2015年3月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第58話 一木権兵衛

第58話  一木権兵衛

 本名・一木権兵衛藤原政利《いちきごんべえふじはらのまさとし》は、元和《げんな》三(一六一七)年布師田(現高知市)に生まれる。弱冠十九歳にして、土佐藩百人衆鄕士から鄕士頭に進み、更に藩の奉行職・野中兼山の小姓となり、七人扶持二十四石を支給されている。
 一木権兵衛が、野中兼山に抜擢されたのは権兵衛が発案し普請した水門、”権兵衛井流《ゆる》”が兼山の目に留まったことに由来する、という。
 その水門とは、通常は水量の調節を行うが、河川の洪水など増水時には用水路の水門を閉め下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開き国分川に水を流し、上流域を浸水から守り、堤防の決壊を防ぐ仕組み、だという。
 当時、土佐藩は基盤の強固拡大を図るために、開墾・灌漑・干拓・築港事業等を強力に進めていた。執政・野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中、布師田でこの灌漑”権兵衛井流”を目にして驚き、村人に誰の普請か問いただした。
 兼山は、呼び出された権兵衛に如何なる考えで、この水門を造ったか、を述べさせた。権兵衛は、上記に記した機能を考えて普請したことを兼山に伝えた。その考えは、兼山が山田堰から多くの用水路を造る計画の中で考えていた仕組みと正に符合するものであった。 この権兵衛の発想の豊さ、井流がみせる技術力の確かさを見抜いた兼山は、権兵衛を鄕士に取り立て自らの小姓とした、という。これが権兵衛が兼山に大抜擢された由来だ、と言われる。
               絵 山本 清衣
 ここで寛文の「中普請」に付いて「室戸港忠誠伝(室津港の事)」よりひろう。
 室津港の西側を流れる室津川の左岸の石垣を高く築き、川の増水の浸水を防ぎ港内を掘り進めていた。港口一帯の岩石を砕き、岩盤を掘り下げる工事には役夫の数は蟻が物を運ぶがごとく集まり、日々四、五千人が働いた。 工事の進む中、一木権兵衛の身に大きな難題が立ちはだかった。港口に巨大な三巌があらわれた。その巌には古来より浦人が、御釜碆《おかまばえ》(高さ九尺2.7m幅十間18m)・鮫《さめ》碆《ばえ》(高さ八尺2.4m)・鬼牙碆《おにがばえ》(高さ八尺2.4m)と名が付けられていた。浦人はこの三岩を人智の及ぶところ無しと恐れ、波間に出没しては船がよく座礁していた。しかし、この巨巌を除かなくば、内堀が掘られても用をなさない。
 この三巌の破砕にかかり、数日後のことであった。役夫が使う石鑿《いしのみ》の破損がはやく、鍛冶屋を困らせたり、碆から落ちて怪我をする者が多く出始めた。そのうち、妙な事を口にする者が出始めた。ことに、御釜碆のこと。碆に石鑿を打ち込むと、血が出たとか、前日に破砕してあった所が、翌日行くと、元通りに治っていたとか、夜な夜な小坊主が五六人集まり、訳の分からぬ談義をしているから、声を掛けると一斉に居なくなる、といいます。この御釜碆には龍王様が宿っている、と役夫たちが口々に喋り仕事を怖がりだした。
 そのような最中、藩主が東寺に参拝の途中、室津港の普請を御覧になるとお通りになった。その時、家臣の一人が一木権兵衛をあざけ笑いながらいった。「一木氏ご苦労千万、数ある忠勤、しかし、この様な大きな池を掘られて、さてこの池には鮒や鯉を飼われ釣り堀にしたらよろしかろう。拙者は遠路だから見物には来られないだろうが」と。声高に罵ったという。
 一木神社記念碑には、以下のように記されていた。
 一木権兵衛、力を尽すと云えども、三巌を取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中兼山に乞い三千人の増夫を得る。日々督責《とくせき》、槌鑿《つちとのみ》を以て推破すれど、依然として砕けない。却《かえ》って槌鑿を毀損《きそん》するのみである。
 権兵衛退《しりぞ》いて以為《おもえ》らく恐らくは、これ三巌は神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴《さいかいもくよく》して天神地祇《てんじんちぎ》に誓って云った。この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕《さいこん》より血迸《ほとばし》り出て、数千人大朱に染み水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
 さて、室津港の開鑿《かいさく》は数次にわたって修築が行われ、本格的な竣工をみたのは延宝七(一六七九)年六月であった。なお、この工事を延宝の堀り次ぎといって、港普請奉行は一木権兵衛であった。
            神社記より。
 野中兼山の失脚後も、一木権兵衛が室津港の難工事を成功させた時、延宝七(一六七九)年六月十七日夜、御釜が碆上に祭壇を組、一木家の定紋「丸に九曜」をあしらった紫の幔幕を張り巡らし、明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の太刀海神に捧げ、翌未明に切腹を果たし、自らの身体を約束通り海神に捧げた。
 この行為は、一木権兵衛が野中兼山に対する恩義と忠誠のほかに、野中兼山を失脚させた土佐藩に対する痛烈な抗議の意思表示であったであろう。
 室津港築港の口火を切った最蔵坊こと小笠原一学、中次ぎ普請を担った土佐藩家老・野中兼山、竣工にこぎつけた普請奉行・一木権兵衛の三氏に因って成ったことに、畏敬の念を表すべきであろう。

