2015年5月17日日曜日

大山レンゲ

 五月八日、拙宅の庭の一隅に大山レンゲが咲いた。
もう、五十有余年前に成ろう。徳島県境に近い白髪山(1469.55 m)に二つ年上のY先輩と登った。頂上までは、未だほど遠い藪の中に迷い込み、やっと藪を潜り抜け頂を仰ぎ見た。そこに、せいそなそれは清楚な白い花が私をみていた。これがこの花と初めての出会いであった。この花の名前など知る由もない私は、先輩に尋ねた。先輩は事も無げ、即座にこれは「深山侘助」だ、と答えて下さった。侘助って藪椿のことですよね・・・!、と畳みかける。そうだ侘助の白だ、と即答。以来五十有余年先輩の言葉を信じ込んでいた。その先輩は、先ほど私に一言の言葉を遺さぬまま旅立った。
 昨年春早くに、妹から貴男が好きそうな花だから、と三尺程の苗木をもらった。その苗木に、わずか一年で花を付けるとは、思いのほかだった。しかも、あの忘れもしない深山侘助が我が庭に咲く、気持ちは爆ぜった。カメラに納めプリントし、妹に去年貰った苗木に深山侘助が咲いた、と悦に入って見せた。
 何というこれは大山レンゲだという。改めて花を覗く、先輩がやっと判ったかとほくそ笑んでいた。


2015年3月1日日曜日

室戸市の民話伝説 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん

 第60話 ゴンドウ鯨のゴンちゃん

 三津港は、古式捕鯨が網掛け突き捕り漁法に代わった貞享《じょうきょう》元(一六八四)年の昔より沖合に網代を設けるなど、捕獲した鯨を引き揚げたスロープが今に遺る。鯨との関わりは三百三十有余年の長い繋がりを持つ土地柄である。
 そんな地域の定置網に平成二(一九九〇)年二月二十二日、ゴンドウ鯨がかかった。久し振りの鯨に、漁師は早くも舌鼓を打っていた。港に帰った漁師は先ず鯨を市場の片隅に揚げ、今日の漁獲の仕分けにいそしんでいた。
 すると、そこへ突然、塩土老翁《しほつちのをぢ》(海の神)が今朝の漁模様を覗きに現れた。老翁《をぢ》は鯨を目聡《めざと》く見付けるや、これは孕《はら》み鯨ぞ、といった。その言葉を耳にした漁師は手が止まり青ざめた。先人の漁師の戒め「孕み鯨と子持ち鯨は、夢にも見るな」鯨に対し、慈しみと畏怖の念を忘れるな、と言う格言だった。
              絵 山本 清衣
 漁師は老翁の教えに直ぐさま応え、鯨を漁港内に放した、が何が気に入ったのか一昼夜二昼夜たっても外洋へ出る気配がない。「プハーッ、プハーッ」と規則正しい呼吸音を発しながら、ゆっくりと時を過ごしている。  この鯨は、ゴンドウ鯨の仲間で小型のハナゴンドウらしい。全長二・五㍍程度で花柄模様の白っぽい文様が特徴だ。五日目の朝のこと、漁師がさぞ腹も空いたことだろう、と大敷き網の朝持ち取れのスルメイカを口先に投げ与えた。するとパクリと頬張った。つづいてイワシを与えると、これも喜んで頬張った。少しずつ元気を取り戻したか、腹が空くと岸壁に寄りそい餌をねだりはじめた。
 新聞やテレビで報道されるや、三津漁港は絶え間ない見物客で賑わい、にわかに鯨ウオッチングの場となった。朝から家族連れが車を連ね多い日には二千人、子供らは”ゴンちゃん”と愛称した。見物人は日ごとに増し、観光バスも立ち寄りはじめ二週間で延べ一万人の集客となった。
 三月二十八日正午頃、大敷き網の晩持ち揚げの準備をしていた漁師が、ゴンちゃんの異変に気づいた。ゴンはピンク色の何かをくわえている。最初はビニールかと思ったが、よく見ると違う。「ひょっとすると赤ちゃん?」市場の職員たちも次々出て観察。午後二時半頃、赤ちゃんと確認したが残念ながら死産であった。
