名沖配・竹蔵と銛の達人・森之丞
寛政十二年(一八○○)というと、伊能忠敬《いのうただたか》が、後に世界に誇る「大日本沿岸海輿地《よち》全図」作製の為、蝦夷地《えぞち》(北海道)に測量に向った年である。その後、文化五年(一八○八)四月、六十四歳で四国に入り、二十一、二、三の三日間、室戸路を測量している。
この頃、竹蔵は奈良師に生れた。竹蔵は浮津組(他に津呂組あり)頭元《とうもと》・宮地組に属し、何時の時代に何歳で羽差《はざし》となり、沖配《おきはい》となったかはっきりしない。(羽差・沖配とは、古式捕鯨の役割名であり、沖配に正副二名。羽差各船一名、計十二、三名。網方、漕ぎ方総数約三百名で一船団を組織していた)竹蔵が沖配に昇格したのは、恐らく嘉永元年(一八四八)、五十歳頃に沖配になったと思われる。
竹蔵が沖配に昇格するや、年々歳々大漁が続いた。しかし、追々に老齢に及んだため、土佐藩(この頃、捕鯨は藩営)に後任者を推薦して隠退した。所がその後、不漁が続き藩は困り果ててしまった。藩の鯨方総裁は竹蔵を再び沖配に命じた。ところが不思議と豊漁がつづいた。竹蔵は再び隠退をした。しかし、彼が隠退すると又も不漁となり、如何とも為す事が出来なかった。藩は竹蔵に三度目の復職を促した。しかし、竹蔵の家族や親戚は、三度復職をして幸いに大漁を得れば名誉なるも、万一不幸にして所期の漁事を得ない時は、これまでの名誉も一朝にして水泡に帰してしまう、との理由で強硬に復職を反対をした。しかし、本人竹蔵は敢えて意に介せず、自分が復職をすれば必ず豊漁して見せるであろう、と断然諸人の忠告を退けて復職をした。
当時老齢に達していた竹蔵は、終日沖に出ることが出来なかった。その為、鯨方は納屋船と云う背子船一艘を新造した。舳船《へさき》には茶筅《ちゃせん》をあしらい、艏《みよし》には左右一対、海の守り神・「龍神と子持ち筋」をあしらい、右舷左舷の両舷に半菊模様と鯨のミホトと乳房(鯨の繁殖祈願)を図案化して描いた。どの背子船より美しい、「竹蔵船・納屋船」がここに誕生した。
山見番所より鯨発見の合図を見るや、即刻、竹蔵を納屋船に座乗して現場に急行する事にした。勿論乗組みの水主《かこ》(漁師)たちは屈強な者のみを選択した。そしてその結果は、竹蔵が声明した通り豊漁を三度果たしたのであった。これを藩主は非常に喜び、竹蔵に出府を命じた。竹蔵は城下に行き参殿、藩主の御前にて褒詞を賜り、又名字帯刀を許され、竹蔵に名字の希望あるや否やを下問した。竹蔵は郷里を出るに際に、山下と言う名字を考えていたが、突然の事で、失念してしまい苦慮の結果、自家の周囲の竹垣を思い浮かべ、竹村という名字を希望した。藩主はただちに、竹蔵に竹村と云う名字を授けた。これが竹村家の始祖である。
明治三年(一八七○)三月、七十一歳の高齢に達し、藩に御暇を願い出し、これを受理され、遂に十月十二日、永年に亙る輝かしい海上生活に幕をとじた。
他方、森之丞はもと平四郎といった。何処の在所か、その生年については正確なものは無いが、「銛うちの達人・羽差」であったことは、安政五年(一八五八)二月二日の宮地家文書記録にある。「一ノ銛(一番先に投げる銛)、羽差・森之丞、褒美として銀四十匁《もんめ》」を貰ったと伝えている。平四郎を森之丞と改めたのは、浮津組頭元・宮地佐仲から「お前は銛の達人だから、以後、銛ノ丞と改めよ」といわれて改名したとの話である。
彼は長年羽差を勤め、沖配に昇格したのは明治二年の秋といわれる。
明治三年正月九日の巳《み》の刻(午前十時頃)三津沖の網代で背美鯨を二頭発見し網を入れたが、惜しいことに二頭とも前網から抜け出した。その内一頭は沖へ沖へと逃げ出した。背子船はこりゃ逃したら一大事と、必死に力漕をつづけて追い回し、大灘《だいなん》(山が見えなくなる沖合)に出て無事に突き捕った。
その時、一の銛は赤船・沖配・森之丞船。二の銛は下船《しもぶね》・羽差・竹八船。三の銛は羽差・常作船だった。残る一頭は六ヶ谷前の磯近くに逃げたが、とうとう見失ってしまった。しかし、その翌二月十日の正午頃、三津沖で突き止めて凱歌をあげたのである。
この時の褒美として、一の銛森之丞の船へは、吉米一石を、二の銛、三の銛にも、それぞれ六斗四升の褒美米が下された。更に一の銛、森之丞へは酒一斗、鯨肉・目方二貫目を下された。なお、藩主から名字帯刀を賜り、森之丞の功績を讃えた。森之丞が泉井家の始祖といわれる。
竹蔵と森之丞の二人は、古式捕鯨の申し子であり、一時代を謳歌したと云えよう。しかし、時の移ろいは早く、近代捕鯨の波は浮津・津呂両浦にも容赦なく打ち寄せ、古式捕鯨の終焉《しゅうえん》は間近に迫っていた。
文 津 室 儿
絵 山 本 清衣
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