                        文  津 室  儿
         

 


 

 


2015年1月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第57話 野中兼山

  第57話   野中兼山

土佐藩家老・野中兼山《けんざん》は、元和元年(一六一五)播州姫路(現兵庫県姫路市)に父良明、母は大阪の豪商の娘・秋田万《まん》との間に生まれ、幼名を左八郞といい、長じて伝右衛門良継と言った。 兼山は号で、後に別号として高山と改め、致仕《ちし》(官職を退き隠居する事)して明夷軒と号した。ちなみに、祖父・野中良平の妻は、山内一豊の妹・合姫《ごうひめ》であり、山内家との血脈は非常に濃い。 
 兼山四歳の時、父・良明没し、五歳にして母万と流浪に入る。その間辛酸を嘗めること八年、それでも母万の訓育・学問は怠らず十三歳にして祖父の野中権之進良平の弟、主計益継の嫡男・野中玄蕃直継を養父とする。
 養父直継には、嫡男がいたが早世して家を継ぐ者が居なかった。これを介意した小倉少助政平『小倉少助政平とは、初期の土佐藩を支えた重臣であり、初代一豊に長浜にて仕え、一豊の土佐入国に従って来国した。二代藩主忠義公に起用され、奉行職の野中直継と共に土佐藩財政の赤字克服を目的とした元和《げんな》の改革を推進した。特に土佐の豊かな山林に注目し、領内の山地を巡視し、五十年を期限とする輪伐制を創始した』が仲介役を務め、直ちに高知城下に迎えられ、十五歳で元服し良継と名乗った。後に直継の娘・市の入り婿となった。
                絵  山本 清衣
 兼山は、養父直継の元にて初めに禅学を修め、儒学を極める。又、南学『土佐で起こり発達した朱子学の一派。室町時代末期の南村梅軒を祖とし、谷時中・小倉三省・野中兼山・山崎闇斎らが著名。現実社会における実践を重視した』を学んだことを実践する側ら、小倉少助政平に経済及び財政学を学ぶ。ここに書き落としてはならない事は、母万によって注がれた愛情溢れる教育が兼山の人格の陶冶がなされたことを。
兼山二十二歳にて、養父直継が寛永十三年(一六三六)十一月五十歳を以て歿する。ただちに、直継の家督を継ぎ併せて土佐藩奉行職をも受け継ぐ。藩主・忠義公は、奉行職に就いた兼山に藩政改革をすぐさま命じる。
 まず兼山は、河川の氾濫を防ぐために堤防の建設、米の増産を図るために平野部の開墾、灌漑用水路の敷設工事、森林資源の乱伐を防ぐために小倉少助政平が創始した、伐採を五十年周期とした輪伐制の導入。築港を推し進め、藩外から植物、魚類等を輸入し藩内で養殖につとめた。又、陶器の製造、養蜂など技術者の招聘に努め殖産興業・専売制の強化を図り、今でいう地産地消・地産外商に努めた。その結果、藩財政は好転をみる。
 これより、兼山が当市に遺した偉大な業績・築港を尋ねてみる。
 兼山が先ず手掛けたのは、津呂港であるが、当時兼山は津呂港の事を室戸港と呼び、室津港との混乱を招くため、現在の呼称に倣い津呂は津呂港に室戸は室津港として記す。
 最初に津呂港の試し堀を着手したのは、最蔵坊こと小笠原一学で元和四(一六一八)年十一月のことであった。最蔵坊は、わずか一カ年で竣工を成し遂げているが、釣り舟出入りの利用にとどまり、藩が参勤交代に使用する御座船や百石船の停泊は不可能であった。
