室戸市・津呂港開鑿《かいさく》のあらまし
最蔵(勝)坊こと小笠原一學は、島根県・石見国(銀山)の出身。戦いに明け暮れる戦乱に無常観をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を辞任し、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を巡礼し、一国一ヵ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。
最蔵坊が六部姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を嘆き、再興した。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を目にした。凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、最蔵坊は津呂港の開鑿を自ら企画した。
当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。時の土佐藩執政野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組み、工期は七十一日間という驚異的な突貫工事で竣工した。三年後の元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
最蔵坊の土木技術は、石見国小笠原氏は祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴吹《たたらぶ》きなど「土木工事と冶金・工具」や銀の積出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
尚、津呂港・室津港間の距離、僅か四㌖内に二つの港の必要性に付いては、津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、気象よる波高・風速などの変化に対応し、避難港の役目を三百九十二年
後の今も果たし続けている。
室戸市の基幹産業・農水産業を顧みれば、農業は約四百年前に入植した崎山段丘、また、二百年前に入植をした西山段丘に農地の拡大を図り、温暖な気候を活かした促成・抑制栽培を確立し、今に至っている。
漁業では約四百年前に始まった古式捕鯨に辿り着く。そしてカツオ漁、マグロ漁へと変遷を重ねてきた。あたかもそこに鯨がいたから、魚がいたから漁業が始まった、と誰しもが思い、当り前のことだと思っていた。
その思いが一変したのは、室戸ジオパーク推進協議会の発足による。「時間をかけて成長する付加体形成や地震による隆起、大地の誕生を目の当たりにできるのは世界的に珍しい。そこが室戸である」と海洋地質学者が話してくれた。要は地質の動きによって室戸半島が形成され、たび重なる南海地震に起因する地殻変動が海成段丘を形成した。
海から続く段丘に遮られた海洋深層水は湧昇流となり表層に富栄養を運び、魚群の食物連鎖を形づくり、一大漁場・宝の海を生んだ。今以て室戸市民は、太古より地質・地形が育んだ大地の恩恵を受け続けている。
海面位置の推移
永禄八(1565)年 紀貫之の頃・海面は今より、6.0m~8.0m上だった。
天正九(1581)年 この頃の海面は今より、約1.8m上だった。
慶長九(1604)年 二月三日午後十時・慶長の大地震 地盤上昇不明
津呂・室津で400人死亡 人口の半分
宝永四(1707)年 宝永大地震M8.4 2.0~2.5上昇
津呂・室津で1844人死亡
延享三(1746)年 大地震で加奈木大崩壊 地盤上昇不明
宝暦五(1755)年 この頃の海面は今より、1m上昇
天明二(1782)年 この頃の海面は今より、約0.9m上だった。
寛政元(1789)年 地震あるも津波無し。 地盤上昇不明
天保三(1832)年 津呂港・室津港津波で破壊する。
天保八(1837)年 大波(津波?)で津呂港・室津港大破壊
嘉永六(1853)年 津波のみの記録
安政元(1854)年 安政の大地震 室戸岬1.2m隆起
昭和二十一(1946)年 南海地震M8.1 津波3m 隆起0.9m~1.2m
海面の位置は大雑把に云って、約 m上にあった。
以上、室戸を襲った南海地震は、両港の浚渫を余儀無いものとした。
多 田 運
参考文献
最蔵坊小笠原一學について
山本 武雄
室津港の移り変わりと年表
(1565~1985)
津室さま、17日コメントに返していただきありがとうございました。よく調べておられることと感嘆しております。多田運様作成の年表の冒頭ですが、紀貫之の時代となると彼が土佐から京に帰ったのは承平四年(934年)から五年にかけ、その航程にしたがって土佐日記は書かれています。そのころは東灘海岸は相当低かったのでしょうか。佐喜浜に舟場といる集落がありますね。大野家源内で名が知られている城山の西ふもと、唐の谷の入り口に広がっていると思いますが、紀貫之が沖を通ったころ、このあたりまで海がきていたのではと推測したいのですが。加奈木のつえは一度だけ見たことがあります。崩壊によって、川に流れた大量の土が川底をあげてしまい、山沿いの集落を変えてしまったのでしょうか。想像はつきません。これからも読ませてください。のんびりお願いします。
返信削除度々コメントを頂き、嬉しく拝読を致しています。今後とも忌憚の無いコメントを希望致しています。
返信削除さて、紀貫之朝臣が土佐の国司の任を終え、帰京に向かって千年強を経ました。植松様、仰せの通りだと存じます。地質学の先生の言葉をお借りすれば、承平の時代より現在は、約十メートル隆起している、と云って良いとのことです。
東洋一の崩壊「加奈木のつえ」を思い出させて頂き、有り難うございまた。ここに、加奈木の崩壊を村人に伝えた姉妹の噺がありますね、忘れる所でした。いずれは、民話伝説に書き留めます。 今日はこれにて失礼。 儿