2013年6月15日土曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十一 35-27〜30


 第38話  吉良川老媼夜譚  十一
   贈答の習慣  35-27
 吉良川には、魚の鰭《ひれ》や尻尾を切って、壁や戸袋に貼って乾かしておいて、これを祝いごとの赤飯や餅に添えて贈るふうが、今にございます。これはなまぐさ(生魚・魚類)の代わり意味で、時にはなるてん(南天)の枝を添えていくこともございましす。なるてんの葉は、祝いの所へは、葉を表向きにするもので、仏用(仏事)の時は俯《うつむ》けにするものというております。
 そして、物を贈られて入れもんをお返しする時には、オトメ(贈り物を受けた時、その容器に入れるお返しの品)というて、白紙かマッチの実、ツケギ(マッチの火を薪に移し付けるもの)などを入れて返すものですが、これはまた貰うというしるしで、死んだ時には入れるもんではございません。

   正月行事  35-28
 ここではお正月に飾るお松は、みんな自分の山から切ってきて、左に雄松、右に雌松を立て、軒下にダイダイとシダの葉を飾った太いお注連《しめ》をつけます。正月中に焚く薪もその時に切ってきますが、だいたいこの町分では、一年中の薪は薪山いうて地下の共有山が一里ばあ奥の中ノ川という所にあって、正月前には春木というて、商売に切っちゃあいかんが、家でいるのなら、なんぼ切ってもかまわんことになっちょりました。このごろじゃあ奥の人に頼んでおくと、切ってきてくれることになっちょりまっす。
 若水迎えは、一年中のお礼ととして共同井戸へ行ってお水を迎えてくることで、この時にはお寺から毎年お歳暮いうて担桶《たご》に杓《しゃく》(柄杓)の絵のついたお札を配ってくれますが、これにお米を添えて、女子が汲に行きます。若水迎えに他人に会うといかんというて、夜明けも早うに出掛けていって、もし他人に出会うようなことがあったら、そっと隠れていたりしたもんでございます。そうして、汲む時には開き方に向いて三《み》釣瓶《つるべ》に汲むものじゃいいまして、「福汲む徳汲む幸い汲む」と唱えたりしたものでございます。この頃の若い人のすることじゃございません。
 正月の物貰いには、毎年ホメ(註、福男・三河万歳)いうもんが、「目出度や目出度やこのとの門は」どやろこやろいうて家ごとに回ってきて、シラゲ(洗米)や米、お餅、一文銭などを貰うていたものでございます。
 面白かったのは、正月十四日の「かいつり・粥釣」(註、旧暦正月十四日の晩に行われた小正月の民俗行事。一年中の厄を祓うための粥をたくために、子供が大勢連れだって家々を回り、米や小銭をなどを貰い歩いた)で、若い衆やふざけたチュウコ(註、妻のある中年の男)らが、顔をお白粉で作って化けて、三人四人とおどけをしながら、三味線を弾いたりして、袋持ちを連れて若餅(註、正月三が日の間につく餅。又、小正月のためにつく餅)を貰いにきたものでございます。

   亥の子さま  35-29
 この日には、町の子供らが縄を網にしたものへ石を入れちょいて、皆で引っ張っていって、家ごとの門で亥の子の歌をうとうて回って、餅を貰うたもんでございました。百姓の家へいたら、
  亥の子亥の子
  亥の子てんばの 餅をくらべてみたら
         エイトヤーエイトヤー
  この家は   なんでこそ仕上げた
  大けな大けな おん百姓で仕上げた
 と歌い、商売の店へいたら、「帳や算盤《そろばん》で仕上げた」いうて回ったものでございました。けれども、こんな事も昔のことで、今の子供にそんなことをするものはございません。
 註、亥の子様とは、西日本で陰暦十月亥の日に行われる行事で、内容は文中に同じです。 

   節分  35-30
 この日には、浜へいてまなご(小石)の潮でもまれて、綺麗になったのを開き方に向いて拾うてきて、米や大豆といっしょに煎って、お床へ祭っちょいて、その晩に「鬼は外福は内」いうてまいた(撒く)もんで、病気のあるもんは、その大豆を年の数だけ紙に包んで四つ辻へ持っていって、意味を語って捨ててきたもんでございます。そうすると、病気が落ちる(治る)というのでございました。

