2013年11月2日土曜日

室戸市の民話伝説 第43話 鯨一千頭の位牌


   鯨一千頭の位牌

 室戸市の中心地、浮津の宮地山に中道寺が鎮座する。このお寺の宗派は日蓮宗であり、本山は広普山《こうふさん》・妙国寺《みょうこくじ》(大阪府堺市)で開基は三好之康《みよしゆきやす》(義賢・実休)であった。もとは香美郡上田村(現南国市)にあった桂昌寺の脇坊の一つであった、が退転していたものを捕鯨浮津組初代頭元《とうもと》宮地武右衛門が、
『注記 捕鯨浮津組に付いて、浮津組の起こりは津呂組に遅れること三十五年後の万治三年(一六六0)藩の援助を受け、地下人共同で始まり、貞享二年(一六八四)より宮地武右衛門の個人に移り弘化三年(一八四六)までの百六十二年間の経営であった。後には佐藤氏が経営したが長くは続かず、浮津捕鯨株式会社へと移った。この地にも近代化の波は襲い、ノルウェー式銃殺捕鯨が明治三十九年(一九0六)に入り、遂に津呂・浮津両組古式捕鯨は二百七十二年間をもって終焉を迎えた』元禄十年(一六九七)に藩に願い出て浮津村へ移し、宮地山中道寺と号した、と伝えられる。
 この中道寺には、鯨にまつわる説話が一つある。ころは宝永地震(一七0七)も落ち着き、正徳年間の、とある秋も深まった頃に、このお寺の住職が夜更けにお勤め、読経を上げていると、山門をトントンと叩き案内を請う者がいた。この夜更けに何方が、と訝しく思いながら住職は読経を中断して山門を開けてやった。そこには、年の頃なら十七八歳で、見目麗しい娘子が立っていた。


                         絵  山本 清衣

 住職が、「この辺りでは、ついぞ見かけぬ娘子だが、さては何所から、何用でお出でかな」と、問えば。娘子は臆する様子もなく、「実を申せば、私は人間ではありません。この海に住む鯨です。明後日には浮津組・宮地幸六殿の網に掛かることが、すでに分かっております。私は女に生まれて、子を宿す悦びすら知らずに一生を終える身にございます。今夜、ご住職様にお願いごとがございます。どうかこの身が生きていたあかしを、来世で浮かばれますようにお祈りを上げて下さい」と、涙を流しながら嘆願した。住職は娘子を大変哀れに思い、「そのことであれば、ご安心くだされ。私も僧侶の身、その方の願いは十二分に聞き届けましょう」と、応えた。すると、娘子は嬉しそうな仕草をして、だんだんに礼を述べたかと思うと、かき消すように居なくなった。しばらくすると、沖の方で雷鳴が走り海が鳴動し始めた。この鳴動は先程の娘子の喜びの現れであろう、と住職は娘子の願いを一心に込め読経を続けたという。
 翌朝、住職は昨夜の不思議な出来事のことと次第を、浮津組鯨方の頭元宮地氏に語った。話を聞き留めた頭元は、この身の生業の罪深いことを改めて思いおこし、「人間は生きとせ生きるものの命の布施に因って生かされている」感謝こそすれど忘れてはなるまい。鯨には畏怖畏敬の念を持って接することを心に誓った。
 宮地浮津組は天保八年(一八三七)、鯨捕獲数が千頭に達したのを期に、鯨の菩提を弔う六角供養塔(昭和九年(一九三五)は第一室戸台風にて倒壊)や現在二基の鯨大位牌が現存、その大きさは( 15.×54.8×106.8cm、位牌正面に、南無妙法蓮華経 鯨魚供養 右には、南無釈迦牟尼佛 有情非情法界平等 左には、南無日蓮大菩薩 一乗法雨率土充治 と記され、裏面には、 宮地氏捕鯨自寛政庚申至天保丁酉凡及 一千因為其鑄鐘寄附中道寺猶託余讀誦玅 經五十部以設供養仰願鯨鯢速脱患苦疾證 得菩提乃至法界利益無窮 天保十一年庚子二月涅槃忌神力山日凝稽首欽 と記されている)鐘楼を造立して供え供養に心血を注いだ、ことは娘子との約束を果たしたと言えよう。 
 今に伝わる、鯨の大位牌を拝観されたい方は、事前に中道寺様に願い出れば、お見せ頂けると存じます。
 尚、六角供養塔は前述の通り無く、梵鐘に付いては、先の大戦時に供出し現存致しません。

