2011年10月1日土曜日

第7話  夢枕の女


       夢枕の女

 戦国時代が終り、太平の世に移った江戸時代初頭の頃と言うから、今から三百七~八十年前の事である。室戸岬の小高い丘に、鬼塚七郎衛門と言う領主の城があったそうな。
 そのころ、土佐の海には沢山の鯨がやってきた。土佐には室戸だけに津呂《つろ》組と浮津《うきつ》組の二つの鯨捕りの組があった。
 ある年の春先、鯨の群れが室戸の沖を通るという知らせが届いた。そこで領主は家来の川中吉左衛門を呼び、鯨捕りの指揮を命じた。吉左衛門がすっかり準備を終えたのは、もうかなり夜も更けてからであった。
すぐに床につき、とろとろっと微睡《まどろ》んだころ、一人の美しい女が吉左衛門の枕元へ座り、丁寧に頭を下げ、「明日の朝、鯨捕りがあるそうですが、私はそのころ室戸の沖を通らねばなりません。どうか、その日を少し延ばして下さい。私はまもなく子供を産みます。子供が産まれたら、いつでもこの命を差し上げますから・・・・・。」と女はこう言って、何度も何度も頭を下げて出ていったそうな。
 やがて朝になった。吉左衛門は夢のことを思い出すと、心が重く痛んだ。しかし浜へ出て、勇ましく鳴る太鼓の音、風にはためく勢子船の旗を見ると、いつの間にか夢の女のことは忘れてしまっていた。
 しばらくすると、狼煙《のろし》が上がる、鯨を見付けた標しだ。勢子船がいっせいに沖に向かった。一番羽差しから、二番、三番羽差しへと、次々に十三番目の羽差しまでが、鯨を的に空に向け銛を投げ放った。数十本の銛を受け傷ついた鯨は深く潜り、水面高く飛び跳ね、もがきながら血で海を赤く染めた。数時間の戦いは終る。鯨は持双船《もっそうぶね》に結えられた。三百人の漁師がジョウラク・ジョウラクと唱え、鯨の霊を慰める中、大剣でとどめが刺され、鯨浜にはこばれた。
 その夜、吉左衛門はすすり泣く女の声に目を覚ました。枕元に昨夜《ゆうべ》の女が血塗れ姿で座っていた。「貴方は、何と言う酷《ひど》い方でしょう。私の願いをとうとう聞いて下さいませんでした。私の子供は広い広い海原を知らずに、とうとう死んでしまいました。」女はさめざめと泣きながら、こう言ったそうな。
 明くる朝、吉左衛門が鯨浜に出ると、昨日捕った鯨が並べてあった。その中にお腹に子を宿した雌鯨がおったそうな。それを見ると吉左衛門は、可哀想なことをした、と心から悔やんだ。
 そこで領主に願い出て、孕《はら》み子を貰い受け、大海原が見渡せる小高い丘に、洗米や果物・お神酒《みき》を供えて葬り、七日七夜は心無い人間や獣に荒らされないように、番人を立て守ったと語り継がれている。
 
注記 
 孕み子の葬り方は三通りあった。一つは先に記した、小高い丘であるが、今一つは水葬と浜辺の砂を深く掘り葬むる。なお、孕み子が雄の時は、一番羽差しの妻の赤い腰巻きに包み、引き潮に乗じて葬る。雌の場合は、同じく一番羽差しの羽織で包んで葬ったと伝わる。
 母鯨が言い遺した「広い広い海原を知らずに死んだわが子」との言葉には、鯨の母性愛や鯨に畏怖畏敬の念もって接する漁師の心根が伝わる。この孕み子の弔いは、吉左衛門の「夢枕の女」に始まり古式捕鯨が終焉する明治三十九(一九0六)年まで続けられたという。
なお、水葬と小高い丘を、どのように仕分けて葬ったのか、今は分からない。
             
         文  津 室  儿
         絵  山 本 清衣

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1 件のコメント:

  1. 津室さま
    初めてコメントさせていただきます。
    室戸の伝説、興味深く読ませていただいています。
    平成2年か、小生安芸に勤務していた1年がありましたが
    教職員の芸術?発表会があって、ご紹介されている、母鯨
    が夢に出てくる劇を見せていただいた記憶があります。
    今年の夏、佐喜浜子供俄が東京で紹介されたようですが
    行けませんでした。小生64歳の若造ですが、節制悪く
    体調等から10年以上も展墓にも帰ってもおりません。
    思い出に岩佐の関所を舞台に惜春賦を書きたいと思って
    いるのですが。三次さんの話、面白うございました。これからも拝読させてください。

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