2014年11月1日土曜日

 室戸市の民話伝説 第55話 幻の献上珊瑚

  第55話  幻の献上珊瑚

 我が国で、初めて珊瑚《さんご》の文字が記されている書物は和名類従抄《わみょうるいじゅしょう》である。この書物は平安時代中期に作られた辞書であり、承平年間(九三一~九三八)に、勤子内親王《きんしないしんのう》の求めに応じて、源順《みなもとのしたごう》が編纂したものである。
 さて、土佐には古くから左記のように歌われた俚謡《りよう》(里歌)がある。
  お月さん桃色 誰が言うた
   あまが言うた あまの口引き裂け
 又、
  お月灘桃色 誰が言うた
   海女が言うた 海女の口引き裂け
 この里歌の解釈に付いては諸説ありますが、拙子は、以下のように解釈したい。
 初めの句の発句「お月さん桃色」は、水面《みなも》に映る月が桃色に染まっている様子を吟じたもので、桃色珊瑚の豊さを誇張したものである、と思われる。
 二句目の「お月灘桃色」は、幡多郡大月町の月灘海域を指し桃色珊瑚が多く産することを吟じたものでありましょう。「誰が言った」か、との問い掛けに対して、「あまが言うた・海女が言うた」と答えています。前句の「あま」とは、女の子・良家の女児・幼子を指し、後句の海女は海に潜って魚介類や海藻等をとる女性であり、生業者が禁漁品を口にすることは無く、あま・誤植である!、と考えられる。
 なお「あま」とは土佐の方言である。(高知県方言辞典) 
 藩政時代から明治四(一八七一)年まで、珊瑚の採取は禁漁され厳しく取り締まっていた事が、「あまの口引き裂け」と、幼児の里歌まで禁じていた事で、計り知れよう。
 日本の宝石珊瑚は大別して、白色珊瑚・桃色珊瑚・赤色(血赤)珊瑚の三種類があり、日本人が最も珍重したのは桃色珊瑚である。
                         絵  山本 清衣
 土佐に置ける珊瑚の主要産地は、東は室戸半島周辺海域と西は足摺半島周辺海域である。室戸は赤色珊瑚が多く、足摺半島大月町月灘では桃色珊瑚が多く生息した。
 文化九年(一八一二)二月、元浦(現室戸市元)の庄屋奥宮三九郎が藩へ差出した口上覚えには、「勢子舟沖合い羽指の文丞が、下《さ》ヶ釣船でたまたま大ノ珊瑚樹差上候者ニ御座候由」『珊瑚に関する最も古い記録』(津呂捕鯨誌)より抜粋、また、南路志にも記述あり。 余影録には「室戸の人戎屋幸之丞が天保年間(一八三0~四三)に室戸岬付近に於いて釣りするに方り、偶々珊瑚の其の釣りにかゝるをみて、百方考案を加え、遂に創めて、珊瑚網を発見せしを、当時、藩政珊瑚の探採を禁じ之を使用することを得ず。後藩、其の禁を解くに及び、盛んに之が採取に従事し、従って一般に普及し、現今闔県《こうけん》(県下全て)使用する。云々(土佐資料)」と述べ、珊瑚網を創製した功績を称えている。参考資料・室戸町史・室戸市史下巻他
 以上、参考資料からして、初めて生業として珊瑚漁を始めたのは、室戸浦の住人、戎屋幸之丞である、と資料が語っている。
 はてさて、幻の献上珊瑚噺が生まれたのは、大正三(一九一四)年四月半ばの頃であつた、という。
 とある日、南新町後免の漁師・泉為太郎氏が、室戸岬沖海域の珊瑚の埋もれ礁《しょう》(珊瑚の生息域)、二十数カ所の内、白草《しらくさ》に山立てをして、珊瑚漁に掛かった。舟を潮流任せに打たせ四~五十分も経った頃、舟がぴたりと止まってしまった。為太郎は、初っぱなから海底《そこ》を掻くとは、何と情けなやと思いながらも、これも吉報の兆しと思い直して艫艪《ともろ》を取りだした。艪は、幅七寸(21cm)総長さ二十一~二尺(約七㍍)と、一般の艪よりは一回り大きく屈強な身体が求められたが、為太郎は小腕返しの艪捌きも鮮やかにこの艪を操った。
 四月と言えど、室戸路は限りなく夏に近く暑い。為太郎の顔から玉の汗が流れ出はじめた。時はどれほど経ったであろうか、そよそよりと四月の風が吹き始めた。その風に背を押されたのか、舟足が急に軽く早くなった。 為太郎は、底から網が離れたのを機に網を上げる。珊瑚礁は七~八十尋(約105~120㍍)の深さだ。珊瑚網を手繰り上げるには三~四十分掛かるであろうか、艪を押し網を浮かせて手繰り寄せ、そして又、艪を押して網を浮かせ手繰り寄せる。これを幾度となく繰り返すのである。屈強な漁師と言えど、大変な労働である。右舷に、柿渋で染めた麻の珊瑚網が、真っ赤に変わって大木の珊瑚樹を絡ませて上がってきた、という。
 それは、直径七~八寸(約22~3cm)、重さ四貫六百匁(17,194kg)の血赤珊瑚であった。
 これが大評判に成るのには、さほどの時間を要しなかった。来る日も来る日も毎日見物人が押し寄せた。為太郎は、珊瑚樹が余りにも大きすぎたので、家の中では置くところが無く、床の下の芋坪《いもつぼ》にゴザを敷いて中に入れ、見物人が来る度に芋坪から出して見せていた。
 所がある一夜、室戸町全域が豪雨に見舞われ、津照寺の本堂右脇が崩壊し、尚且つ本堂も崩壊の危機にあり、南新町、室津、郷の住民に全員集合との布告《ふれ》が出た。集まった住民は、御本尊舵取地蔵に雨の止むのをただただ祈った。その功徳か夜が白み掛ける頃には、豪雨も治まり本堂は無事であった。
 間もなく解散のふれも出、それぞれ家路に急いだ。その中には為太郎ももちろん居た。
 帰り着いた為太郎、何か嫌な予感がした。その予感は的中した。いつも珊瑚を置いてある芋坪を覗いてみる。珊瑚樹は一欠片の姿も無く、そこは蛻《もぬけ》の殻《から》だった。よくよく覗くと隣境の犬走りが掘り返され、大きな穴が芋坪に通じていた。
 為太郎が密かに描いた夢、この珊瑚で小皿を作り天皇陛下に献上することは、儚くつゆと消えてしまった。
 桃色・血赤珊瑚は、昔も今も人の心を引きつけて離さない魅惑の珊瑚樹である。