 赤ちゃんは体長七十㌢程、鮮やかなピンク色である。本来ゴンドウ鯨の赤ちゃんの体色は黒っぽく、もっと大きい、と桂浜水族館の職員はいう。
 ちょうど一ヶ月間、ゴンちゃんを見守ってきた漁協関係者は「残念だ。可哀想じゃのう」としんみり。ゴンは死んだ赤ちゃんを離そうとせず、チーズのような乳を出して与えようとする。胸鰭《むなびれ》で持ち上げたり、盛んに背中に乗せて息をさせようとしたりする。人間に劣らぬ母性愛、愛情溢れるその姿に人々は涙をいざない見詰めていた。
 「ゴンちゃんめっきり衰弱」お産時に感染症か、と高知新聞に大見出しで載ったのが四月七日。食欲も減退し、泳ぎもぎこちない。二月二十二日に、港内にに離され餌をたらふく食べていた時のような、張りつめた体ではない。背鰭《せびれ》周辺から尾鰭《おびれ》にかけて白い筋が目立ち、骨が浮き出ている様子。首の部分のくびれが目立ち、頭部も角張ってきた。
 ゴンちゃんを見詰め続けてきた桂浜水族館の飼育係も「普通の痩せ方ではない。お産の時に感染症にかかったようで、命にもかかわる状態」まだ少しでも餌を食べるのが不思議なくらいだ。このまま痩せれば一週間くらいの余命という。飼育員から提供を受けた抗生物質を混ぜ合わせ、急場をしのいでいるが、これから港内の水温が高くなると、水の汚れが進み、ますます条件が悪くなる。三津漁協でも、「ゴンちゃん、そのうち外洋に出て行くと思ったが、これだけ長く居るとは意外。死ぬ前になんとか外洋に出す算段をしなくては」と話しはじめた。
 ゴンちゃんの死産や、衰弱が報道されるたびに、室戸市商工観光課や三津漁協にも「ゴンを助けてあげて!」との声が相次いだ。ゴンちゃん三津港去り難し・・・、外洋への、第一弾誘導作戦は失敗に終わった。
 内容は前日より空腹にしておいたゴンちゃんを、餌でつって港外に誘い出す。補助としてダイバー四人が後ろから追い立てる、という作戦であった。
 しかし、餌に混ぜた抗生物質が効いたのか!、ここ数日のゴンちゃんは一時の衰弱から脱した。食欲も回復して、九日朝はイカ四十匹、イワシ二十匹を平らげた。
 ゴンちゃんは、誘導船から投げ与える餌をくわえては港の奥に舞い戻る。まるで出口に向かうのを嫌がるように。ゴンちゃんの居る内港から港口までは、わずか二百㍍であるがゴンちゃんは誘いにはのらなかった。ゴンちゃんは港を安住の場と決めてしまったのか、それとも死産した我が子が眠る地から離れたくないのか!!!。
 四月十六日、ゴンちゃん第二弾目の救出作戦が行われた。この日は前回の轍を踏まじ、とばかりに大掛かりなものとなった。五隻の大敷き船に縦五㍍横幅九十㍍の特製捕獲網を作成した。港のスロープへ餌で誘導しながら、網周りを段々に縮めて捕獲した。
 ゴンちゃんは、一旦担架に包まれ大敷き船に揚げられた。こうしてゴンドウ鯨のゴンちゃんは、三津沖合い三㎞の外洋に放す作戦に成功した。ゴンちゃんをそっと海に降ろすと、一瞬、状況が分からないのかぽかりと浮かび放心状態であったが、やがて大きく息を
吸った。そして漁師たちの方に体を向け、頭を立て深々と三度お辞儀をして、大きく潜っていった。「ゴンちゃん元気でな。早く仲間に出合えよ」と四十人の関係者が見送った。
 二月二十二日、三津漁港に居ついたゴンちゃんは五十四日間、延べ四万人の胸に様々な思いを刻んで去っていった。
 ゴンの赤ちゃん、死産であった三月二十八日より数えて四十九日の五月十六日、三津漁協関係者数人と地区長が、最御崎寺・東寺の住職を招き、喧騒からとかれた三津港でしめやかに法要がおこなわれた。大海原で遊ぶこともなく、黄泉の国へ渡ったゴンの赤ちゃんへ畏怖畏敬の念を現したものである。