                            文  津 室  儿
         

2013年10月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第42話 八丈島の盆踊り


 第42話   八丈島の盆踊り

 この話は、文化文政時代(一八0四~一八三0)の頃と云うから、約二百年前の江戸幕府も終りを告げよう、とする頃であろう。
 その頃、佐喜浜の浦には井筒屋と云う大層な長者が住んでいた。この長者の持ち船で、百石積みの住吉丸には三人の船方が乗っていた。船頭は室戸から養子に来たと云う松本亀作、甲板員は米倉の安七、賄夫《かしき》は甲浦の二宮清三郎であった。三人はそれぞれ妻子持ちで、妻子可愛さに毎日せっせこと働き者で、上方(阪神)通いに余念がなかったと云いう。
 
 今日も又、根丸の浜では、山から伐り出した保佐《ぼさ》(薪)を船に満載して、日和を押して出港した。
 住吉丸を送る妻や子らは、白い帆が見えなくなるまで見送っていた。夜の帳《とばり》が包み始める、と家族は金毘羅宮に急ぎ灯明を捧げ海上安全を祈った。
 その晩、何時《なんどき》か南風《はえ》が吹き始め、しだいに大時化《おおしけ》となった。しかし夜が明けると、時化は去り空は晴れていた。沖は静かで、遠い阿波の山並みの頂きに、嵐を運ぶ雲がぽっかりと浮かんでいた。
 その日は過ぎた。三日経ち、四日経っても船は帰らない。一月待っても、一年経っても、恋しく懐かしい夫や親父は、神仏への祈りも虚しく戻ってはこなかった。
 
 当の住吉丸は「鳥も通わぬ八丈ヶ島」と、歌に詠われる八丈島へ、三日三晩漂流のすえ、船頭の亀作も清三郎も、そして歌好きの安七の三人は食い物も飲み水も尽き果てて、なお命だけは取り留め、無事漂着していた。
 八丈の島民たちは、漂着した三人を「土佐のお流れさん」と云って親しく迎えいれ、庄屋が世話をする事となった。
 
 日が一日々経つにつれ、三人の心情は故郷に残る妻や子への思いがつのるばかりであった。そこで、船頭の亀作が「安七よ!清三郎よ!、一つ家の方を眺めて気晴らしをしようじゃないか」と二人に一計を持ちかけた。二人は直ぐさま話に乗った。
 それからと云うもの、三人は連日のように連れ立って庄屋の裏の日和山《ひよりやま》に登った。三人は「あそこらが家じゃろか、にゃー」などと、西の方角を眺めては大声をあげて泣いて、泣いて、泣き暮らすことを一日の仕事にしていた。
 
 それを見かねた庄屋の爺は、不憫に思って「土佐のお流れさんや、そんなに嘆かっしゃるな。今に佐喜浜へ帰らしまっしゃろ。八丈島と云うても、たかが日本の国の内じゃ。帰れんことがあるもんか」八丈島の米が豊作であらば、年貢米を納める年も数年に一度はある。それに便乗すれば帰られる、と慰めた。
 
 庄屋の慰めから幾月か経った。そして又、年に一度の盆が来た。盆には故郷の盆踊りを思い出した。一人が口説き、一人が囃子を入れ、一人が踊る。故郷の根丸の浜を偲びながら、月のある浜辺で踊り明かしていた。これを、ひそかに見ていた島民が「土佐のお流れさんが妙に楽しい舞を舞っている」と島役人の庄屋に訴えていた。間もなく庄屋から、三人に呼び出しがあった。これはてっきり昨夜の踊りで、お咎めがあろうと恐る恐る出頭した。

               絵  山本 清衣

 すると、庄屋は「お主ら三人は、ひそかに踊りを楽しむとは怪しからん。今夜からこの庭で、島民に踊りを教えてやってくれ」と命じられた。娯楽や楽しみの少ない離れ小島の八丈島に、土佐は佐喜浜の盆踊りが伝わることになった。
 
