2014年12月7日日曜日

室戸市の民話伝説 第56話 最蔵坊こと小笠原一學

  第56話  最蔵坊こと小笠原一学

 津呂・室津両港の開鑿《かいさく》の始祖が、最蔵坊であることを市井では余り知られていない。最蔵坊《さいぞうぼう》(最勝上人)こと小笠原一學《いちがく》は、石見国(銀山・島根県)の出身で毛利秀元に仕えた武将であった。戦いに明け暮れる戦乱に無常をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を離れ、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を廻国し、一国一ヵ所の社寺に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。六十六部廻国聖の起源は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の前世説によるものが有力であるが、判明していない。
 最蔵坊が六部(六部とは六十六部を縮めた言葉)姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年に修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を目の当たりにして嘆き、寺の再興に取り掛かった。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を幾度となく目にした。最蔵坊は、凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、津呂港の開鑿を自ら企画した。
 最蔵坊の土木技術は、祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴《たたら》吹きなど「土木工事と冶金《やきん》・工具の制作」や銀の積み出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
               絵 山本 清衣
 当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義公に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。
 後の土佐藩家老・野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組んだという。
 その工法は、槌《つち》や鑿《のみ》・玄能《げんのう》や楔《くさび》を用いて開鑿し、港口に堰《せき》を作り、空堀をした後に堰を切る(堰を壊し取除く)方法をとり、人力を持つて僅か一ヵ年という驚異的な突貫工事で竣工している。
 津呂港の竣工後の三年、元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫《しゅんせつ》し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
 尚、津呂港・室津港間の距離、僅か二㌖内に同規模の二つの港の必要性に付いては、江戸幕府から厳しく問い質されている。
 津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、津呂港に避難出来ない時は室津港に避難し、室津港に避難出来ない時は津呂港に避難する、という。両港をもって、避難港としての万全をつくす事を訴えた。この訴えが功を奏した事は言うまでもない。その役割は、約四百年後の今も果たし続けている。
 その後、繰り返される南海地震による地盤の隆起によって、両港はその都度浅くなり、浚渫工事が繰り返されている。
 最蔵坊は室津港の完成を祝して、西波止場に礎石を埋める。寛永七(一六三〇)年七月吉日と刻んである。奇しくも、その礎石が昭和七(一九三二)年七月三十日、室津港ケーソン初進水の日に発見され、有に三百二年目の日の目だった。
 『ケーソンとは、防波堤などの水中構造物として使用され、或いは地下構造物を構築する際に用いられるコンクリート製又は鋼製の大型の箱のこと』
 最蔵坊の生誕日は分からぬが、逝去したのは当地で慶安元(一六三〇)年九月五日であった。その死の悼むは、津呂・室津両村民全てが共有した、と伝わる。
 室津港竣工を祝す礎石と最蔵坊の墓は、室津二六四八番地の願船寺の境内に鎮座し、住職によって手厚く祀られている。
 私ども市民は、津呂・室津両港の創始者・最蔵坊こと小笠原一学を今一度敬い、顕彰するべきであろう。

                            文  津 室  儿
         



 

2014年11月1日土曜日

 室戸市の民話伝説 第55話 幻の献上珊瑚

  第55話  幻の献上珊瑚

 我が国で、初めて珊瑚《さんご》の文字が記されている書物は和名類従抄《わみょうるいじゅしょう》である。この書物は平安時代中期に作られた辞書であり、承平年間(九三一~九三八)に、勤子内親王《きんしないしんのう》の求めに応じて、源順《みなもとのしたごう》が編纂したものである。
 さて、土佐には古くから左記のように歌われた俚謡《りよう》(里歌)がある。
  お月さん桃色 誰が言うた
   あまが言うた あまの口引き裂け
 又、
  お月灘桃色 誰が言うた
   海女が言うた 海女の口引き裂け
 この里歌の解釈に付いては諸説ありますが、拙子は、以下のように解釈したい。
 初めの句の発句「お月さん桃色」は、水面《みなも》に映る月が桃色に染まっている様子を吟じたもので、桃色珊瑚の豊さを誇張したものである、と思われる。
 二句目の「お月灘桃色」は、幡多郡大月町の月灘海域を指し桃色珊瑚が多く産することを吟じたものでありましょう。「誰が言った」か、との問い掛けに対して、「あまが言うた・海女が言うた」と答えています。前句の「あま」とは、女の子・良家の女児・幼子を指し、後句の海女は海に潜って魚介類や海藻等をとる女性であり、生業者が禁漁品を口にすることは無く、あま・誤植である!、と考えられる。
 なお「あま」とは土佐の方言である。(高知県方言辞典) 
 藩政時代から明治四(一八七一)年まで、珊瑚の採取は禁漁され厳しく取り締まっていた事が、「あまの口引き裂け」と、幼児の里歌まで禁じていた事で、計り知れよう。
 日本の宝石珊瑚は大別して、白色珊瑚・桃色珊瑚・赤色(血赤)珊瑚の三種類があり、日本人が最も珍重したのは桃色珊瑚である。
                         絵  山本 清衣
 土佐に置ける珊瑚の主要産地は、東は室戸半島周辺海域と西は足摺半島周辺海域である。室戸は赤色珊瑚が多く、足摺半島大月町月灘では桃色珊瑚が多く生息した。
 文化九年(一八一二)二月、元浦(現室戸市元)の庄屋奥宮三九郎が藩へ差出した口上覚えには、「勢子舟沖合い羽指の文丞が、下《さ》ヶ釣船でたまたま大ノ珊瑚樹差上候者ニ御座候由」『珊瑚に関する最も古い記録』(津呂捕鯨誌)より抜粋、また、南路志にも記述あり。 余影録には「室戸の人戎屋幸之丞が天保年間(一八三0~四三)に室戸岬付近に於いて釣りするに方り、偶々珊瑚の其の釣りにかゝるをみて、百方考案を加え、遂に創めて、珊瑚網を発見せしを、当時、藩政珊瑚の探採を禁じ之を使用することを得ず。後藩、其の禁を解くに及び、盛んに之が採取に従事し、従って一般に普及し、現今闔県《こうけん》(県下全て)使用する。云々(土佐資料)」と述べ、珊瑚網を創製した功績を称えている。参考資料・室戸町史・室戸市史下巻他
 以上、参考資料からして、初めて生業として珊瑚漁を始めたのは、室戸浦の住人、戎屋幸之丞である、と資料が語っている。
 はてさて、幻の献上珊瑚噺が生まれたのは、大正三(一九一四)年四月半ばの頃であつた、という。
 とある日、南新町後免の漁師・泉為太郎氏が、室戸岬沖海域の珊瑚の埋もれ礁《しょう》(珊瑚の生息域)、二十数カ所の内、白草《しらくさ》に山立てをして、珊瑚漁に掛かった。舟を潮流任せに打たせ四~五十分も経った頃、舟がぴたりと止まってしまった。為太郎は、初っぱなから海底《そこ》を掻くとは、何と情けなやと思いながらも、これも吉報の兆しと思い直して艫艪《ともろ》を取りだした。艪は、幅七寸(21cm)総長さ二十一~二尺(約七㍍)と、一般の艪よりは一回り大きく屈強な身体が求められたが、為太郎は小腕返しの艪捌きも鮮やかにこの艪を操った。
 四月と言えど、室戸路は限りなく夏に近く暑い。為太郎の顔から玉の汗が流れ出はじめた。時はどれほど経ったであろうか、そよそよりと四月の風が吹き始めた。その風に背を押されたのか、舟足が急に軽く早くなった。 為太郎は、底から網が離れたのを機に網を上げる。珊瑚礁は七~八十尋(約105~120㍍)の深さだ。珊瑚網を手繰り上げるには三~四十分掛かるであろうか、艪を押し網を浮かせて手繰り寄せ、そして又、艪を押して網を浮かせ手繰り寄せる。これを幾度となく繰り返すのである。屈強な漁師と言えど、大変な労働である。右舷に、柿渋で染めた麻の珊瑚網が、真っ赤に変わって大木の珊瑚樹を絡ませて上がってきた、という。
 それは、直径七~八寸(約22~3cm)、重さ四貫六百匁(17,194kg)の血赤珊瑚であった。
 これが大評判に成るのには、さほどの時間を要しなかった。来る日も来る日も毎日見物人が押し寄せた。為太郎は、珊瑚樹が余りにも大きすぎたので、家の中では置くところが無く、床の下の芋坪《いもつぼ》にゴザを敷いて中に入れ、見物人が来る度に芋坪から出して見せていた。
 所がある一夜、室戸町全域が豪雨に見舞われ、津照寺の本堂右脇が崩壊し、尚且つ本堂も崩壊の危機にあり、南新町、室津、郷の住民に全員集合との布告《ふれ》が出た。集まった住民は、御本尊舵取地蔵に雨の止むのをただただ祈った。その功徳か夜が白み掛ける頃には、豪雨も治まり本堂は無事であった。
 間もなく解散のふれも出、それぞれ家路に急いだ。その中には為太郎ももちろん居た。
 帰り着いた為太郎、何か嫌な予感がした。その予感は的中した。いつも珊瑚を置いてある芋坪を覗いてみる。珊瑚樹は一欠片の姿も無く、そこは蛻《もぬけ》の殻《から》だった。よくよく覗くと隣境の犬走りが掘り返され、大きな穴が芋坪に通じていた。
 為太郎が密かに描いた夢、この珊瑚で小皿を作り天皇陛下に献上することは、儚くつゆと消えてしまった。
 桃色・血赤珊瑚は、昔も今も人の心を引きつけて離さない魅惑の珊瑚樹である。