                            文  津 室  儿
                                      



2014年10月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第54話 四十寺山

  第54話  四十寺山

 弘法大師空海・幼名佐伯眞魚《さえきのまお》が、京の大学の学問に飽き足らず、延暦《えんれき》十一(七九二)年十九歳の頃より約五年間、山岳修験を続けた。 空海が二十四歳で著した戯曲「三教指帰《さんごうしいき》」には、自ら「阿國大瀧岳に躋《のぼ》り攀《よ》ぢ、土州室戸の崎に勤念《ごんねん》す。谷響きを惜しまず、明星来影す」とあり、室戸崎の洞窟「御厨人窟《みくろど》」や室戸山(現四十寺山)で虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》(この法は真言「真言とは大日教など密教経典に由来し、真実の意」を百万回唱えると、すべての経典を暗記できるという、ある種の記憶術である)を満行《まんぎょう》した、とされる。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の寺伝によれば、空海は大同二(八0七)年、嵯峨天皇の勅願《ちょくがん》を受け本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開基したとされる。 最初に室戸山 明星院 最御崎寺 通称 東寺が創建された場所は今の四十寺山山頂であり、そこに奥の院を残し本堂を現在地・室戸半島先端に移したのは寛徳初年(1044)の頃だという。
 寺院は元来勤行・祈願の道場であるから、山中の勝地を選んで建立された。一時期、室戸山にはお堂が四十堂伽藍《がらん》が点在した、という。このお寺の数に因み、この頃より室戸山が四十寺山と言われだした、と伝う。
 青年眞魚は、阿波の大瀧岳で虚空蔵求聞持法を勤修し、更にここ室戸崎を勤行の地と定めて来訪した。それは、今を去る千二百二十有余年昔のことであった。
 眞魚は時を惜しみて、室戸崎の巌頭に座禅を組み、又、ある時は四十寺山山頂の巨巌にて座禅三昧する。
 勤行の最適地と選んだ室戸崎であるが、実際に座禅を組んでみると、この地には沢山の天魔や地の妖怪が魑魅魍魎《ちみもうりょう》とした世相で勤行の邪魔をした。
 しかし、大宇宙は眞魚の勤行に応えて、明星(明星は虚空蔵菩薩の化身)が飛来し眞魚の口に飛び込んだ。この時をもって悟った眞魚は、名を室戸崎の空と海に因み空海と号した。この時のことを空海は、
「御遺告《ごゆいごう》」に「土左《とさ》の室生門《むろと》の崎に寂暫《じゃくせき》す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来たりて、菩薩の威を顕し、仏法の無二を現ず」といつて無二一体(眞魚という小宇宙と虚空蔵菩薩という大宇宙の合体)と成ったことを記している。