 そして又、日々は流れた。三人の家族等は、「住吉丸の三人は、どこかへ漂流難破して死んでしまった」ことと諦め、出港日を命日として葬儀を済ませていた。
 早いもので、三人の三回忌の法事に取り掛かていた。すると、そこにひょっこり三人が現れた。家族は吃驚仰天、幽霊が出たかと三人の足元を誰もが見た、足は付いている。ものも言う。法事の席が祝いの席に替わったのは云うまでもなかった。
 
 それから、十五六年の後のことである。八丈島の農夫が、船に牛を積んで相模国(現神奈川県)の横浜に渡っていた。船は夜来の大時化に遇い、舵を失い漂流、根丸の浜辺に漂着した、という。
 船頭の亀作ら三人は「八丈島のお流れさん」と親しく交わり、帰郷に向けたお世話をしたという。縁《えにし》とはまことに面白き哉である。
 
 「土佐のお流れさん」が伝えた、佐喜浜の盆踊りは、今、東京都無形民俗文化財として保存され踊られている。これを教えた土佐のお流さんの亀作、安七、淸三郎の名前は八丈樫立て地区の盆踊り創始者として伝えられているという。
                                                                文  津 室  儿
         

2013年9月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第41話  姥捨ての滝 


 第41話   姥捨の滝

 世に姥捨山《うばすてやま》ばなしは六百余話以上に登り、また世界中に類似ばなしは数多あります。そのような中、ここ土佐の地には姥捨の滝が津呂の宮の滝、檮原《ゆすはら》の姥ヶ滝、大豊町の姥ヶ滝の三カ所が記され、滝に姥を落とす話は稀であります。
 津呂の宮の滝は、王子宮本殿の東側の山寄りに、幅5~6㍍、高さ30~40㍍余り。夏なお、枯れることを知らない滝があります。そこに伝わるお話です。
 むかしも昔、戦国時代のころ、津呂の小高い丘にお城があり、鬼塚七郎右衛門という殿様が住んで居ったそうな。その殿様は我が侭《まま》で、年寄りが大嫌いでした。
 ある日のことです。殿様は、家来に城下に立て札を立てるように命じました。その立て札には次のようなことが書いてありました。「齢《よわい》六十歳を過ぎた年寄りは、滝に捨てるべし。これに従わない者は皆殺し」
 この高札をみた者は、家中の者が殺されるのを恐れ、殿様の命令に従わざるをえません。
                絵  山本 清衣

 宮の滝の東側に、歳老いた母親と孝行息子の真吉《しんきち》が暮らしていました。
 「真吉よ、私はもう六十歳を過ぎました。滝に捨ておくれや」
 「お母さん、真吉にはそんなむごい事は出来ません」
 「真吉や、隣の家のお婆さんも、前の家のお爺さんも、もう滝に捨てられました。悩む事は何もありません、よ」
 真吉は、しぶしぶ母親を背中に背負い、滝の頂上に登りました。
 真吉はいくら考えても、母親を滝から捨てることができません。
 真吉は夜の帳《とばり》を待ちかね、また母親を背中に背負い、こっそりと家に帰り、裏の納屋に隠しました。
 数日たった、ある日のことです。殿様は、村人に「灰の縄」を作るように命じました。
 「お母さん。お殿様が灰で縄を作れ、と命じました。作ってみましたが出来ません。誰も作れないと年貢が高くなります」と、嘆きました。
 「真吉よ、それは簡単ですよ。教えて上げましょう」
 真吉は云われた通り、藁縄《わらなわ》で輪を作ると、それを塩水に浸し、乾かして大皿に載せ大皿ごと焼きました。見事な「灰の縄」が出来上がりました。
 真吉は喜び、出来上がった「灰の縄」を慎重に殿様の御前にはこびました。
 殿様は、お主、なかなかやるではないか。よかろう。それでは、もう少し難しい問題を出そう。これは、一本の棒である。どちらが根の方で、どちらが穂先か、一両日中に答えを出せ、と命じました。
 真吉は、棒を家に持ち帰り考えましたが、いくら考えても分からず、途方に暮れるばかりでした。
 母親は途方に暮れる真吉を呼び、簡単なことだから教えましょう。
 「水を張《は》った桶を持って来なさい」
 真吉は桶を用意して水を張り、棒を桶に入れました。
 「見てご覧。沈んでいる方が根で、浮いてる方が穂先ですよ」
 「再び殿様の前に出た真吉は、母の教え通りに桶に水を張り、棒を入れ実演をして見せた」
 殿様は、「お主はなかなかな者だ。それでは一番難しい問題を、と云って三度《みたび》出した」
 「それでは最後の難問だ、叩かなくとも音が出る太鼓を作れ、と命じました」
 真吉は真っ青な顔をして、太鼓を携えて家に戻り母に助けを求めました。
 「母親は、とても簡単ですよ。山に行き蜂を数匹捕まえてきなさい」と云った。
 母親は太鼓の皮を少し緩めると、その中に蜂を入れ、元通りに皮を締めました。すると、蜂は逃げようと太鼓の皮にぶつかり、音を立て始めました。
 喜んだ真吉は、難題の音のする太鼓を殿様に献上しました。
 殿様は、「参った。そなたは、たった一人で三つの難題を解いたのか・・・!」
 「お殿様、真実を申し上げます。問題を解いたのは、私めではなく歳老いた母親です。お殿様は、年寄りを滝に捨てるように命じました。でも私は、そのような残酷なことは出来ませんでした。それで母親を納屋に隠しました。年寄りは、体が弱くなっても、若い者より遥かに物知りです」
 殿様は暫く考えて云いました。
 「その通りだな。儂が間違っていた。許してくれ、もう年寄りを滝に捨てるのはよそう」
 お殿様は、若い者は年寄りを大事にするべし、と云うお布令を国中に出しました。
 母親の知恵で、これより浦人は平穏無事に暮らせた、と云うことです。

