吉良川老媼夜譚 八
子を殺す 35-17〜18
お産は「嫁の生活」でお話しました通り苦労をしましたが、その一方で私らの若い時分には、生まれる子を潰《つぶ》す人が多うて、せいぜいが三人か四人で、五人となると多すぎる、七人にもなると貧乏するはずじゃというて、あきれたもんで、そんなふうで悪いことをして生命をを捨てる人もありました。
向かいの爺さんも、自分で「婆んばがいかいで、ねじちゃあったら生きたつが(註、婆さんが上手く潰せず生き返った)」などと言うて、あのとおり長生きしたといいます。
潰すときには、掌《てのひら》で出たもん(赤子)の顔をようみんと、泣かす前にぴっちゃりと顔をおさえたと言いますが、掌の下でコンニャクの様なもんが、ぐるり(ぐにゃ)とするのは、あんまりええ気なもんじゃないと聞いたりしております。これを「へす(減す)」とか「ゴロク(あの世?)へやった」とかいうて、後始末には床下に埋《い》けて石でも置いただけのようでございました。昔はえらいわやくちゃなことをしたもんで、これは土佐に限ったことにかあらん(相違ない・知れない)、それで昔から土佐は鬼国といいましたわのうし。
それからゴロクへやったのじゃのうて、育てようと思うた赤子が死んだりすると、鳥を飛ばしたようなもんじゃいうて、あんまり悔やむといかんじゃいうて、簡単な箱に入れて墓地場へ埋け、お地蔵渡しというて、お寺さんにお教をあげてもらうくらいで、しまいにするふうがありました。
辻売り・その他 35-18
子供が病気がちで困る時には、辻売りということをいたしました。これは親が町の四つ辻に立っていて、一番初めに来た人に自分の子を貰うてもらい、名前を付け変えてもろうて、その人を親にすると育つというのでございます。それで丈夫に育つと、一生の間、正月礼などを勤める義理堅い人もあって、これは今でもする人がございます。
それから、親の干支《えと》が生まれた子にふさん(適合しない)じゃいうことがあったりして、子供が病気がちじゃったりすると、お宮の市《いち》(巫女《みこ》)さんに干支の合うた人をみてもろうて、「親取り」いうて、仮に親を変えたりすることもございました。
市さんは五十歳あまりの人で、家祈祷やら病気を患うたりすると、お神楽をあげて、しらせ(祈祷か?)をしてくれたりします。八幡さんの太夫《たゆう》さんもしてくれますが、昔は八月十五日の神祭には、五日前から太夫さんと市さんが、お宮へ籠《こ》もったものでございます。
子供が生まれても生まれても死ぬるのは、車子《くるまご》いうて、十二人まで死につづくというて嫌がりますが、甲浦に土居さんいうて、えらいお医者さんがあって、この人はどんなむつかしいお産でも取り上げるというので、私らの若い時分の歌に「腹が痛いやや子ができる、早う甲浦の土居迎え」というたもんで、谷田いうて今に生きちょる人は、十二人目の車子で、土居さんに出してもろうた人でございます。
子供が糞壷(雪隠・野雪隠落ちると同様)へ落ちると、その子供の名前を変えるふうがありました。それにはセンの字を付けると申します。お手水の神様は、えらい神様で、目と下《しも》の病の神様じゃと言われております。盲《めくら》の神様で、私はウスシマ明王様(トイレの神様)と聞いております。それで、お便所へは唾を吐かれんといいます。
臨月近くで死ぬる女があると、身二(親子に分ける?)つにして埋けるもんじゃいうて、お医者さんを呼んで身二つにして貰うて埋けるふうでございます。それから子供に命《めい》がのうて、あまり乳ができたりすると、その乳を「ただの所へは捨てるもんじゃない」というて、「南天の木の元へあますもんじゃ」というたりしました。
親というものは因果なもんで、我が子の為にはえらい苦労するものでございます。妊娠して上の子が患うて、顔色が悪うなったりすると、オトミじゃとかチバナレとかいうて心配もするし、お尻の上の青い紋を「ウブ(産)の神のひねくったところじゃ」いうたりして笑うたりもしました。生まれた赤子が初めてするウンコをガニババ、体にできるおできをガニというたりするのは、どういう訳でございますろう。
写 津 室 儿
童謡「しゃぼんだま」は間引きの鎮魂歌と、聞いたことがあります。母親は悲しかったでしょうね。伝説の「鍛冶屋嬶」は長宗我部元親に滅ぼされた崎浜の復興の礎の中心になった産婆さん代わりの女性ではなかったか、と仮説を立ててみます。すると、時代と状況が鮮やかによみがえってくるようですが…。
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