第58話 一木権兵衛
本名・一木権兵衛藤原政利《いちきごんべえふじはらのまさとし》は、元和《げんな》三(一六一七)年布師田(現高知市)に生まれる。弱冠十九歳にして、土佐藩百人衆鄕士から鄕士頭に進み、更に藩の奉行職・野中兼山の小姓となり、七人扶持二十四石を支給されている。
一木権兵衛が、野中兼山に抜擢されたのは権兵衛が発案し普請した水門、”権兵衛井流《ゆる》”が兼山の目に留まったことに由来する、という。
その水門とは、通常は水量の調節を行うが、河川の洪水など増水時には用水路の水門を閉め下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開き国分川に水を流し、上流域を浸水から守り、堤防の決壊を防ぐ仕組み、だという。
当時、土佐藩は基盤の強固拡大を図るために、開墾・灌漑・干拓・築港事業等を強力に進めていた。執政・野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中、布師田でこの灌漑”権兵衛井流”を目にして驚き、村人に誰の普請か問いただした。
兼山は、呼び出された権兵衛に如何なる考えで、この水門を造ったか、を述べさせた。権兵衛は、上記に記した機能を考えて普請したことを兼山に伝えた。その考えは、兼山が山田堰から多くの用水路を造る計画の中で考えていた仕組みと正に符合するものであった。 この権兵衛の発想の豊さ、井流がみせる技術力の確かさを見抜いた兼山は、権兵衛を鄕士に取り立て自らの小姓とした、という。これが権兵衛が兼山に大抜擢された由来だ、と言われる。
絵 山本 清衣
ここで寛文の「中普請」に付いて「室戸港忠誠伝(室津港の事)」よりひろう。
室津港の西側を流れる室津川の左岸の石垣を高く築き、川の増水の浸水を防ぎ港内を掘り進めていた。港口一帯の岩石を砕き、岩盤を掘り下げる工事には役夫の数は蟻が物を運ぶがごとく集まり、日々四、五千人が働いた。 工事の進む中、一木権兵衛の身に大きな難題が立ちはだかった。港口に巨大な三巌があらわれた。その巌には古来より浦人が、御釜碆《おかまばえ》(高さ九尺2.7m幅十間18m)・鮫《さめ》碆《ばえ》(高さ八尺2.4m)・鬼牙碆《おにがばえ》(高さ八尺2.4m)と名が付けられていた。浦人はこの三岩を人智の及ぶところ無しと恐れ、波間に出没しては船がよく座礁していた。しかし、この巨巌を除かなくば、内堀が掘られても用をなさない。
この三巌の破砕にかかり、数日後のことであった。役夫が使う石鑿《いしのみ》の破損がはやく、鍛冶屋を困らせたり、碆から落ちて怪我をする者が多く出始めた。そのうち、妙な事を口にする者が出始めた。ことに、御釜碆のこと。碆に石鑿を打ち込むと、血が出たとか、前日に破砕してあった所が、翌日行くと、元通りに治っていたとか、夜な夜な小坊主が五六人集まり、訳の分からぬ談義をしているから、声を掛けると一斉に居なくなる、といいます。この御釜碆には龍王様が宿っている、と役夫たちが口々に喋り仕事を怖がりだした。
そのような最中、藩主が東寺に参拝の途中、室津港の普請を御覧になるとお通りになった。その時、家臣の一人が一木権兵衛をあざけ笑いながらいった。「一木氏ご苦労千万、数ある忠勤、しかし、この様な大きな池を掘られて、さてこの池には鮒や鯉を飼われ釣り堀にしたらよろしかろう。拙者は遠路だから見物には来られないだろうが」と。声高に罵ったという。
一木神社記念碑には、以下のように記されていた。
一木権兵衛、力を尽すと云えども、三巌を取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中兼山に乞い三千人の増夫を得る。日々督責《とくせき》、槌鑿《つちとのみ》を以て推破すれど、依然として砕けない。却《かえ》って槌鑿を毀損《きそん》するのみである。
権兵衛退《しりぞ》いて以為《おもえ》らく恐らくは、これ三巌は神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴《さいかいもくよく》して天神地祇《てんじんちぎ》に誓って云った。この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕《さいこん》より血迸《ほとばし》り出て、数千人大朱に染み溱水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
さて、室津港の開鑿《かいさく》は数次にわたって修築が行われ、本格的な竣工をみたのは延宝七(一六七九)年六月であった。なお、この工事を延宝の堀り次ぎといって、港普請奉行は一木権兵衛であった。
神社記より。
野中兼山の失脚後も、一木権兵衛が室津港の難工事を成功させた時、延宝七(一六七九)年六月十七日夜、御釜が碆上に祭壇を組、一木家の定紋「丸に九曜」をあしらった紫の幔幕を張り巡らし、明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の太刀海神に捧げ、翌未明に切腹を果たし、自らの身体を約束通り海神に捧げた。
この行為は、一木権兵衛が野中兼山に対する恩義と忠誠のほかに、野中兼山を失脚させた土佐藩に対する痛烈な抗議の意思表示であったであろう。
室津港築港の口火を切った最蔵坊こと小笠原一学、中次ぎ普請を担った土佐藩家老・野中兼山、竣工にこぎつけた普請奉行・一木権兵衛の三氏に因って成ったことに、畏敬の念を表すべきであろう。
文 津 室 儿
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