                           文  津 室  儿
       
 本号を持って、五年間にわたる「室戸市の民話伝説」の掲載が終了致しました。長い間のご笑読にお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。


 参考文献    
                             佐喜浜村を語る       小堀 春樹    著
                    木喰佛海上人        鶴村 松一    著
                    佐喜浜町史         町史編纂委員会  著
                    室戸岬町史         安岡 大六    著
                    室戸町誌          室戸町誌編集委員会編
                    室戸市史 上巻・下巻    専任編集委員                                                        島村 泰吉
                             室戸市余話         島村 泰吉    著
                    吉良川町 歴史めぐり    吉良川史談会   編
                    土佐路のはなし       N H K 高知放送局編
         羽根村史          山本 武雄    著
                             高知・ふるさとの先人    高知新聞社    編
                    伝説の里を訪ねて      高知新聞社    編
                    小説 武辺土佐物語     田岡 典夫    著
                    怪奇・伝奇     田中貢太郎著   春陽 文庫
                    笑話と奇談   桂井和雄著 高知県福祉事業団
                    耳たぶと伝承  桂井和雄著 高知県社会福祉協議会
                    俗信の民俗   桂井和雄著 岩 崎  美 術 社
                    生と死と雨だれ落ち 桂井和雄著    高知新聞社
                    土佐の海風     桂井和雄著    高知新聞社
                    明治生まれの土佐  河野 裕著    金高堂書店
                    ラジオ拾遺珍聞土佐物語 河野 裕著    
                    珍聞土佐物語    河野 裕 編著 高知市文化振興事業団
                               日本の民族高知 坂本正夫・高木啓夫著   第一法規
                    土佐の民話 第一集・第二集 市原麟一郎    編
                    日本の民話 35 土佐編                   未 来 社
                    高知県方言辞典       高知市文化振興事業団
                    日本昔話集成  全6巻   關 敬吾     著
                    日本の民話   全12巻   角 川    書 店
                    日本の伝説   全49巻   角 川    書 店
                    定本 柳田國男集  全31巻   筑 摩    書 房                                                別巻5巻
                    口語訳 古事記    三浦 佑之著   文芸春秋刊
                    中西進  著作集古事記を読む一・二・三     四 季 社              

