2012年2月17日金曜日

十三・待ち飯 十四・ある者はしよい 十五・大野家源内槍掛けの松



    十三 待ち飯
 三次さんの住む桑ノ木に行く途中、胴ヶ谷があり、その上《かみ》に潜裏《ひそうら》がある。その潜裏では、二、三反の田畑を耕して暮らす一軒家(宮本家)があった。そこのお婆《ばば》は、近郷近在に聞こえた美声の持ち主で、佐喜浜八幡宮の秋祭りには欠かせない存在であった。頭には白い布をのせ草履《ぞうり》ばき、神輿《みこし》の追従組の先頭に立って、神歌(神徳をたたえる歌)の音頭をとった。『あたもせの けふとする日は 七里や八里 神子《かみこ》(巫女《みこ》)に付てわたす』小柄だが、良く通るお婆の美声に郷方の神子は、後に付き唱和した。そのお婆の名前を知らずとも「潜裏のお婆さん・アタモセのお婆さん」の愛称で名を馳せていた。
 伝わるに、約二百年前の寛政年間に佐喜浜八幡宮の大太鼓をつくった。材料は胴ヶ谷から大きな欅《けやき》を伐り出し太鼓の胴を作った事から、潜裏は「胴田本村」と呼ばれ、祭り当日は、御膳頂戴《ごぜんちょうだい》(神より賜る料理)の時には、他の集落や町のお偉方《えらがた》より一番先に膳が据えられたという。そのような習わしで、潜裏の者が神歌を歌わないかぎり、神輿を出す事が出来なかったそうな。
 潜裏のお婆さんは元気で働き者、桑ノ木から浦(町)へ駄賃馬曳きをしていた。ある時、通り掛かりに三次さんの家に立ち寄った。三次さんは少し遅い朝食を摂っていた。その食膳は、黒い麦飯に塩の采《さい》(副食)だった。お婆は「三次さんよ、そりゃ塩の采じゃいか、辛うて喰えまい。これから浦に行くきに、干物でも買ってきちゃらあ」と云って、三次さんの家を後にした。桑ノ木から二里半の下流、佐喜浜の浦に下り仕事をすませた。お婆さんは約束の干物を買って、桑ノ木に帰り着いた頃はもう夕暮れ時であった。早速、三次さんの家に立ち寄った。すると三次さんは、朝飯時のままの格好で座っていた。お婆さんは「三次さんよ、晩飯を喰いよるか」と、問いかけた。すると三次さん「いいや、お婆が干物を買ってきちゃると云うたきに、待つちょうったがよ」と、答えた。これには、潜裏のお婆さんも開いた口が塞がらなかったそうな。
 今は、三次さんの前田家も宮本家も、阿波の現・海陽町に移り住み、両家の屋敷跡には石垣や柚子《ゆず》、柿の木や梅の木がよすがを残し、潜裏も桑ノ木にも誰一人住んでいない。
   十四 ある者はしよい
 三次さんの伯父さんに、小銭を貯えている人がいた。ある歳の大晦日の晩に、三次さんがお金を借りにいった。三次さんの話しを聞いていた伯父さんは、小銭の入った大きな箱を出してきて「この銭は来年の米代、これは采代、これは着物代」などと、来年入り用の銭勘定をして、それぞれの品物の名をつけた箇所へ積み上げていった。伯父は「三次よ、ある者は都合がえいきににゃ」と云って、銭箱を仕舞い込んでしまった。そのような訳でお金は借れず、すごすごと帰ってきた。
 明けて正月元旦。三次さんはご来光を拝み、段集落へ年始の挨拶に向った。その途中、田圃《たんぼ》の畦道《あぜみち》で、伯父さんに出会った。三次さんは突然伯父さんに飛び掛かり首を絞めた。伯父さんは「三次、三次、元旦早々どうしたら」と目を白黒させたが、なおも、じわりじわりと締め上げた。伯父は「誰ぞ来てくれー、三次が、三次が」と、呼び掛けるが、通りかかる人はいない。三次さんは、畦道から雑木林に突き転がして、こう云った。「伯父さんよ、力のある者は元旦早々から間に合って、都合が良いきにのう」と云って、振り返りもせず段集落に向った。その後、伯父さんは三次さんに一言も自慢話をしなくなったという。
   十五 源内槍掛けの松
 佐喜浜漁港の上に、かつての佐喜浜城主大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親と戦う為に本陣を構えた。その折り、槍を松の枝に掛け英気を養った由来の松があった。
 この噺は、三次さんが五十歳、文久元年(1860)のことで、源内が槍を打ち掛けて、二百八十数年が経ち老大木となっていた。松は港の上に大きく枝を張り、一幅の名画の趣をかもした。親しみを憶えた枝を伐るは忍びないが、船の出入りに支障をきたした。枝を落とさねば、と話は出るものの伐り人おらず、誰もが尻込みをした。誰云うとも無く、白羽の矢を三次さんに立てた。
 数日後、三次さんが浦(町)に塩を買いに来た。これを幸いと相談を持掛けた。三次さんは気安く「伐った木が港に落ちるが、かまんか」と、問う。「かまん、落ちた枝は船で外に引っ張り出すきに」三次さん「ほんなら」と云って、次の朝、大きな鋸《のこぎり》を持ってやって来た。松の木にするすると登り、「この辺で良いか」と聞く。誰かが「えい」と応えた。三次さんは両足を踏ん張り、股の間に鋸を当て挽《ひ》き始めた。さすが杣人、忽《た》ちまち枝を伐りはらった。身軽さはもとより手際の良さ、見事な仕事ぶりに、見物人は皆唖然としていた。伐り終えた三次さん、曰く。「昼までに、岩佐に行かにゃ」と、一言残して風の如く消え去った、という。
 この松は昭和六年(一九三一)の時化《しけ》で倒木し、往時を偲ぶよすがは今は無い。 
 次回も三次さん噺です。お楽しみ下さい。
                             文 津 室  儿
                             絵 山 本 清衣
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1 件のコメント:

  1. 寛政三年(1791)崎浜浦分111戸、501人との数字があります。岩佐には1743年15戸76人との記録があり、寛政のころ桑の木や段の集落には子供の声がこだましていたのでは。
    槍掛けの松の写真を見た記憶があります。

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