                                                                    文 津 室  儿
          
 

2013年8月5日月曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十三 七人岬や色々の俗信 35〜38


 第35話  吉良川老媼夜譚  十三
  
七人みさきやいろいろの俗信 35-34〜38
 
 七人岬と言うことは、今におき(今風に)申します。安堵《あんど》にようつかん者(仏の仲間に入れない者)が集まったもので、海で不意死《ふいし》した者などが集まっていたりするといいます。この東ノ川では、今までに何人も不意死をしますが、七人岬の祟りじゃと言うことになっちょります。
 神隠しになるじゃと言うことは、町分ですきに今まであんまり聞きませんが、私の知っちょるのは、娘のころ奥の西山でおみつというお婆さんが、お手水《ちょうず》へいてことりというたと思うたら、それからおらんようになって、地下中が総出で鉦太鼓《かねたいこ》を叩いて、「おみつよう、もどせやあ、返せやあ」いうて、夜は松明《たいまつ》を点けて探し回ったことがございました。私らはこおうてこおうて、(註、怖くて)よそへはよう出ざったほどでございました。
 神隠しじゃございませんが、人がふさいで開かんようになった時は、屋根の上へ上がって、箕《み》で煽《あお》いで呼び返すいうことがございます。松三郎いうもんが、開かんようになって、家の者が屋根の上で、「松三郎よう」いうて、一日中呼んで、つまり三日目に返ったことがございました。
 お産の火は、アカビ(赤火)いうて一般に嫌い、大山を超すと狼につけられるとか、化け物につけられるとかいうて、今にりぐるふうがございます。山に行く者やら漁に行く者などは、こじゃんと嫌うて出ませんが、火を合わせしますと平気になります。
 送り盆(十六日)には船出をせられん、出て病みついたら治らんなどと言うことは、今によく言うことでございます。
 鳥《からす》が家の近くで鳴くと、気を悪がるふうがあったり、鶏《にわとり》が宵をうたうと不意なことがあるなどというて、市《いち》(巫女)さんにたんねてもろうたりすることもございます。家をつついたりしたら、神さまや仏さまに粗相《そそう》をするきに、家祈祷《やぎとう》いうて太夫さんを雇うて、正五九月(註、旧暦の正月と五月と九月との称。忌むべき月として結婚などを禁じ、災厄を祓うために神仏に参詣した)の祝い日に祈ってもらうことがございました。信心じゃいうものは、人によって見えん人と見える人がございますが、信心しよると、おかげ(ご利益)のないということはないと思うちょります。 それから、春祈祷いうて、正月に「明日は春祈祷ぜよう」というふうにふれ(註、周知のために広く告げ歩く)てきて、四日ごろ八幡様で町の家々の家祈祷をしてお札を配ってきたりします。そして、この時には、町の境へお注連《しめ》と弊をかけた竹笹を立て、お礼を挟んで置くふうが昔から続いております。
 家々の軒下に、悪病除けや悪魔祓いのまじないに、大蒜《にんにく》や八つ手、辛子などをつるしたりもします。海岸の家には骨のある貝(悪鬼貝)を吊るしたりするところもあります。

