第39話 千両箱・両栄橋
むかしも昔、室戸の奈良師に、松吉という親父《おやじ》に二人の息子、竹吉、梅吉という松竹梅揃った、めでたい名の貧しい漁師一家があった。
とある日、松吉はお城下へ用事に出て、兄弟で漁に出かけた。
さて、船が沖へ出ると、時化《しけ》上がりで色んな物が流れてくる。竹吉が、
「おい梅吉、よう見よれよ、千両箱が流れてくるかもしれんぞ!」
「そうかえ」と答えた梅吉
「ところで兄やん、千両箱を拾うたら、どう分けりゃー」
竹吉、「うん、親父に二百両、あとは俺が五百両、お前が三百両・・・・・よ」
「そんな阿呆な、わしが拾うて三百両か」
「そこが兄と弟のちがいよ、辛抱せぇ」
「わしが見つけたときにゃ、こっちに權利がある。それを兄じゃいうて、よけ取るとは馬鹿らしい。仕事が出来るか・・・!、わしゃいんで寝る」
「そうか、おらも一人じゃ漁が出来んき、いぬる」
とうとう、竹吉と梅吉は漁をやめ帰りだした、と。
一方、松吉はお城下の用事を早々と終え、沖を眺めながら帰りよったら、兄弟船がもんて来よる(ありゃ、どうした事じゃろ)いうて首をひねりよったが、やがて船が戻り着くと、飛んで行って、
親父、「おい、どうしたなら・・・!」
「親父《おと》やん、千両箱が」
親父、「シーッ、声が高い、誰ぞに聞こえたらいかん。早う家へいのぅ」
親父は、たかで目を光らせて聞いたと。
「ほんで千両箱は・・・!」
「それが拾うたらえいけんど、拾わん内から、拾うたらどうすりゃいう事で、いいやいに成って漁をやめてもんて来た」
親父、「この阿呆らが、なんぼいうたち拾わん内から喧嘩して、漁をやめてもんて来るち、呆れた奴じゃ」
たまるか松吉はカンカンに怒って、棒を振り上げもって二人を追っかけた。そこで竹吉、梅吉兄弟は飛び逃げたそうな・・・・・!。
両栄橋
室津川の河口(水尻)は、室津の丸山・津照寺を境に東側を流れ、今に字名《あざな》は南新町・後免水尻として残っている。
その川筋を今様に変えたのは、最蔵坊こと最勝坊(小笠原一学は、石見銀山で知られる石見の国(島根県)の出身で、元安芸の国(広島県)の毛利元就の家臣であったが、出家して、六部として諸国を行脚し、当地に錫杖を休めた。
当時、川尻のわずかな船溜まりを素掘りした。これが室津港築港の起こりで、元和《げんな》六(一六二○)年のことであった。しかし、たび重なる洪水で土砂が港に堆積するため、船がかりが出来ない。そこで、最蔵坊は浦人と大凡《おおよそ》二年間に及ぶ協議の末、川筋を津照寺の西側に付け替えることを決める、寛永十六(一六三九)年のことであった。そこは泥岩のため、鑿《のみ》と鎚《つち》の人力で、二年を費いやした難工事であった。橋は室津・浮津に面していることから、両面橋と名付けて竣工した。
浦人の喜びも束の間、心無い者が悪ふざけに言った一言が現実のものとなった。
それは、雨のしょぼしょぼ降る丑三《うしみ》つ時《どき》、この橋を渡ると両面の化け物が出て、川に引き込む、といって、実《まこと》しやかに恐れられた。
ある夜、母の使いで浮津に出された娘、さびしい寂しいと思って、化け物のことを思いながら橋を渡っていた。すると、後ろから一人の老婆が来た。娘は、まぁ連れが出来て嬉しい、とほくそ笑んだ。
「ほんとう、わたしは一人で寂しゅうてたまりませざった。この辺に両面の化け物が出ると聞いています。、お婆さんが来て、本当に寛《くつろ》ぎました、よかった良かった」と言いますと、
老婆は、
「ありゃ、そりゃわたしかよ!」と言って、振り向いた後ろ頭に目口があった、と言う。
最蔵坊は両浦の守護神として、砂岩二尺五寸の道祖神(災厄を防ぐ神)に両面の化け物を封じ込め、橋のたもとに建立した。
そして、室津、浮津、両浦がいつまでも共に栄えることを祈願して、両栄橋と名付けた、という。
道祖神は、今なを近隣住民に花を手向けられ祀られている。
文 津 室 儿
津照寺から室戸の港辺り、船乗りが戻ってきては賑やかなところだったなと思います。今あたりどの地方もかっての中心街がさびしくなっているようで、それらは規制緩和で便利を求めた集積結果なのでしょうか、人々も集中してしまい、かっての日本がなくなっているようです。同郷の先輩は退職したら故郷に住むように計画されていましたが、奥様が亡くなると後を追うように逝かれ帰郷は果たされませんでした。ふるさとは遠きにありて思ふもの、と歌われてはいますが。
返信削除