 最蔵坊が手掛けて一八年後の寛永十三(一六三六)年、執政となった兼山は、津呂港、室津港、佐喜浜港、手結港、柏島港等の改修工事を次々と手がけていった。
 中でも、兼山が自ら総裁となり、津呂港の完成を一挙に図った寛文の築港をとりあげてみる。兼山がこの工事の完成を記念して記したと言われる『室戸湊記』による、築港工事の概要では、以下のように記してある。
 ここ津呂の地は、険しい岩場であって平地はなく、難工事となるだろう。しかし、工事が成功すれば海底に砂なく、磯に泥土がないから、後々、港が埋まったり、港口がふさがったりする事はないだろう、と予想した兼山はその成功を期して幕府の認可を得た。
 そして安積幸長、衣斐勝光、野村成正を責任者として、井上康正を奉行に、工事の責任者を江口延光を登用して工事にかかった。
 その時、漁師の意見を聞いたら、「港の口となるべき処に三つの大岩があり、それを鯵《あじ》岩、斧《おの》岩、鬼《おに》岩という。従来船が破損するのは、専らこの岩によってである。たとえ港が出来ても、この三岩を除かねば後日の害は従前より減らないだろう」と言った。
 この三岩は水際から百二十歩余りのところにあって、堤のように支える岩石がない海中にある。そこで、兼山はこれを砕く為の工法を考え、扇を張った形の堤を造ることにした。 それは海中に扇の要に当たるところを定め、そこから扇の骨を張りだすように水際まで堤を造って海水を防ぐという方法である。衆議のうえ、巨松数万本を四列に櫛《くし》の歯が並ぶように立て、巨木細木を縦横に交差して組み、その中に土俵七万俵余りを入れて海水の流入を防いだ。これが有名な兼山の「張扇式の堤」である。
 こうした予備工事のうえ、堤内に更に堤を築いて二区とし、人夫数千人が内側の水を汲み出した。そのうえで、大鉄鎚《つち》や大鑿《のみ》で岩石を砕いた。こうして地下三尺まで掘り、干潮時八尺の泊地ができた。次いで三岩破砕に取りかかった。干潮時に外堤の上部を切って中堤との間の海水を外海に出し、次いで外堤の欠所を防いで、内堤を切ると海水はすでに掘り下げている泊地に流れ入って、三岩がその全容をあらわした。人夫達は、大鉄鎚や大鑿、もっこを持って、また、役人や地下人らも蜘蛛《くも》の子のごとく集まり歓声をあげた。さらに堤内に淵を掘って大雨の時、雨水が溜まるようにした。こうして三岩破砕に全力をあげ、工事は完成した。
 これに要した人夫、述べ三十六万五千有余、費用、黄金一一九○両であり、寛文元年正月十六日竣工式を行い室津港の開鑿にかかる。
 この頃、すでに隠居していた忠義公であるが、津呂港築港に寄せる思いは尋常ならぬものげあり、兼山への絶対の信頼を読み取ることができる。兼山は「室戸港記」において、自己の事績はいささかも記さず、すべて主君忠義公の仁政に帰している。歴史の皮肉は、津呂港竣工一年有余の後の寛文三(一六六一)年、兼山失脚の憂き目に遭わせ、その年の大晦日に死に至らしめた。その上、主君忠義公も後を追うかのように、寛文四年に逝去した。
 津呂港・室津港こそ、後世に残る兼山の数々の大工事の掉尾《とうび》を飾る大事業であった。
津呂・室戸の浦はこの両港あってこそ、水産業の起因・その命脈を保ち、その恩恵は計り知れない。最蔵坊小笠原一学、野中兼山、一木権兵衛の諸先覚者の業績を忘れてはならない。    
                  偉人野中兼山・室戸市史より

