2013年10月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第42話 八丈島の盆踊り


 第42話   八丈島の盆踊り

 この話は、文化文政時代(一八0四~一八三0)の頃と云うから、約二百年前の江戸幕府も終りを告げよう、とする頃であろう。
 その頃、佐喜浜の浦には井筒屋と云う大層な長者が住んでいた。この長者の持ち船で、百石積みの住吉丸には三人の船方が乗っていた。船頭は室戸から養子に来たと云う松本亀作、甲板員は米倉の安七、賄夫《かしき》は甲浦の二宮清三郎であった。三人はそれぞれ妻子持ちで、妻子可愛さに毎日せっせこと働き者で、上方(阪神)通いに余念がなかったと云いう。
 
 今日も又、根丸の浜では、山から伐り出した保佐《ぼさ》(薪)を船に満載して、日和を押して出港した。
 住吉丸を送る妻や子らは、白い帆が見えなくなるまで見送っていた。夜の帳《とばり》が包み始める、と家族は金毘羅宮に急ぎ灯明を捧げ海上安全を祈った。
 その晩、何時《なんどき》か南風《はえ》が吹き始め、しだいに大時化《おおしけ》となった。しかし夜が明けると、時化は去り空は晴れていた。沖は静かで、遠い阿波の山並みの頂きに、嵐を運ぶ雲がぽっかりと浮かんでいた。
 その日は過ぎた。三日経ち、四日経っても船は帰らない。一月待っても、一年経っても、恋しく懐かしい夫や親父は、神仏への祈りも虚しく戻ってはこなかった。
 
 当の住吉丸は「鳥も通わぬ八丈ヶ島」と、歌に詠われる八丈島へ、三日三晩漂流のすえ、船頭の亀作も清三郎も、そして歌好きの安七の三人は食い物も飲み水も尽き果てて、なお命だけは取り留め、無事漂着していた。
 八丈の島民たちは、漂着した三人を「土佐のお流れさん」と云って親しく迎えいれ、庄屋が世話をする事となった。
 
 日が一日々経つにつれ、三人の心情は故郷に残る妻や子への思いがつのるばかりであった。そこで、船頭の亀作が「安七よ!清三郎よ!、一つ家の方を眺めて気晴らしをしようじゃないか」と二人に一計を持ちかけた。二人は直ぐさま話に乗った。
 それからと云うもの、三人は連日のように連れ立って庄屋の裏の日和山《ひよりやま》に登った。三人は「あそこらが家じゃろか、にゃー」などと、西の方角を眺めては大声をあげて泣いて、泣いて、泣き暮らすことを一日の仕事にしていた。
 
 それを見かねた庄屋の爺は、不憫に思って「土佐のお流れさんや、そんなに嘆かっしゃるな。今に佐喜浜へ帰らしまっしゃろ。八丈島と云うても、たかが日本の国の内じゃ。帰れんことがあるもんか」八丈島の米が豊作であらば、年貢米を納める年も数年に一度はある。それに便乗すれば帰られる、と慰めた。
 
 庄屋の慰めから幾月か経った。そして又、年に一度の盆が来た。盆には故郷の盆踊りを思い出した。一人が口説き、一人が囃子を入れ、一人が踊る。故郷の根丸の浜を偲びながら、月のある浜辺で踊り明かしていた。これを、ひそかに見ていた島民が「土佐のお流れさんが妙に楽しい舞を舞っている」と島役人の庄屋に訴えていた。間もなく庄屋から、三人に呼び出しがあった。これはてっきり昨夜の踊りで、お咎めがあろうと恐る恐る出頭した。

               絵  山本 清衣

 すると、庄屋は「お主ら三人は、ひそかに踊りを楽しむとは怪しからん。今夜からこの庭で、島民に踊りを教えてやってくれ」と命じられた。娯楽や楽しみの少ない離れ小島の八丈島に、土佐は佐喜浜の盆踊りが伝わることになった。
 
 そして又、日々は流れた。三人の家族等は、「住吉丸の三人は、どこかへ漂流難破して死んでしまった」ことと諦め、出港日を命日として葬儀を済ませていた。
 早いもので、三人の三回忌の法事に取り掛かていた。すると、そこにひょっこり三人が現れた。家族は吃驚仰天、幽霊が出たかと三人の足元を誰もが見た、足は付いている。ものも言う。法事の席が祝いの席に替わったのは云うまでもなかった。
 
 それから、十五六年の後のことである。八丈島の農夫が、船に牛を積んで相模国(現神奈川県)の横浜に渡っていた。船は夜来の大時化に遇い、舵を失い漂流、根丸の浜辺に漂着した、という。
 船頭の亀作ら三人は「八丈島のお流れさん」と親しく交わり、帰郷に向けたお世話をしたという。縁《えにし》とはまことに面白き哉である。
 
 「土佐のお流れさん」が伝えた、佐喜浜の盆踊りは、今、東京都無形民俗文化財として保存され踊られている。これを教えた土佐のお流さんの亀作、安七、淸三郎の名前は八丈樫立て地区の盆踊り創始者として伝えられているという。
                                                                文  津 室  儿
         

1 件のコメント:

  1. 先日、和歌山県太地町の順心寺に墓掃除に行きました。この寺には太地鯨方に関わった人々が眠る墓地があります。
    ふと小さな墓石を見ると、遠方から太地へ来た人の墓石でした。おそらく捕鯨の仕事でやって来た人でしょう。
    早速、記録して墓石の人の出身地の教育委員会にその画像を送ってあげたところ、大変喜んでの礼状でした。
    墓石には以下の内容が刻まれておりました。

    雲峰了閑信士
    尾州内海(愛知県南知多町内海)
    俗名
    南安兵衛
    文政十亥(1827年)四月十五日

    江戸時代の海の文化は全国的に交流があったのですね。

    ここでの内容では、災難を受けた先人による踊りがこのように遠隔地で花を開かせることができたとは、大功労ですね。

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