                            文  津 室  儿
                                      



2014年10月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第54話 四十寺山

  第54話  四十寺山

 弘法大師空海・幼名佐伯眞魚《さえきのまお》が、京の大学の学問に飽き足らず、延暦《えんれき》十一(七九二)年十九歳の頃より約五年間、山岳修験を続けた。 空海が二十四歳で著した戯曲「三教指帰《さんごうしいき》」には、自ら「阿國大瀧岳に躋《のぼ》り攀《よ》ぢ、土州室戸の崎に勤念《ごんねん》す。谷響きを惜しまず、明星来影す」とあり、室戸崎の洞窟「御厨人窟《みくろど》」や室戸山(現四十寺山)で虚空蔵求聞持法《こくぞうぐもんじほう》(この法は真言「真言とは大日教など密教経典に由来し、真実の意」を百万回唱えると、すべての経典を暗記できるという、ある種の記憶術である)を満行《まんぎょう》した、とされる。
 最御崎寺《ほつみさきじ》の寺伝によれば、空海は大同二(八0七)年、嵯峨天皇の勅願《ちょくがん》を受け本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開基したとされる。 最初に室戸山 明星院 最御崎寺 通称 東寺が創建された場所は今の四十寺山山頂であり、そこに奥の院を残し本堂を現在地・室戸半島先端に移したのは寛徳初年(1044)の頃だという。
 寺院は元来勤行・祈願の道場であるから、山中の勝地を選んで建立された。一時期、室戸山にはお堂が四十堂伽藍《がらん》が点在した、という。このお寺の数に因み、この頃より室戸山が四十寺山と言われだした、と伝う。
 青年眞魚は、阿波の大瀧岳で虚空蔵求聞持法を勤修し、更にここ室戸崎を勤行の地と定めて来訪した。それは、今を去る千二百二十有余年昔のことであった。
 眞魚は時を惜しみて、室戸崎の巌頭に座禅を組み、又、ある時は四十寺山山頂の巨巌にて座禅三昧する。
 勤行の最適地と選んだ室戸崎であるが、実際に座禅を組んでみると、この地には沢山の天魔や地の妖怪が魑魅魍魎《ちみもうりょう》とした世相で勤行の邪魔をした。
 しかし、大宇宙は眞魚の勤行に応えて、明星(明星は虚空蔵菩薩の化身)が飛来し眞魚の口に飛び込んだ。この時をもって悟った眞魚は、名を室戸崎の空と海に因み空海と号した。この時のことを空海は、
「御遺告《ごゆいごう》」に「土左《とさ》の室生門《むろと》の崎に寂暫《じゃくせき》す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来たりて、菩薩の威を顕し、仏法の無二を現ず」といつて無二一体(眞魚という小宇宙と虚空蔵菩薩という大宇宙の合体)と成ったことを記している。

                        絵  山本 清衣

 仏教の教えは人間の為にある事を悟った空海は、初めて住人に目を向けた。してみると、この地の民百姓は天魔地の妖怪が百鬼夜行し苦しめられていた。
 ことに、崎山台地の字《あざ》西坊、東坊(現龍頭山 光明院 金剛頂寺 通称 西寺境内地)の椎や楠の大木の洞《うろ》には、沢山の天狗が住み着き災いを起こしては民を苦しめていた。空海は天狗と問答するや「火界呪(印相を結び、火焔が無限に放出する呪文)」を唱えて競い合い、天狗を遙か彼方の足摺岬に封じ込めた、という。
 この話を耳にした、四十寺山の麓の集落の農民は喜んだ。毎年、秋には収穫物を搾取され田畑を荒らすや、娘を強奪するなど妖怪・魔物を、空海の功徳によって退治して貰おう、と嘆願をした。
 空海は「それは、お困りであろう。拙僧でよければ」と願を酌んでくれた。
 空海は早速、加持祈祷の儀式に入り、印を結び、「大般若波羅蜜多心経」を天空に指でなぞりながら真言を唱えた。すると、金色の経典が突如天空に現れ、民百姓を泣かせ苦しめた妖怪・魔物たちは、たちまちその功徳によって、空海の手のひらに鎮まってしまった。そして空海はかつて四十寺山山頂の巌頭で座禅三昧した巨巌に押し込めてしまった。
 その四十寺山の巨巌は、高さ七八㍍、幅十一二㍍強あり、巨巌の表面には空海が閉じ込めた時の足跡が今なお遺り、閉じ込められた妖怪・魔物たちは、今に至るも生きているのか巨巌の中でも暴れているのか、巨巌は、年間数ミリずつ下方へ下がっており、「にしり巖」と名付けられている。
 その昔、四十寺山のお寺は山桜に囲まれ、桜寺と親しまれた、ともいう。
 今、四十寺山を取り巻く麓の青壮年たちが、四十寺山を往時の桜山にしようと「四十寺山桜美人《さくらびと》の会」を結成し、領家弘山に自生していた桜に「室戸桜」(大島桜と山桜の自然交雑種・新種)と命名し植樹して、市民の森づくりを目指している。

                        文  津 室  儿
         



2014年9月1日月曜日

室戸市の民話伝説 第53話 鱏に嫉妬する女房

  第53話  鱏《エイ》に嫉妬する女房

 ころは、津呂浦の山田長三郎が土佐の鰹《かつお》一本釣りを創始した寛永十八年(1641)というから、かれこれ三百七十有余年の往年のことである。
 長三郎は、藩の許可を得て坂本集落に立岩崎という小字あり、そこに岩礁の窪地を利用して船曳場(山田港・坂本港と云ったが、今は無い)を設け、二艘の鰹船を造り鰹漁を始めた。
 その約七十年後の正徳五年(1715)、六代藩主山内豊隆公が参勤交代の帰路、室戸岬沖で暴風雨に遭い難船した。その時、長三郎の子・喜三衛門がこの船曳場から鰹船を漕ぎ出し、無事に御座船の藩主を助け、山田家は山内家の家紋、土佐柏紋入りの大盃と一文字家紋を拝領した。
 この様な歴史背景を持つ坂本集落に、良吉《りょうきち》と夕《ゆう》という、仲睦つましい夫婦が漁師を生業《なりわい》に暮らしていた、だが子供には恵まれていなかった。
 満月の晩、良吉はお鼻《はな》(室戸岬)の高巖《たかいわ》の西沖の埋もれ碆《ばえ》、ヤゴスケの礁《しょう》へ夜釣りに出かけた。それは其れは、月の綺麗な晩だった。この夜は、幾ら釣り糸を垂れていても当たりが皆目無く、ふと漁師仲間の諺、「満月の夜は何も釣れない」と云っていた事を思い出しながら、最後の一糸を垂れた。
 すると、遥か沖合いから水面《みなも》を仄《ほの》赤く染め、六尺(1.8㍍)四方はゆうにある物が良吉の舟に近づいてきた。
 良吉は間もなく、釣り糸に強く重い手応えをおぼえた。 獲物をやっと舟に引き揚げる。そこには、今までに見たことも無い巨大なアカエイであった。 
 良吉は、エイをカンコ《船倉》(漁船の生《い》け簀《す》)に無理やり入れ、帰り支度にかかった。
             絵  山本 清衣

 すると、良吉の背中に何か柔らかい視線を感じた。振り返ると、エイがカンコの中から円《つぶ》らな瞳で良吉をじっと見つめていた。「何が言いたいのか?」誘うように、良吉を見る目は乙女の瞳だった。
 「良吉は、抑え難い気持に陥った」
 良吉は我知らず、エイを抱きかかえると、いっそう愛おしくなった。
 「自分の胸の中にいるのは、エイでは無い。乙女子だと幻想を抱く」良吉は夢のように酔い、ふたたび乙女子を力一杯抱きしめると、交合し合い我がものにした。
 