                                                                写  津 室  儿
          

2013年6月4日火曜日

室戸市 吉良川老媼夜譚 十 35-24〜26


   吉良川老媼夜譚  十
   鯨  35-24
 明治四十年頃までは、鯨がまだこの浜から見えるばあの所へさいさい寄ってきて、西寺(行当岬)の山見がみつけると、鯨船が何隻も何隻も出て来て、これを室津の方(網代へ)へ追うもんでございます。
 室津や津呂では、一時に二本ぐらい鯨が捕れると、肉のはけどころ(売り先がない)がのうて百匁(375㌘)五厘ほどであったので、一円も出したら車力一台で引いて戻らんといかんほどでございました。捕鯨の会社では、鯨を轆轤《ろくろ》にかけて巻き上げては切ったものでございます。肉をさばく(解体)に一本の鯨で、長須鯨などになると、三日も四日もかかったもんで、その肉切りの場がえらいことで、浜から川からいっぱいに切りさがすので、それを盗み切りして取り合うので、鯨方の者が二つ折りの手拭いの鉢巻き姿で、コッポ(竹の棒)を持ってどやし(叱る)つけたものです。叩かれる方では破れドンザ(漁夫の仕事着)を重ね着して、叩かれてもポンポン鳴るばあ着込んで、叩かれても叩かれても集まって盗み取りするのが、そんな場所での威勢でもありました。
 この盗んだ肉と換えてもらうために、吉良川からも女らが餅やその他のご馳走をこしらえて、笊《ざる》や籠《かご》を担うて一理も二里も歩いて出かけたもので、室戸の新村あたりにウルメやムロが一匹八厘ぐらいで、普通のは五厘で買えたものでございます。
 忘れもしませんが、捕鯨の大納屋でえらいて(会社の重役連)が集まっちょって、酒の給仕をしてくれやというて、後で抱えるばあの肉をほうってくれたことがございました。銃殺捕鯨が始まってからは、一時捕れるのが多うて、肉のはけるみちがのうて、五円持っていて、車力いっぱいによう引かんばあ貰うたこともございました。

   淡島さま  35-25
 昔はお遍土《へんど》さんの中に、淡島さまいうて、女のご神体を箱に納めて背中に負い、杖の先へ古い簪《かんざし》から櫛《くし》、笄《こうがい》、飾りなどを括りつけて回って来るのがございました。下の病気を持った女が、頭の髪のものをこの遍土にあずけて、紀州の加田の淡島さまに納めて貰うためでございます。それで、今に小娘の子らが頭に簪を幾つも付けちょりますと、「淡島さまのような」といいますらあ。
 信心というものは、して損のいくものではないと思うちょりますが、私は二十四、五歳の頃大阪へ行く汽船の中で急に消渇《しょうかち》(咽が渇き、小便が出なくなる病気)になって、便所に行こうにも満員の船でなかなか出られず、やっと人をわけて便所へ入っても、もう一生懸命に淡島さまにお願いをこめよりましたところが、それから掻き洗うように治ったことがございました。そこで、高野山へ行ったついでに、紀州の加田へもいって、淡島さまにお礼参りをしましたが、この淡島さまはもともと身分の高い方でしたが、白血長血で紀州に流されたということでございました。受けてきたお守りの中を見たら、ご神体はお雛様でございました。

   お接待  35-26 
 昔は、だれも一度はお四国回りをしたもんでございます。お四国を回ってきたら、世の中の酸い甘いが分かるなどというたもんで、春になったらこの街道を娘さんからお婆さん、中年の男女というように毎日二十、三十人と団体になって通ったもんでございました。宿屋も満員でございました。
 三月二十一日のお大師様の日には、お接待いうて、村中から人が出て、米を持ってくる、お餅を持ってくる、お茶を出すというふうに、えらいもんでした。西山台地の人も町へまで出て来て、お接待をしたもんで、遍土さんらはお接待を受けるたびに色々のお礼を呉れたものでございます。阿波や讃岐では、船も車もただにしたといいます。

                         写   津 室  儿
          

2013年6月2日日曜日

室戸市の民話伝説 第38話 月と竜宮城へ旅した傘屋


 第38話  月と竜宮城へ旅した傘屋

 室戸浦は浮津の西の方に、何代か続く仁介屋《じんすけや》という屋号の和傘屋があった。往時の主人の仁介は、京都の老舗和傘屋で丁稚奉公十年を勤め上げ、番傘(骨太で丈夫な傘)蛇の目傘(開いた時に白い輪の模様が蛇の目に似ている事から)端折《つまおり》傘(傘骨の下端が内へ曲がっている長柄の傘。公家・僧侶・武家などの用いたもの。野点《のだて》によく使われる)の技術を習得して帰郷した。
 今年も梅雨をひかえた五月《さつき》、仁介の店に番傘の注文がどっさりきた。風の強い室戸では、骨太の傘骨に傘布を張り、柿渋《かきしぶ》、亜麻油《あまゆ》、桐油《とうゆ》を塗っては重ね塗り頑丈な傘を作っていた。仁介は店裏《たなうら》の松林を抜け、広々と広がる鯨浜で干しておった。仁介は、風に傘を飛ばされまいと、傘を紐で括り、その紐を体に結びつけ、うつらうつらと五月晴れに誘われるがままに昼寝を楽しんでおった。

