2011年10月15日土曜日

   第8話 亀ヶ淵と仁木義長


亀ヶ淵と仁木義長


    亀ヶ淵と仁木義長

 この話は、足利尊氏が京都に室町幕府を開いた頃で、かれこれ六百七十有余年昔のこと。
  羽根川を遡ること二里半(一0㎞)、北生《きたおい》の里にであう。この里に、そりゃたいそう美しい娘がおった。年頃は近づくものの、なかなか婿になる者がいない。その訳は娘の両親が「我が家より格式の高い家柄の者でなければ嫁にやらぬ」と息巻いていたからだった。そのため里の若い衆は、誰一人として娘に近寄らなかった。
 今年も夏は長《た》け、秋風が身に凍み、紅葉が彩りを深めはじめた。栂林《とがばやし》や赤松林から聞こえる牡鹿の妻恋う歌は、胸に染み透る悲しげな響き。娘はこの歌を聞くたびに物憂げに沈む。牡鹿は「カーン・カーンヒョー」と甲高《かんだか》く鳴き誘う。雌鹿は「キーン・キーン」と等間隔に鳴き応えていた。
 万葉集・読み人知らずに「このころの 秋の朝明《あさけ》に 霧隠《きりこも》り 妻呼ぶ鹿の 声のさやけき」と娘の心境そのままに詠んだ歌がある。「ああ、こうしている内にも、私は私はだんだん歳を重ねてしまう。私を妻にと言ってくれる若い衆は居ないだろうか!!!」
ああ、眠られぬ夜が今夜もつづく、溜め息がつのる夜ごとであった。
 やがて、北生の里にも冬は去り、春が訪れた。ある春霞の深い夜のことであった。生暖かい風が吹いたかと思うと、娘は夢とも現《うつつ》とも定かで無い内に、媾合《こうごう》を交わしたように思った。我に返ると、浅葱色《あさぎいろ》の狩衣《かりぎぬ》を着た若者がそばにいた。若者は北生の里ではついぞ見かけぬ優雅な物腰、優しい言葉を重ね重ね娘に囁きかけた。娘の心はいつしか恥じらいも解け、若者を慕いはじめた。
 若者は雨の夜も、嵐の夜も、夜ごと夜ごと通いつめた。いつとはなく、娘の顔は青ざめ身体に異変が起こりはじめ、日増しに痩せてきた。娘の母親が案じて、「おまえ、どこか身体が悪いのではないか」と聞くが、娘はそのたびに首を振った。母親は娘の様子をいぶかしみ、誰か忍んでくる男でもいるのではないか、と様子を窺うことにした。
 その夜のことである。娘の部屋を窺っていると、ふいに生暖かい風が吹いてきた。母親は不思議に眠気《ねむけ》を深くもよおした。
「眠ってはならん、眠ってはならん」と、我が身に言い聞かせたが、気が付いてみると夜は明けていた。こうした晩が幾夜か続き、娘の顔色はますます青ざめていった。 母親は、生暖かい風が吹き眠く成るたびに、我が身の膝《ひざ》に錐《きり》を刺し、痛さで眠らぬように我慢した。娘の部屋の様子をそっと窺っていると、浅葱色の狩衣を着た若者が現われた。
 翌朝、母親は娘を呼んだ。「昨夜、おまえのもとに通って来た男は、何処の誰じゃ」と尋ねた。娘は俯《うつむ》いたまま答えなかった。母親は叱りなだめすかして問い詰める、と娘はようやく顔を赤らめて答えた。「それが、どこに住まわれて居るのやら、名は何と仰《おっしゃ》るのやら明かして下さらないのです」母親は呆れ顔で娘の顔を見た。母親が物陰から見た、若者の狩衣姿は身分の高い家柄の者に思えた。もし、そうであれば婿にしてもよいが、若者が何処の誰か分からないのが案じられた。何とか突き止める思案のすえ、娘に「よいか、母の言う通りにするのだよ」と何ごとか言いつけた。娘は心細げにうなずいた。
 その夜、いつもの時刻に若者が来た。逢瀬の時間は短い。若者が帰る時、娘は若者に気づかれないように、そっと麻糸の緒環《おだまき》を付けた針を狩衣の襟のあたりに刺しおいた。若者が姿をけすと、母親と一緒に糸を辿り後を追った。緒環はどこまでも続いた。赤松林や栂林を抜けると川筋は二股に別れ、山道も東西に別れていた。緒環は西股に沿い、辿ると昼なお暗い大きな亀ヶ淵へと続いていた。