 老漁師曰《いわ》く、神代の頃より「エイの隠し所、特にアカエイは人間の女性の隠し所と良く似ている」と言われしとや。
 
 良吉は、乙女をいくら愛おしく愛らしく想っても、家には恋女房の夕が居る。連れては帰れない。今夜のことは、一夜の秘め事として他言しないと誓って、乙女を愛おしみながら船縁《ふなべり》から海に放した。
 月は少しずつ欠け、十六夜、立待月、居待月、寝待月へと移りながら新月を迎えた。良吉は、乙女と契りあった夜の事は新月の頃には薄れかけていた。
 しかし又、月は満ち始め、三日月、上弦の月、十三夜、小望月と満月が近づくと良吉は気もそぞろで落ち着かなくなった。
 良吉は夜ごと、山田港の東の繁盛ヶ谷の高岩から遥かな海原を眺める日々が続き、満月の夜は疲れ切って帰ってきた。
 又、月は満ち欠きを楽しむかのように移り、満月の夜が来ると良吉は繁盛ヶ谷の高岩へ急ぎ、しばし乙女と深い愉楽の世界に浸っていた。
 いつしか、良吉の行動を訝しく思った女房の夕は、良吉の後を追った。夕がそこに見た良吉の姿に唖然とし。獣姦は耳にすれど魚族と交わるとは、犬畜生にも劣る、と嫉妬心に燃えた。夕が夫に、三下り半を突き付けたのは言うまでも無かった。
 あの、仲睦つましい夫婦の突然の離婚は、小さな集落に広まるのにさほどの時間は掛からなかった。同時に良吉とアカエイとの交わりは瞬く間に広がり、漁師仲間を喜ばした。 思春期を迎えた小若い衆達が、色欲に溺れないよう導く道具立てとして、アカエイとイソギンチャクを利用した、という。
 
 この噺は、津呂浦の漁師仲間が昭和初期まで、兄若い衆が大人への登竜門と云って、小若い衆に”筆おろし”を強要した実話擬きである。

                         文  津 室  儿
         



 

2014年8月1日金曜日

室戸市の民話伝説 第52話 クジラとイノシシ 

   第52話 クジラとイノシシ

 これも又、それはそれは昔の噺よ。土佐の国では、昔から十一月七日は山の神様のお祭りで、猟師《りょうし》や木樵《きこり》は決して山に入ってはならなかった。
 この日は、神様が春に植えた木々を虫食いや立ち枯れがないか、木の状況を一本一本調べて回る忙しく大切な日であった。山に居ると、人でも何でも、間違って木と一緒に数え込んでしまうからだ。
 この頃、土佐の山、ことに室戸の山にはクジラが多く棲んでいた。ある年の十一月七日のお祭りの日。山の神様、朝から晩まで忙《せわ》しのう木を調べておられた。「兎山《うさぎやま》の木も今年は立派に育ち、狸山《むじなやま》の木も上々や。はてさて、鯨山はどうだろう」と山の神様、ほくほく顔で鯨山まで来なさった。
 すると、どうだろう。木という木が根こそぎ横倒しになっていた。まるで嵐にでも遭ったようだった。
 「こりゃ、いったい何としたことだ。クジラ、クジラよ、お前また大暴れしよったな」 神様は、えらい怒って云うたそうな。
 すると、クジラが小さな目に涙をいっぱいためて云うには、
 「こんなに図体《ずうたい》が大きくては、アクビ一つで木の枝は折れるし、クシャミ二つで木が飛び、体を動かすと山は崩れ、谷を埋め、どないもこないも・・・!。えらいすまないことです」と、あまりクジラが泣くもので、これには山の神様もほとほと困ってしまった。

           絵  山本 清衣

 山の神様は「そうか、そうか・・・!おお、良い事があるわい。ひとつ海の神様に頼んでみよう」
 そう云って、近くの一番高い山に登り、大きな声で海の神様に呼びかけたそうな。
 「おおい、海の神様よー。儂《わし》んとこのクジラ、お前様の海で預かってくれまいかのーー」
 すると、しばらくして、遥かかなたから、海の神様の声が。「おお、良かろう。なら、ちょうど良い。こちらも一つ頼みがある。儂んとこのイノシシは、泳ぎが下手で餌が取れず、何時もひもじい思いをしている。ただ魚を追い回すばかりで困っている。お前の山で預かってくれまいかーー」
 この頃、イノシシは海に居ったそうな。
 こうして海と山の両神様が相談をしてのー、クジラとイノシシの棲み場所を取り替えっこしたそうな。
 所が、山に上がったイノシシ何を食べたら良いか分からず、山の神様に尋ねた。
 神様が云った「イノシシよ、お前様は海の中で何を食べていなすった?」
 「俺は海蛇《うみへび》が大好物で、三度三度の食事には逃さず食べていた」と応えた。
 山の神様は、「おお、それなら山には海蛇に似たマムシが居る。それを食べなさい」と告げた。
 それ以来、イノシシはマムシを見付けると大喜びをして、そのマムシの回りを七廻りぐるぐる回って、食べるようになったそうな。
 一方、クジラは大海原に出て大喜び。あちらこちらへ魚を追いかけまわしていた。
 ある時、クジラがシャチの群れを追い掛け回しているのを神様が見付けました。
 その頃、シャチの口には簾《すだれ》のような髭《ひげ》で出来ていて、小魚を濾《こ》しとって食べていた。
 海の神様はクジラの大食いに呆れ、何時もひもじい思いのシャチが可哀想になり、シャチの髭とクジラの牙《きば》を取り替えてしまった。 そして、神様はシャチに「もしもクジラが海で暴れる事があれば、襲いかかって傷めつけてやれ」と命じました。
 この時以来、クジラは以前のように暴れる事もなく、小魚を濾《こ》しとって食べるようになってしまいました。
 クジラは時折、砂浜に打ち上がり身動きがとれない事があります。あれは、かつて棲んでいた陸が恋しくなって、山に帰ろうとしているのだそうです。

                        文  津 室  儿
         


 

2014年7月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第51話 猿の尻尾

   第51話  猿の尻尾
 
 これも又、昔々の噺じゃあ。
この噺の頃、日本猿《さる》の尻尾《しっぽ》の長さは六十尺(18㍍)もあったそうな。猿はもともと知恵者《もの》であったが、猿蟹《かに》合戦では蟹をいじめ殺したり、海月《くらげ》は猿に嘘をつかれ、乙姫様に骨を抜かれてしまうなど。その知恵を悪いことに使いはじめたため、神様の怒りに触れ、今に少しずつ短くなっているという。
 ここ三津の里に、お握りの形をした小高い里山があり、その名を丸山といいます。そこには北明神神社が鎮座まします。この明神様に守られながら、若い猿の家族と川獺《かわうそ》の家族が仲良く暮らしていました。 ふだん、猿は川獺の食事にさほど興味を示さなかったが、ある日のこと、川獺が社《やしろ》の前のスマシロの磯で捕った魚やオクボ貝(陣笠貝)を岩の上に並べて、美味しそうに食事を取っているのを見て、羨ましくてたまらなくなった。
            絵  山本 清衣

 猿はある日、川獺に「川獺殿、どうしたらそんなに魚や貝が捕れるのかい!」と、尋ねた。 川獺は真面目な顔をして、猿殿に捕り方を教えた。 
「猿殿、あなたは潜れないから、その長い尻尾を海に垂らして、ピクピクと動かしていれば、魚やオクボ貝はひとりでに食いついてくるさ。その時、尻尾を引っ張り上げれば、幾らでも捕れるよ」と、教えられた。猿は、「これは良いことを聞いた」ぞと、早速その夜、岩の上に腰を下ろし長い尻尾を海の中に垂らし、魚や貝が食いつくのを待った。
 しばらくすると、尻尾をピクピクと引くものがあった。猿は、「雑魚《ざこ》が一匹食いついた」と喜びながら、
  小さな雑魚はあっちへ行け、やんやさあ  大きな魚はこっちへこい、やんやさあ 
と、歌いながら大物をじっと待ち続けた。
 すると、今度は前よりも強くピクピクと尻尾を引いた。
  「今度は二匹食いついた」
  「又々来たぞ、今度は三匹だ」
と、喜びながら尻尾を引き上げる適時を見計らっていた。
 一方、海の中では、オクボ貝達が集まり、ふだん見慣れない物が岩の上から垂れ下がっている。触ってみるとふわふわとして柔らかい。これは面白いぞ。皆に触ってもらおうや、と話し合い三津中のオクボ貝に声を掛け合った。集まったオクボ貝は、いっせいに猿の尻尾にとりついた。
 猿は、尻尾がピクとも動かなくなったのを大物が掛かった、と勘違い。
 「さあ、今が上げ時」だと、尻尾に力を入れて「うん」と引き上げたが、尻尾はひたりと岩に張り付いて離れない。
 猿は「ははあ、こりゃ大物が掛かったわい」と、喜んだ。
  真鯛《まだい》が釣れたか、やんやさあ
  鰤《ぶり》が釣れたか、 やんやさあ
と、歌いながら顔を真っ赤にして引き上げにかかった。が、尻尾はびくともしない。
 さすがに猿は慌てて、尻尾の周り見ると、オクボがびっしり山のように張り付いている。驚いた猿は、「オクボ女郎やオクボ殿」私しゃ家《うち》には子供も居れば親も居る。どうか、離してくだしゃんせ。
  真鯛もいらない のいてくれ 
  鰤もいらない  のいてくれ 
  オクボ女郎は  なおいらぬ
   ひょういどっと ひょいどっと
と、泣きながら歌い、尻尾に力をいっぱいいれ「うん」とばかりに引き上げた。
 するとなんと何と、猿の尻尾は根元《ねもと》からプッツリと切れてしまった。
 猿の尻尾が短く、顔が赤いのは、この時、全身に力を入れて気張り過ぎたから、一方お尻が赤いのは、お尻を岩に擦りつけていたため、毛が抜けてしまいこの日から赤くなってしまったたそうな。
 この噺は、三津の百合さんと八重さん姉妹が、夜ごと母親から聞きながら眠りについた、と教えてくれました。
                              文  津 室 儿