                        絵  山本 清衣

 仏教の教えは人間の為にある事を悟った空海は、初めて住人に目を向けた。してみると、この地の民百姓は天魔地の妖怪が百鬼夜行し苦しめられていた。
 ことに、崎山台地の字《あざ》西坊、東坊(現龍頭山 光明院 金剛頂寺 通称 西寺境内地)の椎や楠の大木の洞《うろ》には、沢山の天狗が住み着き災いを起こしては民を苦しめていた。空海は天狗と問答するや「火界呪(印相を結び、火焔が無限に放出する呪文)」を唱えて競い合い、天狗を遙か彼方の足摺岬に封じ込めた、という。
 この話を耳にした、四十寺山の麓の集落の農民は喜んだ。毎年、秋には収穫物を搾取され田畑を荒らすや、娘を強奪するなど妖怪・魔物を、空海の功徳によって退治して貰おう、と嘆願をした。
 空海は「それは、お困りであろう。拙僧でよければ」と願を酌んでくれた。
 空海は早速、加持祈祷の儀式に入り、印を結び、「大般若波羅蜜多心経」を天空に指でなぞりながら真言を唱えた。すると、金色の経典が突如天空に現れ、民百姓を泣かせ苦しめた妖怪・魔物たちは、たちまちその功徳によって、空海の手のひらに鎮まってしまった。そして空海はかつて四十寺山山頂の巌頭で座禅三昧した巨巌に押し込めてしまった。
 その四十寺山の巨巌は、高さ七八㍍、幅十一二㍍強あり、巨巌の表面には空海が閉じ込めた時の足跡が今なお遺り、閉じ込められた妖怪・魔物たちは、今に至るも生きているのか巨巌の中でも暴れているのか、巨巌は、年間数ミリずつ下方へ下がっており、「にしり巖」と名付けられている。
 その昔、四十寺山のお寺は山桜に囲まれ、桜寺と親しまれた、ともいう。
 今、四十寺山を取り巻く麓の青壮年たちが、四十寺山を往時の桜山にしようと「四十寺山桜美人《さくらびと》の会」を結成し、領家弘山に自生していた桜に「室戸桜」(大島桜と山桜の自然交雑種・新種)と命名し植樹して、市民の森づくりを目指している。

                        文  津 室  儿
         



2014年9月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第53話 鱏に嫉妬する女房

  第53話  鱏《エイ》に嫉妬する女房

 ころは、津呂浦の山田長三郎が土佐の鰹《かつお》一本釣りを創始した寛永十八年(1641)というから、かれこれ三百七十有余年の往年のことである。
 長三郎は、藩の許可を得て坂本集落に立岩崎という小字あり、そこに岩礁の窪地を利用して船曳場(山田港・坂本港と云ったが、今は無い)を設け、二艘の鰹船を造り鰹漁を始めた。
 その約七十年後の正徳五年(1715)、六代藩主山内豊隆公が参勤交代の帰路、室戸岬沖で暴風雨に遭い難船した。その時、長三郎の子・喜三衛門がこの船曳場から鰹船を漕ぎ出し、無事に御座船の藩主を助け、山田家は山内家の家紋、土佐柏紋入りの大盃と一文字家紋を拝領した。
 この様な歴史背景を持つ坂本集落に、良吉《りょうきち》と夕《ゆう》という、仲睦つましい夫婦が漁師を生業《なりわい》に暮らしていた、だが子供には恵まれていなかった。
 満月の晩、良吉はお鼻《はな》(室戸岬)の高巖《たかいわ》の西沖の埋もれ碆《ばえ》、ヤゴスケの礁《しょう》へ夜釣りに出かけた。それは其れは、月の綺麗な晩だった。この夜は、幾ら釣り糸を垂れていても当たりが皆目無く、ふと漁師仲間の諺、「満月の夜は何も釣れない」と云っていた事を思い出しながら、最後の一糸を垂れた。
 すると、遥か沖合いから水面《みなも》を仄《ほの》赤く染め、六尺(1.8㍍)四方はゆうにある物が良吉の舟に近づいてきた。
 良吉は間もなく、釣り糸に強く重い手応えをおぼえた。 獲物をやっと舟に引き揚げる。そこには、今までに見たことも無い巨大なアカエイであった。 
 良吉は、エイをカンコ《船倉》(漁船の生《い》け簀《す》)に無理やり入れ、帰り支度にかかった。
             絵  山本 清衣

 すると、良吉の背中に何か柔らかい視線を感じた。振り返ると、エイがカンコの中から円《つぶ》らな瞳で良吉をじっと見つめていた。「何が言いたいのか?」誘うように、良吉を見る目は乙女の瞳だった。
 「良吉は、抑え難い気持に陥った」
 良吉は我知らず、エイを抱きかかえると、いっそう愛おしくなった。
 「自分の胸の中にいるのは、エイでは無い。乙女子だと幻想を抱く」良吉は夢のように酔い、ふたたび乙女子を力一杯抱きしめると、交合し合い我がものにした。
 