 そのとき、淵の底から大きな呻《うめ》き声が聞こえた。その声に娘はいたたまれない。若者の身に何ごとか起きたのでは、と思わず声をかけた。「どうなされたのです。私はあなたの住むところを知りたく、こうして来ました」淵の底から苦しげな若者の声が答えた。「わしはいま、人の姿ではない。もし、おまえがわしの姿を見たなら、息も絶えん思いをするだろう。だが、よくここまで尋ねて来てくれた。そのことだけは忘れまい」
 娘は母親がしきりに止めるのもきかず、「たとえ、どのようなお姿であろうと驚きませぬ。どうぞ、出て来てくだされ。お姿を見せて下され」すると、俄《にわか》に淵の水面《みなも》がごうごうと逆巻き、長さ十四、五丈(45m)もあるかと思える大蛇がずりずりと這い出てきた。
 さすがに娘は、その場にへたへたと座り込んでしまった。あの狩衣姿の若者が、こんなにも恐ろしい姿の大蛇であったとは、と生きた心地もしなかった。大蛇は娘のそば近くに寄り添い、満面に涙を浮べた。大蛇の喉仏《のどぼとけ》に娘が刺した針が突き刺さっていた。娘は恐ろしさで逃げ去ろうとしたが、幾夜も契りを交わした仲だもの、呻き声をあげている大蛇を見るにみかねて、喉仏の針を抜いた。
「わしは間もなく死ぬが、おまえの腹の中には、すでに五カ月の男の子が宿っている。ただちに京に上り、都から三河の国に下り、そこをその子の産土《うぶすな》の地にして欲しい。それが叶えば、その子は、人に秀で賢く、心の寛《ひろ》く強い若者に育ち、いずれ、その子は足利尊氏の四天王の一人になろう。恐ろしき者の種と言って、どうか捨ててしまわないでくれ」、と大蛇は言い残すと息絶えた。
 やがて娘は旅立ち、都から三河の国に入ると産気づき男の子を産み落とした。その子は成長するにつれ、娘が契りを交わした狩衣姿の若者と瓜二つ、猛々しく成長した。のちには大蛇の予言通り、四天王の一人りと騒がれ、武名を欲しいままにした右京大夫仁木義長《にきよしなが》がその人という。義長の右胸には大蛇の宿し印か、蛇の頭模様がくっきりとあったという。
 羽根集落の里人は、義長を今もって、平家の落人と思っている様だが、実は清和天皇の孫にあたる、源満仲に端を発した源氏である。
 義長は尊氏に従って転戦し、箱根竹下の戦い後、尊氏の九州落ちにしたがい多々羅浜で菊池氏を敗った。この時、勇戦し直義から鎧《よろい》を賜り、その後、八代《やつしろ》まで進攻し九州探題《たんだい》(鎌倉・室町幕府の職名)となった。この後も、各地に転戦戦功を重ね三河・伊勢・伊賀・志摩の四ヶ国の守護職《しゅごしき》となったが、性質極めて荒く、鶴岡八幡社中で人を殺め男山の神人《しんじん》(神のような気高い人)を殺害し、伊勢の神路山《かみじやま》で平然と狩を行い、五十鈴川で漁を行うなど、神域を恐れぬ強者《つわもの》であった。
 その後、足利尊氏兄弟、諸将の不仲にことを構えたが失脚した。伊勢・長野城に籠ること二年、兵を失い勢い極まって正平一九年(一三六三)三月、後村上《ごむらかみ》天皇に帰順したが、翌年再び足利義詮《よしあきら》に降伏をした。さすがに、強力無双の義長も果てしない戦に無情感がつのったか、これを機に仏教に帰依した。後に京都に帰ると薙髪《ちはつ》(剃髪)した。戦いに疲れ果ててのことか、齢を重ね思慕の念に駆られたのか、未だ訪れたことの無い、愛《うるわ》しい父母の里、北生を終《つい》の住み処と定め、亀山天皇の天授年間に一族二百六十三名と共に、阿波の国撫養《むや》より間道づたいに羽根川の支流「小川《こご》」の上流、御屋敷(地名)に居を構えたが、後に北生の里に移り、稗《ひえ》・田芋《たいも》・粟《あわ》を作り露命を繋いだ。その間、練武を忘れず、弓場・馬場を設け、天授二年(一三七五)に北生の里で没した。
 里人は、義長の鎧兜《よろいかぶと》をおさめる祠堂《しどう》を建てて義長神社とした。夏祭りを旧暦六月一日に、秋の大祭は十一月第一の未申《ひつじさる》の日と定め、沐浴斎戒《もくよくさいかい》(心の不浄・身の過ちを戒める意)して里芋でお鏡餅二百六十三個と幣《へい》を二百六十三本をつくり、玄米の御神酒を供えて、今なお、お祭りを続けている。