          

2014年6月3日火曜日

室戸市の民話伝説 第50話 銭ひり馬

  第50話  銭ひり馬

 これも又、昔々の噺よ。
 元《もと》村は向江集落に二人の兄弟が居った。父親は死に、母親がひとり残っていた。
 昔の元村の習慣は親が歳を取ると、父親は長男に付き、母親は次男に付いて、そのとき親の財産は等分に分けて暮らしていた。
 ところが、この噺の弟は、まれに見る極道の性悪で始末が悪い。みるみるうちに、その財産を使い果たしてしまい、どうにもこうにも暮らせんようになった。
 そこで、弟は兄の家へ行き「あにさん、ひとつすまんが、馬を一匹買うてくれんかよ!。駄賃馬引きでもするき・・・」と、頼んだ。
 兄は、「おんしを、なんぼみちゃっても、ひとつも働かんじゃいか。おらに又、馬を買わせて、売るつもりじゃろが」と、いった。
 弟は、「そんなこたぁしやせん。そんなことしよったら、自分が喰ていけんきに、真面目に仕事をするきに」と、懇願して、兄に馬を一匹買わせた。
 初めのうちは、駄賃馬引きをしてコツコツ働いていたが、じきに極道の性分がでて、仕事はせん。馬にハミ《飼い葉》もやらずに遊びほうけている。
 馬は、もう何時ぞからハミをもらえず、痩せて倒れそうになっている。
 弟は、自分の持ち金が一銭も無くなり、母親に「かかやん、金を貸してくれんかえ」と。
 母は「金が何処にあらあ、お前にボツリボツリ出して、一銭も無いが」といい放す。
 弟、「こんどら倍にしてもどす。もっちょるばぁ、貸してくれ」
 母「また、嘘じゃろが・・・」
 弟「嘘じゃない。ほんまに戻すき、ひとつ」
 母「ほんなら、もうこればぁしかない。これがありきりじゃ」言うて、母親が財布を出したところが、二銭銅貨と一銭銅貨を取り集め二円あった。
 弟は、「そうか、そうか。それをかかやん、四円にして戻すき」というた。
 その二円をどうしたかというと、藁《わら》で袋を作り、二円の銭をみな入れると、糠《ぬか》をどっさりいれて、馬に喰わした。
 馬は、腹が減っておるもので、少々硬い物が入っていても、残さず喰てしもうた。

              絵  山本 清衣

 弟は、してやったりと明くる日を待ちかねた。夜が明けるや否や、厩《うまや》に回って糞《ふん》をするのを待ちかねていたら、待望の糞が出た。
 糞は一杯出ている。こりゃ、占めたと思うやいなや兄やんの所へ走った。
 弟「兄やん、ヘンシモ来てくれ」
 兄「どいたら?」
 弟「どうもこもない、来てみりゃ分かる」と言うて、兄をひっぱってきた。
 弟「兄やん、何ぞ棒切れでも持って入ってくれ」
 兄「どうすりゃ」
 弟「まあ、その糞を崩《くず》してくれ、おらんくの馬は、銭を放《ひ》ったきにゃ」
 「えっ」と、兄が糞を崩してみたら、銭が出てきた。
 兄「ほんまじゃにゃ、こりゃ」ここにも一銭、あそこにも一銭と、集めたのが二円。
 弟が、パッと手をたたいて「兄やん、これで儂《わし》ゃ、もう迷惑をかけんでもすむ。儂が、兄やんくへ行くたびに、姉さんから、又かというような目つきで睨められて、辛い気持ちじゃった。恩を受けながらも、あんまりえい気持ちはせざった。日に二円じゃったら、月に、六十円か!それで年に七百二十円、これじゃったら、儂ゃ充分食える・・・・・!」
 兄は、弟の喜ぶその顔を見ていると、その馬がじいーっと欲しうなった。
 兄「弟、おらにその馬、売らんか」
 弟「売ってくれち、そりゃちいっと無理じゃないか。貧乏のどん底に落ちて、兄やんにも世話をかけちょる。恩返しもせにゃいかんが、今馬が二円ひりだして、その馬を売ってくれいうがは、ちと無理じゃないかよ。値をするいうたち、値になるかよ」 
 兄「まあ、そないに言うな、一つ、おらに分けんかや」
 弟は、しばらくじいっと考えていたが
 弟「兄やんが、そない言うなら仕方が無い。ほんなら売ろう」
 兄「なんぼにしてくれらぁ」
 弟「五十円にしよう」
 兄「そりゃ、ちっと高い」
 弟「高いち、年に七百二十円も放るがじゃも。それを考えてみい」
 兄「うん、それもそうじゃのう。よし、五十円で買おう」
 弟は、ようよ兄の家まで歩いて行くような馬を五十円で売った。
 弟「かかやん、うまいことやったぜ。四円借りていたけんど五円もどす。これでまぁ、当分楽に喰ていけるけん」言うて、呑気に過ごしていた。
 兄に馬を売って、三日ばかり過ぎたであろうか、兄が飛んで来た。「居るかえ?」
 弟「居る」
 兄「居るち、おんしゃ、ありゃ放らんが、銭を」
 弟「銭ち、馬にいったいどんなもん、喰わしよるぞこんた《お前》は」
 兄「藁《わら》と糠《ぬか》と芋《いも》と、それに豆腐の玉を喰わしよる」
 弟「ああ、そりゃいかん。三日に一遍、藁を一束ばぁ放り込んじょいたらええ。糠じゃ豆腐じゃいうて、喰わしてたまるか。それで馬が銭を放らなぁよ」
 兄「そうか、その関係じゃろか」
 兄は、弟に言われた通り、馬鹿正直に馬に喰わさざった。
 兄が五日ばぁ経《た》って、弟の所にやって来た。「弟、居るか。あの馬死んでしもうたが」  弟「死んだか!。惜しいことしたのう、こんたが売れ売れいうきに売っが・・・・・!こんたも五十円の損、儂しゃぁ何んぼの損かわからん、仕方が無いのう諦めえ災難じゃ」言うて、
 弟小声で「銭を喰わさずに放るわけ無いは、と言って兄を煙に巻いたという。


                          文  津 室  儿

2014年5月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第49話 奈良師の三兄弟

  第49話  奈良師の三兄弟

 これも、とんと昔の噺よ。
 奈良師の里に、おとどい《兄弟》三人が土方《どかた》をしながら暮らしよった。
 ある雨の日、一番下の弟が「こう長雨が続いたら、仕事も出来ん。わしらぶらぶら遊びよるわけにゃいかんが、どうじゃろ。高知へ働きに出てみんか!高知は築城で景気がえい言うじゃいか!」というと、二人の兄も「そりゃええ」と同調して、御城下へ出た。
 先ずは、町の様子を見ようと歩いておると、大きな家があって、立て札がたっちゅう。
 立て札には「この家は、代々長者の家である。ところが、どうしたことか、次々と、家の者が行方不明になる。今、十八の娘が、ひとり残っているだけである。この家の不思議を解いた者には、家督を譲り、娘の婿にする。なお、詳しいことは、これより西へ三丁行った丸目という家へ来て聞かれたし」と、こうある。これを見た三人は「こりゃえいことがある。これへ一つ行ってみろか」と、その家へ行って話を聞いた。家の人は「謎を解いたら、約束通りのことをしてやろう。けんど、命が惜しかったら止めちょいたらえい。何しろ今まで、侍・浪人、武芸者やら、なんぼ行ったかしれんが、行ってもんたもんがない。お前らの若さで気の毒な、止めたらどうな」と、仕切りに止めたが、三人は「いや、今までは一人じゃった。けんどわしらは三人で行く。三人でやれんことはない」「そうか。そればぁ言うなら止めん。刀を貸しちゃるきに、持っていかんせ」三人は刀を借りて、その謎の家へ行った。そして大広間へ入って、四方山《よもやま》話《ばなし》なんぞしながら、夜が更けるのを待ちよった。