 老漁師曰《いわ》く、神代の頃より「エイの隠し所、特にアカエイは人間の女性の隠し所と良く似ている」と言われしとや。
 
 良吉は、乙女をいくら愛おしく愛らしく想っても、家には恋女房の夕が居る。連れては帰れない。今夜のことは、一夜の秘め事として他言しないと誓って、乙女を愛おしみながら船縁《ふなべり》から海に放した。
 月は少しずつ欠け、十六夜、立待月、居待月、寝待月へと移りながら新月を迎えた。良吉は、乙女と契りあった夜の事は新月の頃には薄れかけていた。
 しかし又、月は満ち始め、三日月、上弦の月、十三夜、小望月と満月が近づくと良吉は気もそぞろで落ち着かなくなった。
 良吉は夜ごと、山田港の東の繁盛ヶ谷の高岩から遥かな海原を眺める日々が続き、満月の夜は疲れ切って帰ってきた。
 又、月は満ち欠きを楽しむかのように移り、満月の夜が来ると良吉は繁盛ヶ谷の高岩へ急ぎ、しばし乙女と深い愉楽の世界に浸っていた。
 いつしか、良吉の行動を訝しく思った女房の夕は、良吉の後を追った。夕がそこに見た良吉の姿に唖然とし。獣姦は耳にすれど魚族と交わるとは、犬畜生にも劣る、と嫉妬心に燃えた。夕が夫に、三下り半を突き付けたのは言うまでも無かった。
 あの、仲睦つましい夫婦の突然の離婚は、小さな集落に広まるのにさほどの時間は掛からなかった。同時に良吉とアカエイとの交わりは瞬く間に広がり、漁師仲間を喜ばした。 思春期を迎えた小若い衆達が、色欲に溺れないよう導く道具立てとして、アカエイとイソギンチャクを利用した、という。
 
 この噺は、津呂浦の漁師仲間が昭和初期まで、兄若い衆が大人への登竜門と云って、小若い衆に”筆おろし”を強要した実話擬きである。

                         文  津 室  儿
         



 

2014年8月1日金曜日

室戸市の民話伝説 第52話 クジラとイノシシ 

   第52話 クジラとイノシシ

 これも又、それはそれは昔の噺よ。土佐の国では、昔から十一月七日は山の神様のお祭りで、猟師《りょうし》や木樵《きこり》は決して山に入ってはならなかった。
 この日は、神様が春に植えた木々を虫食いや立ち枯れがないか、木の状況を一本一本調べて回る忙しく大切な日であった。山に居ると、人でも何でも、間違って木と一緒に数え込んでしまうからだ。
 この頃、土佐の山、ことに室戸の山にはクジラが多く棲んでいた。ある年の十一月七日のお祭りの日。山の神様、朝から晩まで忙《せわ》しのう木を調べておられた。「兎山《うさぎやま》の木も今年は立派に育ち、狸山《むじなやま》の木も上々や。はてさて、鯨山はどうだろう」と山の神様、ほくほく顔で鯨山まで来なさった。
 すると、どうだろう。木という木が根こそぎ横倒しになっていた。まるで嵐にでも遭ったようだった。
 「こりゃ、いったい何としたことだ。クジラ、クジラよ、お前また大暴れしよったな」 神様は、えらい怒って云うたそうな。
 すると、クジラが小さな目に涙をいっぱいためて云うには、
 「こんなに図体《ずうたい》が大きくては、アクビ一つで木の枝は折れるし、クシャミ二つで木が飛び、体を動かすと山は崩れ、谷を埋め、どないもこないも・・・!。えらいすまないことです」と、あまりクジラが泣くもので、これには山の神様もほとほと困ってしまった。

