吉良川老媼夜譚 六
早乙女てがい 35-13
五月の月は「早乙女《さおとめ》てがい」というて、これは若い衆にも若嫁にもうんと楽しいものでございました。
五月ひと月ゃ 早乙女さまよ
五月すぎたら ただ女子《おなご》
と歌にもうとうたほどに、田を植えるのは五月に限っちょって、娘らが田を植え始めると、若い衆らが畦のふちへきて、てがいまわる。すると娘らが、男を追わえて、これに泥を塗りつけたものです。昼間押さえられざったら、娘ら同士で相談しちょぃて、担桶《たご》(担い桶)などへ泥を入れちょいて、田をしもうてから、若い衆の家へ裸足で飛び込んでいって、飯を食べようが仕事をしようが、押さえつけて頭から顔へ塗りくって、きゃあきゃあ騒いだものでございます。
それが五月中毎晩続いて、平生他口(悪口)をいうたりする若い衆があったりすると、娘一同で捕まえて、田へ連れていって、頭から泥田へ押し込んだりしたもので、それで男もシニビツツ(死に物狂い)で逃げ回ったものでございます。あんまり押さえぬくいと、寝入りばなの若い衆の寝宿へいって、たぶさぎ(褌《ふんどし》)を押さえて、顔から逆さに泥を塗ったりした。男の方でもまた悪さをして、娘の家の戸口へ夜の中に石地蔵を担いできて立てかけちょったり、死に蛇を軒へ吊りくっちょいたり、小便担桶《たご》を出入り口へ置いたりして騒いだもので、地下はこんなことでわんさで楽しいものでございました。もしも、こんな早乙女たちの仕打ちで、娘をしででもしたら、おサバイ様(稲作の神)の罰が当たって気が違うというので、文句をを言う者はありませざった。 始めにも言うた歌のとおり、五月ひと月は權利なもんで、松本(吉良川の豪家)の家じゃ、門を掛けて通さざったところが、梯子を掛けちょいて、それで庭へ入って、裸足でピチャピチャと座敷へ上がっていって、そこで泥を塗ったじゃあ言うこともありました。
こんなに一月の間を騒ぎますが、皆の家で田植えがしまうと、泥落としというのをしました。これは、娘らの家の一つを宿にして、酒肴を用意し、若い衆らを案内する田植えしまいの祝いのお客(宴会)で、隣村の羽根から室戸から五升樽をかるう(背負う)てくる若い衆もあって、その夜は太鼓や三味線で、飲めや歌えで暮らしたもんで、この晩、早乙女てがいで破りとったりした着物の袖やら、逃げる時に脱ぎ捨てていた着物類は、きれいに洗濯して糊をつけて、丁寧に返したものでございました。
泥落としの行事が廃れてきたのは、明治三十四、五年頃からでしつろうか。今ではもう昔話になりましたが、奥の西山あたりでは、田を植え終わると、今でも田でご馳走を食べる日があって、その日は、部落一同が集まって泥落としのお客をしよります。そこで町分の呉服屋やら傘屋らが、この日を当て込んで、荷を担いで売りに行くふうでございました。
飢饉 35-14
いつのことでしたか、二十歳の頃のことじゃっつろうと思いますが、ゲンショ(飢饉米?)いうて、村役場へ日に一度づつ米、おかゆを貰いにいたことがございました。
昔はどうゆうものか、どこからも食糧を運ぶことが出来ざったようで、この時には田のしつけ(春、田起しから田植え終了までの田植に関する農作業の総称)まで、芋もカンバ(切り干し芋)を持っちょる家が無かったほどでございました。大正八年の時化もえろう(大層・甚だ)ございましたが、昭和九年の津波(第一室戸台風)には、なにもかも飛んで野もないようになりました。
煙草と塩 35-15
煙草《たばこ》はこの頃あんまり不自由しますので、ぼつぼつ内密で作って呑む人もありますが、私たちの若い頃はなんぼ作ってもかまわざったので、好きな人はよう作って呑んだものでございます。
室戸岬の津呂や坂本から苗を売りに来たもので、なぜか(梅雨)の手前に、茄子と一緒に植えたもんでございました。大葉になると摘んできて、縄へ挟んでつるして、土間の中などで陰干しにしちょいて、煙草包丁でぎちぎち切ったものでございました。よそからも売りに来ましたが、町分にも煙草を売る店があって、ねじ《、、》というのと葉煙草を売りよりました。ねじというのは、元葉をのさん(縮みを伸ばさず)づく縛って干したものでございました。
塩もこのごろ不自由になったし、去年あたりまではえらい金儲けにもなりましたので、一時は浜いっぱいに塩焚くきができちょったほどでした。
昔はこの浜に塩焚きが三軒あって、塩浜へしと(潮水を撒く)を打っちょいて、がじがじになったものを集めて、樽の上へまなご(浜の小石)を置いて、その上に俵を敷いたものの上で何遍も潮水をかけて、濃い塩汁にしちょいて、それを家まで担桶《たご》で運んできて焚きよりました。考えてみると、こんどの戦争じゃ色々のことが五十年ばあ昔に後戻りしてきたように思いますが、どうですろう。
写 津 室 儿
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