                        文  津 室  儿

2014年12月7日日曜日

室戸市の民話伝説 第56話 最蔵坊こと小笠原一學

  第56話  最蔵坊こと小笠原一学

 津呂・室津両港の開鑿《かいさく》の始祖が、最蔵坊であることを市井では余り知られていない。最蔵坊《さいぞうぼう》(最勝上人)こと小笠原一學《いちがく》は、石見国(銀山・島根県)の出身で毛利秀元に仕えた武将であった。戦いに明け暮れる戦乱に無常をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を離れ、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を廻国し、一国一ヵ所の社寺に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。六十六部廻国聖の起源は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の前世説によるものが有力であるが、判明していない。
 最蔵坊が六部(六部とは六十六部を縮めた言葉)姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年に修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を目の当たりにして嘆き、寺の再興に取り掛かった。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を幾度となく目にした。最蔵坊は、凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、津呂港の開鑿を自ら企画した。
 最蔵坊の土木技術は、祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴《たたら》吹きなど「土木工事と冶金《やきん》・工具の制作」や銀の積み出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
               絵 山本 清衣
 当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義公に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。
 後の土佐藩家老・野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組んだという。
 その工法は、槌《つち》や鑿《のみ》・玄能《げんのう》や楔《くさび》を用いて開鑿し、港口に堰《せき》を作り、空堀をした後に堰を切る(堰を壊し取除く)方法をとり、人力を持つて僅か一ヵ年という驚異的な突貫工事で竣工している。
 津呂港の竣工後の三年、元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫《しゅんせつ》し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
 尚、津呂港・室津港間の距離、僅か二㌖内に同規模の二つの港の必要性に付いては、江戸幕府から厳しく問い質されている。
 津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、津呂港に避難出来ない時は室津港に避難し、室津港に避難出来ない時は津呂港に避難する、という。両港をもって、避難港としての万全をつくす事を訴えた。この訴えが功を奏した事は言うまでもない。その役割は、約四百年後の今も果たし続けている。
 その後、繰り返される南海地震による地盤の隆起によって、両港はその都度浅くなり、浚渫工事が繰り返されている。
 最蔵坊は室津港の完成を祝して、西波止場に礎石を埋める。寛永七(一六三〇)年七月吉日と刻んである。奇しくも、その礎石が昭和七(一九三二)年七月三十日、室津港ケーソン初進水の日に発見され、有に三百二年目の日の目だった。
 『ケーソンとは、防波堤などの水中構造物として使用され、或いは地下構造物を構築する際に用いられるコンクリート製又は鋼製の大型の箱のこと』
 最蔵坊の生誕日は分からぬが、逝去したのは当地で慶安元(一六三〇)年九月五日であった。その死の悼むは、津呂・室津両村民全てが共有した、と伝わる。
 室津港竣工を祝す礎石と最蔵坊の墓は、室津二六四八番地の願船寺の境内に鎮座し、住職によって手厚く祀られている。
 私ども市民は、津呂・室津両港の創始者・最蔵坊こと小笠原一学を今一度敬い、顕彰するべきであろう。

                            文  津 室  儿
         



 