           絵  山本 清衣

 山の神様は「そうか、そうか・・・!おお、良い事があるわい。ひとつ海の神様に頼んでみよう」
 そう云って、近くの一番高い山に登り、大きな声で海の神様に呼びかけたそうな。
 「おおい、海の神様よー。儂《わし》んとこのクジラ、お前様の海で預かってくれまいかのーー」
 すると、しばらくして、遥かかなたから、海の神様の声が。「おお、良かろう。なら、ちょうど良い。こちらも一つ頼みがある。儂んとこのイノシシは、泳ぎが下手で餌が取れず、何時もひもじい思いをしている。ただ魚を追い回すばかりで困っている。お前の山で預かってくれまいかーー」
 この頃、イノシシは海に居ったそうな。
 こうして海と山の両神様が相談をしてのー、クジラとイノシシの棲み場所を取り替えっこしたそうな。
 所が、山に上がったイノシシ何を食べたら良いか分からず、山の神様に尋ねた。
 神様が云った「イノシシよ、お前様は海の中で何を食べていなすった?」
 「俺は海蛇《うみへび》が大好物で、三度三度の食事には逃さず食べていた」と応えた。
 山の神様は、「おお、それなら山には海蛇に似たマムシが居る。それを食べなさい」と告げた。
 それ以来、イノシシはマムシを見付けると大喜びをして、そのマムシの回りを七廻りぐるぐる回って、食べるようになったそうな。
 一方、クジラは大海原に出て大喜び。あちらこちらへ魚を追いかけまわしていた。
 ある時、クジラがシャチの群れを追い掛け回しているのを神様が見付けました。
 その頃、シャチの口には簾《すだれ》のような髭《ひげ》で出来ていて、小魚を濾《こ》しとって食べていた。
 海の神様はクジラの大食いに呆れ、何時もひもじい思いのシャチが可哀想になり、シャチの髭とクジラの牙《きば》を取り替えてしまった。 そして、神様はシャチに「もしもクジラが海で暴れる事があれば、襲いかかって傷めつけてやれ」と命じました。
 この時以来、クジラは以前のように暴れる事もなく、小魚を濾《こ》しとって食べるようになってしまいました。
 クジラは時折、砂浜に打ち上がり身動きがとれない事があります。あれは、かつて棲んでいた陸が恋しくなって、山に帰ろうとしているのだそうです。

                        文  津 室  儿
         


 

2014年7月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第51話 猿の尻尾

   第51話  猿の尻尾
 
 これも又、昔々の噺じゃあ。
この噺の頃、日本猿《さる》の尻尾《しっぽ》の長さは六十尺(18㍍)もあったそうな。猿はもともと知恵者《もの》であったが、猿蟹《かに》合戦では蟹をいじめ殺したり、海月《くらげ》は猿に嘘をつかれ、乙姫様に骨を抜かれてしまうなど。その知恵を悪いことに使いはじめたため、神様の怒りに触れ、今に少しずつ短くなっているという。
 ここ三津の里に、お握りの形をした小高い里山があり、その名を丸山といいます。そこには北明神神社が鎮座まします。この明神様に守られながら、若い猿の家族と川獺《かわうそ》の家族が仲良く暮らしていました。 ふだん、猿は川獺の食事にさほど興味を示さなかったが、ある日のこと、川獺が社《やしろ》の前のスマシロの磯で捕った魚やオクボ貝(陣笠貝)を岩の上に並べて、美味しそうに食事を取っているのを見て、羨ましくてたまらなくなった。
            絵  山本 清衣

 猿はある日、川獺に「川獺殿、どうしたらそんなに魚や貝が捕れるのかい!」と、尋ねた。 川獺は真面目な顔をして、猿殿に捕り方を教えた。 
「猿殿、あなたは潜れないから、その長い尻尾を海に垂らして、ピクピクと動かしていれば、魚やオクボ貝はひとりでに食いついてくるさ。その時、尻尾を引っ張り上げれば、幾らでも捕れるよ」と、教えられた。猿は、「これは良いことを聞いた」ぞと、早速その夜、岩の上に腰を下ろし長い尻尾を海の中に垂らし、魚や貝が食いつくのを待った。
 しばらくすると、尻尾をピクピクと引くものがあった。猿は、「雑魚《ざこ》が一匹食いついた」と喜びながら、
  小さな雑魚はあっちへ行け、やんやさあ  大きな魚はこっちへこい、やんやさあ 
と、歌いながら大物をじっと待ち続けた。
 すると、今度は前よりも強くピクピクと尻尾を引いた。
  「今度は二匹食いついた」
  「又々来たぞ、今度は三匹だ」
と、喜びながら尻尾を引き上げる適時を見計らっていた。
 一方、海の中では、オクボ貝達が集まり、ふだん見慣れない物が岩の上から垂れ下がっている。触ってみるとふわふわとして柔らかい。これは面白いぞ。皆に触ってもらおうや、と話し合い三津中のオクボ貝に声を掛け合った。集まったオクボ貝は、いっせいに猿の尻尾にとりついた。
 猿は、尻尾がピクとも動かなくなったのを大物が掛かった、と勘違い。
 「さあ、今が上げ時」だと、尻尾に力を入れて「うん」と引き上げたが、尻尾はひたりと岩に張り付いて離れない。
 猿は「ははあ、こりゃ大物が掛かったわい」と、喜んだ。
  真鯛《まだい》が釣れたか、やんやさあ
  鰤《ぶり》が釣れたか、 やんやさあ
と、歌いながら顔を真っ赤にして引き上げにかかった。が、尻尾はびくともしない。
 さすがに猿は慌てて、尻尾の周り見ると、オクボがびっしり山のように張り付いている。驚いた猿は、「オクボ女郎やオクボ殿」私しゃ家《うち》には子供も居れば親も居る。どうか、離してくだしゃんせ。
  真鯛もいらない のいてくれ 
  鰤もいらない  のいてくれ 
  オクボ女郎は  なおいらぬ
   ひょういどっと ひょいどっと
と、泣きながら歌い、尻尾に力をいっぱいいれ「うん」とばかりに引き上げた。
 するとなんと何と、猿の尻尾は根元《ねもと》からプッツリと切れてしまった。
 猿の尻尾が短く、顔が赤いのは、この時、全身に力を入れて気張り過ぎたから、一方お尻が赤いのは、お尻を岩に擦りつけていたため、毛が抜けてしまいこの日から赤くなってしまったたそうな。
 この噺は、三津の百合さんと八重さん姉妹が、夜ごと母親から聞きながら眠りについた、と教えてくれました。
                              文  津 室 儿