                      絵  山本 清衣

 すると、にわかに空が暗くなり沖の方から竜巻が吹き、あっというまに仁介は傘ごと空へ巻き上げられてしもうた。
 ふわりこふわりこ、空を漂うこと実に七日七夜、やっと着いた所が何とお月様だった。お月様には木の一本、草の一つも生えてなく緑も無く、それはそれは石ころだらけの、淋しい所だった。
 仁介は、こりゃ困ったと思いながら、そこここと歩いて行くと、一つの洞穴があった。恐る恐る入って行くと、中に白髪のお婆さんが居って、石臼《いしうす》を碾《ひい》ておった。
 仁介は「もしもしお婆さんや、何ぞ食べる物はなかろうか。わしゃ腹が減って減ってのぅ・・・!」粗末な物でよいがめぐんでくれまいか、と言うて聞くと、
 お婆さんは、「そうか、腹が減っちょるか、よしよし、いま探してきちゃる。それまでこの石臼を碾きよってくれや。あんまりがいに碾かれんぞよ」
 こう言い残すとお婆さんは、どこぞへ行ってしもうた。仁介が、石臼をちょいと碾くと、ゴロゴロと鳴る。「こりゃ面白い。もうちっくと碾いちゃろ」と思うて、ゴンゴン碾きだした。すると、ぴっか!ぴっか!、と光だし光と一緒にどっしゃーんと、月から真っ逆さまに落ちてしもうた。
 たまるか、仁介は、とっと海の底までブクブクブクブクと海の底まで沈んでしもうた。
 すると、そこへ乙姫様が出て来て、「ようこそいらっしゃいました。さあさあ、どうぞこちらへ」と、言って、竜宮城へ案内された。竜宮城の綺麗なことと言ったら、それこそ目がくらむほどだった。
 ここで仁介は、朝に晩に美味しいご馳走をいただき、鯛《たい》や鮃《ひらめ》や鮹《たこ》の面白い踊りを見て楽しむ日毎であった。
 ところが仁介は、この竜宮城で一つだけ不思議なことがあった。それはお昼が過ぎた頃、どこからともなく、ぽつんと一つ桃のような物が落ちてくる。その、美味しそうな事といったらありゃしない。仁介は食べたくて食べたくてならん。そこで、乙姫様に聞いてみた。
 「乙姫様・・・!、あの桃を食べてもよろしゅうございますか・・・!」
 乙姫様は「いけません。あの桃は絶対に食べてはいけません」
 こう言って、乙姫様からかたく止められました。ところが、人間と言う者、仁介は面白いもので、せられん、見られん、と言われると、かえってしたくなったり、見たくなるものであります。
 ある日、仁介は一つぐらいなら良いだろう、とかっぷり食いついた。すると、たちまち仁介の体は、羽が生えたように軽くなって、上へ上へと昇り始め、海の上へぽっかりと浮かんでしもうた。
 なんとそこには、漁船がいっぱい居って、「人の形をした魚が釣れた。人魚じゃ、人魚じゃ」と、漁師たちが大騒ぎ。
 そこで仁介は、「いや、わしゃ人間じゃ。室戸浦の傘屋で仁介という者じゃ」と叫んだ。
 漁師は「そういやぁ、まっこと、昔、そんな傘屋があった、と聞いちょる」といって、室戸浦へ連れ戻ってくれた。所が、何様何百年も過ぎていて、浦はすっかり変わって、知り人は一人もおらん。仁介は「ほんなら、わしの墓もできちょるじゃろ。ひとつ、墓へ行ってみよう」こう言うて、松並木に埋もれた墓地へ行ってみた。
 すると、かたむきかけた墓があちこちにあり、表面に苔がべったり生え文字が読めない。そこで、そっちに回りこっちに回りして、苔《こけ》を落としたり、草を刈っていると、つい足を滑らせて、崖から真っ逆さまに奈落へ落ちていった。恐《おそ》れ戦《おのの》いている仁介の頭に、松毬《まつかさ》の雨が降りそそぎ、その痛さに夢が覚めた。
                                                                 文  津 室  儿