申し遅れましたが、太地亮氏は紀州太地の網掛捕鯨の創始者・太地角衛門頼治氏の末裔であります。公職を退かれた今は、日本の古式捕鯨の研究をライフワークとして活躍をされています。 著書多数
多田吉左衛門と網掛突取捕鯨
太地 亮
はじめに
土佐・津呂浦の鯨方頭取、多田吉左衛門清平が熊野太地浦を訪問しなかったら、おそらく太地浦での網掛突取法の更なる発展はなかったであろう。そしてそれを開発した太地角右衛門頼治(旧姓、和田)とその技術を得た多田吉左衛門清平が囲碁を嗜む人間でなければ、土佐へ伝播しなかっただろうし、更には後に太地浦へやって来た大村(長崎県)の深澤義太夫勝幸もまたその技術を持ち帰ることはなかっただろう。深澤義太夫は多田吉左衛門が捕鯨技術を伝授された翌年というタイミングの良さも相まって、史料を見る限りではあっさりと伝授された感を持つ。それは多田吉左衛門が並々ならぬ覚悟で太地浦を来訪し、太地角右衛門との信頼関係を築いた結果によるところが大きい。つまり両者の人間関係の構築の結果であったと言える。
筆者は多田吉左衛門が旧来の突取捕鯨法の技術に見切りを付けた上で、新しい捕鯨技術を導入したというのがこれまでの私見だったが、実は多田吉左衛門が太地浦へ来て角右衛門と劇的な対面をした際、太地捕鯨にとって画期的な技術を土佐より提供されたことがわかってきた。結果的にそれを示す明確な史料の発見により確信を得たのである。
そのため、旧来の太地角右衛門より多田吉左衛門への網取捕鯨法の伝授への考え方を改める必要性から小論を展開することとした。
1,太地角右衛門頼治
太地角右衛門(覚右衛門)頼治は、太地浦鯨方頭首、和田金右衛門頼照の次男として生まれた。太地浦での捕鯨開始について太地家文書には「一、慶長十一丙午年和田忠兵衛頼元泉州堺伊右衛門と申もの并尾州師崎伝次と申者とかたらひ鯨捕始申候」とある。祖父の和田忠兵衛頼元の代の慶長十一年(一六〇六年)、泉州堺の伊右衛門、尾州師崎の伝次との催合により、太地浦での捕鯨を開始した。しかし、慶長十九年(一六一四年)に頼元が没し、その後、堺の伊右衛門が単独で元和三年(一六一七年)まで捕鯨を継続したとされている。
太地角衛門頼治氏の墓碑
太地浦鯨方
一、慶長十一丙午年和田忠兵衛頼元泉州堺伊右衛門と申もの并尾州師崎伝次と申者とかたらひ鯨捕始申候尤羽差採も尾州小野浦より雇来ル忠兵衛男
子弐人壱人者金右衛門先祖壱人者孫才治先祖両家ニ而鯨船拾弐艘ツゝ仕出シ申候
一、寛文二壬寅年より塗舟ニ相成夫迄ハ櫓も七挺立拾三人乗ニ有之所同年より櫓八挺立拾五人乗ニ成櫓ものへ櫓ニ而有之候所次キ櫓ニ相成申候
一、延宝五丁巳年和田角右衛門頼治鯨網工風始候而金右衛門忠兵衛孫才次組拾弐艘ツゝ角右衛門拾弐艘庄太夫八郎左衛門両家ニ而拾弐艘杢之助重之半六三家ニ而拾弐艘庄八弐艘是者一組ニ相成不申浮世組と申候而掛リ取候組ニ有之候所右銘々鯨船ハ勿論諸道具其外ニも相集網方一本ニ相成申候今ニ其形を以本株半株之割符有之候丹後之国ニ而縄網を以小サキ鯨適々捕候事有之由ニ候得共苧網ニ而専ら鯨を捕事太地浦より余国ニ者是迄相始リ不申候
一、貞享元甲子年末鯤鯨之油初而取申候
一、ちよきり銛太地組始
一、志ら勢太地組始り
一、てんちう銛西国大村組始当時早銛なり
一、萬銛西国吉村組始り
一、太地鯨船勢子船弐拾四五艘網船拾弐艘持左右船八艘年々仕出し沖立いたし申候
一、網置場所者燈明崎より梶取崎迄之間七網代程有之候遠見所者燈明崎梶取崎高塚大平見四ヶ所ニ有之候鯨見出し候節者山見より煙を立指図いたし駆ケ引有之候網場江も参り候節者螺を吹サイハイを以て船々へ指図駆ケ引自由ニいたし申候鯨網に掛り候而より小サキ銛より段々大の銛を突跡ニ而劔を数拾切込大体鯨よわり候ハヽ指水主と申者水中に入候而鯨ニ取付鯨之鼻江包丁を入れクリぬき縄を通し持左右と申ける船弐艘江ふときはしら弐本を渡しからミ付候而劔を切候而鯨をころし申候右持左右おそく相成候而ハ鯨死切り候時者もり浮上ル事なし右等之掛ケ引第一ニ心掛ケ申候事
右
一、太地鯨網御免被仰付候ハ延宝六午年
一、三輪崎勝浦う久井浦鯨網御免被成候者貞享元年子年也
一、鵜殿梶ヶ鼻浦神右両浦覚右衛門仍願鯨網出候者貞享二丑年
(太地家文書)
深沢家旧記
一、鯨突き始めは慶長十七年(一六一二年)紀州熊野太地浦にて伊右衛門と申す人と師崎浦の伝次といふ人と語らい此の業をなす。
一、慶長十七年十八年相続き、十九年(一六一四年)止む。元和元年(一六一五年)伊右衛門一人頭立って三年まで相続く。