          

2014年6月3日火曜日

室戸市の民話伝説 第50話 銭ひり馬

  第50話  銭ひり馬

 これも又、昔々の噺よ。
 元《もと》村は向江集落に二人の兄弟が居った。父親は死に、母親がひとり残っていた。
 昔の元村の習慣は親が歳を取ると、父親は長男に付き、母親は次男に付いて、そのとき親の財産は等分に分けて暮らしていた。
 ところが、この噺の弟は、まれに見る極道の性悪で始末が悪い。みるみるうちに、その財産を使い果たしてしまい、どうにもこうにも暮らせんようになった。
 そこで、弟は兄の家へ行き「あにさん、ひとつすまんが、馬を一匹買うてくれんかよ!。駄賃馬引きでもするき・・・」と、頼んだ。
 兄は、「おんしを、なんぼみちゃっても、ひとつも働かんじゃいか。おらに又、馬を買わせて、売るつもりじゃろが」と、いった。
 弟は、「そんなこたぁしやせん。そんなことしよったら、自分が喰ていけんきに、真面目に仕事をするきに」と、懇願して、兄に馬を一匹買わせた。
 初めのうちは、駄賃馬引きをしてコツコツ働いていたが、じきに極道の性分がでて、仕事はせん。馬にハミ《飼い葉》もやらずに遊びほうけている。
 馬は、もう何時ぞからハミをもらえず、痩せて倒れそうになっている。
 弟は、自分の持ち金が一銭も無くなり、母親に「かかやん、金を貸してくれんかえ」と。
 母は「金が何処にあらあ、お前にボツリボツリ出して、一銭も無いが」といい放す。
 弟、「こんどら倍にしてもどす。もっちょるばぁ、貸してくれ」
 母「また、嘘じゃろが・・・」
 弟「嘘じゃない。ほんまに戻すき、ひとつ」
 母「ほんなら、もうこればぁしかない。これがありきりじゃ」言うて、母親が財布を出したところが、二銭銅貨と一銭銅貨を取り集め二円あった。
 弟は、「そうか、そうか。それをかかやん、四円にして戻すき」というた。
 その二円をどうしたかというと、藁《わら》で袋を作り、二円の銭をみな入れると、糠《ぬか》をどっさりいれて、馬に喰わした。
 馬は、腹が減っておるもので、少々硬い物が入っていても、残さず喰てしもうた。