           絵 山本 清衣

 ところが、今で言うと夜中の十二時すぎのこと、床板がドロドロと鳴り始めた。耳を澄ましよると、ピカッと光って、一番上の兄の姿が見えんようになった。
 「こりゃ、どうしたことじゃ」と、夜が明けるまで探してみたが、どうしてもわからん。かというて、いぬることも出来んし、「今晩、もう一晩、来てみろう」という事になった。
 その晩も、同じ時刻にピカッと光って、こんどは二番目の兄がおらんようになった。
 そこで弟は、失敗の原因をよう考えた。
「ドロドロがきた。それから光る間の時間が、こればぁある。よし、その時じゃ」
 弟は、腹を決めて、もう一晩泊まることにした。ほいたら、例によってドロドロときたから、刀を抜いて、そこら当たり盲めっぽう振り回した。すると、何者かが大きな音を立てて倒れた。
 さて、一方、長者の家では「三晩目じゃが、もう気の毒に、生きちゃすまいのう」こう思いながら来てみると、弟が一人座りよる。たまげて当たりを見回すと、血が一杯散っちょる。
 さっそく庄屋さんに告げると、ホラ貝を吹いて、村の衆を集めた。
 そうして、その家の床の下を見ると、大きな穴があいちょった。この穴、どればぁ深いじゃろうか!と、穴に重しを降ろしてみた。ほいたら、七十五尋(一尋は1.50cm)もあった。「この下に、何ぞ居るじゃろか」「居るにかあらん。お前いてみい」「くわばら・・・くわばら・・・」
 みんなが尻込みをしよるうちに、弟が「儂《わし》が行く」と言いだして、モッコを作った。
大きな綱を付けたモッコに乗って、穴の底に下りていくと、そこには立派な住まいがあった。住まいに入っていくと、娘が居る。「大将はおるかのう!」と聞くと「夜前、外へ出て大怪我をして、休んじょります」と、いう。そこで、奥の間へ飛び込んで行って、襖《ふすま》を開けると大きな蜘蛛が八畳の間、一杯になって寝よった。「おのれ化け物覚悟しろ!」
 弟は、持っちょった刀でぶすっと刺《さ》すと、腹の中から、前に捕らえられた二人の兄が飛び出してきた。「三人は無事を喜びあった。 ところで、あの娘は蜘蛛の!・・・」と話していると、そこへ娘が出てきて「私は、ここの長者の娘で、捕らえられて来た者じゃ」と、言った。それを聞いた兄弟は、娘を真っ先にモッコに入れ上にあげた。次に一番上の兄、次の兄と上がった、が。一番下の弟が底から半分ばぁ上がってきた所で、先に上がった二人のおとどいが相談をした。「したの弟が上がってきたら、自分らの貰うモンが少のうなる。いっそ殺すか」「よし、やろう・・・」と、言うことになって、綱を切ってしもうた。たまるか、弟は真っ逆さまに下へうどみこんだ。
 弟は、七日七夜も落ちた。ドスンと叩き付けられたことで気が付き、当たりを見回すと青々とした野原じゃった。
 川がひとすじ綺麗な水をたたえて流れよる。「こりゃ、どこじゃろう。まてよ、親父はこう言いよったぞ。道の分からんくへいたら、兎に角川の流れにそうて下がれ言うて聞いた。
 弟が流れにそうて行きよったら、八十歳ばぁの、杖をついた総髪のお爺さんが、こっち向けてやってくる。そうして弟を見ると、驚いたように「お前、人間か」と問う。「わたしゃ、人間でございます」「どうしてここへ来た」実は、こうこうしかじかと一部始終を話し「ときにお爺さん、なんぞ食べるもんはないじゃろか」「食べもんか。そうようのう、ここから三丁ばぁ下へさがったら棚がある。その棚に籠が三つおいちゃある。一つは食べてもええが、二つは食べてはならんぞ」
「分かりました。おおきに、どうも」
 弟が言われた所へいてみると、なるほど籠がある。食べると旨い。腹が減っちょるき、じきに、籠の中の物をたいらげてしもうた。
 「ええっ、くそ。死んでもかまうか」
 そこにあった籠の中の物を、全部喰うてしもうた。所がたまるか、下から大蛇が角《つの》を振り立てて襲い掛かってきた。
 「こりゃ食われたらたまらん」と、刀を抜いて戦ったが、とうとう大蛇に巻かれた。けんど、刀の持ちようがよかったきん、大蛇はズタズタに切れてしもうた。そこへ、さっきのお爺さんがノコノコやって来て「おお、ようやってくれたのう。その大蛇にゃ随分と苦しめられよった。所でお前は家へ帰りたいか」と、聞くので「うん」と、頷《うなず》くと「よし、それなら帰してやろう。まず、大蛇の皮を剝げ。それから葛《かずら》を採ってきて、この中へ入れ」お爺さんは、弟を大蛇の皮に入れ、葛で縫うた。「さぁ、目をつむっておれ」こう言うて、川の中へポンと放りこんだ。
 ポコポコ、川を下る。何日下ったかーー。
 さて、話が変わって、一番上と二番目のおとどいは、弟を殺してちょうど一週間になる。墓参りでもしょうか言うて海辺へやって来た。所が、波打ちぎわに、何やら光るもんがある。おとどいが光る袋の葛紐《かずらひも》をとくと、中から弟が飛び出してきた。
 「こりゃたまらん、弟ぞ、さあ逃げえ!」と、上二人は飛び逃げて、何処へやらおらんようになってしもうた。
 そこで、弟が長者の家の養子となって、家督を継ぎ、裕福な暮らしをした、と言う。
 
                        文  津 室  儿
         

2014年4月1日火曜日

室戸市の民話伝説 第48話 中里の化け猫

この噺も、とんと昔のことよ。
 佐喜浜村の中里に、たいちゃー鉄砲の上手な猟師がおったそうな。猟師は妙見山を中心にした、山々で猟をして暮らしよった。
 ある晩のことよ、明日の猟のために鉄砲の弾を作りよった。この猟師の家には、お爺《じい》の代から飼いよる大きな三毛猫がおった。
 猟師が弾を作りよると、三毛猫がどこからかもんてきて、家の中に入ろうとするが、図体《ずうたい》が太うなりすぎて入れんで、ニャアーニャアーとないておる。
 「うるさい奴にゃ」
と、呟きながら猟師が三毛猫を見ると、えらい太うなっちょる。


                         絵  山本 清衣

 この地域は、昔から「猫が障子の組子を抜けれんようになったら捨てよ」という言い伝えがあったな、と猟師はふとそんな事を思い出した。
 三毛猫は、囲炉裏《いろり》の傍で喉をごろごろ鳴らして甘えて居ったが、いつの間にか、ごろっと横になって眠ってしもうた。
 猟師はやっと、十箇の鉛弾を作り上げ、タバコを一服ふかしながら(三毛もこればぁ太ると、主人に仇をするかもしれん。もう捨てるか、殺すかせんといかんなぁ)と、独り言をいうた。
 この時、眠っているとばかり思っていた三毛が、猟師を鋭い目で睨み付けよったが、猟師は一向に気がつかざった。
 そうして一服が終わった猟師は、鋳型《いがた》の中から取り出した弾を一つ一つ丁寧に磨いて、弾入の中へいれておった。それを眠たふりの三毛が、一つ二つと目で数えよった。
 やがて十箇の弾を磨き終わった猟師は、(どれどれ寝るとしようかのう)と、独り言をいいもって寝間に入った。そうして、布団を頭から被って寝たが、どうした事か今晩に限って寝付けん。布団の中で何度も寝返りをうってみるが、益々目が冴えてくる。
 こうなると、もう一度、起きて弾でも作るほかないと思い、囲炉裏の傍で鋳型を取りだし、鉛を溶かして弾を作りはじめた。
 この時には、囲炉裏ばたで眠りよった三毛は、もうおらざった。猟師は、出来た鉛弾を一つ一つ丁寧に磨きよったが、その中から一つだけ取り出し、弾入れの中に入れた。これで弾入れの弾は十一になったわけよ。
 再び猟師は寝間に入って、大きなあくびと共に布団に入ると、今度はぐっすりと眠れた。
 あくる朝、暗い内に朝飯をすました猟師は、弁当を作りながら三毛を呼んだが、何処にもおらん。いつもなら、足にじゃれついて餌をねだるが、何処へ行ったと思い、兎に角三毛の茶碗に朝・昼の食い物を入れて、鉄砲を肩に、日頃の猟場である妙見山へと出発した。
 その時、一回り二回りも大きくなった図体の三毛が、屋根の上から猟師の行動をじっと見ておった。
 妙見山は低い山だが、不思議に獲物の多い山で、いつでも熊や鹿、猪を捕ることが出来た。けんど、この日に限って兎一匹にも出合わん。「獲物を追う猟師、山を見ず」との諺どおり、山から山へと獲物を求めてゆくうちに、迷うてしもうた。
 そうした猟師が、やっと帰り道を探し当てた時には陽は西の山にかたむき、足を引きずりながら妙見山の麓へ帰り着いた時は、もう薄暗かった。
 突如、薄暗闇の中から怪しげな物音がした。猟師は、歩みを止めて前方を透かしみた。そこには、飼い猫の三毛が仁王立ちで猟師の帰り道をふさいでいた。三毛は目をランランと光らせ、隙あらば一喰い、とばかりに狙っていた。
 日頃から猟師の腕前を知っている三毛は、むやみに掛っていかない。鉄砲に素早く弾をこめた猟師は、三毛を目掛けて引き金をひいた。カーンと甲高い音がして、続いてポタン、と鈍い音がして、三毛は涼しい顔で平然と立っていた。
 こりゃいかん。と思うた猟師は、続いて二発目を狙い定めて撃ち込んだが、前と同じことよ。五発、六発、七発と、続けて撃ち込んだが、三毛は相変わらず涼しい顔の仁王立ちで、大きな口を開け猟師を狙うちゅう。
 あまりの不思議さにたまげた猟師も、ようよう落ち着いて八発目を撃つとき、三毛の動きを気をつけて見た。三毛は、猟師が撃った弾を前足に柄杓《えしゃく》を持って受け止めちょる。カーンという音は、柄杓で弾を受け止めた音、ポタンという音は柄杓の中の弾を草むらに捨てる音じゃった。
 ここまで三毛に神通力が出来ちょったら、儂《わし》にゃ勝ち目がない。と思うても、どうにも仕方がない。猟師は、祈りをこめながら、九発、十発と三毛を目掛けて撃ち込んだ。
 すると、三毛は柄杓を投げ捨てて、大きな口を開けあざ笑うように一声鳴くと、一歩一歩と猟師の方へ近づいてきた。
 三毛は夕べ、弾の数をかぞえておった、弾はもうこれまでだ。と思って舌なめずりしながら近寄ってきた。猟師が最後の弾、十一発目を込めたのを、脅しと思うたんじゃろ、三毛はゆっくりと猟師との間合いを取り、最後はネズミに飛びかかるように襲いかかった。と同時に、最後の一発の弾が三毛の頭をつらぬいた。三毛は断末魔の叫び声をあげ、ばったりと倒れ動かんようになってしもうた。
 猟師は明くる日、三毛猫を手厚うに葬ってやった。その後、この猟師は米寿まで長生きをしたという。そうして遇う人ごとに「猫の居る所で、鉄砲の弾を作ってはいかんぞ」と、猟師仲間を戒めた、という。

