2012年1月15日日曜日

五・ニク狩  六・握り屁  七・三次さん夫婦

               握り屁

    五 ニク狩
「ニク」 佐喜浜ではニホンカモシカの俗称を「ニク」と云っていた。国の特別天然記念物指定の保護獣である。野根山街道付近には多く、崖を好み、食性は植物食で、広葉草本の葉、芽、樹皮、果実や苔を食す。牛科の動物で、大きいものは子牛ほどある。
 このニクを加奈木の潰《つえ》から、古畑の雨ヶ谷で見つけた三次さん。隣りの善助爺《じい》さんに「善兄、雨ヶ谷にニクが来ている。善兄は長襦袢《じゅばん》を着て、潰の下の河原で踊りを踊って下され。儂が捕まえるから」と、嫌がる善助爺さんを雨ヶ谷へ連れ出した。三次さんは、吉良川越えの峠を登って、雨ヶ谷の潰の背後へ隠れながら行った。雨ヶ谷の頂きには三頭のニクが、木葉や苔を食《は》んでいた。善助爺さんは、三次さんの指図通り、俄《にわか》づくりの女形《おやま》姿に変身して、赤い長襦袢で優雅に舞っていた。不思議な光景に目をとられたニクは、首を傾《かし》げていた。三次さんは、棕櫚縄《しゅろなわ》で拵えた投げ縄を、今ぞとばかりに投げた。投げ縄はニクの首に上手くかかった。吃驚したニクは崖の頂きから下向きに跳んだ。三次さん、これを放しては一大事と、縄を握り締めたまま気絶してしまった。そばにニクが息絶えていたという。三次さんは、善助爺さんの介抱で九死一生をえ、二人は捕らえたニクを桑の木に運び、段と両集落の全員で鱈腹《たらふく》喰ったという。
   六 握り屁
 岩佐の関所の役人、北川三郎兵衛という侍が、高知の城下へ所用があって行くという、三次さんは願出て、お供をさせてもらった。高知の城下の賑やかさは、佐喜浜八幡宮の秋祭りの賑わいさながらで、唯々目を見張るばかり、山の中の三軒や暮らしの身にとっては、何もかも吃驚することばかりであった。
 向うから家来を二人連れた侍が来た。「北川さん、三次の首が飛ぶか飛ばぬか、あの侍に屁《へ》をかましてみましょうか!」と云って、屁を放してそれを握り、目をこすりながら、向うから来た侍にドンと突き当たって、握っていた掌《てのひら》をパッと広げた。何せ、三次さんは食い物はろくな物を食っていない。その屁の臭いことといったら。「無礼者、それへ直れ、手討ちに致す」と、突き当てられた侍の、怒ったの怒らなかったの。顔を真っ赤にして刀の柄《つか》に手をかけた。三次さんは惚《とぼ》けながら平身低頭をした。三次さんは「どうぞ、堪えて下さい。儂は桑ノ木の三次という、ド百姓でございます。生れて初めてお城下へ出て、失礼を致しました。どうかお侍様気の済むようにしてつかさいませ」と平身低頭、頭を下げたが、そこは三次さん右足を後に引き、斬り付けて来たら、ヒラリと後へ跳び退く用意と覚悟は出来ていた。所がそのお侍、かなり人の良い、心の広い方であったらしく「そうか。初めてのお城下見物か、仕方がないのう、以後気をつけて歩け。しかしながら、百姓の手と云う物は臭いものじゃのー」と云って許してくれたそうな。
 城下からの帰り道、北川さんとこの話を繰り返し話しては笑い、笑っては言い続けながら、岩佐に帰った、という。
   七 三次さん夫婦
 三次さん夫婦に女の子が生れた。家族は途端に忙しくなった。ことに嫁さんは目が廻るほどに。嫁さんが「赤ちゃんを、ちょっと抱いていて」といって、三次さんの膝《ひざ》の上に置いて家事にかかった。そのうち、赤ちゃんがむずかかって泣き出した。三次さんは赤ちゃんをあやしもせず、抱いたままであった。赤ちゃんは火がついたように泣きおらぶ。嫁さんが勝手から飛んできて、「まあ、お前様は子守もろくにできない。極道されや」と、怒ったが、三次さんは平気の平左衛門「お主は子を抱いてくれと云ったから、云った通りに抱いたままよ。あやせとも守をせよとも云わなかった。それやのに極道されと云われては、割が合わない。世の中にお主ほど得手勝手をいう者が居るものか」といった。
 また、これによく似た噺で「火を見ていて欲しい」という噺がある。三次さんの嫁が夕餉《ゆうげ》の仕度をしていたら、三次さん仕事から帰ってきた。小忙しい嫁は「釜の火を見ていて」と云って出て行った。用事を済ませて帰ってみると、ご飯が焦げ付く匂いがする。あわてて飯釜を開けると、すっかり焦げ付いている。それでも三次さんは、薪をせっせと竃《かまど》にくべていた。嫁が荊棘《ばら》になって怒ると、「お主は火を見ておれと云ったから、云った通り、煙の中で涙を流しながら、火が消えないように焚いていただけだ。何が悪い。お主は飯炊きをしておれとは云わなかったぞ」と、言い返したそうな。まことに、奇人・変人の躍如ってことでしょう。
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。

                         文 津 室  儿
                         絵 山 本 清衣

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1 件のコメント:

  1. 昭和50年台だったか、一度、佐喜浜口から岩佐を目指したことがあります。そのころすでに段の集落は消え、分校は跡になっていました。岩佐への山道に入り始めた時、突然向こうの山全体が動き始めました。恐ろしくなって足がすくみ、ほうほうに引き返しました。ニクではなくイノシシの群れだったように思い出すのですが。
    吉田東洋を那須信吾が襲ったのは参政東洋の放屁が原因だったとの話がありましたね。三次さんの放屁は恨みを残さないところがほっとします。

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