第59話 岡村十兵衛浦久
岡村十兵衛浦久が羽根浦(現室戸市羽根町)の分一奉行《ぶいちぶぎょう》(分一とは、物品の課税・徴収・民政役人)として赴任したのは、元和《げんな》元年(一六八一)春二月であった。
十兵衛が、ここ羽根浦に赴任する前の寛文・延宝の頃の「日本災異志《にほんさいいし》」によれば、寛文九(一六六九)年「是歳諸国飢民多シ。諸国連年米穀実ラズ、且ツ去年ノ大旱魃ニテ民力労瘁ス」。延宝二(一六七四)年「是歳春諸国大饑饉ナリ。是歳春諸国大ニ飢エ餓死スル者街ニ盈《み》ツ三月ヨリ五月ニ至ルマデ…。阿波ノ若江郡渋川郡蔵人拾ヶ村(総人口四千九百十二人アリ)ノ内、飢エ者三千七百五十二人アリ…」と記されている。寛文・延宝時代の諸国の飢饉の窮状がうかがえる。
十兵衛は着任するやいなや、羽根村の庄屋・左近右衛門(檜垣左近右衛門)を呼び村内津々浦々を案内させ、民情を詳しく視察し、その惨状を救うのに心を砕いた。
日本災異志にあるように羽根浦も例外ではなく、餓死者は日を追って増え惨状は目を覆うばかりある。農民は相次ぐ凶作に泣き、漁民は時化がつづき漁に出られず不漁で浦人の生活は困窮の極みにたっしていた。
絵 山本 清衣
十兵衛が先ず取り掛かったのは、藩に願い出て、黑見のお留め山を明けてもらい(伐採許可)、松材を五万三百六十二本、保佐《ぼさ》(雑木)十八万四千三百十二束を仕成して上方方面に売り、銀八十七貫六八四匁余りを得ることができた。杣《そま》の日雇い賃、四五貫余りを差し引き、残り四二貫余りを地下人に用立てて、浦人の救済に充てた。
しかし、こうした努力も、自然の力の前では遺憾ともしがたいものがあった。十兵衛赴任後の天和の三年間も、災害や凶作、不漁はなおも続いた。言いかえれば、天和元(一六八一)年夏より秋にかけての風雨、洪水が相次ぐ、翌二年には生活苦に耐えかねて、室津浦の浦人は六二人が駆け落ち(他国へ逃亡)をし、浮津浦でも数十人が逃散《ちょうさん》している。
天和三年も暮れようとしたが、事態は好転の兆しすら現れず、売掛米代金返済の目処も立たず、十兵衛は藩と地下人の間の下級武士として苦悩の日々を過ごしていた。十兵衛は、幾度となく藩に浦人の窮状を訴え、藩の援助を願ったがはかばかしい返事はなく、年は明けて貞享《じょうきょう》元(一六八四)年となった。
もはや飢餓に苦しむ浦人を救う道は、藩の御米蔵の年貢米を施すより外はない、と判断した十兵衛は再三にわたり実情を報告して、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを藩庁に願い出た。
しかし藩は仕来りと掟を盾に、なかなか腰を上げない。古今変わらぬお役所仕事というべきか、藩から何の沙汰も無いまま数ヶ月がたった。その間にも浦人の苦しみは増すばかりで餓死者の数が増えた。今はこれまでと覚悟を決めた十兵衛は、庄屋檜垣左近右衛門を呼び、「後日重罰あるは必至であるが、事態を座視することはできない。私の一命に代えて今日の危急を救おう」と話し、尾僧の米蔵を藩の許可なく開いて、蔵米を餓死寸前の浦人に施し浦人を救済した。
御上の許しなく、藩の米蔵を開いた罪は重い。追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、心静かに事務整理の日を送った。一応の整理を終わった十兵衛は、庄屋、年寄り等を集めて事態の推移を説明し、その夜、藩主豊昌公に一人別れを告げ、役宅の一室において罪を一身に負って割腹して果てた。
時に貞享元年七月十九日未明であった。
浦人は慈父を失った如く嘆き悲しみ、羽根八幡宮の傍らに葬って、朝夕香華を絶やすことはなかったと伝えられている。
明治四(一八七一)年、羽根村組頭、地下惣代十数名が高知県庁に願い出て「鑑雄神社」として祀り、明治七(一八七四)年、正遷宮(正遷宮とは、神社の改築・修繕が完了して、御神体を仮殿から新殿に遷座すること)の儀を営んだ、と伝う。
貞享元年七月十九日未明、役宅の一室に於いて割腹し果ててより三百三十一年後の平成二十七年の今も、鑑雄神社は十兵衛さん、十兵衛さんと親しみ深く畏敬をもって祀られている。
室戸市史・高知新聞より
文 津 室 儿
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