2014年11月1日土曜日

 室戸市の民話伝説 第55話 幻の献上珊瑚

  第55話  幻の献上珊瑚

 我が国で、初めて珊瑚《さんご》の文字が記されている書物は和名類従抄《わみょうるいじゅしょう》である。この書物は平安時代中期に作られた辞書であり、承平年間(九三一~九三八)に、勤子内親王《きんしないしんのう》の求めに応じて、源順《みなもとのしたごう》が編纂したものである。
 さて、土佐には古くから左記のように歌われた俚謡《りよう》(里歌)がある。
  お月さん桃色 誰が言うた
   あまが言うた あまの口引き裂け
 又、
  お月灘桃色 誰が言うた
   海女が言うた 海女の口引き裂け
 この里歌の解釈に付いては諸説ありますが、拙子は、以下のように解釈したい。
 初めの句の発句「お月さん桃色」は、水面《みなも》に映る月が桃色に染まっている様子を吟じたもので、桃色珊瑚の豊さを誇張したものである、と思われる。
 二句目の「お月灘桃色」は、幡多郡大月町の月灘海域を指し桃色珊瑚が多く産することを吟じたものでありましょう。「誰が言った」か、との問い掛けに対して、「あまが言うた・海女が言うた」と答えています。前句の「あま」とは、女の子・良家の女児・幼子を指し、後句の海女は海に潜って魚介類や海藻等をとる女性であり、生業者が禁漁品を口にすることは無く、あま・誤植である!、と考えられる。
 なお「あま」とは土佐の方言である。(高知県方言辞典) 
 藩政時代から明治四(一八七一)年まで、珊瑚の採取は禁漁され厳しく取り締まっていた事が、「あまの口引き裂け」と、幼児の里歌まで禁じていた事で、計り知れよう。
 日本の宝石珊瑚は大別して、白色珊瑚・桃色珊瑚・赤色(血赤)珊瑚の三種類があり、日本人が最も珍重したのは桃色珊瑚である。
                         絵  山本 清衣
 土佐に置ける珊瑚の主要産地は、東は室戸半島周辺海域と西は足摺半島周辺海域である。室戸は赤色珊瑚が多く、足摺半島大月町月灘では桃色珊瑚が多く生息した。
 文化九年(一八一二)二月、元浦(現室戸市元)の庄屋奥宮三九郎が藩へ差出した口上覚えには、「勢子舟沖合い羽指の文丞が、下《さ》ヶ釣船でたまたま大ノ珊瑚樹差上候者ニ御座候由」『珊瑚に関する最も古い記録』(津呂捕鯨誌)より抜粋、また、南路志にも記述あり。 余影録には「室戸の人戎屋幸之丞が天保年間(一八三0~四三)に室戸岬付近に於いて釣りするに方り、偶々珊瑚の其の釣りにかゝるをみて、百方考案を加え、遂に創めて、珊瑚網を発見せしを、当時、藩政珊瑚の探採を禁じ之を使用することを得ず。後藩、其の禁を解くに及び、盛んに之が採取に従事し、従って一般に普及し、現今闔県《こうけん》(県下全て)使用する。云々(土佐資料)」と述べ、珊瑚網を創製した功績を称えている。参考資料・室戸町史・室戸市史下巻他
 以上、参考資料からして、初めて生業として珊瑚漁を始めたのは、室戸浦の住人、戎屋幸之丞である、と資料が語っている。
 はてさて、幻の献上珊瑚噺が生まれたのは、大正三(一九一四)年四月半ばの頃であつた、という。
 とある日、南新町後免の漁師・泉為太郎氏が、室戸岬沖海域の珊瑚の埋もれ礁《しょう》(珊瑚の生息域)、二十数カ所の内、白草《しらくさ》に山立てをして、珊瑚漁に掛かった。舟を潮流任せに打たせ四~五十分も経った頃、舟がぴたりと止まってしまった。為太郎は、初っぱなから海底《そこ》を掻くとは、何と情けなやと思いながらも、これも吉報の兆しと思い直して艫艪《ともろ》を取りだした。艪は、幅七寸(21cm)総長さ二十一~二尺(約七㍍)と、一般の艪よりは一回り大きく屈強な身体が求められたが、為太郎は小腕返しの艪捌きも鮮やかにこの艪を操った。
 四月と言えど、室戸路は限りなく夏に近く暑い。為太郎の顔から玉の汗が流れ出はじめた。時はどれほど経ったであろうか、そよそよりと四月の風が吹き始めた。その風に背を押されたのか、舟足が急に軽く早くなった。 為太郎は、底から網が離れたのを機に網を上げる。珊瑚礁は七~八十尋(約105~120㍍)の深さだ。珊瑚網を手繰り上げるには三~四十分掛かるであろうか、艪を押し網を浮かせて手繰り寄せ、そして又、艪を押して網を浮かせ手繰り寄せる。これを幾度となく繰り返すのである。屈強な漁師と言えど、大変な労働である。右舷に、柿渋で染めた麻の珊瑚網が、真っ赤に変わって大木の珊瑚樹を絡ませて上がってきた、という。
 それは、直径七~八寸(約22~3cm)、重さ四貫六百匁(17,194kg)の血赤珊瑚であった。
 これが大評判に成るのには、さほどの時間を要しなかった。来る日も来る日も毎日見物人が押し寄せた。為太郎は、珊瑚樹が余りにも大きすぎたので、家の中では置くところが無く、床の下の芋坪《いもつぼ》にゴザを敷いて中に入れ、見物人が来る度に芋坪から出して見せていた。
 所がある一夜、室戸町全域が豪雨に見舞われ、津照寺の本堂右脇が崩壊し、尚且つ本堂も崩壊の危機にあり、南新町、室津、郷の住民に全員集合との布告《ふれ》が出た。集まった住民は、御本尊舵取地蔵に雨の止むのをただただ祈った。その功徳か夜が白み掛ける頃には、豪雨も治まり本堂は無事であった。
 間もなく解散のふれも出、それぞれ家路に急いだ。その中には為太郎ももちろん居た。
 帰り着いた為太郎、何か嫌な予感がした。その予感は的中した。いつも珊瑚を置いてある芋坪を覗いてみる。珊瑚樹は一欠片の姿も無く、そこは蛻《もぬけ》の殻《から》だった。よくよく覗くと隣境の犬走りが掘り返され、大きな穴が芋坪に通じていた。
 為太郎が密かに描いた夢、この珊瑚で小皿を作り天皇陛下に献上することは、儚くつゆと消えてしまった。
 桃色・血赤珊瑚は、昔も今も人の心を引きつけて離さない魅惑の珊瑚樹である。

