2011年8月15日月曜日

「声ひろば」「後免」もう一つの由来


 終戦記念日十五日の今朝、高知新聞「声ひろば」の欄に掲載された(「後免」もう一つの由来)の原文を掲示します。  
   
     ・後免・もう一つの由来
 本紙、月曜カルチャー「土佐・地名往来」も、回を重ねること四〇六回、約八年と有余月が経過し、静かなフアンが数多いる。
 さて、去る八月一日、同欄に掲載された【後免室戸にも残る小字】を拝読した。子供のころ、爺婆や近隣の翁嫗に聞かされた、もう一つの由来を記してみる。
 土佐藩初代藩主・山内一豊公が帰藩の折り、室戸沖で遭難しかかった。その時、一人の僧が現われ、船の楫を執り室津港に無事に送り届け、一豊公は難を逃れた。一豊公は礼を尽くさんと、そこここに僧を捜すが見当たらない。僧は津照寺に向かっている、と聞きつけ後を追った。本尊の地蔵菩薩がびっしょり濡れていた。一豊公はこの本尊に霊験を強く感じ、楫取延命地蔵菩薩と名づけた。
 一豊公はこれを機に、この地に海難救護組織を定め、住民をこれに当たらせ租税を免除した。曰く、土地の開墾開拓による免除と異なり、人命救助を行うと云う特異な例である。これが「ごめん」誕生の、もう一つの由来である。
 『ごめん』の名が初見される「八王子宮當家記」に依れば、この集落の男衆は、往昔藩政時代吉良川住民の二、三男が移住して来たものである、と伝え。「土佐鰹漁業聞書」には、しばしば御座船の水夫として召され、藩主の信頼が篤かった、と伝えている。

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