   祟る家  35-35
 この吉良川の東ノ川を奥へ奥へとつけて行きますと、日向《ひなた》という山奥の小さい部落に行きあたります。この日向から、小股越《こまたご》えという所を越すと、佐喜浜町へとんとん下りて出る山道がございます。昔から佐喜浜の魚売りが、山越にこの山奥の大平じゃとか東谷じゃとかいう里へ、籠を担うて売りに来ます。町分より魚の値段が安いということがあったりするほどでございます。と言いますのは、佐喜浜まで灘回り(註、室戸岬を回ること)をすると八里も歩かねばなりませんが、小股越えですとわずか三里と言いますから、こういうこともあると思います。
 この日向に聖《ひじり》さまというて、回国のお坊さんの霊を祭った小さいお堂がありまして、そのお宮がよく人に祟るというので、村のもんから恐れられております。これは昔、大阪方の片桐《かたぎり》且元《かつもと》(註、戦国時代から江戸初期の武将)という忠義もんが、頭をおろして僧形になり、この所まで落ちのびてきて、佐喜浜へ出る小道を土地の者に聞いたところ、聞かれた者が土地の猟師じゃって、この坊さんがどっさりお金を持っているということを知って、材木谷というへち(間違った)道を教えたと申します。坊さんが材木谷へ入っていくのを見送った猟師は、それからそっと後をつけていて、鉄砲で狙い撃ちにしたといいます。
 坊さんはびっくりして岩から滑って足下の川に落ち、濡れびしょになって上がってきましたが、そこをまた狙い撃ちにして、とうとう殺してしまいました。その時、白い鳩が三羽(註、聖の伝言)飛び立ったといいますが、死にぎわにお前の家はこれから金持ちになるか知らんが、尋常には暮らさせんというてこと切れたといいます。
 日向には、これに関係した家が二軒ありまして、それから祟りがえろうて、この家には唖の子が二人もできたり、不意死の人が何人も出たりしました。そこでお宮を建てて、聖さまというて、毎晩お光りをあげたりして三代ほどになっておりますが、一番近い不思議な出来事は十年ほど前のことでしつろうか、その家の殺生人が棕櫚《しゅろ》の箕《みの》のを着いて、聖さんのお堂のはたでこぼうじょり(註、小さく縮む)ましたところが、見る者が見ると、どう見ても猿に見える、そこで鉄砲で撃ったところが、昔わざした人の内の男じゃったということがありました。今じゃ、材木谷は聖谷《ひじりだに》ということになっちょります。こわい話でございます。
 