              絵  山本 清衣

 弟は、してやったりと明くる日を待ちかねた。夜が明けるや否や、厩《うまや》に回って糞《ふん》をするのを待ちかねていたら、待望の糞が出た。
 糞は一杯出ている。こりゃ、占めたと思うやいなや兄やんの所へ走った。
 弟「兄やん、ヘンシモ来てくれ」
 兄「どいたら?」
 弟「どうもこもない、来てみりゃ分かる」と言うて、兄をひっぱってきた。
 弟「兄やん、何ぞ棒切れでも持って入ってくれ」
 兄「どうすりゃ」
 弟「まあ、その糞を崩《くず》してくれ、おらんくの馬は、銭を放《ひ》ったきにゃ」
 「えっ」と、兄が糞を崩してみたら、銭が出てきた。
 兄「ほんまじゃにゃ、こりゃ」ここにも一銭、あそこにも一銭と、集めたのが二円。
 弟が、パッと手をたたいて「兄やん、これで儂《わし》ゃ、もう迷惑をかけんでもすむ。儂が、兄やんくへ行くたびに、姉さんから、又かというような目つきで睨められて、辛い気持ちじゃった。恩を受けながらも、あんまりえい気持ちはせざった。日に二円じゃったら、月に、六十円か!それで年に七百二十円、これじゃったら、儂ゃ充分食える・・・・・!」
 兄は、弟の喜ぶその顔を見ていると、その馬がじいーっと欲しうなった。
 兄「弟、おらにその馬、売らんか」
 弟「売ってくれち、そりゃちいっと無理じゃないか。貧乏のどん底に落ちて、兄やんにも世話をかけちょる。恩返しもせにゃいかんが、今馬が二円ひりだして、その馬を売ってくれいうがは、ちと無理じゃないかよ。値をするいうたち、値になるかよ」 
 兄「まあ、そないに言うな、一つ、おらに分けんかや」
 弟は、しばらくじいっと考えていたが
 弟「兄やんが、そない言うなら仕方が無い。ほんなら売ろう」
 兄「なんぼにしてくれらぁ」
 弟「五十円にしよう」
 兄「そりゃ、ちっと高い」
 弟「高いち、年に七百二十円も放るがじゃも。それを考えてみい」
 兄「うん、それもそうじゃのう。よし、五十円で買おう」
 弟は、ようよ兄の家まで歩いて行くような馬を五十円で売った。
 弟「かかやん、うまいことやったぜ。四円借りていたけんど五円もどす。これでまぁ、当分楽に喰ていけるけん」言うて、呑気に過ごしていた。
 兄に馬を売って、三日ばかり過ぎたであろうか、兄が飛んで来た。「居るかえ?」
 弟「居る」
 兄「居るち、おんしゃ、ありゃ放らんが、銭を」
 弟「銭ち、馬にいったいどんなもん、喰わしよるぞこんた《お前》は」
 兄「藁《わら》と糠《ぬか》と芋《いも》と、それに豆腐の玉を喰わしよる」
 弟「ああ、そりゃいかん。三日に一遍、藁を一束ばぁ放り込んじょいたらええ。糠じゃ豆腐じゃいうて、喰わしてたまるか。それで馬が銭を放らなぁよ」
 兄「そうか、その関係じゃろか」
 兄は、弟に言われた通り、馬鹿正直に馬に喰わさざった。
 兄が五日ばぁ経《た》って、弟の所にやって来た。「弟、居るか。あの馬死んでしもうたが」  弟「死んだか!。惜しいことしたのう、こんたが売れ売れいうきに売っが・・・・・!こんたも五十円の損、儂しゃぁ何んぼの損かわからん、仕方が無いのう諦めえ災難じゃ」言うて、
 弟小声で「銭を喰わさずに放るわけ無いは、と言って兄を煙に巻いたという。


                          文  津 室  儿

2014年5月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第49話 奈良師の三兄弟

  第49話  奈良師の三兄弟

 これも、とんと昔の噺よ。
 奈良師の里に、おとどい《兄弟》三人が土方《どかた》をしながら暮らしよった。
 ある雨の日、一番下の弟が「こう長雨が続いたら、仕事も出来ん。わしらぶらぶら遊びよるわけにゃいかんが、どうじゃろ。高知へ働きに出てみんか!高知は築城で景気がえい言うじゃいか!」というと、二人の兄も「そりゃええ」と同調して、御城下へ出た。
 先ずは、町の様子を見ようと歩いておると、大きな家があって、立て札がたっちゅう。
 立て札には「この家は、代々長者の家である。ところが、どうしたことか、次々と、家の者が行方不明になる。今、十八の娘が、ひとり残っているだけである。この家の不思議を解いた者には、家督を譲り、娘の婿にする。なお、詳しいことは、これより西へ三丁行った丸目という家へ来て聞かれたし」と、こうある。これを見た三人は「こりゃえいことがある。これへ一つ行ってみろか」と、その家へ行って話を聞いた。家の人は「謎を解いたら、約束通りのことをしてやろう。けんど、命が惜しかったら止めちょいたらえい。何しろ今まで、侍・浪人、武芸者やら、なんぼ行ったかしれんが、行ってもんたもんがない。お前らの若さで気の毒な、止めたらどうな」と、仕切りに止めたが、三人は「いや、今までは一人じゃった。けんどわしらは三人で行く。三人でやれんことはない」「そうか。そればぁ言うなら止めん。刀を貸しちゃるきに、持っていかんせ」三人は刀を借りて、その謎の家へ行った。そして大広間へ入って、四方山《よもやま》話《ばなし》なんぞしながら、夜が更けるのを待ちよった。