                            文  津 室  儿
                                      



2014年10月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第54話 四十寺山

  第54話  四十寺山

 弘法大師空海・幼名佐伯眞魚《さえきのまお》が、京の大学の学問に飽き足らず、延暦《えんれき》十一(七九二)年十九歳の頃より約五年間、山岳修験を続けた。 空海が二十四歳で著した戯曲「三教指帰《さんごうしいき》」には、自ら「阿國大瀧岳に躋《のぼ》り攀《よ》ぢ、土州室戸の崎に勤念《ごんねん》す。谷響きを惜しまず、明星来影す」とあり、室戸崎の洞窟「御厨人窟《みくろど》」や室戸山(現四十寺山)で虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》(この法は真言「真言とは大日教など密教経典に由来し、真実の意」を百万回唱えると、すべての経典を暗記できるという、ある種の記憶術である)を満行《まんぎょう》した、とされる。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の寺伝によれば、空海は大同二(八0七)年、嵯峨天皇の勅願《ちょくがん》を受け本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開基したとされる。 最初に室戸山 明星院 最御崎寺 通称 東寺が創建された場所は今の四十寺山山頂であり、そこに奥の院を残し本堂を現在地・室戸半島先端に移したのは寛徳初年(1044)の頃だという。
 寺院は元来勤行・祈願の道場であるから、山中の勝地を選んで建立された。一時期、室戸山にはお堂が四十堂伽藍《がらん》が点在した、という。このお寺の数に因み、この頃より室戸山が四十寺山と言われだした、と伝う。
 青年眞魚は、阿波の大瀧岳で虚空蔵求聞持法を勤修し、更にここ室戸崎を勤行の地と定めて来訪した。それは、今を去る千二百二十有余年昔のことであった。
 眞魚は時を惜しみて、室戸崎の巌頭に座禅を組み、又、ある時は四十寺山山頂の巨巌にて座禅三昧する。
 勤行の最適地と選んだ室戸崎であるが、実際に座禅を組んでみると、この地には沢山の天魔や地の妖怪が魑魅魍魎《ちみもうりょう》とした世相で勤行の邪魔をした。
 しかし、大宇宙は眞魚の勤行に応えて、明星(明星は虚空蔵菩薩の化身)が飛来し眞魚の口に飛び込んだ。この時をもって悟った眞魚は、名を室戸崎の空と海に因み空海と号した。この時のことを空海は、
「御遺告《ごゆいごう》」に「土左《とさ》の室生門《むろと》の崎に寂暫《じゃくせき》す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来たりて、菩薩の威を顕し、仏法の無二を現ず」といつて無二一体(眞魚という小宇宙と虚空蔵菩薩という大宇宙の合体)と成ったことを記している。

                        絵  山本 清衣

 仏教の教えは人間の為にある事を悟った空海は、初めて住人に目を向けた。してみると、この地の民百姓は天魔地の妖怪が百鬼夜行し苦しめられていた。
 ことに、崎山台地の字《あざ》西坊、東坊(現龍頭山 光明院 金剛頂寺 通称 西寺境内地)の椎や楠の大木の洞《うろ》には、沢山の天狗が住み着き災いを起こしては民を苦しめていた。空海は天狗と問答するや「火界呪(印相を結び、火焔が無限に放出する呪文)」を唱えて競い合い、天狗を遙か彼方の足摺岬に封じ込めた、という。
 この話を耳にした、四十寺山の麓の集落の農民は喜んだ。毎年、秋には収穫物を搾取され田畑を荒らすや、娘を強奪するなど妖怪・魔物を、空海の功徳によって退治して貰おう、と嘆願をした。
 空海は「それは、お困りであろう。拙僧でよければ」と願を酌んでくれた。
 空海は早速、加持祈祷の儀式に入り、印を結び、「大般若波羅蜜多心経」を天空に指でなぞりながら真言を唱えた。すると、金色の経典が突如天空に現れ、民百姓を泣かせ苦しめた妖怪・魔物たちは、たちまちその功徳によって、空海の手のひらに鎮まってしまった。そして空海はかつて四十寺山山頂の巌頭で座禅三昧した巨巌に押し込めてしまった。
 その四十寺山の巨巌は、高さ七八㍍、幅十一二㍍強あり、巨巌の表面には空海が閉じ込めた時の足跡が今なお遺り、閉じ込められた妖怪・魔物たちは、今に至るも生きているのか巨巌の中でも暴れているのか、巨巌は、年間数ミリずつ下方へ下がっており、「にしり巖」と名付けられている。
 その昔、四十寺山のお寺は山桜に囲まれ、桜寺と親しまれた、ともいう。
 今、四十寺山を取り巻く麓の青壮年たちが、四十寺山を往時の桜山にしようと「四十寺山桜美人《さくらびと》の会」を結成し、領家弘山に自生していた桜に「室戸桜」(大島桜と山桜の自然交雑種・新種)と命名し植樹して、市民の森づくりを目指している。

