36 観音山の豆狸
佐喜浜根丸の「鍛冶屋のおじやん」と「かねたのおじやん」とはこんまい《ちいさい》時から朋輩で、二人のおじやんは、港の口に網を敷いて夜明けと晩方に網を揚げに行きよった。
そんな時、かねたのおじやんは、いっつも自分く《いえ》の後ろの土手に生えちょる松の木に手を掛けて、「おおい、鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、いがり《さけび》よった。ほい《そうし》たら鍛冶屋のおじやんは、寒《ひや》い冬の朝らあ鼻の先を真っ赤にして、白いほけ《ゆげ》を吐き吐き、よいしょよいしょと川舟を水棹《みざお》で突っ張っり突っ張り、浜の方へ漕ぎよった。所が、かねたのおじやんが、びっしり《いつも》松の木をゆすっていがり《おおごえ》だすきに、松の木の根っ子の洞《うろ》に、観音山からやって来た豆狸《まめだ》が巣を作っちょっる。豆狸は、宵の口から餌探しに散々疲れきって眠っちょる《いる》に、朝っぱらの寝入りばなを邪魔せられて、すっかり腹を立ててしもうた。
絵 山本 清衣
そこで、豆狸は夜中頃に、松の木の洞の前から「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」とかねたのおじやんの声色《こわいろ》でいがった。川向の鍛冶屋のおじやん吃驚《びっくり》。はや朝かよ!
《おおいそぎ》ざんじ《おおいそぎ》川を渡り、かねたのおじやんく《いえ》へやって来てみた。かねたのおじやんは、きっちり戸締まりをして高鼾《たかいびき》をかいて未だ寝よった。
鍛冶屋のおじやんは「今時、己《おら》を起こしちょいて、わりゃ高鼾で寝よる」と怒り散らした。所が、かねたのおじやんはプンプン怒りかやって「自分が寝ぼけちょいて人を怒りくさるか!」と、やり返した。鍛冶屋のおじやんは、ちっくと可笑《おか》しいなと思ったが、家《うち》へいんで《かえって》寝入ろうとしたら、また、「鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」と、かねたのおじやんの声が聞こえた。鍛冶屋のおじやん、「今度こそ寝とぼけちゃあせんぞ、人をわやにしちょる《からかっている》」とブツブツ独り言を言いながらやって来てみると、かねたのおじやんは、前の様に戸締まり堅く明かりを消して寝よった。頭にきた鍛冶屋のおじやんは、雨戸をけたくって「こりゃじんま、わりゃあ《おまえは》、我が寝とぼけて己《おら》を呼んだじゃろが、己あこんどは寝ちょらんずく、聞きょったぞ」と、いがりまくって《さけびながら》起きてきた。そこで、かねたのおじやんと喧嘩になってしもうた。「お主《んし》みたいな嘘いいは、もう相手にしやぁせん」「おお誰がお主らに手伝ってもらやあ」と喧嘩別れになってしもうた。
それを見ておった豆狸は、大喜び「もう一遍、欺しちょいたら、ほんま《ほんとう》に殴り合いになるかも知れん」と、やめちょきゃええもんを、もう一遍「おおい鍛冶屋のおじやんよう、舟を出すぞう」といがりまくった。それを聞いた鍛冶屋のおじやんは「はてな、さっきあればあ喧嘩して、もうものも言わん言うちょったに、ちくとこりゃあ可笑しいぞ」と思うたきん、堤に出て浜の方を見たが、かねたのおじやんくは灯りがついちょらん。真っ暗がり。それに黒い松の木の根元にチョロチョロと青い火が見える。
「ははーん、さては豆狸の悪戯《いたずら》か」と合点がいくと、鍛冶屋のおじやんは、じき《すぐ》に川を渡って「かねたのおじやんよう、さっき呼だは、ありゃあ、豆狸よ。へごな《わるい》豆狸じゃきん、若い衆を呼んできて、このへんを燻《ふす》べまくって捕まえたら、狸汁を炊いて食おうじゃないか」と、大声でいがった。
これを聞いた豆狸は、ばったりかやって吃驚仰天《びっくりぎょうてん》よ、こりゃたまらん言うて、ざんじ《おおいそぎ》狸谷(弥ヶ谷)へ逃げ込み、観音山で菩薩様に諭《さと》され悪豆狸を返上した、という。
その後、二人のおじやんは、元の朋輩どうしに戻り、仲良う長生きをしたと、いいますらぁ。
文 津 室 儿
かわいい豆狸くんですね。狸谷は懐かしい小谷です。観音山はこの季節、山桜がみごとでした。吉野より風情があったように思い出します。
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