吉良川老媼夜譚 九
年祝い 35-19
人間は一代のうちに、厄の入り抜けから五回の祝いをするもんじゃと申します。一番はじめは、女の三十二歳で厄に入って、三十三歳で抜けるのと、男の四十一歳の厄入りと二歳の厄抜けで、それから六十一歳と七十三歳、八十八歳の祝いをするもんでございます。
「入り」には「むしこむ」いうて、赤飯を炊いてお客をします。六一の祝いには、親類から反物一反とお酒一丁を贈って、赤の涎掛《よだれか》けをさして座らして祝うたりしました。八十八歳には竹で斗掻《とかき》(概《とかき》・升に盛った穀類を、升の縁なみにたいらにならす短い棒。升かき。かいならし)を拵えて配ったりしました。私もとうとう八十一歳になりましたが、せちがらい世に生きすぎて、迷惑なことでございます。
分家 35-20
これは余所でもあることでございますろうか、吉良川あたりでは、次男が分家すると、女親がついて出て、寝泊まりも分家の方でいたしますし、男親は長男の方で寝泊まりするふうがございます。
それで、女親が仏になったら、分家の初めての祖先になって、お祭りは分家ですることになっちょって、墓は親夫婦一つ(一緒)に刻むことになっております。この分家を母屋にくらべて部屋というたり、新宅とも呼んだりします。三番目からの子は教育してやって、身すすぎ(生活が成り立つ)の出来るようにしてやります。
葬式組 35-21
不幸がありますと、昔から隣近所七軒が全部集まってきて、いろいろ世話をしてくれるふうが今にございます。
墓地場は山手にあって、墓穴も近所の者が手伝うて掘ってくれます。火葬にすることはないので、長い棺に入れてそのまま埋《い》けますが、この棺を拵えるのは近所の大工の手伝いが、拵えてくれることになっちょります。不幸の家は、戸を閉めて悔やみ帳というものを門に吊しますが、手伝いが来ると、これに名前を書きこみます。埋けてしまうと、ぶく(死人が出た家のこと)払いいうて、隣の家の一軒が引き受けて、鮨や肴を出してちょっとお客をしますし、七日目は仕上げいうて親類と知り合いが集まってお客をするふうがございます。
正月に女が死ぬるのは、後を引くいうて嫌がり、紙で裃《かみしも》をこしらえて着せ、竹の刀をささして、男に仕立てて、棺へ納めるじゃいうことがございます。
鰯 35-22
また昔の話になりますが、昔は今と違うて、魚もうんとおったように思います。明治三十四、五年ころでしつろうか、鰤《ぶり》の大魚《おおいお》(鰤を指す)が海岸へ鰯《いわし》を追うてきて、大魚網《ぶりあみ》の船が舷を叩くと鰤がいよいよ海岸へ近寄ってきて、鰯やら他の細かい魚が、浜へ寄木のように飛び上がってきて、浜いっぱいに真っ白うになって、みんなが夢じゃないろうかと思うて、男も女も籠やらふご(穀物他を入れる、藁作りの籠)を持って拾いにいたことがございました。この時は、鰤も浜へ飛びはねてきて、着物をかぶせてとったりしたもんでございました。
その頃は地引網をひいても、上げれんばあ網目へ頭をさした小魚がはいっちょったもので、西山の百姓がサバゴやウルメなどを魚肥《いおごえ》にするのに、馬にたご(桶)をつけていたもので、それでまだ余ったがは、浜へ干しちょいて、あとで肥にしたものでございました。それがこれぐらい海をせたげる(責める・いじめる)と、とんと、とれんようになってしまいました。
お菓子と行商人 35-23
今のように上品な生菓子じゃ氷じゃいうもんは、見ようち見えざったじぶんで、おつぶ、岩おこし、ちゅう菓子、金平糖、りょうせん飴じゃいうもんしか売りよりませんでした。余所からの行商人は、阿波の女が室戸の港まで亭主の船で送ってきてもろうて、それが子守を連れて、絣の着物を着いて、頭の上に大きな籠を乗せて、トロロ昆布やアラメ昆布などを売りに来たものでございました。
大和と富山の藥屋も「入れつけ」いうて、大きな袋へ熱薬じゃ、風邪薬、腹いた薬、セメンじゃいうて、いろいろ入れてあずけておいて、毎年春頃に入れ替えと集金にきたりしたもので、子供らに風船やら広告の小旗などを土産に置いていたものでございます。
写 津 室 儿
歴史ごとを調べるとき、古老のお話しや資料文書
返信削除にあたると思いますが、「墓石も歴史を語って
いるので留意を」との記述を読んだ記憶があります。
火葬の時代になり、祖先の人々の墓石が次々と整理
されていくのを見るたびに、貴重な歴史が消えていってる
感じがします。これが歴史なのかと思ったりします。