                           文  津 室  儿

       

2014年3月23日日曜日

  室 戸 桜


室戸桜の来歴について                

 「室戸桜」は平成134年頃、室戸スカイライン(室戸市領家弘山)沿線を、私、多田運が散策中に目に留まり、ただ奇麗な花だなーと思うがままに比べる花もなく数年が経ちました。


       

            「室戸桜」原木・背景に四十寺山遠望

                
  


平成16年、季節の悪戯か山桜・オオシマザクラ・染井吉野までがほぼ同時に咲きました。この時を逃してはと思い、初めて他の花々と比べる事が出来ました。比べてみると、他の花に劣らないことを知り嬉しく、当地の室戸を冠して「室戸桜」と名付けると共に多くの方々に愛でてもらいたく思い、増殖につとめています。

この花の特徴は、花弁の先の突起


 さっそく友人、松本忠博氏を通じ牧野植物園の技官小林史郎氏に同定をお願い致しましたところ、以下の様なコメントを頂きました。参考までに添付致します。

 「松本忠博様
室戸で見せて頂いたサクラについて:
苞・萼裂片に鋸歯がある、葉の鋸歯が芒状に細く尖る、花が葉よりも少し早く開く、というオオシマザクラの特徴を持っています。若葉の色が赤い点はヤマザクラを思わせますがそれ以外はオオシマザクラと同じですので、オオシマザクラの変わりものと考えた方がよいのではないかと思います。なお、当園にはサクラの専門職は居ないものの重複しますが、オオシマサクラと山桜の自然交雑種であり、新種といえるのではと思います。                       牧野植物園技官 小林史郎」

  また、京都市都市緑化協会・事務局長 小林義樹氏を通じて「植藤造園」日本の桜守・佐野藤右衛門氏に最初に頂いたコメントは(アメリカ・ワシントン州のソメイヨシノざくらから名付けられた「アメリカ曙桜」に良く似ているので、曙を冠したらとの、ご教示を得た)経緯があります。

  平成19年3月31日、佐野氏が当地を来訪され、原木を見てのコメントは曙桜ではなく、山桜の個体優品種と思う、と云われました。

  同20年、佐野様に苗木と種子をお送り致しました。その礼状には、以下のような文面が添えられていました。

  多田運様
 苗木と種子を有り難う御座居ます。御地の山桜は、通常の桜と少し異なるのは、花梗が長く花も大輪ですので、御地特有の物と思われます。大切に育てて下さい。
種子からも同種が出るか楽しみにしています。又お伺いする時があるとおもいます。まずはお礼まで。                           
                                                          佐野藤右衛門
 


  平成18年以降、この室戸桜を植樹した所は、財団法人C.W.ニコル・アファンの森(15本)・国立室戸少年自然の家(25本)・室戸二千本さくらの会(15本)・私個人が気ままに植えたのが(7本)で都合62本を植樹いたしました。

  昨19年は、接ぎ木失敗で、植樹0本でした。

  平成20年は、永田様をはじめ、佐野藤右衛門様、京都市都市緑化協会、同協会勤務
の太田周作様(元NHK趣味の園芸講師「室戸市出身」)大阪在住、室戸市内の方々。
計55本の植樹でした。

  平成21年 香美市・技研の森(80本)植樹

 平成25年 室戸市に「四十寺山・桜美人之会」発足。四十寺山に30〜40植樹
尚、同会は桜の周辺にツツジの植樹を同時に進めている。
 
 平成26年室戸桜40本、ツツジ100本植樹をしました。



第1回室戸桜植樹祭





               第1回室戸桜植樹祭の面々








2014年3月1日土曜日

室戸市の民話伝説 第47話 乞食一代出世

  第47話 乞食一代出世

 何時もながら、昔々の噺ですらぁ。吉良川村に大層な長者があった。長者とは、何を指すかと言うと、急に雨が降ってきて、人が傘を借りに走り込んで来ても、何時でも千人に雨傘を貸せんと長者とは言えん。それからもう一つ、いつ千人がやって来ても、その時、それらの人に食わす冷飯《ひやめし》がないと、長者とはいえんそうじゃ。
 所が、この長者の家に、二十歳《はたち》前後の男が、縁の下で残り物を貰って暮らしよった。
 ある晩、乞食は長者の屋敷に、三人の賊が忍び込むのを見てしもうた。
 (こりゃどうしよう。いがろ《叫ぶ》うか)と、思案しっよったが(今いがったら、命がのうなる。黙って見よろ)と見よったら、賊が千両箱を担いで出て行くので、まぁ兎に角後を付けてみようということにした。
 道を東へ三丁ばぁ行くと東の川へ出た。その川の橋のたもとへ下りると、川の中へ千両箱を沈めちょいて姿を消した。