室戸市の民話伝説 第59話 岡村十兵衛浦久

  第59話  岡村十兵衛浦久

 岡村十兵衛浦久が羽根浦(現室戸市羽根町)の分一奉行《ぶいちぶぎょう》(分一とは、物品の課税・徴収・民政役人)として赴任したのは、元和《げんな》元年(一六八一)春二月であった。
 十兵衛が、ここ羽根浦に赴任する前の寛文・延宝の頃の「日本災異志《にほんさいいし》」によれば、寛文九(一六六九)年「是歳諸国飢民多シ。諸国連年米穀実ラズ、且ツ去年ノ大旱魃ニテ民力労瘁ス」。延宝二(一六七四)年「是歳春諸国大饑饉ナリ。是歳春諸国大ニ飢エ餓死スル者街ニ盈《み》ツ三月ヨリ五月ニ至ルマデ…。阿波ノ若江郡渋川郡蔵人拾ヶ村(総人口四千九百十二人アリ)ノ内、飢エ者三千七百五十二人アリ…」と記されている。寛文・延宝時代の諸国の飢饉の窮状がうかがえる。
 十兵衛は着任するやいなや、羽根村の庄屋・左近右衛門(檜垣左近右衛門)を呼び村内津々浦々を案内させ、民情を詳しく視察し、その惨状を救うのに心を砕いた。
 日本災異志にあるように羽根浦も例外ではなく、餓死者は日を追って増え惨状は目を覆うばかりある。農民は相次ぐ凶作に泣き、漁民は時化がつづき漁に出られず不漁で浦人の生活は困窮の極みにたっしていた。
               絵 山本 清衣
 十兵衛が先ず取り掛かったのは、藩に願い出て、黑見のお留め山を明けてもらい(伐採許可)、松材を五万三百六十二本、保佐《ぼさ》(雑木)十八万四千三百十二束を仕成して上方方面に売り、銀八十七貫六八四匁余りを得ることができた。杣《そま》の日雇い賃、四五貫余りを差し引き、残り四二貫余りを地下人に用立てて、浦人の救済に充てた。
 しかし、こうした努力も、自然の力の前では遺憾ともしがたいものがあった。十兵衛赴任後の天和の三年間も、災害や凶作、不漁はなおも続いた。言いかえれば、天和元(一六八一)年夏より秋にかけての風雨、洪水が相次ぐ、翌二年には生活苦に耐えかねて、室津浦の浦人は六二人が駆け落ち(他国へ逃亡)をし、浮津浦でも数十人が逃散《ちょうさん》している。
 天和三年も暮れようとしたが、事態は好転の兆しすら現れず、売掛米代金返済の目処も立たず、十兵衛は藩と地下人の間の下級武士として苦悩の日々を過ごしていた。十兵衛は、幾度となく藩に浦人の窮状を訴え、藩の援助を願ったがはかばかしい返事はなく、年は明けて貞享《じょうきょう》元(一六八四)年となった。

 もはや飢餓に苦しむ浦人を救う道は、藩の御米蔵の年貢米を施すより外はない、と判断した十兵衛は再三にわたり実情を報告して、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを藩庁に願い出た。
 しかし藩は仕来りと掟を盾に、なかなか腰を上げない。古今変わらぬお役所仕事というべきか、藩から何の沙汰も無いまま数ヶ月がたった。その間にも浦人の苦しみは増すばかりで餓死者の数が増えた。今はこれまでと覚悟を決めた十兵衛は、庄屋檜垣左近右衛門を呼び、「後日重罰あるは必至であるが、事態を座視することはできない。私の一命に代えて今日の危急を救おう」と話し、尾僧の米蔵を藩の許可なく開いて、蔵米を餓死寸前の浦人に施し浦人を救済した。
 御上の許しなく、藩の米蔵を開いた罪は重い。追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、心静かに事務整理の日を送った。一応の整理を終わった十兵衛は、庄屋、年寄り等を集めて事態の推移を説明し、その夜、藩主豊昌公に一人別れを告げ、役宅の一室において罪を一身に負って割腹して果てた。
時に貞享元年七月十九日未明であった。
 浦人は慈父を失った如く嘆き悲しみ、羽根八幡宮の傍らに葬って、朝夕香華を絶やすことはなかったと伝えられている。
 明治四(一八七一)年、羽根村組頭、地下惣代十数名が高知県庁に願い出て「鑑雄神社」として祀り、明治七(一八七四)年、正遷宮(正遷宮とは、神社の改築・修繕が完了して、御神体を仮殿から新殿に遷座すること)の儀を営んだ、と伝う。
 貞享元年七月十九日未明、役宅の一室に於いて割腹し果ててより三百三十一年後の平成二十七年の今も、鑑雄神社は十兵衛さん、十兵衛さんと親しみ深く畏敬をもって祀られている。
                  室戸市史・高知新聞より