 以上を持ちまして、吉良川老媼夜譚は三十八話をもって終了致しました。長い間のご笑読有り難うございました。御礼を申し上げます。

 さて、次回より、徒然に室戸市の習俗・俗信などなどを綴ってみよう、と思っています。お楽しみ頂ければ幸いです。

                             津 室  儿
          

2013年8月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第40話 ウツボと徳爺さん


第40話  ウツボと徳爺さん

 それはそれは、とっとの昔の事じゃった。
室津郷山田の里に、川釣り、海釣り何でもござれの、徳助《とくすけ》と云う釣りキチ《上手な》爺さんが居りました、と。
 今年も梅雨が明け、待ちに待った夜釣りの季節が来ました。
 徳爺《とくじい》さんは去年の竹の旬、旧暦八月に伐った古参竹《こさんちく》や真竹《まだけ》で数本の釣竿を拵《こしら》え、準備をととのえて闇夜の晩を待ちかねていました。
 「今夜は雨も降るまい」と、
徳爺さんは呟きながら、小さなカンテラ(携帯ランプ)をさげ、里の東の三津坂を越え丸山にむかいました。
 丸山は、通称「明神《みょうじん》さん」(明神とは、日本神道の神の称号の一つ。神は仮の姿でなく、明らかな姿で現れている、と云う意味)と親しまれている北明神神社が鎮座まします。
 徳爺さん、いつも明神さんにお詣りをして鳥居の前のスマシロの磯にでかけました。
 この磯はクエやイセギ、大鯛まで釣れる、徳爺さん取っておきの穴場です。
そんな穴場ですが、
 「今夜は、とんと当たりが無いのぅ!」と、
ぼやいていますと。
 暮の六つ戌《いぬ》の刻《こく》(八時頃)にやっとひと当たりきました。
 「待てよ、この当たり・・・!」
たしかウツボの当たりと思うたが、尋常でない強い引きだ。徳爺さんは渾身の力を釣竿に込めました。竿は弧《こ》を描ききると、その反動で、いままでに見た事も無い大ウツボが飛沫《しぶき》を上げながら丸山の麓まで飛んでいきました。
 それから後《のち》は、何一つ当たりがありません。
「おかしな晩じゃのぅ。亥《い》の刻(十時)も近い、今夜は帰《いぬ》るとするか!」
 帰り支度を整えた徳爺さん、明神さんの鳥居前まで来ますと、ガサガサ、ガサガサと何やら騒がしい。カンテラを照らし、よくよく見ますと、さっきのウツボのそばに一頭のイノシシが倒れています。
 イノシシはここで寝ていたのか、そこへウツボが落ちてきて、急所に当たり運悪く死んでいました。
 ガサガサ聞こえた因《もと》は、ウツボがウサギの後ろ足に噛みつき、痛みに耐えかねたウサギは、そこら中堀廻っていました。そのウサギの足下には、これはこれは又、大きな山芋がむき出しに十数本も転がっています。

             絵  山本 清衣

 「ウツボとイノシシ、ウサギと山芋が一度に取れるとは、今日は何と良い日だろう」
 徳爺さん、これは苞《つと》(藁《わら》や茅《かや》で作る包み物)でも作らないとなかなか持ち切れないぞ。ふと前を見ますと、茅が茂っています。これは好都合とばかりに、茅を掴むと草刈り鎌《かま》でザックリと刈り取りました。すると茅の向こうに鳥の羽が見え、バタバタと騒いでいます。なんと、茅の中にキジが隠れていました。そのキジを捕らえ出すと、茅の中に白い物が転がっています。
 「ありゃりゃ、これはキジの卵だ」
卵は全部で十三個もありました。
 「はてさて、今日は何て良い日だ。ウツボとイノシシ、ウサギと山芋、キジとその卵十三個を得ました」
 「はてさて、どうやって持ち帰ろうか?」
 徳爺さんはイノシシを背中に背負い、ウツボとウサギを右手に持ちました。
 左手には茅の苞を持って、苞の中にはキジと山芋と卵が入っています。
 徳爺さん、
 「一人じゃこんなに多くは食い切れん。里人たちとお客をしよう」
など、あれこれ思案しながら家に帰りました。
 「うーん、重かったな」今夜はもう遅いきに明日の事としよう、と云って寝てしまいました。
 徳爺さん、早く起きますと昨夜《ゆうべ》の出来事を里人に触れ回りました。
 喜んだ里人たちは、儂はイノシシが好物じゃ、キジじゃ、ウサギじゃ、山芋じゃ、と云いながら大お客になったそうです。
 徳爺さん、これはきっと儂が良く働くので明神様がご褒美を下さったにちがいない。
 「謹厳実直」であれ、と名付けてくれた父母に感謝しながら、お礼参りを続けたと伝わっています。
                                                               文  津 室  儿 
          
 

