吉良川老媼夜譚 十
鯨 35-24
明治四十年頃までは、鯨がまだこの浜から見えるばあの所へさいさい寄ってきて、西寺(行当岬)の山見がみつけると、鯨船が何隻も何隻も出て来て、これを室津の方(網代へ)へ追うもんでございます。
室津や津呂では、一時に二本ぐらい鯨が捕れると、肉のはけどころ(売り先がない)がのうて百匁(375㌘)五厘ほどであったので、一円も出したら車力一台で引いて戻らんといかんほどでございました。捕鯨の会社では、鯨を轆轤《ろくろ》にかけて巻き上げては切ったものでございます。肉をさばく(解体)に一本の鯨で、長須鯨などになると、三日も四日もかかったもんで、その肉切りの場がえらいことで、浜から川からいっぱいに切りさがすので、それを盗み切りして取り合うので、鯨方の者が二つ折りの手拭いの鉢巻き姿で、コッポ(竹の棒)を持ってどやし(叱る)つけたものです。叩かれる方では破れドンザ(漁夫の仕事着)を重ね着して、叩かれてもポンポン鳴るばあ着込んで、叩かれても叩かれても集まって盗み取りするのが、そんな場所での威勢でもありました。
この盗んだ肉と換えてもらうために、吉良川からも女らが餅やその他のご馳走をこしらえて、笊《ざる》や籠《かご》を担うて一理も二里も歩いて出かけたもので、室戸の新村あたりにウルメやムロが一匹八厘ぐらいで、普通のは五厘で買えたものでございます。
忘れもしませんが、捕鯨の大納屋でえらいて(会社の重役連)が集まっちょって、酒の給仕をしてくれやというて、後で抱えるばあの肉をほうってくれたことがございました。銃殺捕鯨が始まってからは、一時捕れるのが多うて、肉のはけるみちがのうて、五円持っていて、車力いっぱいによう引かんばあ貰うたこともございました。
淡島さま 35-25
昔はお遍土《へんど》さんの中に、淡島さまいうて、女のご神体を箱に納めて背中に負い、杖の先へ古い簪《かんざし》から櫛《くし》、笄《こうがい》、飾りなどを括りつけて回って来るのがございました。下の病気を持った女が、頭の髪のものをこの遍土にあずけて、紀州の加田の淡島さまに納めて貰うためでございます。それで、今に小娘の子らが頭に簪を幾つも付けちょりますと、「淡島さまのような」といいますらあ。
信心というものは、して損のいくものではないと思うちょりますが、私は二十四、五歳の頃大阪へ行く汽船の中で急に消渇《しょうかち》(咽が渇き、小便が出なくなる病気)になって、便所に行こうにも満員の船でなかなか出られず、やっと人をわけて便所へ入っても、もう一生懸命に淡島さまにお願いをこめよりましたところが、それから掻き洗うように治ったことがございました。そこで、高野山へ行ったついでに、紀州の加田へもいって、淡島さまにお礼参りをしましたが、この淡島さまはもともと身分の高い方でしたが、白血長血で紀州に流されたということでございました。受けてきたお守りの中を見たら、ご神体はお雛様でございました。
お接待 35-26
昔は、だれも一度はお四国回りをしたもんでございます。お四国を回ってきたら、世の中の酸い甘いが分かるなどというたもんで、春になったらこの街道を娘さんからお婆さん、中年の男女というように毎日二十、三十人と団体になって通ったもんでございました。宿屋も満員でございました。
三月二十一日のお大師様の日には、お接待いうて、村中から人が出て、米を持ってくる、お餅を持ってくる、お茶を出すというふうに、えらいもんでした。西山台地の人も町へまで出て来て、お接待をしたもんで、遍土さんらはお接待を受けるたびに色々のお礼を呉れたものでございます。阿波や讃岐では、船も車もただにしたといいます。
写 津 室 儿
淡島さま、はなんだろうと思い、ネットで見ましたら、折口信夫の文章にぶつかりました。要旨を参照させてください。
返信削除いわく、淡島明神は住吉明神の奥方であられた。妻が血の病気になられたことを厭った住吉明神は表門の扉を一枚はがして、淡島明神と神楽太鼓を載せて表の海に流した、という。その船が漂着した紀州加太の人々は、淡島明神を崇め奉った。爾来、淡島明神さまは安産、子授かりに霊験あり、流れ雛の由来にもなったと伝わる。関東地域にも伝わっている。この信仰を大切に、女性の救いを伝え広げていった人たちがしのばれます。