                            文  津 室  儿
        

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

室戸市の民話伝説 第58話 一木権兵衛

第58話  一木権兵衛

 本名・一木権兵衛藤原政利《いちきごんべえふじはらのまさとし》は、元和《げんな》三(一六一七)年布師田(現高知市)に生まれる。弱冠十九歳にして、土佐藩百人衆鄕士から鄕士頭に進み、更に藩の奉行職・野中兼山の小姓となり、七人扶持二十四石を支給されている。
 一木権兵衛が、野中兼山に抜擢されたのは権兵衛が発案し普請した水門、”権兵衛井流《ゆる》”が兼山の目に留まったことに由来する、という。
 その水門とは、通常は水量の調節を行うが、河川の洪水など増水時には用水路の水門を閉め下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開き国分川に水を流し、上流域を浸水から守り、堤防の決壊を防ぐ仕組み、だという。
 当時、土佐藩は基盤の強固拡大を図るために、開墾・灌漑・干拓・築港事業等を強力に進めていた。執政・野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中、布師田でこの灌漑”権兵衛井流”を目にして驚き、村人に誰の普請か問いただした。
 兼山は、呼び出された権兵衛に如何なる考えで、この水門を造ったか、を述べさせた。権兵衛は、上記に記した機能を考えて普請したことを兼山に伝えた。その考えは、兼山が山田堰から多くの用水路を造る計画の中で考えていた仕組みと正に符合するものであった。 この権兵衛の発想の豊さ、井流がみせる技術力の確かさを見抜いた兼山は、権兵衛を鄕士に取り立て自らの小姓とした、という。これが権兵衛が兼山に大抜擢された由来だ、と言われる。
               絵 山本 清衣
 ここで寛文の「中普請」に付いて「室戸港忠誠伝(室津港の事)」よりひろう。
 室津港の西側を流れる室津川の左岸の石垣を高く築き、川の増水の浸水を防ぎ港内を掘り進めていた。港口一帯の岩石を砕き、岩盤を掘り下げる工事には役夫の数は蟻が物を運ぶがごとく集まり、日々四、五千人が働いた。 工事の進む中、一木権兵衛の身に大きな難題が立ちはだかった。港口に巨大な三巌があらわれた。その巌には古来より浦人が、御釜碆《おかまばえ》(高さ九尺2.7m幅十間18m)・鮫《さめ》碆《ばえ》(高さ八尺2.4m)・鬼牙碆《おにがばえ》(高さ八尺2.4m)と名が付けられていた。浦人はこの三岩を人智の及ぶところ無しと恐れ、波間に出没しては船がよく座礁していた。しかし、この巨巌を除かなくば、内堀が掘られても用をなさない。
 この三巌の破砕にかかり、数日後のことであった。役夫が使う石鑿《いしのみ》の破損がはやく、鍛冶屋を困らせたり、碆から落ちて怪我をする者が多く出始めた。そのうち、妙な事を口にする者が出始めた。ことに、御釜碆のこと。碆に石鑿を打ち込むと、血が出たとか、前日に破砕してあった所が、翌日行くと、元通りに治っていたとか、夜な夜な小坊主が五六人集まり、訳の分からぬ談義をしているから、声を掛けると一斉に居なくなる、といいます。この御釜碆には龍王様が宿っている、と役夫たちが口々に喋り仕事を怖がりだした。
 そのような最中、藩主が東寺に参拝の途中、室津港の普請を御覧になるとお通りになった。その時、家臣の一人が一木権兵衛をあざけ笑いながらいった。「一木氏ご苦労千万、数ある忠勤、しかし、この様な大きな池を掘られて、さてこの池には鮒や鯉を飼われ釣り堀にしたらよろしかろう。拙者は遠路だから見物には来られないだろうが」と。声高に罵ったという。
 一木神社記念碑には、以下のように記されていた。
 一木権兵衛、力を尽すと云えども、三巌を取り除く事が出来ず、この事を更に国家老・野中兼山に乞い三千人の増夫を得る。日々督責《とくせき》、槌鑿《つちとのみ》を以て推破すれど、依然として砕けない。却《かえ》って槌鑿を毀損《きそん》するのみである。
 権兵衛退《しりぞ》いて以為《おもえ》らく恐らくは、これ三巌は神石であって海神の怒りに触れるものであるとして、一日、齊戒沐浴《さいかいもくよく》して天神地祇《てんじんちぎ》に誓って云った。この事業を能く竣工させて頂ければ命を捧げる。と、翌日になり終に推破する。碎痕《さいこん》より血迸《ほとばし》り出て、数千人大朱に染み水為に赤し、寛文年より延宝七(1679)年に至り、此れ約十九年にして功を奏す。
 さて、室津港の開鑿《かいさく》は数次にわたって修築が行われ、本格的な竣工をみたのは延宝七(一六七九)年六月であった。なお、この工事を延宝の堀り次ぎといって、港普請奉行は一木権兵衛であった。
            神社記より。
 野中兼山の失脚後も、一木権兵衛が室津港の難工事を成功させた時、延宝七(一六七九)年六月十七日夜、御釜が碆上に祭壇を組、一木家の定紋「丸に九曜」をあしらった紫の幔幕を張り巡らし、明珍長門家政作の甲冑、相州行光作の太刀海神に捧げ、翌未明に切腹を果たし、自らの身体を約束通り海神に捧げた。
 この行為は、一木権兵衛が野中兼山に対する恩義と忠誠のほかに、野中兼山を失脚させた土佐藩に対する痛烈な抗議の意思表示であったであろう。
 室津港築港の口火を切った最蔵坊こと小笠原一学、中次ぎ普請を担った土佐藩家老・野中兼山、竣工にこぎつけた普請奉行・一木権兵衛の三氏に因って成ったことに、畏敬の念を表すべきであろう。