2013年7月9日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 35-31 八幡様の御田祭り


 第38話  吉良川老媼夜譚  十二
   八幡様の御田祭  35-31
 八幡様の神祭には、昔は今のようにない、えらいもんでして、サアチ(皿鉢)料理を座敷いっぱいに並べて、来る人来る人誰彼なしに引っ張り上げて飲まし、町中あちこちしてそれはにぎやかなものでございました。この八幡様の神事の中には、一年はざめに(註、一年間隔・隔年)御田祭というのが五月三日にありまして、この時には拝殿の舞台を三方から囲んで、百に余る桟敷ができて、村は相出、大阪、神戸あたりの遠いからも見物に来て大賑わいでございます。
 そして、このお祭りの芝居は、お能のお芝居で、春の田植えから秋のとり入れまでのしぐさを、午後の一時から夕暮れまでかかってやるもので、人の人生のことを一日かかりでする芝居でございます。女猿楽があったり、翁三番神の能楽があったり、漁師の魚釣りがあったり、豊年を祝うて造った酒を絞りながらお産するところがあったり、武士の出陣をするところがあったり、合戦の駆け引きがあったりする色々の芝居をするのでございます。
 中でも安産の場では、昔から子のない女達が集まって、生まれた赤ん坊の人形(註、小さな寄せ木人形)これを三、四十人もの女の人達で、丸髷《まるまげ》もつぶれてしまうまで一生懸命にばいやい(奪い合い)をするのでございます。それは、ばい取った人に子が授かるという信心からでございます。昔はこのために、角力《すもう》取りまで雇うてくるもんがあったほどでございます。
 それから、この芝居に出る役者は、その役々で、お殿様になる家はお殿様、酒絞りになる家は酒絞り、田打ちに出る家は田打ちというふうに、代々役が決まっちょりまして、余所から代わって出ることができん(できない)ようになっちょります。普段にこの芝居の真似をしたりしたら、神罰が当たるじゃなどとも聞いております。
 註、御田祭規式帳の文中に、右秘文役者より外、必ず見ることなかれ、其の神罰重し以上。とある。

   七夕さま  35-32
 七夕さまの日には、古い稲葉に青葉の稲をまぜて、一たけ(丈・長さ)縄を七本ない(綯う)、四本を縦に三本を横に格子のようにして、二本の笹の間に掛け、これに田芋、おしらげ(洗米)、お鉄漿《はぐろ》、おはぐろ筆、紅、白粉、田芋の葉に包んだお水、ほおずき、茄子、ふろ(豆)などを吊るし、五色の糸や麻を引き、宵と朝とにご飯を炊いて供え、その晩は女子どもがおちや(註、祭日、縁日の前の晩に、一晩中お宮やお寺におこもりする事)じゃいうて楽しみにしたもんでございます。そして、、あくる朝には笹を海へ持っていってあましました。
 だいたい七夕さまという神さまは、むつかしい神さまじゃ、ということでございまして、平生機《はた》の道具はこれを七夕道具というて、いらんようになっても、めったな所に棄てられん、必ず神藪へ持っていて棄てるもんということになっていて、人を呪うにも筬《おさ》(機織りの道具)をつかうほどでございます。お供えした茄子は、いびら(疣《いぼ》)につけたら治るというて、子供の時分には割ってその汁を塗ったたりしたもんで、腰から下の病気も七夕さまの日にお願をかけたら治るなどというたもんでございます。

   盆踊り  35-33
 お盆には、十三日から十六日まで門へ高ぼていうて、高い竹の先へ松明をつけて焚いたもんでございます。死んだ人の魂が帰ってくるのを迎えるためで、初盆の家ではきれいな燈籠をつるします。
 昔の盆踊りは賑やかなものでございまして、十四、五歳の頃でしつろうか、この家の西隣に昔の番屋跡の広場があって、そこへ地下の若い者らが集まって踊ったり、浜の広場で踊ったりしたものでございます。
 この時には、初盆の家から「入り踊り」いうて、広場へ供養のための花や尾のついた燈籠を出してつりましたが、それが十も二十もあって、真ん中につき臼を据えて、男の口説きがおって、娘らがいんげん笠を被《かぶ》り、黒着物へ紙で紋を付けたり、振り袖姿になったりして、二重も三重もの輪になって賑やかに踊ったものでございます。若い衆らは、徳利の酒を口移しで元気をつけて、一晩中を踊り明かして、それは楽しいものでございました。
 初盆の家では、それで供養ができたいうて、子供らに手拭いや鉛筆を持って来て配ったりしたものでございます。

