2015年6月15日月曜日

     室戸路寸感   一    紀貫之の歌碑と梅香の井戸 

    これから室戸路を、あれこれ徒然なるがままに筆を下ろします。ご笑読頂ければ幸いです。

  紀貫之の歌碑と梅香の井戸 一
 
 五年間の土佐国司の任務を終えた紀貫之朝臣は、承平(九三四)四年十二月二十一日、土佐の国府(現南国市比江)を立ち、帰京の途についた。
 当時の土佐より京都までの行程は、延喜格式主計式によれば陸路は上り三十五日、下り十八日、海路二十五日と定められていた。しかし、帰京に五十五日を要したことは、その頃の海上交通が如何に難渋を極めていたかが窺える。
 その五十五日間に及ぶ京への船旅を、「男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり」男が書くという日記なるものを、女である私も書いてみよう、という思いで書き始める。これがかの有名な紀貫之『土佐日記』の書き出しである。この書き出しのように、紀貫之は女性になりきって書き始めている。
 さて、貫之は国府比江の村民共々に、尽きせぬ名残りの涙を流しながら、大津より船を漕ぎ出したのが十二月二十七日だった。年あらたまり
 一月十日 今日はこの奈半(現奈半利町)の泊にとまりぬ。この間十三日、冬の土佐湾は、今も変わらず大西(強い西風)が吹き船舶を悩ませている。
 一月十一日 暁に舟をいだして室津をおふ。人みなまだ寝たれば、うみのありさまも見えず。ただ月を見てぞ、西ひんがしをば知りける。かかる間に、みな夜明けて、手洗ひ例の事どもして、昼になりぬ。今し、羽根といふ所に来ぬ。
 羽根崎は、室戸世界ジオパークサイトの西入口にあたり、往古は室戸崎に対し小室戸崎と呼ばれ大小の岩礁が美しい。右、記述のように、貫之一行は奈半の泊まりを出で、十一日昼頃羽根崎に懸かる。幼童の羽根という名を聞いて、
ーーーまことにて名に聞く所
 羽根ならば
 飛ぶがごとくに
    都へもがなーーー

羽根崎・紀貫之の歌碑

と、貫之は詠み、京へ逸る気持ちがあらわである。
この紀貫之の歌碑は、昭和三十四年、地元羽根町有志の十兵衛会により建立された。(十兵衛会とは、羽根浦「分一奉行」岡村十兵衛浦久のことで、寛文、延宝、天和の飢饉に、藩の許可なく御米蔵を開放し浦人を救った義人)


     室戸崎側より羽根崎遠望・右手前植物群落はハマボウ 

  

室津の泊 十二日 曇り模様であったが、雨にはならなかった。
この日、文時《ふみとき》・惟茂《これもち》の乗った船が奈良志津《ならしづ》(奈良師)から遅れてきた。
 十三日 雨が止むと女たちは湯浴みをするため船から下りていった。月の光は殊の外趣がある。海の神を恐れて、船に乗った時から紅の色あざやかな着物を着てないのに、陸に上がると海神も見てないと思ってか、着物の裾を脛《すね》の上までまくりあげて、「ほやのつまのいずし・すしあわび」(女性の隠し所)まで見せている。
 註、海の神は、財宝とか綺麗な衣服などを、とりわけ好むから、それを身に着けていようものなら、思わぬ災難を受けるかも知れないと言う伝承が信じられていた。
 この湯浴みした場所が、この井戸周辺だと伝えられて、周囲に老梅が生い茂っていた事から貫之は、この井戸を「梅香の井戸」と名付けた、と今に伝えられる。「まいご」とは梅香が転化したものと思われる。


                      室戸市史・室戸町誌より引く



                     昭和25年頃のまいごの井戸

    
          現在の室津港・黄色い電柱控えの位置に井戸があった。
                    
           平成10年頃、岸壁改修工事のため移設。
          現在のまいごの井戸・水は汲めない。

3 件のコメント:

  1. はじめてコメントさしていただきます。
    まずお写真もご立派で感銘を受けました。(まことにて名に聞くところはねならば)も立つ位置によっていかようにも変化しますね。初めてのアングルで新しい羽根崎を発見したような気分でございます。足元のハマボウは朴ノ木の朴ですか、昔はよく見られましたが、今は滅多に見られません。一度儿さんの立たれたところに行って見たいと思います。
     ところで羽根の地名について時々考えたりしますが、見当もつきません。多分鳥の羽のように見えたことからつけられたと思いますが、土佐日記(934)年はすでに羽と言うのは、たぶん海路から見ての地名と思いますが、ついぞ何かの羽に似ていると聞いたことがありません。ご存じありませんか?
     それと(まいごの井戸)今も残されていると聞き安心しました。貴方の説明では梅花が転じたものとありますが、私はそのままでよいのであるまいかと思ったり致します。そこは川尻に近く船着き場でもあったことでしょうし、石ころの多い磯ではなかったかと思います。そうすればそこはよく(マイゴ)のいるところではなかったかと素人の率直な意見でございます。を梅香がマイゴに転ずるには少々無理ではないかと思います。無学なものの賢しらぶりとお許しください。
     なおわたしは思いますが、これらの記事の集大成が初めての「室戸風土記」に成長してゆくような、そんな期待を抱くものの一人でございます。
     文章も益々充実されてこれからの(寸感)を大いに期待いたします。
    (ヤフウでは記事と呼びますので、ついヤフウ流に言いました)
    お体に十分お気をつけられて、長命であられることを祈ります。

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    1. kakiさん、コメント有り難うございました。
      ハマボウはおっしゃる通り、朴です。秋には、この朴の実を集め、乾かし、どこの母もが枕を作ってくれましたね。その香りに包まれながら、眠ったことが思い出されます。
       羽根の地名については、おおせの通りだと存じます。何かの本に、土佐湾のことを鶴翼の地形と評していました。鶴が翼を広げた様子、と言えば私も納得できます。さて、「マイゴ」ですが、私にとって目から鱗が落ちるでした。マイゴをキサゴ貝の方言とは、気が付きませんでした。さすが先輩恐れ入りました。

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    2. 吉良川の西の川(私は吉の川と呼んでいます。東の川は私流にいえば良の川です)に朴ノ木と言う地名があります。そこには朴ノ木が多く生えていたから、きっと朴ノ木と言う地名になったと思います。わたしの立石も立石が存在するからです。地名は案外そのままのものがあると心得ていた方が安心と思います。
       室津の人は、そこのマイゴをとって夕餉の副菜にしたのではありませんか。人々の暮らしと井戸に対する親しみが湧きませんか。わたしはそんなに思います。潮の時にマイゴをとる嫁や子供の賑やかな姿が浮かんで昨日のことのように思われます。
       でも梅香も風流ですね。そうだとすれば、まことに風流な漁師さんたちの姿が偲ばれます。

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