           絵  山本 清衣

乞食は、そこまで見届けちょいて、縁の下へもんて来た。
 間もなく、夜が明けた。長者の家じゃ、千両箱が三つ盗まれたいうて、上を下への大騒ぎ。一の番頭、二の番頭、三の番頭も、コマネズミみたいに走り回りよる。乞食が何時ものように、勝手場へ残り物を貰いに行くと、女中が「おまさんに飯どころじゃあるもんか。夕べ夜中に泥棒が入って、うげごとかやっちょる《上へ下へと大騒ぎ》。旦那さんさえ朝飯はまだぞね」と言われると、乞食はじーっとしらばえ《考え》ちょって「実は、儂《わし》やぁ、親代々易者の家でございますが、おなん《母》がなさぬ仲で家を飛び出し、こうしてお宅の厄介になっちょります。当たるも八卦当たらぬも八卦と言いますきに、こういう時にお宅のお役に立ったら幸いです。ひとつ易を立てさして呉れませんろうか」
 こうおなごし《女衆》に言うたら、おなごしは番頭へ、番頭は主人へと継いだ。主人は「そりゃ、当たらいでもともとじゃ。どんな人が、易を当てるか分からん。みてもらえ」と、言うことになった。
 乞食は、勝手元で、箸を借りて卦を立てた。そうして重々しうに「これは、ご心配なく。手に戻ります。千両箱は東の川の橋の元の川底に沈んじょるという易がでました。行って見てつかぁさい」という。さっそく番頭を走らせたら、川の底から千両箱が三つでてきた。
 長者は、たかで悦びこけて、「どうぞ家の客分になって、いつまでも暮らしてつかぁさい」と下へもおかん持てなしよう。おまけに、『見目見透《みるめみとう》しの易者様』と、近郷近在へ触れ回った。
 これでこのまま終わったら、問題はなかったけんど、この国の殿様が持っちょる『千鳥の衣』という宝もんが紛失した。
そこで早速にも「評判に高い見目見透しの易者を呼べ」と、いうことになり、三人引きの早籠で使者がやって来た。乞食から今は易者となった男は(嘘というもんは、つくもんじゃないよ。本当の事をいうちょったら、一生客人で楽に暮らせたもんを。これで殿様の前へ出たら、易は当たらんき、嘘と分かって腹を切らにゃいかん)と、考えたけんど、また一方(ええ、運を天にまかそう。易者になったおかげで、殿様にも逢えるじゃないか)と思うて、お城へ登った。
 お城の大広間には、殿様を始め、家老や家来達がずらりと並んじょる。「易者、よう来てくれたのう。へんしも易を立ててくれ」「宜しゅうございます。が、ちょっと待ってつかさい。易というもんは、朝にならんと、良いしるしがでません。一つ、明日の朝まで待って貰えませんろうか」「そうか、仕方がないのう。明日の朝にしようか」と、言うことになった。やれやれこれで一晩、命がのんだ、と易者は思うた。
その晩の、お城のご馳走たるやめっそうなこと、これで明日に死んでも本望、と腹を据え寝たが、なかなか寝付けん。ウトウト、しかけよった所が、夜も十二時頃。襖《ふすま》がそろりそろりと開いた。「易者・・・易者・・・」と、呼ぶ者がいた。「あっこりゃ、はや夜が明けたかえっ」というと「大きな声を立ててくれるな。お前を見込んで頼みに来た。千鳥の衣は、実はこの儂が盗んだ。ここから十丁ばかり西へ行くと、破れ傘を被った地蔵さんがある。その地蔵さんの足元へ隠してある。どうぞ名前を聞かんと助けてくれ」「そりゃ誠か。まっこと間違いないか」「ああ、間違いない」「よし、儂も人の子じゃ。命は助けちゃろ」と、約束をすると侍は帰った。
 (ヤレヤレ、これで命は助かった)
 易者は安心してぐっすり寝た。
 あくる朝、殿様の前に出て、易を立てた。
「ここから、十丁ばかり西へ行くと、破れ傘を被った地蔵様がある。この地蔵様は中々の功徳のある地蔵様で、日本国内にこの地蔵様に並ぶもんはないと思う。千鳥の衣を盗んで逃げる泥棒を取り押さえ、その衣を自分の腰にすえちょる」易者はこういう易が立ちました、と殿様に申し上げた。殿様は、家来に早馬を飛ばさせ行かせると、易者のいう通り千鳥の衣があった。「さすがは、見目見透しの易者じゃ、二百石を取らせるぞ」
とうとう易者は、二百石扶持《ぶち》の侍となった。
 これで事がすめば、万事目出たしだが、前に世話になった長者の家に娘が一人おる。どうしたことか病気になって、日に日に重うなる。どんな医者にかかっても治らない。「治る病気か。治らん病気か、一遍戻って易を立ててくれ」こう言って、長者の家から迎えがやって来た。易者はこれで「だんつんだ。今度はもう誰も教えて呉やせん。嘘の皮が剥げるか!」こう腹を決めて、長者の家へ夕方ついた。易は朝でないといかん、と断って寝たが、なかなか寝付けん。うとうとしよったら、唐紙がスーッと開いて「易者・・・易者・・・」と呼ぶもんがある。見ると、ざまな坊さんが衣を着て立てりよる。「へえ」「へえじゃない。初めは見て、次は聞いて易を立てた。易者の値打ちはないけんど、実は、わしはお前に助けられた、破れ傘を被った地蔵じゃ。殿様の前で、お前が儂を褒めてくれたきに、立派なお堂が建った。おかげで雨露に濡れよった処も濡れんようになった。そのお礼に、もう二度とはいわんが恩返しに教えてやろう。この家の大黒柱の根元を掘ったら、白ネズミが死んじょる。それを丁寧に葬ってやったら、娘の病気は全快する。これきりぞよ」これだけ言うと、お地蔵様は消えた。
 そこで明くる朝、易を立ててみると、果たして白ネズミが出てきた。それを葬ると、娘の病気は薄皮を剝ぐようにして全快をした。
 さて。長者は考えた。易者のおかげで、娘の命と家督三千両が助かった。ひとつ易者を家の養子にしてやろう。もちろん、易者に異存はない。易者は長者の婿養子になると、易は家柄に合わん、というて『今日限り、見目見透しの易は辞めた』と、宣言して安楽に暮らした、という。
                           文  津 室  儿




 

2014年2月5日水曜日

室戸市の民話伝説 第46話 元村の駄賃馬引き

  第46話  元村の駄賃馬引き

 この話は古式捕鯨・津呂組の経営が、多田から元《もと》村の庄屋・奥宮三九郎氏に移った寛政四年(一七九二)から慶応二年(一八六六)に渡る七十四年『経営を受け継いだ奥宮三九郎は漁具漁法の改良に苦心を重ね、捕鯨発祥の地、太地浦では遂に漁することが出来なかった白長須鯨を捕獲する、など豊漁を重ね多大の富を得ていた』の間に生まれた、駄賃馬引き(註、駄賃を取って物を運ぶ仕事)の物語である。
 この駄賃馬引きの家は、庄屋から数軒離れた元川沿いの茅葺《かやぶ》き屋根の家だった。この馬引きには名字が無く、元村清吉《せいきち》と呼ばれ名に違《たが》わず実直で正直者であった。そんな清吉の気性に惚れ込んだ庄屋は、何くれとなく仕事を与えるなど日々の生活を気遣っていた。
 駄賃馬引きの朝は早い。清吉は寅《とら》の刻《こく》(午前四時)には寝床をはいでる。顔を洗うのもそこそこに、愛馬「蒼《あお》」の食《は》みを用意し、病床の妻、夕《ゆう》の介護と一人息子の真吉《しんきち》五歳の三人家族の貧しい暮らしの日々であった。
 夕の病は、真吉の産後の肥立ちが悪く、ここ数年らい床に伏せっている。駄賃馬引きの稼ぎでは、医者に診せることも出来ず心を痛めるばかりである。そんな暮らしの清吉ではあるが、日々の救いは息子真吉の夢「僕は早く大きくなり、お医者さんになって、きっとお母さんの病気を治す」との口癖と、誰に教えられたか、近くの岩戸神社に母の回復を願い御百度を踏むなど、健気な仕草が慰めの一つであった。
 今朝も清吉は寅の刻に目覚め、蒼の体をととのえる。昨日来預かった荷物を蒼の背中の鞍に載せ、西は羽根浦や吉良川の浦々の個人の家やお店《たな》に届ける。そのお店に荷物があれば、また預かり浮津浦や室津浦、津呂浦へと届けていた。 
 とある夏の日のことであった。何時もの習いで、清吉は昼八つ時(午後三時)には疲れた蒼の休息を元浦の松林の木陰でとっていた。清吉も蒼の側《かたわら》の大木に身をあずけまどろんだ。

              絵 山本 清衣

 「小半時、まどろんだであろか・・・?」
 蒼が、清吉の目覚めを促すかのように、前足で松の木の根元を掘り始めた。すると、少しずつ蹄《ひづめ》の音が変わり始めるや、堅牢な作りの箱があらわれた。手にしてみるとずしりと重い。「もしやこれは千両箱・・・・・!」では、初めて見る清吉は驚いた。何故!、何故!、ここに、と思案ながらに千両箱を眺めていた。ふと思い出した。それは数年前、庄屋の蔵から千両箱が盗まれた話であった。
 この時庄屋は、千両箱を幾つ盗まれたか、数も分からなかった、という。この事を村人が揶揄《やゆ》してか、次のような里謡がうたわれた。
   里謡 
 奥宮三九郎大金持ちよ
 背戸で餅突く 
 表で碁打つ
 沖のど中で鯨打つ
 この里謡のように、元浦の庄屋奥宮家は鯨漁で大長者になっていた。
 どうすればと思案する清吉、根が正直者の清吉、真っ先に頭に浮かんだのは庄屋殿に届けることだ。これだけの金は、この界隈では庄屋殿以外にどこにも有るまい。そう思った清吉は、蒼の背に千両箱を乗せ庄屋に駆け込んだ。
 庄屋殿は、一言。「清吉、この千両箱は如何致した」、と素っ気ない。
 清吉は、「これこれ、しかじか」、といきさつを述べるが、庄屋殿にはとんと映らない。 庄屋は、松の根元から出てきた千両箱が、何故!庄屋の物と分かる!。双千鳥の我が家の家紋でも刻印してあるか、と逆に清吉に問いかける。
 困り果てる清吉。
 見兼ねた庄屋はこう切り出した。
 「三ヶ月の間、高札を立てよではないか」 その高札には、次ぎの様に書かれていた。「この松の根元に千両箱を埋めた者は、向こう三ヶ月の間に庄屋まで願い出る事。さも無くば、駄賃馬引きの清吉のものとする」と記された。
 一月、二月、時の移ろいは早い。三ヶ月は瞬く間に過ぎていった、が誰一人、私が埋めましたと願い出る者はいなかった。
 三ヶ月が過ぎた頃には、元浦にも晩秋の景色が漂い始めていた。庄屋は、さっそく清吉を屋敷に呼び、「清吉よ、この千両箱は今日からお前の物だ。如何様にでも使うが良いぞ」と言って、清吉に渡した。清吉は千両箱を愛馬蒼の背に乗せた。すると蒼がヒヒンヒヒンと何度も嘶《いなな》き喜びを表した。
 清吉は、夕餉もそこそこに夕と真吉を呼び、千両の使い途を話しあった。
 真吉は真っ先に言った。「お母さんの病気を治すために、全部使ってほしい」と。
 母、夕は、「真吉のお医者さんへの夢を叶えるため」使うべき、と言い張ってきかない。 清吉は、妻、夕の考えにしたがった。
 時は流れ二十数年、真吉は立派な赤髭先生と成り地域の医療に尽くした、がその時、母親は、すでにこの世の人では無かった。
 その頃、誰彼とも無く真吉が耳にしたのは、彼《か》の蒼が掘り出した千両箱は、貧しさに甘んじ清貧を貫き通した清吉一家への贈り物として、奥宮三九郎がそっと埋めたものだった、と耳に届いた。