           文 津 室  儿
           絵 山 本 清衣
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2011年10月1日土曜日

第7話  夢枕の女


       夢枕の女

 戦国時代が終り、太平の世に移った江戸時代初頭の頃と言うから、今から三百七~八十年前の事である。室戸岬の小高い丘に、鬼塚七郎衛門と言う領主の城があったそうな。
 そのころ、土佐の海には沢山の鯨がやってきた。土佐には室戸だけに津呂《つろ》組と浮津《うきつ》組の二つの鯨捕りの組があった。
 ある年の春先、鯨の群れが室戸の沖を通るという知らせが届いた。そこで領主は家来の川中吉左衛門を呼び、鯨捕りの指揮を命じた。吉左衛門がすっかり準備を終えたのは、もうかなり夜も更けてからであった。
すぐに床につき、とろとろっと微睡《まどろ》んだころ、一人の美しい女が吉左衛門の枕元へ座り、丁寧に頭を下げ、「明日の朝、鯨捕りがあるそうですが、私はそのころ室戸の沖を通らねばなりません。どうか、その日を少し延ばして下さい。私はまもなく子供を産みます。子供が産まれたら、いつでもこの命を差し上げますから・・・・・。」と女はこう言って、何度も何度も頭を下げて出ていったそうな。
 やがて朝になった。吉左衛門は夢のことを思い出すと、心が重く痛んだ。しかし浜へ出て、勇ましく鳴る太鼓の音、風にはためく勢子船の旗を見ると、いつの間にか夢の女のことは忘れてしまっていた。
 しばらくすると、狼煙《のろし》が上がる、鯨を見付けた標しだ。勢子船がいっせいに沖に向かった。一番羽差しから、二番、三番羽差しへと、次々に十三番目の羽差しまでが、鯨を的に空に向け銛を投げ放った。数十本の銛を受け傷ついた鯨は深く潜り、水面高く飛び跳ね、もがきながら血で海を赤く染めた。数時間の戦いは終る。鯨は持双船《もっそうぶね》に結えられた。三百人の漁師がジョウラク・ジョウラクと唱え、鯨の霊を慰める中、大剣でとどめが刺され、鯨浜にはこばれた。
 その夜、吉左衛門はすすり泣く女の声に目を覚ました。枕元に昨夜《ゆうべ》の女が血塗れ姿で座っていた。「貴方は、何と言う酷《ひど》い方でしょう。私の願いをとうとう聞いて下さいませんでした。私の子供は広い広い海原を知らずに、とうとう死んでしまいました。」女はさめざめと泣きながら、こう言ったそうな。
 明くる朝、吉左衛門が鯨浜に出ると、昨日捕った鯨が並べてあった。その中にお腹に子を宿した雌鯨がおったそうな。それを見ると吉左衛門は、可哀想なことをした、と心から悔やんだ。
 そこで領主に願い出て、孕《はら》み子を貰い受け、大海原が見渡せる小高い丘に、洗米や果物・お神酒《みき》を供えて葬り、七日七夜は心無い人間や獣に荒らされないように、番人を立て守ったと語り継がれている。
 
注記 
 孕み子の葬り方は三通りあった。一つは先に記した、小高い丘であるが、今一つは水葬と浜辺の砂を深く掘り葬むる。なお、孕み子が雄の時は、一番羽差しの妻の赤い腰巻きに包み、引き潮に乗じて葬る。雌の場合は、同じく一番羽差しの羽織で包んで葬ったと伝わる。
 母鯨が言い遺した「広い広い海原を知らずに死んだわが子」との言葉には、鯨の母性愛や鯨に畏怖畏敬の念もって接する漁師の心根が伝わる。この孕み子の弔いは、吉左衛門の「夢枕の女」に始まり古式捕鯨が終焉する明治三十九(一九0六)年まで続けられたという。
なお、水葬と小高い丘を、どのように仕分けて葬ったのか、今は分からない。
             
         文  津 室  儿
         絵  山 本 清衣

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