いたものの上で何遍も潮水をかけて、濃い塩汁にしちょいて、それを家まで担桶《たご》で運んできて焚きよりました。考えてみると、こんどの戦争じゃ色々のことが五十年ばあ昔に後戻りしてきたように思いますが、どうですろう。

                            写  津 室  儿
          

2013年4月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第36話 観音山の豆狸


36    観音山の豆狸

 佐喜浜根丸の「鍛冶屋のおじやん」と「かねたのおじやん」とはこんまい《ちいさい》時から朋輩で、二人のおじやんは、港の口に網を敷いて夜明けと晩方に網を揚げに行きよった。
そんな時、かねたのおじやんは、いっつも自分く《いえ》の後ろの土手に生えちょる松の木に手を掛けて、「おおい、鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、いがり《さけび》よった。ほい《そうし》たら鍛冶屋のおじやんは、寒《ひや》い冬の朝らあ鼻の先を真っ赤にして、白いほけ《ゆげ》を吐き吐き、よいしょよいしょと川舟を水棹《みざお》で突っ張っり突っ張り、浜の方へ漕ぎよった。所が、かねたのおじやんが、びっしり《いつも》松の木をゆすっていがり《おおごえ》だすきに、松の木の根っ子の洞《うろ》に、観音山からやって来た豆狸《まめだ》が巣を作っちょっる。豆狸は、宵の口から餌探しに散々疲れきって眠っちょる《いる》に、朝っぱらの寝入りばなを邪魔せられて、すっかり腹を立ててしもうた。

              絵  山本 清衣

 そこで、豆狸は夜中頃に、松の木の洞の前から「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」とかねたのおじやんの声色《こわいろ》でいがった。川向の鍛冶屋のおじやん吃驚《びっくり》。はや朝かよ!
《おおいそぎ》ざんじ《おおいそぎ》川を渡り、かねたのおじやんく《いえ》へやって来てみた。かねたのおじやんは、きっちり戸締まりをして高鼾《たかいびき》をかいて未だ寝よった。
 鍛冶屋のおじやんは「今時、己《おら》を起こしちょいて、わりゃ高鼾で寝よる」と怒り散らした。所が、かねたのおじやんはプンプン怒りかやって「自分が寝ぼけちょいて人を怒りくさるか!」と、やり返した。鍛冶屋のおじやんは、ちっくと可笑《おか》しいなと思ったが、家《うち》へいんで《かえって》寝入ろうとしたら、また、「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、かねたのおじやんの声が聞こえた。鍛冶屋のおじやん、「今度こそ寝とぼけちゃあせんぞ、人をわやにしちょる《からかっている》」とブツブツ独り言を言いながらやって来てみると、かねたのおじやんは、前の様に戸締まり堅く明かりを消して寝よった。頭にきた鍛冶屋のおじやんは、雨戸をけたくって「こりゃじんま、わりゃあ《おまえは》、我が寝とぼけて己《おら》を呼んだじゃろが、己あこんどは寝ちょらんずく、聞きょったぞ」と、いがりまくって《さけびながら》起きてきた。そこで、かねたのおじやんと喧嘩になってしもうた。「お主《んし》みたいな嘘いいは、もう相手にしやぁせん」「おお誰がお主らに手伝ってもらやあ」と喧嘩別れになってしもうた。
 それを見ておった豆狸は、大喜び「もう一遍、欺しちょいたら、ほんま《ほんとう》に殴り合いになるかも知れん」と、やめちょきゃええもんを、もう一遍「おおい鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」といがりまくった。それを聞いた鍛冶屋のおじやんは「はてな、さっきあればあ喧嘩して、もうものも言わん言うちょったに、ちくとこりゃあ可笑しいぞ」と思うたきん、堤に出て浜の方を見たが、かねたのおじやんくは灯りがついちょらん。真っ暗がり。それに黒い松の木の根元にチョロチョロと青い火が見える。
「ははーん、さては豆狸の悪戯《いたずら》か」と合点がいくと、鍛冶屋のおじやんは、じき《すぐ》に川を渡って「かねたのおじやんよう、さっき呼だは、ありゃあ、豆狸よ。へごな《わるい》豆狸じゃきん、若い衆を呼んできて、このへんを燻《ふす》べまくって捕まえたら、狸汁を炊いて食おうじゃないか」と、大声でいがった。
 これを聞いた豆狸は、ばったりかやって吃驚仰天《びっくりぎょうてん》よ、こりゃたまらん言うて、ざんじ《おおいそぎ》狸谷(弥ヶ谷)へ逃げ込み、観音山で菩薩様に諭《さと》され悪豆狸を返上した、という。
 その後、二人のおじやんは、元の朋輩どうしに戻り、仲良う長生きをしたと、いいますらぁ。
                            文  津 室  儿
         

