絵 山本 清衣
子育て幽霊
むかしも昔のこと。四里(十六㌖)ばかり離れた所に藩境の岩佐の関所があった。そこの番士の娘でお百合と言う者が、佐喜浜の庄屋の一人息子に嫁に来ていたそうな。
お百合さんは大変可愛らしい人で、両親や夫には良く仕え、奉公人も大事にしたので、たいそう評判の良い嫁であった。しかし世の中は、ままならないもので、姑がめっそうな気位の高い人で、田舎出のおとなしい嫁を馬鹿にして、ことごとに嫁いびりをした。お百合さんは涙のかわく暇がなかったそうな。
ある日、お百合さんの不注意から、一枚の皿を割ってしまった。その時の姑の仕打ちは口汚く罵っただけでなく、竹刀で身体の至る所を何遍も殴ったという。その様子を見かねた親戚の者たちは、とうとう親族会を開き離婚をさせることにした。お百合さんはその時すでに、お腹に赤ちゃんを宿していた。お百合さんは、赤児の為に夫や姑に何度も何度も置いてくれるように嘆願をしたが、聞き入れてはくれなかった。
ある日、お百合さんの不注意から、一枚の皿を割ってしまった。その時の姑の仕打ちは口汚く罵っただけでなく、竹刀で身体の至る所を何遍も殴ったという。その様子を見かねた親戚の者たちは、とうとう親族会を開き離婚をさせることにした。お百合さんはその時すでに、お腹に赤ちゃんを宿していた。お百合さんは、赤児の為に夫や姑に何度も何度も置いてくれるように嘆願をしたが、聞き入れてはくれなかった。
姑の目論見は、お百合さんを離縁させ、自分の親戚筋の娘を嫁にすることであった。そのような考えの姑であるから、お百合さんの願いを聞く由もない。
お百合さんは、夜ごと夜ごと、枕を濡らしながら泣き暮らしているうちに臨月を迎え、玉のような男の子が生まれた。それは、お百合さんが実家に返される日でもあった。 お百合さんは、赤児に一口の母乳《ちち》さえ呑ますことも許されず、岩佐より迎えにきた父親に付き添われ、子供を案じながらふり返り、ふり返り父の足下にそった。
岩佐に帰ったお百合さんは、残してきた赤ん坊のことが心配で心配で、あれや、これやと悩んでいるうちに、重い病にかかり、とうとう身罷ってしまった。お百合さんが身罷った晩のこと、庄屋の門がトントンと叩かれた。門番が不思議に思って、戸を開けると、真っ暗闇の中に、お百合さんが立っていた。「お百合さまっ!」門番がびっくりして、こう呼びかけたが、お百合さんは一言も答えずに家の中に消えていった。門番は夢心地で、ぼんやりと門をしめた。すると今度は、家の中から、淋しそうな女の声で、「トント(坊や)よ、トントよ」という声が聞こえてきた。
その声がすると、今まで眠っていた赤ん坊は、パッチリ目を覚まし、母親に抱き付く仕草や、顔を傾け、口を尖らせて、チュウチュウと乳を吸う音をさせる。こうしてお腹が一杯になったと思われる頃、にっこりと笑顔をたたえて安らかに眠りにつく。しかしどこにも人の気配はしない。
次ぎの晩も、庄屋の家で、「トントよ、トントよ・・・」と、子供を呼ぶ声が聞こえ、それが毎晩のように続いたそうな。
このような不思議な夜が始まってから、赤ん坊は祖母や女中の与える物には、むずかるばかりで食べようとはしない。ただ夜毎に姿の見えない者の乳を吸う様子だけで、丸々と見るも可愛い子供に育っていった。
庄屋では、今更のようにお百合さんを哀れに思うたが、どうにもならない。
いつしか、この話しも世間の知る所となり、身罷ったお百合さんが幽霊になって、岩佐の夜道・山坂を四里も歩いて、我が子に乳を呑ませに来るのだろうと噂が広まった。
今でも、この大きな庄屋屋敷に行くと、どこからか、「トントよ、トントよ・・・」と赤ん坊を呼ぶ、淋しそうな女の声が聞こえて来る、という。岩佐のお百合さんのお墓には、数百年の時を経た今なお、献花や線香がとだえないという。
文 津 室 儿
台風一過、室戸も秋晴れの空でしょうか。
返信削除元治元年(1864)、岩佐の関所に二十三士が集結しなかったら、関所の文書も現在に残っていた可能性があったのではと思います。哀しい伝説のみが残っているのは寂しいですね。