2012年1月1日日曜日

三 自然児三次さん  四 鴉退治



    三 自然児三次さん

 三次さんの住んでいた桑ノ木集落は三軒家で、浦(町)から佐喜浜川を遡ること、約二里半(約10㌖)の奥地である。桑ノ木の谷口から山口(双方地名)の在所まで約1㌖ほど、この地は両側の山がせまり川幅が極端に狭くなっている。そのためこの辺りを、狭門《せぼと》又は瀬細《せぼそ》といった。こういった地形のため水流も激しく、夏は涼しいが、冬になると風が吹き抜け、川風の寒い事は思いの外であるといわれる。
 昭和の始め頃まで、この川沿いの人々・特に女の人たちは、冬の間は駄賃馬曳《だちんばひ》き(馬に炭など荷物を背負わせ、駄賃で運ぶ意)の副業をしていた。
 冬枯れの夕べ、早朝、この瀬細の川風に吹き曝《さら》されて馬を曳《ひ》いてゆく寒さは、また一入《ひとしお》である、といわれた。
 三次さんは自然の侭を、自然の侭にやってのける人であった。ある日、中尾集落の知人の厄抜けの宴に招《よ》ばれた。夜が更けるまでご馳走になり、千鳥足で桑ノ木の家に帰っていた。夜道の川筋二里は寒く楽ではない。それに、夜風に逆らって歩を進めるのは疲れる。三次さん「ええい、ここらで一口寝てやれ」と、ばかりに河原の石を枕に風呂敷をかぶって寝てしまった。そこに、まだ薄明かりの瀬細の河原を、急ぎ足で駄賃馬を曳く頬被《ほほかぶ》りの女姓が「河原の馬道に風呂敷が落ちている、誰のだろう!」と草履《ぞうり》の先でポンポンとける、と「まだ日は出まいが」という声がした。まさか、人とは思いの外、駄賃馬曳きは吃驚仰天《びっくりぎょうてん》した。「ありゃありゃ、こりゃー人様かえ、こんな所で捨たって居るとは、一体全体お前様は誰ぞ」と声をかけた。「おらあ三次よ。そんなに蹴《け》ったら、首の骨が折れるが」「まあまあ、三次さんでしたか」と。
 すべて「三次さんが」で方《かた》がついた、といわれる自然児であった。「それ以来瀬細の風呂敷は拾われん、拾っても使えない」といわれ、拾う者は居なかったという。
   四 鴉退治
 三次さんの職業は杣・木挽きであったが、鳥を捕る事も名人であった。ことに百舌《もず》を捕る腕にかけては、まさに日本一だと自慢するほど上手であった、という。
 桑ノ木谷の出口に「みなと」という保佐《ぼさ》(雑木・燃料木)の集積場があった。奥山で伐った保佐を、ここで掽《はえ》(一掽は、長さ60㎝×高さ150㎝幅×600㎝)て石高を調べ、大水の出た日、下流へ流すため大勢の杣人が働いていた。(保佐は阪神へ出荷)そこにずる賢い鴉《からす》がやって来ては、杣人の弁当を盗み山へ運んだ。三次さんも時々やられた。三次さんは、ずる賢く弁当を盗む鴉が大嫌いであった。そこで最も難しいと云われる鴉退治に挑戦するため、綿密に計画を練った。
 三次さんは、ある秋の夜明けから鴉退治をはじめた。山陰の泉の沼地に、鴉が集まりガァガァと話し合いを開く。沼地の間際には、身体《からだ》を炭窯《すみがま》の煤《すす》で真黒に塗り染めた三次さんが、両手に「握り飯」を持ち座っている。鴉は握り飯は喰いたいが、どうも怪しいとの思いか!、ガアガア鳴くばかりで寄りつかない。やがて第一日目が暮れた。
 三次さんの女房も似た者夫婦である。帰らぬ三次さんを心配するでも無く、またどこかで大法螺《おおぼら》を吹いて居るだろう、と思う程度で太平楽な女房であった。
 二日目の朝が来た。鴉は早朝にやって来た。昨日の人間に似た怪しい木の枝が、握り飯を持ったまま今朝も夜露に濡れている。。鴉は大した危険はなさそうだと話し合った、が念には念のためにもう一日様子を見よう、とその日も山へ帰ってしまった。
 三日目の朝が来た。鴉は囁き合った。「これはどう見ても木の株だ。枝の先にある握り飯は、杣人の忘れ物だ。喰わんか、来い来い」と云ったが早いか、四、五羽の鴉が一斉に握り飯に集《たか》った。その瞬間であった。三次さんは目にも留まらぬ早業で、渾身の力を込め、両手に二羽ずつ鴉を握り絞めた。鴉はバタつき踠《もが》くが後の祭りであった。三次さん、にんまりしながら桑ノ木の家に帰った。すると女房は吃驚仰天である。真黒い男が、真黒い鳥を両手に提げて立っている。「お前様は、一体どなた様で」「どなた様とは、これ如何《いか》に。お前の亭主の三次様よ、よくよく見ろ」といった。三次さんの女房、これには本当に呆《あき》れ返り、魂消《たまげ》たそうな。
 「儂も随分と何かにと殺生をした。喰わぬ殺生はするものでない、と云うから鴉を喰ってみた。鴉だけは喰うものではない。白粉《おしろい》臭くて、喰えたものではない」と、後日人々に語っていたそうな。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。

           文 津室  儿
           絵 山本 清衣
                              無断転載禁止

2 件のコメント:

  1. 明けましておめでとうございます。新年が東日本大震災から平和に復興する一年になりますよう祈念申し上げます。昭和三十年台になってプロパンが出回るようになると、家庭でも保佐木が使われなくなり、港から阪神と往来していた機帆船の姿が見えなくなっていったことを憶い出します。船には備長炭の炭俵がたくさん積まれていました。あの頃の港には活気がありました。三次さん噺、楽しみです。

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  2. 植松樹美様 南紀の男様
    明けましてお目出度うございます。
     早速コメントを頂き、嬉しく存じます。今年からは、今まで書き溜(たいした量でなし)めてあったものに加筆して投稿しようと思っています。忌憚のないコメントを頂ければ幸いです。
     
     指人形の歌「世の中をきらくにくらせ何事も おもえばおもふ 思はねばこそ」後水尾天皇が女官達と指人形を使って戯れた一時に、詠まれた歌・心境だそうです。今年からは、歌に倣った暮らしを試みようと思い始めています。  有り難うございました。   儿

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