                        文  津 室  儿
         

 


 

 


2015年1月1日木曜日

室戸市の民話伝説 第57話 野中兼山

  第57話   野中兼山

土佐藩家老・野中兼山《けんざん》は、元和元年(一六一五)播州姫路(現兵庫県姫路市)に父良明、母は大阪の豪商の娘・秋田万《まん》との間に生まれ、幼名を左八郞といい、長じて伝右衛門良継と言った。 兼山は号で、後に別号として高山と改め、致仕《ちし》(官職を退き隠居する事)して明夷軒と号した。ちなみに、祖父・野中良平の妻は、山内一豊の妹・合姫《ごうひめ》であり、山内家との血脈は非常に濃い。 
 兼山四歳の時、父・良明没し、五歳にして母万と流浪に入る。その間辛酸を嘗めること八年、それでも母万の訓育・学問は怠らず十三歳にして祖父の野中権之進良平の弟、主計益継の嫡男・野中玄蕃直継を養父とする。
 養父直継には、嫡男がいたが早世して家を継ぐ者が居なかった。これを介意した小倉少助政平『小倉少助政平とは、初期の土佐藩を支えた重臣であり、初代一豊に長浜にて仕え、一豊の土佐入国に従って来国した。二代藩主忠義公に起用され、奉行職の野中直継と共に土佐藩財政の赤字克服を目的とした元和《げんな》の改革を推進した。特に土佐の豊かな山林に注目し、領内の山地を巡視し、五十年を期限とする輪伐制を創始した』が仲介役を務め、直ちに高知城下に迎えられ、十五歳で元服し良継と名乗った。後に直継の娘・市の入り婿となった。
                絵  山本 清衣
 兼山は、養父直継の元にて初めに禅学を修め、儒学を極める。又、南学『土佐で起こり発達した朱子学の一派。室町時代末期の南村梅軒を祖とし、谷時中・小倉三省・野中兼山・山崎闇斎らが著名。現実社会における実践を重視した』を学んだことを実践する側ら、小倉少助政平に経済及び財政学を学ぶ。ここに書き落としてはならない事は、母万によって注がれた愛情溢れる教育が兼山の人格の陶冶がなされたことを。
兼山二十二歳にて、養父直継が寛永十三年(一六三六)十一月五十歳を以て歿する。ただちに、直継の家督を継ぎ併せて土佐藩奉行職をも受け継ぐ。藩主・忠義公は、奉行職に就いた兼山に藩政改革をすぐさま命じる。
 まず兼山は、河川の氾濫を防ぐために堤防の建設、米の増産を図るために平野部の開墾、灌漑用水路の敷設工事、森林資源の乱伐を防ぐために小倉少助政平が創始した、伐採を五十年周期とした輪伐制の導入。築港を推し進め、藩外から植物、魚類等を輸入し藩内で養殖につとめた。又、陶器の製造、養蜂など技術者の招聘に努め殖産興業・専売制の強化を図り、今でいう地産地消・地産外商に努めた。その結果、藩財政は好転をみる。
 これより、兼山が当市に遺した偉大な業績・築港を尋ねてみる。
 兼山が先ず手掛けたのは、津呂港であるが、当時兼山は津呂港の事を室戸港と呼び、室津港との混乱を招くため、現在の呼称に倣い津呂は津呂港に室戸は室津港として記す。
 最初に津呂港の試し堀を着手したのは、最蔵坊こと小笠原一学で元和四(一六一八)年十一月のことであった。最蔵坊は、わずか一カ年で竣工を成し遂げているが、釣り舟出入りの利用にとどまり、藩が参勤交代に使用する御座船や百石船の停泊は不可能であった。
 最蔵坊が手掛けて一八年後の寛永十三(一六三六)年、執政となった兼山は、津呂港、室津港、佐喜浜港、手結港、柏島港等の改修工事を次々と手がけていった。
 中でも、兼山が自ら総裁となり、津呂港の完成を一挙に図った寛文の築港をとりあげてみる。兼山がこの工事の完成を記念して記したと言われる『室戸湊記』による、築港工事の概要では、以下のように記してある。
 ここ津呂の地は、険しい岩場であって平地はなく、難工事となるだろう。しかし、工事が成功すれば海底に砂なく、磯に泥土がないから、後々、港が埋まったり、港口がふさがったりする事はないだろう、と予想した兼山はその成功を期して幕府の認可を得た。
 そして安積幸長、衣斐勝光、野村成正を責任者として、井上康正を奉行に、工事の責任者を江口延光を登用して工事にかかった。
 その時、漁師の意見を聞いたら、「港の口となるべき処に三つの大岩があり、それを鯵《あじ》岩、斧《おの》岩、鬼《おに》岩という。従来船が破損するのは、専らこの岩によってである。たとえ港が出来ても、この三岩を除かねば後日の害は従前より減らないだろう」と言った。
 この三岩は水際から百二十歩余りのところにあって、堤のように支える岩石がない海中にある。そこで、兼山はこれを砕く為の工法を考え、扇を張った形の堤を造ることにした。 それは海中に扇の要に当たるところを定め、そこから扇の骨を張りだすように水際まで堤を造って海水を防ぐという方法である。衆議のうえ、巨松数万本を四列に櫛《くし》の歯が並ぶように立て、巨木細木を縦横に交差して組み、その中に土俵七万俵余りを入れて海水の流入を防いだ。これが有名な兼山の「張扇式の堤」である。
 こうした予備工事のうえ、堤内に更に堤を築いて二区とし、人夫数千人が内側の水を汲み出した。そのうえで、大鉄鎚《つち》や大鑿《のみ》で岩石を砕いた。こうして地下三尺まで掘り、干潮時八尺の泊地ができた。次いで三岩破砕に取りかかった。干潮時に外堤の上部を切って中堤との間の海水を外海に出し、次いで外堤の欠所を防いで、内堤を切ると海水はすでに掘り下げている泊地に流れ入って、三岩がその全容をあらわした。人夫達は、大鉄鎚や大鑿、もっこを持って、また、役人や地下人らも蜘蛛《くも》の子のごとく集まり歓声をあげた。さらに堤内に淵を掘って大雨の時、雨水が溜まるようにした。こうして三岩破砕に全力をあげ、工事は完成した。
 これに要した人夫、述べ三十六万五千有余、費用、黄金一一九○両であり、寛文元年正月十六日竣工式を行い室津港の開鑿にかかる。
 この頃、すでに隠居していた忠義公であるが、津呂港築港に寄せる思いは尋常ならぬものげあり、兼山への絶対の信頼を読み取ることができる。兼山は「室戸港記」において、自己の事績はいささかも記さず、すべて主君忠義公の仁政に帰している。歴史の皮肉は、津呂港竣工一年有余の後の寛文三(一六六一)年、兼山失脚の憂き目に遭わせ、その年の大晦日に死に至らしめた。その上、主君忠義公も後を追うかのように、寛文四年に逝去した。
 津呂港・室津港こそ、後世に残る兼山の数々の大工事の掉尾《とうび》を飾る大事業であった。
津呂・室戸の浦はこの両港あってこそ、水産業の起因・その命脈を保ち、その恩恵は計り知れない。最蔵坊小笠原一学、野中兼山、一木権兵衛の諸先覚者の業績を忘れてはならない。    
                  偉人野中兼山・室戸市史より