                                                                 文  津 室  儿
                                         

  

2014年1月1日水曜日

室戸市の民話伝説 第45話 おんばさま

 第45話 おんばさま

 昔々、とっとの昔の事じゃった。佐喜浜村の庄屋に、それはそれは可愛い女の子が生まれた。大きくなるにつれて見目麗しさは一際輝き、若い衆らが嫁に貰いたい、婿に成りたい、とワイワイガヤガヤ。娘の周辺は来る日も来る日も禍々しい日々であった。
 両親は、一人娘に悪い虫が付かぬ内に、早く嫁にやるか婿を取るかせにゃならん。出来れば婿を取り庄屋の安泰を図りたい、と願って親戚中に婿探しを頼み回った。
 娘は、と或る日から気性が変わった。親戚からは、庄屋には身に余る家柄の男を持ち掛けても、娘は会おうともしない。来る縁談、来る縁談を断るばかり。日頃、気立てのやさしい娘のどこに、頑固さが潜んでいたのか、両親はただ驚き呆れるばかりであった。
 そんな娘に変化を感じ取った母親は、娘の部屋から夜な夜な物音が聞こえたり、早朝、部屋の前の廊下がなぜか濡れていたりする、不審な事を幾つか思い起こした。
 それを見定めんと、次の夜から、母親は娘の隣の部屋に潜み、襖《ふすま》を少し開けて様子を窺《うかが》った。秋も深まり長い闇に閉ざされる丑《うし》三つ時《どき》だった。玄関の表戸が静かに開き、生暖かい風が吹き込んできた。すると、足音も無く人影が廊下をよぎった。

                 絵  山本 清衣

 蒼白く月の光に照らされ浮かんだのは、浅葱色の狩衣を着た若者だった。一目で身分高く、良家の育ちの良さを感じさせた。男は細面であるが端正な顔立ちだった。取り分け、切れ長の目に特徴があり、一度見入られると竦《すく》むような目力があった。しかも瞬《まばた》かなかった。
 娘は、男の視線の呪術にかかると、恍惚状態に陥って衣服を脱ぎ捨てた。男の身体は、良く鍛えられ発達していた。その手足全体で床《とこ》に入った娘を強く抱きしめ房事《ぼうじ》にいたった。娘は男に身を任せ、身をよじり、身体を反らせ、男の胸の中で悶えた。
 母親は、こんなに激しい房事の現場を目撃して、ただ唖然とするばかりであった。
 翌朝、母親は夫に男の存在を話した。
 庄屋は娘に「その男、いったい何処の何奴だ」と怒りをあらわにして問い詰めたが、「娘は、本当に知りません」と真顔で言うばかり。
 娘はしばらく無言であった、がようやく重い口を開いた。この春、唐の谷川の奥の雄瀧《おんたき》さんの淵《ふち》の近くへ山菜採りに行きました。そこで偶然、男に出会い、じっと見つめられ身動きが出来なくなりました。それから、男は毎夜通って来るようになりました、と話した。
 それを聞いた庄屋は、遠い昔に聞いた雄瀧
さんの魔物、大蛇噺が頭をよぎった。
そこで庄屋は、さっそく村はずれで八卦見もするおんば(産婆)さまに、占いを立ててもらった。すると、「娘は大蛇に魅入られている」という卦がでた、といった。
 うろたえる庄屋の顔を窺うおんばさまは、「男が本当に魔物か人間か、見分ける方法を一つ教えよう」と言った。見分け方を教わった庄屋は、すぐさま娘を呼んだ。「あの男は魔物の化身かも知れない、用心せねばならないぞ」そう言って、庄屋は、おんばさまから教わった方法を娘に伝えた。
「男が今夜来たら、着物を脱ぐ前に背中を触ってみることだ。着物に縫い目があれば人間だ。縫い目が無ければ、着物はまやかし。魔物の化身だ」娘は、真剣な眼差しで父親の話に耳を傾けた。 
 そして「縫い目が無いときは、男の着物の襟元《えりもと》に、この縫い針を刺すんだ」と父親は言って、娘に長い糸を通した縫い針を渡した。
 娘は、男の態度に不安を感じていて、父親の話を素直に聞き入れた。縫い針を枕元に隠して夜を待った。
 男は何時もの丑三つ時、生暖かい風と共に音も無く忍んできた。娘は、男を部屋に迎え入れるや、男の背中に両手を回した。そして、着物の縫い目をまさぐった。しかし、男の着物には縫い目がなかった。なおもまさぐる。娘の指先に、何か固いものがふれた。
 (これは・・・・・!)
何か得体の知れないものが、パラッと剥《は》がれた。娘は、これを窓越しの月の光にかざして見ると一枚の鱗であった。
 娘は、心の中で悲鳴を上げた、が何時ものように男と肌を合わせた。夜も白々と明け始めると、男は帰り支度を始めた。娘は、隠し持っていた縫い針を襟元に刺した。その瞬間、男は一声「グウォー」と断末魔の叫び声を発して部屋を飛び出した。
 翌朝、母親と娘の目に映ったものは、赤く血で染まった糸であった。玄関を抜け、さらに雄瀧さんの淵へと繋がっていた。
 娘は、その日から吐き気をもよおし、床に臥してしまった。
 母親は一人、雄瀧の淵に来た。「ウォー、ウォー」と淵の底から唸り声がひくく聞こえる。恐る恐る淵の底を覗きこんだ。大蛇が二匹蜷局《とぐろ》を巻いていた。大蛇の縞模様は、男の着物の柄と同じであった。母親は絶句した。
 気を取り戻した母親は、淵の底から微かに聞こえる話に耳を澄ました。
 「本当に馬鹿な子だよ。人間の女なんかを構うから、こんな目に遭うんだ。縫い針から染み出した毒が体に回ってしまって・・・」
 しばらくすると 「もう俺は長くはない。だけど、ただでは死なない。あの娘の体に、俺の子種を宿してきた。じきに、盥《たらい》七杯分の俺の子供が生まれる・・・」と言い残して間もなく、大蛇の鎌首が地に落ちた。
 今度は、おんばさまに涙ながらにすがったのは母親であった。
 おんばさまは事もなげに言った。「大蛇の子を生まない方法はあるさ。三月三日に桃酒を、五月五日に菖蒲酒を、九月九日に菊酒を飲むといい。さすれば大蛇の子は下りる」
と、言った。
 娘は、つわりが始まり、日毎に腹は大きくなる。母親は、気が気では無い。五月五日を待ちかねて、菖蒲酒を飲ます。菖蒲酒を飲み干した娘は顔を歪めて苦痛に耐えながら庭に出た。すると、股間から血にまみれた蛇の子が流れ落ち、庭を赤く染めた。力尽きた娘は、遂に命を落とした。拾い集めた蛇の子は、大蛇の言葉通り盥に七杯分あった。
 すべての後始末をした母親は、私の胸の奥深くにしまっておこうと誓った。
その夜、母親は、娘の秘密を知っているおんばさまを訪ねた。おんばさまは娘の最後の様子を聞くと、「痛々しいことよ」と、言って娘の哀れな生涯に涙をこぼした。
 間もなく、庄屋の家で、娘の葬儀が執り行われた。小さな葬儀を、と思った両親とは裏腹に大きな葬儀となった。小春日和の中、葬儀が始まるや否や、唐の谷川の奥山の峰々に黒い雲が垂れ込めたかと思う、とあっと言う間に雲は走り豪雨となった。
 誰言うと無く「大蛇の祟りじゃ」と噂が広がった。

 庄屋の家では、代々見目麗しい子供が生まれたが、どの子も脇の下に鱗型の痣《あざ》が一つくっきりあった、という。
                            文  津室 儿