           絵 山本 清衣

 ところが、今で言うと夜中の十二時すぎのこと、床板がドロドロと鳴り始めた。耳を澄ましよると、ピカッと光って、一番上の兄の姿が見えんようになった。
 「こりゃ、どうしたことじゃ」と、夜が明けるまで探してみたが、どうしてもわからん。かというて、いぬることも出来んし、「今晩、もう一晩、来てみろう」という事になった。
 その晩も、同じ時刻にピカッと光って、こんどは二番目の兄がおらんようになった。
 そこで弟は、失敗の原因をよう考えた。
「ドロドロがきた。それから光る間の時間が、こればぁある。よし、その時じゃ」
 弟は、腹を決めて、もう一晩泊まることにした。ほいたら、例によってドロドロときたから、刀を抜いて、そこら当たり盲めっぽう振り回した。すると、何者かが大きな音を立てて倒れた。
 さて、一方、長者の家では「三晩目じゃが、もう気の毒に、生きちゃすまいのう」こう思いながら来てみると、弟が一人座りよる。たまげて当たりを見回すと、血が一杯散っちょる。
 さっそく庄屋さんに告げると、ホラ貝を吹いて、村の衆を集めた。
 そうして、その家の床の下を見ると、大きな穴があいちょった。この穴、どればぁ深いじゃろうか!と、穴に重しを降ろしてみた。ほいたら、七十五尋(一尋は1.50cm)もあった。「この下に、何ぞ居るじゃろか」「居るにかあらん。お前いてみい」「くわばら・・・くわばら・・・」
 みんなが尻込みをしよるうちに、弟が「儂《わし》が行く」と言いだして、モッコを作った。
大きな綱を付けたモッコに乗って、穴の底に下りていくと、そこには立派な住まいがあった。住まいに入っていくと、娘が居る。「大将はおるかのう!」と聞くと「夜前、外へ出て大怪我をして、休んじょります」と、いう。そこで、奥の間へ飛び込んで行って、襖《ふすま》を開けると大きな蜘蛛が八畳の間、一杯になって寝よった。「おのれ化け物覚悟しろ!」
 弟は、持っちょった刀でぶすっと刺《さ》すと、腹の中から、前に捕らえられた二人の兄が飛び出してきた。「三人は無事を喜びあった。 ところで、あの娘は蜘蛛の!・・・」と話していると、そこへ娘が出てきて「私は、ここの長者の娘で、捕らえられて来た者じゃ」と、言った。それを聞いた兄弟は、娘を真っ先にモッコに入れ上にあげた。次に一番上の兄、次の兄と上がった、が。一番下の弟が底から半分ばぁ上がってきた所で、先に上がった二人のおとどいが相談をした。「したの弟が上がってきたら、自分らの貰うモンが少のうなる。いっそ殺すか」「よし、やろう・・・」と、言うことになって、綱を切ってしもうた。たまるか、弟は真っ逆さまに下へうどみこんだ。
 弟は、七日七夜も落ちた。ドスンと叩き付けられたことで気が付き、当たりを見回すと青々とした野原じゃった。
 川がひとすじ綺麗な水をたたえて流れよる。「こりゃ、どこじゃろう。まてよ、親父はこう言いよったぞ。道の分からんくへいたら、兎に角川の流れにそうて下がれ言うて聞いた。
 弟が流れにそうて行きよったら、八十歳ばぁの、杖をついた総髪のお爺さんが、こっち向けてやってくる。そうして弟を見ると、驚いたように「お前、人間か」と問う。「わたしゃ、人間でございます」「どうしてここへ来た」実は、こうこうしかじかと一部始終を話し「ときにお爺さん、なんぞ食べるもんはないじゃろか」「食べもんか。そうようのう、ここから三丁ばぁ下へさがったら棚がある。その棚に籠が三つおいちゃある。一つは食べてもええが、二つは食べてはならんぞ」
「分かりました。おおきに、どうも」
 弟が言われた所へいてみると、なるほど籠がある。食べると旨い。腹が減っちょるき、じきに、籠の中の物をたいらげてしもうた。
 「ええっ、くそ。死んでもかまうか」
 そこにあった籠の中の物を、全部喰うてしもうた。所がたまるか、下から大蛇が角《つの》を振り立てて襲い掛かってきた。
 「こりゃ食われたらたまらん」と、刀を抜いて戦ったが、とうとう大蛇に巻かれた。けんど、刀の持ちようがよかったきん、大蛇はズタズタに切れてしもうた。そこへ、さっきのお爺さんがノコノコやって来て「おお、ようやってくれたのう。その大蛇にゃ随分と苦しめられよった。所でお前は家へ帰りたいか」と、聞くので「うん」と、頷《うなず》くと「よし、それなら帰してやろう。まず、大蛇の皮を剝げ。それから葛《かずら》を採ってきて、この中へ入れ」お爺さんは、弟を大蛇の皮に入れ、葛で縫うた。「さぁ、目をつむっておれ」こう言うて、川の中へポンと放りこんだ。
 ポコポコ、川を下る。何日下ったかーー。
 さて、話が変わって、一番上と二番目のおとどいは、弟を殺してちょうど一週間になる。墓参りでもしょうか言うて海辺へやって来た。所が、波打ちぎわに、何やら光るもんがある。おとどいが光る袋の葛紐《かずらひも》をとくと、中から弟が飛び出してきた。
 「こりゃたまらん、弟ぞ、さあ逃げえ!」と、上二人は飛び逃げて、何処へやらおらんようになってしもうた。
 そこで、弟が長者の家の養子となって、家督を継ぎ、裕福な暮らしをした、と言う。
 
                        文  津 室  儿