                        文  津 室  儿

2014年12月7日日曜日

室戸市の民話伝説 第56話 最蔵坊こと小笠原一學

  第56話  最蔵坊こと小笠原一学

 津呂・室津両港の開鑿《かいさく》の始祖が、最蔵坊であることを市井では余り知られていない。最蔵坊《さいぞうぼう》(最勝上人)こと小笠原一學《いちがく》は、石見国(銀山・島根県)の出身で毛利秀元に仕えた武将であった。戦いに明け暮れる戦乱に無常をおぼえた一學は、三千石の俸禄を投げ打って毛利家を離れ、法華経の写経に取り組み六十六部衆(廻国聖・日本全国66ヵ国を廻国し、一国一ヵ所の社寺に法華経を一部ずつ納める宗教者)となる。六十六部廻国聖の起源は、鎌倉幕府初代執権・北条時政の前世説によるものが有力であるが、判明していない。
 最蔵坊が六部(六部とは六十六部を縮めた言葉)姿で土佐に辿り着いたのは、元和三(一六一七)年頃であろうか。室戸岬の岩屋・御蔵洞《みくらどう》(弘法大師空海が大同二(八〇七)年に修業し、求聞持法《ぐもんじほう》を修法した、と伝えられる)に住み、室戸山最御崎《ほつみさき》寺(土佐東寺)の荒廃無住を目の当たりにして嘆き、寺の再興に取り掛かった。その間、海の難所・室戸岬で暴風雨大波による廻船や漁船の遭難を幾度となく目にした。最蔵坊は、凪待ちや暴風雨から避難する港の必要性を痛感し、津呂港の開鑿を自ら企画した。
 最蔵坊の土木技術は、祖父の代から大森銀山(平成十七年世界遺産登録・石見銀山)の採掘に関与し、直接経営を含め十数年間従事して、銀の採掘運搬や砂鉄の踏鞴《たたら》吹きなど「土木工事と冶金《やきん》・工具の制作」や銀の積み出し港、温泉津《ゆのつ》(島根県の地名)の築港保守に対する知識と経験は非凡なものを有し、学識と技術を津呂・室津両港に注いだ、と考えられる。
               絵 山本 清衣
 当時の津呂港は僅かな「釣舟出入りの窪地」であり、最蔵坊は元和四(一六一八)年十一月、藩主山内忠義公に願出て許可を得、最初に津呂港の開鑿に着手した。
 後の土佐藩家老・野中兼山は、藩の海路参勤交代の途中に避難港の必要性を痛感していたため、土佐藩を挙げて取り組んだという。
 その工法は、槌《つち》や鑿《のみ》・玄能《げんのう》や楔《くさび》を用いて開鑿し、港口に堰《せき》を作り、空堀をした後に堰を切る(堰を壊し取除く)方法をとり、人力を持つて僅か一ヵ年という驚異的な突貫工事で竣工している。
 津呂港の竣工後の三年、元和七(一六二一)年七月に室津港の開鑿に執りかかり、翌八年六月に浚渫《しゅんせつ》し、藩主忠義公を仰ぎ御船入の儀(竣工)を行っている。
 尚、津呂港・室津港間の距離、僅か二㌖内に同規模の二つの港の必要性に付いては、江戸幕府から厳しく問い質されている。
 津呂港は港口を東向きに設置、室津港は港口を西向きに設置した。これにより、津呂港に避難出来ない時は室津港に避難し、室津港に避難出来ない時は津呂港に避難する、という。両港をもって、避難港としての万全をつくす事を訴えた。この訴えが功を奏した事は言うまでもない。その役割は、約四百年後の今も果たし続けている。
 その後、繰り返される南海地震による地盤の隆起によって、両港はその都度浅くなり、浚渫工事が繰り返されている。
 最蔵坊は室津港の完成を祝して、西波止場に礎石を埋める。寛永七(一六三〇)年七月吉日と刻んである。奇しくも、その礎石が昭和七(一九三二)年七月三十日、室津港ケーソン初進水の日に発見され、有に三百二年目の日の目だった。
 『ケーソンとは、防波堤などの水中構造物として使用され、或いは地下構造物を構築する際に用いられるコンクリート製又は鋼製の大型の箱のこと』
 最蔵坊の生誕日は分からぬが、逝去したのは当地で慶安元(一六三〇)年九月五日であった。その死の悼むは、津呂・室津両村民全てが共有した、と伝わる。
 室津港竣工を祝す礎石と最蔵坊の墓は、室津二六四八番地の願船寺の境内に鎮座し、住職によって手厚く祀られている。
 私ども市民は、津呂・室津両港の創始者・最蔵坊こと小笠原一学を今一度敬い、顕彰するべきであろう。

                            文  津 室  儿
         



 