土佐落語 店屋酒 60-13


  土佐落語  店屋酒  60-13     文  依光 裕
 
 時は無声映画時代、活動写真弁士の別けても華やかなりし頃のお話でございます。
 弁士にも高知城下の常設館専属の弁士からドサ廻りまで、ピンからキリまでございましたが、村井巡業部・江村美声はキリの方で、美声どころか、ガラガラ声の悪声でございました。
 おまけに、家で飼う鶏が”取ったばァキューッ!”と鳴く程の大酒飲みでございまして、朝家を出しなにキューッ!巡業の途中でも酒屋の前を通るたァび馬車を停めてキューッ!活動写真が済んでキューッ!寝る前にキューッ!、日に二升の酒が無かったら身がもたんと申しますから、一升は楽に飲むこの升楽《しょうらく》も足許に寄れません。
 一日《ひいとい》のこと、香美郡の山田に掛けておりました小屋を打上げまして、この日は朝から香北の永野へ巡業という段取りでございましたが、座長にとっては生憎のことに大雨《おおつはぶい》でございます。
 座員の連中は”今日こそ骨休め”というもんで、宿屋で朝寝を決め込んでおりますに、昼前に雨がカラリと上がってしまいました。
 さァ大事、足許から鳥が飛び立つような俄の出発でございます。
 「オッ酒じゃ!チクト馬車を停めてくれ」
 「美声、今日はいかんぞ。晩方までに永野へ小屋を掛けないかんきに、永野へ着くまで堪えちょれ!」
 座長の鶴の一声、哀れ美声”青菜に塩”の道中でございました。
 「お、お婆ァ!へ、ヘンシモ!」
 そこは美声の行きつけ、永野の高屋《たかや》という店屋《てんや》でございます。
 「美声さん、血相を変えてどういた事ぜよ」「どういたこういたの容態は医者に言うてくれ!それより、コ、コレじゃ!」

        絵  大野 龍夫
 
 「コレいうたら、焼酎かよ?酒かよ?」
 「生きる死ぬるの瀬戸際にヒンジョノカァが言えるか!何でもかまん、ヘンシモじゃ」
 あまりの血相に目がかすむ程慌てました婆さん。大急ぎで一升徳利から湯飲み茶碗へドクドク注《つ》ぎ始めましたが、注ぎ終わらんうちに美声の口がハヤ食いつく始末でございます。
 「モ、もう一杯!」
 二杯目は一息にキューッ!
 「おおのコレコレ、このことよ!婆さん、もう一杯おおせ」
 三杯目は美声、腰掛けに腰をおろしまして、ゆっくり湯飲み茶碗を傾けました。
 「ありゃ?お婆ァ、こりゃ先刻《さっき》の酒かよ?」
 「見てみなんせ。美声さんの目の前の徳利から注いだもの、どういて間違うぜよ」
 「そうよのう。どりゃ・・・・・(プッと吐き出して)こ、こりゃ矢っ張り酢じゃないか!お婆ァ、この俺に酢を二合もどういて飲まいたなら!」
 美声の怒りように、婆さんも入歯をガタガタ鳴らしまして、
 「美声さん。なんぼ田舎の店屋酒でも、二合飲まんと酢と酒の違いが判らんかのうし!」

                         写  津 室  儿