                        文  津 室  儿
         



2014年9月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第53話 鱏に嫉妬する女房

  第53話  鱏《エイ》に嫉妬する女房

 ころは、津呂浦の山田長三郎が土佐の鰹《かつお》一本釣りを創始した寛永十八年(1641)というから、かれこれ三百七十有余年の往年のことである。
 長三郎は、藩の許可を得て坂本集落に立岩崎という小字あり、そこに岩礁の窪地を利用して船曳場(山田港・坂本港と云ったが、今は無い)を設け、二艘の鰹船を造り鰹漁を始めた。
 その約七十年後の正徳五年(1715)、六代藩主山内豊隆公が参勤交代の帰路、室戸岬沖で暴風雨に遭い難船した。その時、長三郎の子・喜三衛門がこの船曳場から鰹船を漕ぎ出し、無事に御座船の藩主を助け、山田家は山内家の家紋、土佐柏紋入りの大盃と一文字家紋を拝領した。
 この様な歴史背景を持つ坂本集落に、良吉《りょうきち》と夕《ゆう》という、仲睦つましい夫婦が漁師を生業《なりわい》に暮らしていた、だが子供には恵まれていなかった。
 満月の晩、良吉はお鼻《はな》(室戸岬)の高巖《たかいわ》の西沖の埋もれ碆《ばえ》、ヤゴスケの礁《しょう》へ夜釣りに出かけた。それは其れは、月の綺麗な晩だった。この夜は、幾ら釣り糸を垂れていても当たりが皆目無く、ふと漁師仲間の諺、「満月の夜は何も釣れない」と云っていた事を思い出しながら、最後の一糸を垂れた。
 すると、遥か沖合いから水面《みなも》を仄《ほの》赤く染め、六尺(1.8㍍)四方はゆうにある物が良吉の舟に近づいてきた。
 良吉は間もなく、釣り糸に強く重い手応えをおぼえた。 獲物をやっと舟に引き揚げる。そこには、今までに見たことも無い巨大なアカエイであった。 
 良吉は、エイをカンコ《船倉》(漁船の生《い》け簀《す》)に無理やり入れ、帰り支度にかかった。
             絵  山本 清衣

 すると、良吉の背中に何か柔らかい視線を感じた。振り返ると、エイがカンコの中から円《つぶ》らな瞳で良吉をじっと見つめていた。「何が言いたいのか?」誘うように、良吉を見る目は乙女の瞳だった。
 「良吉は、抑え難い気持に陥った」
 良吉は我知らず、エイを抱きかかえると、いっそう愛おしくなった。
 「自分の胸の中にいるのは、エイでは無い。乙女子だと幻想を抱く」良吉は夢のように酔い、ふたたび乙女子を力一杯抱きしめると、交合し合い我がものにした。
 
 老漁師曰《いわ》く、神代の頃より「エイの隠し所、特にアカエイは人間の女性の隠し所と良く似ている」と言われしとや。
 
 良吉は、乙女をいくら愛おしく愛らしく想っても、家には恋女房の夕が居る。連れては帰れない。今夜のことは、一夜の秘め事として他言しないと誓って、乙女を愛おしみながら船縁《ふなべり》から海に放した。
 月は少しずつ欠け、十六夜、立待月、居待月、寝待月へと移りながら新月を迎えた。良吉は、乙女と契りあった夜の事は新月の頃には薄れかけていた。
 しかし又、月は満ち始め、三日月、上弦の月、十三夜、小望月と満月が近づくと良吉は気もそぞろで落ち着かなくなった。
 良吉は夜ごと、山田港の東の繁盛ヶ谷の高岩から遥かな海原を眺める日々が続き、満月の夜は疲れ切って帰ってきた。
 又、月は満ち欠きを楽しむかのように移り、満月の夜が来ると良吉は繁盛ヶ谷の高岩へ急ぎ、しばし乙女と深い愉楽の世界に浸っていた。
 いつしか、良吉の行動を訝しく思った女房の夕は、良吉の後を追った。夕がそこに見た良吉の姿に唖然とし。獣姦は耳にすれど魚族と交わるとは、犬畜生にも劣る、と嫉妬心に燃えた。夕が夫に、三下り半を突き付けたのは言うまでも無かった。
 あの、仲睦つましい夫婦の突然の離婚は、小さな集落に広まるのにさほどの時間は掛からなかった。同時に良吉とアカエイとの交わりは瞬く間に広がり、漁師仲間を喜ばした。 思春期を迎えた小若い衆達が、色欲に溺れないよう導く道具立てとして、アカエイとイソギンチャクを利用した、という。
 