2014年11月1日土曜日

 室戸市の民話伝説 第55話 幻の献上珊瑚

  第55話  幻の献上珊瑚

 我が国で、初めて珊瑚《さんご》の文字が記されている書物は和名類従抄《わみょうるいじゅしょう》である。この書物は平安時代中期に作られた辞書であり、承平年間(九三一~九三八)に、勤子内親王《きんしないしんのう》の求めに応じて、源順《みなもとのしたごう》が編纂したものである。
 さて、土佐には古くから左記のように歌われた俚謡《りよう》(里歌)がある。
  お月さん桃色 誰が言うた
   あまが言うた あまの口引き裂け
 又、
  お月灘桃色 誰が言うた
   海女が言うた 海女の口引き裂け
 この里歌の解釈に付いては諸説ありますが、拙子は、以下のように解釈したい。
 初めの句の発句「お月さん桃色」は、水面《みなも》に映る月が桃色に染まっている様子を吟じたもので、桃色珊瑚の豊さを誇張したものである、と思われる。
 二句目の「お月灘桃色」は、幡多郡大月町の月灘海域を指し桃色珊瑚が多く産することを吟じたものでありましょう。「誰が言った」か、との問い掛けに対して、「あまが言うた・海女が言うた」と答えています。前句の「あま」とは、女の子・良家の女児・幼子を指し、後句の海女は海に潜って魚介類や海藻等をとる女性であり、生業者が禁漁品を口にすることは無く、あま・誤植である!、と考えられる。
 なお「あま」とは土佐の方言である。(高知県方言辞典) 
 藩政時代から明治四(一八七一)年まで、珊瑚の採取は禁漁され厳しく取り締まっていた事が、「あまの口引き裂け」と、幼児の里歌まで禁じていた事で、計り知れよう。
 日本の宝石珊瑚は大別して、白色珊瑚・桃色珊瑚・赤色(血赤)珊瑚の三種類があり、日本人が最も珍重したのは桃色珊瑚である。
                         絵  山本 清衣
 土佐に置ける珊瑚の主要産地は、東は室戸半島周辺海域と西は足摺半島周辺海域である。室戸は赤色珊瑚が多く、足摺半島大月町月灘では桃色珊瑚が多く生息した。
 文化九年(一八一二)二月、元浦(現室戸市元)の庄屋奥宮三九郎が藩へ差出した口上覚えには、「勢子舟沖合い羽指の文丞が、下《さ》ヶ釣船でたまたま大ノ珊瑚樹差上候者ニ御座候由」『珊瑚に関する最も古い記録』(津呂捕鯨誌)より抜粋、また、南路志にも記述あり。 余影録には「室戸の人戎屋幸之丞が天保年間(一八三0~四三)に室戸岬付近に於いて釣りするに方り、偶々珊瑚の其の釣りにかゝるをみて、百方考案を加え、遂に創めて、珊瑚網を発見せしを、当時、藩政珊瑚の探採を禁じ之を使用することを得ず。後藩、其の禁を解くに及び、盛んに之が採取に従事し、従って一般に普及し、現今闔県《こうけん》(県下全て)使用する。云々(土佐資料)」と述べ、珊瑚網を創製した功績を称えている。参考資料・室戸町史・室戸市史下巻他
 以上、参考資料からして、初めて生業として珊瑚漁を始めたのは、室戸浦の住人、戎屋幸之丞である、と資料が語っている。
 はてさて、幻の献上珊瑚噺が生まれたのは、大正三(一九一四)年四月半ばの頃であつた、という。
 とある日、南新町後免の漁師・泉為太郎氏が、室戸岬沖海域の珊瑚の埋もれ礁《しょう》(珊瑚の生息域)、二十数カ所の内、白草《しらくさ》に山立てをして、珊瑚漁に掛かった。舟を潮流任せに打たせ四~五十分も経った頃、舟がぴたりと止まってしまった。為太郎は、初っぱなから海底《そこ》を掻くとは、何と情けなやと思いながらも、これも吉報の兆しと思い直して艫艪《ともろ》を取りだした。艪は、幅七寸(21cm)総長さ二十一~二尺(約七㍍)と、一般の艪よりは一回り大きく屈強な身体が求められたが、為太郎は小腕返しの艪捌きも鮮やかにこの艪を操った。
 四月と言えど、室戸路は限りなく夏に近く暑い。為太郎の顔から玉の汗が流れ出はじめた。時はどれほど経ったであろうか、そよそよりと四月の風が吹き始めた。その風に背を押されたのか、舟足が急に軽く早くなった。 為太郎は、底から網が離れたのを機に網を上げる。珊瑚礁は七~八十尋(約105~120㍍)の深さだ。珊瑚網を手繰り上げるには三~四十分掛かるであろうか、艪を押し網を浮かせて手繰り寄せ、そして又、艪を押して網を浮かせ手繰り寄せる。これを幾度となく繰り返すのである。屈強な漁師と言えど、大変な労働である。右舷に、柿渋で染めた麻の珊瑚網が、真っ赤に変わって大木の珊瑚樹を絡ませて上がってきた、という。
 それは、直径七~八寸(約22~3cm)、重さ四貫六百匁(17,194kg)の血赤珊瑚であった。
 これが大評判に成るのには、さほどの時間を要しなかった。来る日も来る日も毎日見物人が押し寄せた。為太郎は、珊瑚樹が余りにも大きすぎたので、家の中では置くところが無く、床の下の芋坪《いもつぼ》にゴザを敷いて中に入れ、見物人が来る度に芋坪から出して見せていた。
 所がある一夜、室戸町全域が豪雨に見舞われ、津照寺の本堂右脇が崩壊し、尚且つ本堂も崩壊の危機にあり、南新町、室津、郷の住民に全員集合との布告《ふれ》が出た。集まった住民は、御本尊舵取地蔵に雨の止むのをただただ祈った。その功徳か夜が白み掛ける頃には、豪雨も治まり本堂は無事であった。
 間もなく解散のふれも出、それぞれ家路に急いだ。その中には為太郎ももちろん居た。
 帰り着いた為太郎、何か嫌な予感がした。その予感は的中した。いつも珊瑚を置いてある芋坪を覗いてみる。珊瑚樹は一欠片の姿も無く、そこは蛻《もぬけ》の殻《から》だった。よくよく覗くと隣境の犬走りが掘り返され、大きな穴が芋坪に通じていた。
 為太郎が密かに描いた夢、この珊瑚で小皿を作り天皇陛下に献上することは、儚くつゆと消えてしまった。
 桃色・血赤珊瑚は、昔も今も人の心を引きつけて離さない魅惑の珊瑚樹である。

                            文  津 室  儿