                           写  津 室  儿
          

2013年7月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第39話 千両箱・両栄橋


第39話  千両箱・両栄橋

 むかしも昔、室戸の奈良師に、松吉という親父《おやじ》に二人の息子、竹吉、梅吉という松竹梅揃った、めでたい名の貧しい漁師一家があった。
 とある日、松吉はお城下へ用事に出て、兄弟で漁に出かけた。
 さて、船が沖へ出ると、時化《しけ》上がりで色んな物が流れてくる。竹吉が、
 「おい梅吉、よう見よれよ、千両箱が流れてくるかもしれんぞ!」
 「そうかえ」と答えた梅吉
 「ところで兄やん、千両箱を拾うたら、どう分けりゃー」
 竹吉、「うん、親父に二百両、あとは俺が五百両、お前が三百両・・・・・よ」
 「そんな阿呆な、わしが拾うて三百両か」
 「そこが兄と弟のちがいよ、辛抱せぇ」
 「わしが見つけたときにゃ、こっちに權利がある。それを兄じゃいうて、よけ取るとは馬鹿らしい。仕事が出来るか・・・!、わしゃいんで寝る」
 「そうか、おらも一人じゃ漁が出来んき、いぬる」
 とうとう、竹吉と梅吉は漁をやめ帰りだした、と。
 一方、松吉はお城下の用事を早々と終え、沖を眺めながら帰りよったら、兄弟船がもんて来よる(ありゃ、どうした事じゃろ)いうて首をひねりよったが、やがて船が戻り着くと、飛んで行って、
 親父、「おい、どうしたなら・・・!」
 「親父《おと》やん、千両箱が」
 親父、「シーッ、声が高い、誰ぞに聞こえたらいかん。早う家へいのぅ」
 親父は、たかで目を光らせて聞いたと。
 「ほんで千両箱は・・・!」
 「それが拾うたらえいけんど、拾わん内から、拾うたらどうすりゃいう事で、いいやいに成って漁をやめてもんて来た」
 親父、「この阿呆らが、なんぼいうたち拾わん内から喧嘩して、漁をやめてもんて来るち、呆れた奴じゃ」
 たまるか松吉はカンカンに怒って、棒を振り上げもって二人を追っかけた。そこで竹吉、梅吉兄弟は飛び逃げたそうな・・・・・!。
 さて、〈千両箱を、見たこともない、持った事もない、又その重さも知らない貧乏漁師一家にとって、この日は至福の一日では無かったろうか・・・!〉
絵  山本 清衣
  両栄橋
 室津川の河口(水尻)は、室津の丸山・津照寺を境に東側を流れ、今に字名《あざな》は南新町・後免水尻として残っている。
 その川筋を今様に変えたのは、最蔵坊こと最勝坊(小笠原一学は、石見銀山で知られる石見の国(島根県)の出身で、元安芸の国(広島県)の毛利元就の家臣であったが、出家して、六部として諸国を行脚し、当地に錫杖を休めた。
 当時、川尻のわずかな船溜まりを素掘りした。これが室津港築港の起こりで、元和《げんな》六(一六二○)年のことであった。しかし、たび重なる洪水で土砂が港に堆積するため、船がかりが出来ない。そこで、最蔵坊は浦人と大凡《おおよそ》二年間に及ぶ協議の末、川筋を津照寺の西側に付け替えることを決める、寛永十六(一六三九)年のことであった。そこは泥岩のため、鑿《のみ》と鎚《つち》の人力で、二年を費いやした難工事であった。橋は室津・浮津に面していることから、両面橋と名付けて竣工した。
 浦人の喜びも束の間、心無い者が悪ふざけに言った一言が現実のものとなった。
 それは、雨のしょぼしょぼ降る丑三《うしみ》つ時《どき》、この橋を渡ると両面の化け物が出て、川に引き込む、といって、実《まこと》しやかに恐れられた。
 ある夜、母の使いで浮津に出された娘、さびしい寂しいと思って、化け物のことを思いながら橋を渡っていた。すると、後ろから一人の老婆が来た。娘は、まぁ連れが出来て嬉しい、とほくそ笑んだ。
 「ほんとう、わたしは一人で寂しゅうてたまりませざった。この辺に両面の化け物が出ると聞いています。、お婆さんが来て、本当に寛《くつろ》ぎました、よかった良かった」と言いますと、
 老婆は、
 「ありゃ、そりゃわたしかよ!」と言って、振り向いた後ろ頭に目口があった、と言う。
 最蔵坊は両浦の守護神として、砂岩二尺五寸の道祖神(災厄を防ぐ神)に両面の化け物を封じ込め、橋のたもとに建立した。
 そして、室津、浮津、両浦がいつまでも共に栄えることを祈願して、両栄橋と名付けた、という。
 道祖神は、今なを近隣住民に花を手向けられ祀られている。

                                           文  津 室  儿