篳篥・海賊丸
平安時代後期、堀川天皇時代の年号の康和《こうわ》五(一一0三)年の夏、京の都の篳篥《ひちりき》『篳篥とは、雅楽の管楽器の一つ。奈良時代初期に中国から伝来した縦笛《たてぶえ》の一種。現在のものは、長さ約一八㎝の竹管の表に七孔《あな》、裏に二孔を空け、上端に葦製の舌を挿入したもの。音は強く、哀調を帯びる(大辞林・小学館)』の名手・和爾部《わにべの》用光《もちみつ》が室津の泊り「船着き場や港」で奏でた篳篥の音《ね》に起きた不思議な物語である。
用光は土佐・高加茂大明神《たかかもだいみょうじん》(土佐神社)の船遊びの祭りや夏越の祓いに招かれ、篳篥の名曲を奉納し、土佐の民衆を大いに楽しませたのち、船で帰京の途についていた。「土佐日記」で名高い歌人で国司の紀貫之朝臣《きのつらゆきあそん》のように、用光も又、室戸岬の風涛に遮られ、船は室津の泊りにやむなく投錨した、幾夜かたった、とある夜のことであった。夜のしじまが室津の泊りに静々と深まった頃、どこからともなく怪しい船が音もなく現われ、用光の船に近づいた。船は海賊船であった。
海賊は、用光の船をしばらく窺った。用光の船に武者や番兵が居ないのを見届けると、恐ろしい勢いでどかどかと乗り移り、略奪を重ねたあと、用光を取り囲んだ。用光は逃げようにも逃げられず、戦うにも武器もない。とても助からぬと覚悟を決めた。だが自分は楽人《がくじん》『雅楽を奏でる人』である。今となれば一生の思い出に、心残りなく篳篥を奏でて死にたい。用光は海賊どもに向かって云った。
「こうなっては、お前たちにはとてもかなわない。私は覚悟した。しかし私は都では、その名をはせた楽人である。今ここで命を取られる前に、この世の別れに一曲だけ吹かせてもらいたい。そうして、こんなこともあったと後の世に伝えてもらいたい」と、云って篳篥を取り出した。海賊は顔を見合わせて、「おもしろい。まあひとつ聴こうではないか」と云って、刀を鞘《さや》に収めた。用光はこれが名人と謳われた末期の曲だと思って、心静かに小調子《ごぢょうし》『(補説)「こちょうし」ともいう。雅楽の前奏曲。高麗楽《こまがく》。篳篥を主として高麗笛《こまぶえ》を加えた曲で、平安時代の秘曲《ひきょく》(特定の家系の者や、免許皆伝者にだけ伝授する、秘伝の曲目)』の名曲を奏で始めた。雲一つない夜空に月が美しく輝き、笛の音は高く低く波間を越え天空にひびき渡った。曲が進むにつれ、用光は自分の笛にただ一心に心を注ぎ込んだ。その時であった。天空の一隅から、白く朧に輝く白拍子が舞い降りてきた。一人の若い海賊が目ざとく見つけた。そして、これは奇跡だ奇跡の始まりだ、と叫んだ。流人《るにん》の国、四国の僻村《へきそん》の室津の泊りに奇跡が起こった。そこには満天の星空に、日本一の白拍子と謳われた静御前が小調子の秘曲にあわせ天空に舞っていた。用光の奏でる篳篥の音と静御前の舞いの共演は、この世のものとは思われず、まさに奇跡の共演である。
じっと耳を傾けていた、荒くれ者の海賊に大きな変化が起きた。深い感動を覚えたのか、涙さえ浮べていた。やがて曲は終わった。「あの笛の音を聴いたら悪いことはできぬは」海賊どもはこの名曲によって良心を目覚めさせ 、用光から奪い取った品物は総て返し、用光を淡路島の畔まで見送ったという、平安の雅な情景の出現は奇跡である。世にも美しい物語が、この室津の泊りの地に語り継がれていた。
いつしか、この篳篥に海賊丸と名前が付され、二百年に亙って和爾部家の家宝として実在したが、今は名器海賊丸の所在は不明である。
文 津室 儿
絵 山本 清衣
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ヒチリキの楽器の魅力を読ませて頂きました。
返信削除昔、私の地元の宮司が亡くなり、葬儀の時、熊野本宮大社の前宮司がそこでヒチリキを演奏したのを思い出します。
その音色は、時には意図的に西洋音楽の和音とは異なる「雑音の音色」も奏でるのですが、嫌みを感じさせない宮廷音楽を思い浮かべる素敵なものでした。もっとも、ベートーベンの交響曲の中にも、そのような手法を取り入れた箇所もありますが・・・。でも、あちらでの初演の時は、おそらく評判が悪かったでしょうね。しかし、わが日本ではそれらを心地よいメロディとして受け止めることができるのは、日本人の感覚の繊細さがあるためかと思っているのです。
近年、俳句も外国で人気が出ているようですが、英訳にして俳句を詠むと、なんと味気ないものか?
俳句もまた「音楽」で、日本語の音声のリズム、響きを伝えた感覚的なものであり、ヒチリキのメロディと共通するものだと、私は思います。
土佐で900年前のことが伝えられているというのはすばらしいことですね。