桑ノ木の三次さん噺
今から約百五十数年の昔、幡多郡・現四万十市中村に中平泰作さん。安藝郡・現室戸市佐喜浜には前田三次郎さんと云う、二人の奇人奇行剽軽者《ひょうきんもの》が、文化文政時代(1804~1829)の頃に生れた。この時代は日本の町人文化が最も栄えた時代であり、両雄は生れるべくして生れた、と云えましょう。
佐喜浜川に沿って二里半(約10㌖)ほど遡ると、桑ノ木という小集落ががあった。そこには前田三次郎さんと言う奇人奇行の剽軽者が暮らし、民話噺の種を沢山残してくれている。仕事は杣《そま》・木挽《こびき》きが本業であったが、野根山街道の保全・道の修繕や柴苅などを請負っていた。仕事に掛ける実直さは目を見張るものがあり、どの仕上がりも際立ち、誰の目おも納得をさせたといわれる。三次さんが残してくれた、幾つかの噺を披露致します。
一 猿の真似
さて、猿の真似の噺は三次さんが未だ若い時のこと、岩佐(岩佐の関所)の山の神、日吉神社の山祭りに招かれ、直会《なおらい》(酒宴)も終り、友達と家に帰る時のことでした。「おい相棒、オラは此処から木から木へと伝って家に帰る。一遍も地に降りずに帰ったら一升買うか!」これに相棒は吃驚《びっくり》したが、
「猿じゃあるまいし、木の上をどうしてオンシが一遍も降りずに家まで帰れるか!」と高を括って、よし一升買う、と賭けに応じた。一升と云うのは酒のことじゃ、と云うが早いか街道脇の椎の木に登った。三次さん「相棒よいか行こうぞ」と合図をして下の木の枝から枝へとまるで猿じゃ。木を揺すってその反動を利用して次々と、木を伝って、ぴったり桑ノ木口の我が家の側の川原へ降り立った。時間にして、およそ一時間余りであった、という。相棒の男、一升賭けてあるので三次さんに遅れまいと、下り坂を生爪《なまつめ》を剥すほど駆け降りたが、三次さんはとうとう地上へ降りること無く、猿の姿、様子をそのままに家に帰り着いた。とうとう酒を一升買わされた相棒。「三次という奴は何をするか分からん奴じゃ」と嘆き、一升賭けに後悔したと云う。
三次さんは時々猟師もした。その時の話、「猿を鉄砲で撃ったら。弾の当たらん奴は枝からすぐ落ちる。占めたと思って拾いに行ったら、逃げていない。弾が当たった奴は、木の枝にしっかりとしがみつき落ちてこない。そいつが当たっている証拠じゃという。また、朝早く猿が目を覚まして、水を飲まないうちなら、捕らえよいものじゃ。オラ四、五匹捕らえたことがある」この鉄砲の話は本当であろうが、猿の目覚めの水話は眉唾ものであろう、と囁かれた。
二 三次さんの川渡り
佐喜浜川は全長四里(16㌖)に足らない短い川だが、源流は野根山街道に至り、高低差は約千メートルに及び水の流れの速い川である。この川に、大正三年(1914)木製の橋が架かるまで、旅人やお遍路さんは大変難渋をした。人家三十軒くらいの根丸集落に木賃宿や遍路宿が十数軒ぐらい生計が立ったのは、この佐喜浜川の出水のお陰であったろう。「三次さんの川渡り」はこの頃の話である。
何しろ三次さんは変わり者。猪《いのしし》が川を渡る時、脇目も振らず一直線に渡ったのに倣ったのか、三次さんは川を渡る時、対岸に目標を定め、その目標に向って最短距離、一直線に渡る。自分の決めた目標より三十㎝外れてしまうと、元に帰って始めからやり直した。
それで三次さんの川渡りは、一度で済むやら、二度、三度、五度もやり直すやら、全く、いつ渡り終るか見当がつかなかったという。
そんな三次さんが、町へ用足しに来ていた。川端に来てみると、一人のお遍路さんが川を渡れなく困っていた。持ち前の侠気に富む三次さん『背負って渡してやるぞえ、お遍路さん』と声をかけた。お遍路さんは文字通り、渡りに舟と喜び、三次さんの背中に負ぶさった。背負われたお遍路さん「三次さんの川渡り」という、一癖のあることは知る由もない。三次さんは、お遍路さんを背負って向こう岸へ渡るのには渡ったが、予想外に流れが速く、目標から大分下流に着いてしまった。三次さんは『お遍路さん、降りんとうせよ、妙に気色が悪いきに。もう一遍やり直しをやるきにのし』少し分かりにくい方言であるから、お遍路さんは無論納得がゆかない。無理に背中から降りる分けにもいかない。三次さんが、二度、三度と渡り直しをした。背中のお遍路さん恐れ入って、「もうこのへんで降ろして下され、三次さん、勘弁して下され」と悲鳴をあげ泣き出したと云う。
異説に、三次さんは、何度渡り直しても目標に到着できず、延々と渡り直した。遍路さんは「もう何処でも良うございます。降ろして下され、と泣きだした」という。そこで三次さんは、遍路さんを背負った元の出発地点に戻り、降ろしたという。
三次さん噺、次回に続きます。
文 津室 儿
絵 山本 清衣
無断転載禁止
地図を見ますと、桑の木は佐喜浜川の奥深く、今はおそらく人家がないのでは。当時もそんなに人が多くなく話が見えにくかったでしょうに、川沿いに伝わり、人々の話題にのぼり、今も懐かしく語り継がれるということは、どんな面白い雰囲気の人だったのかと思われます。二十三士が唐丸かごに入れられて岩佐の関所前を護送されていくとき、木下兄弟と川島惣次を見送る三次氏の気持ちは如何だったのでしょうか。旧岩佐村は地況をみると田野や野根に行くよりも、「岩佐の清水」そばを降りて段地区に繋がるのが近いようですが、土佐藩の重要な関所であれば、仕事は田野奉行所の一翼のようなものではなかったのでしょうか。で、岩佐村の人々の文化交流など実際はどうだったのか、推測するとはるかに楽しいことです。ぴんとはずれのコメントをさせていただきました。
返信削除植松樹美 様
返信削除三次さんへのコメントを有り難うございました。
私の知る限りの、三次さん噺が暫く続きす。お楽しみ頂ければ幸いです。
今後とも宜しくお願い致します。
儿