 この噺は、津呂浦の漁師仲間が昭和初期まで、兄若い衆が大人への登竜門と云って、小若い衆に”筆おろし”を強要した実話擬きである。

                         文  津 室  儿
         



 

2014年8月1日金曜日

室戸市の民話伝説 第52話 クジラとイノシシ 

   第52話 クジラとイノシシ

 これも又、それはそれは昔の噺よ。土佐の国では、昔から十一月七日は山の神様のお祭りで、猟師《りょうし》や木樵《きこり》は決して山に入ってはならなかった。
 この日は、神様が春に植えた木々を虫食いや立ち枯れがないか、木の状況を一本一本調べて回る忙しく大切な日であった。山に居ると、人でも何でも、間違って木と一緒に数え込んでしまうからだ。
 この頃、土佐の山、ことに室戸の山にはクジラが多く棲んでいた。ある年の十一月七日のお祭りの日。山の神様、朝から晩まで忙《せわ》しのう木を調べておられた。「兎山《うさぎやま》の木も今年は立派に育ち、狸山《むじなやま》の木も上々や。はてさて、鯨山はどうだろう」と山の神様、ほくほく顔で鯨山まで来なさった。
 すると、どうだろう。木という木が根こそぎ横倒しになっていた。まるで嵐にでも遭ったようだった。
 「こりゃ、いったい何としたことだ。クジラ、クジラよ、お前また大暴れしよったな」 神様は、えらい怒って云うたそうな。
 すると、クジラが小さな目に涙をいっぱいためて云うには、
 「こんなに図体《ずうたい》が大きくては、アクビ一つで木の枝は折れるし、クシャミ二つで木が飛び、体を動かすと山は崩れ、谷を埋め、どないもこないも・・・!。えらいすまないことです」と、あまりクジラが泣くもので、これには山の神様もほとほと困ってしまった。

           絵  山本 清衣

 山の神様は「そうか、そうか・・・!おお、良い事があるわい。ひとつ海の神様に頼んでみよう」
 そう云って、近くの一番高い山に登り、大きな声で海の神様に呼びかけたそうな。
 「おおい、海の神様よー。儂《わし》んとこのクジラ、お前様の海で預かってくれまいかのーー」
 すると、しばらくして、遥かかなたから、海の神様の声が。「おお、良かろう。なら、ちょうど良い。こちらも一つ頼みがある。儂んとこのイノシシは、泳ぎが下手で餌が取れず、何時もひもじい思いをしている。ただ魚を追い回すばかりで困っている。お前の山で預かってくれまいかーー」
 この頃、イノシシは海に居ったそうな。
 こうして海と山の両神様が相談をしてのー、クジラとイノシシの棲み場所を取り替えっこしたそうな。
 所が、山に上がったイノシシ何を食べたら良いか分からず、山の神様に尋ねた。
 神様が云った「イノシシよ、お前様は海の中で何を食べていなすった?」
 「俺は海蛇《うみへび》が大好物で、三度三度の食事には逃さず食べていた」と応えた。
 山の神様は、「おお、それなら山には海蛇に似たマムシが居る。それを食べなさい」と告げた。
 それ以来、イノシシはマムシを見付けると大喜びをして、そのマムシの回りを七廻りぐるぐる回って、食べるようになったそうな。
 一方、クジラは大海原に出て大喜び。あちらこちらへ魚を追いかけまわしていた。
 ある時、クジラがシャチの群れを追い掛け回しているのを神様が見付けました。
 その頃、シャチの口には簾《すだれ》のような髭《ひげ》で出来ていて、小魚を濾《こ》しとって食べていた。
 海の神様はクジラの大食いに呆れ、何時もひもじい思いのシャチが可哀想になり、シャチの髭とクジラの牙《きば》を取り替えてしまった。 そして、神様はシャチに「もしもクジラが海で暴れる事があれば、襲いかかって傷めつけてやれ」と命じました。
 この時以来、クジラは以前のように暴れる事もなく、小魚を濾《こ》しとって食べるようになってしまいました。
 クジラは時折、砂浜に打ち上がり身動きがとれない事があります。あれは、かつて棲んでいた陸が恋しくなって、山に帰ろうとしているのだそうです。

                        文  津 室  儿