四年(一六一八年)太地浦近(※金)右衛門、尾州小野浦を語らい与三次(※与宗次)と申すもの槍を以て突組をなす。是羽指の始めなり。
一、捕鯨網組は延宝五年(一六七七年)、熊野太地浦において、和田覚右衛門これを工夫創始す。
貞享元年(一六八四年)深沢義太夫勝幸、網組の業を試みんがため、古座屋三代次郎右衛門重実を同伴して、紀伊熊野太地浦和田覚右衛門へ赴き趣意を見聞し、帰国の上、壱岐勝本浦にて、深沢義太夫をもって鯨を漁す。
(大村郷土読本)
和田家の始祖は相模国(神奈川県)三浦の出で、鎌倉時代、侍所別当和田義盛が執権北条氏に謀反を企てて敗れ、その子朝比奈三郎義秀が流浪の末、太地浦へ落ち延び、一子、頼秀を設けた。これが太地浦での和田家の始祖とされている。その後、和田家は南朝方の楠正成側に加担したり、秀吉の朝鮮出兵に水軍として竹島へ出陣、領主、堀内氏の傘下で関ヶ原の合戦で西軍に加担したりしている。
元和四年(一六一八年)、和田忠兵衛頼元の長男、金右衛門頼照が父の業務を再興させて、「一、慶長十一丙午年和田忠兵衛頼元泉州堺伊右衛門と申もの并尾州師崎伝次と申者とかたらひ鯨捕始申候尤羽差抔も尾州小野浦より雇来ル」、「一、元和四年午年羽差始り尾州小野崎浦与宗次」(太地家文書)とあり、尾州小野浦の羽差、与宗次を雇い入れてから、太地浦では本格的な捕鯨が始まったと思われるが、それが周辺地にも波及し、勝浦の権十郎、宗十郎、三輪崎浦の彦兵衛、太地浦の六兵衛が羽差として育っている(和歌山縣東牟婁郡捕鯨沿革)。この頃、和田金右衛門頼照には弟がおり、和田八郎左衛門頼賢(和田孫才次先祖)と共に鯨船十二艘づつ持ち、「金右衛門組」として組織化されていた。金右衛門頼照没後、長男、金右衛門頼興が家督を継ぎ、鯨方も引き継いでいたが、寛文元年(一六六一)、頼興の屋敷が火事となり、頼興自身も大怪我をしたため、当分の間、弟の角右衛門頼治が兄の補佐を行った(「一類及び地下人覚」)。太地浦及びその周辺地は紀州藩新宮領太田組二十ヶ村(当初は十八ヶ村)の行政組織で、角右衛門は太田組大庄屋となった(太地家文書)。以下の文書には、
金右衛門者(藩主)御入国以来庄屋役相勤右庄屋之節も南龍院様(初代紀州藩主・徳川頼宣)数度御目見致候然所四拾年以前丑年(寛文元年・一六六一年)後之金右衛門(頼興)自火ニ而家焼失其身茂怪我致候ニ付新宮江御断申上大庄屋先角右衛門(頼治)當分■御預候処ニ其後之金右衛門二代■■死■之故尓大庄屋役先角右衛門預居申候
然ば鯨船者金右衛門代々(頼照・頼興)鯨組之元ニ而御座候網方も角右衛門(頼治)巳ノ年(延宝五年・一六七七年)家請取(和田宗家の家督を譲渡され)其年より網も始り申候
(二代目角右衛門頼盛 正徳三年・一七一三年 一類及び地下人覚)
高祖父太地角右衛門 元和田金右衛門頼照の次男にて御座候処、別に苗字太地と改め替え、是より惣一家共の頭取と相成り申し候
(寛政八年・一七九五年 五代目角右衛門頼徳 紀州藩提出先祖親類書)
角右衛門頼治我屋敷(※太地町太地三四〇六番地)ノ隣空地ヲ廣築シ大厦ヲ建テ、角右エ門頼治ノ名世ニ知ラルルニ付、長男頼盛ニ角右エ門ノ名ヲ譲リ以テ此大厦ニ移リ爰ニ居ラシメ、和田一族ノ本家タリ。(太地覚吾著 太地家文書)
とあり、弟の和田角右衛門頼治が延宝五年(一六七七年)には兄、金右衛門頼興より和田家の家督を譲り受けたことが明記され、一代限りではなく代々が和田家の当主として鯨方を支配している。そして太地角右衛門以外の一族九軒(太地家分家一軒、和田家六軒、泰地家二軒)を「太地角右衛門一類」と呼称し、鯨方の重職に就かせた。そして貞享年間、二代紀州藩主、徳川光貞より太地姓を賜り、代々がその姓を使用した。親類の内、太地姓を名乗っているのは頼治の次男の系統、太地与一(伴十郎)家のみである。前文の史料で、「四拾年以前丑年後之金右衛門自火ニ而家焼失其身茂怪我致候ニ付新宮江御断申上大庄屋先角右衛門當分■御預候」の「四拾年以前丑年」とは正徳三年から逆算すると延宝元年丑年(一六七三年)となるが、『太地町史』年表には寛文元年丑年(一六六一年)に大火事があったことが記載され、寛文六年(一六六六年)八月の「太泰寺文書」(那智勝浦町)では「十八ヶ村庄屋連名 太田庄大庄屋 和田角右衛門,」とあり、既に角右衛門が大庄屋となっているため、「四拾年以前」は「五拾二年以前」の後年の写しの誤りかと思われる。
この寛文年間には太地浦の突取捕鯨では技術革新が行われたことが理解できる。万治元年(一六五八年)の頃までは六丁立棹櫓十人乗りの通常の漁船であったものが、寛文二年(一六六二年)には鯨船は塗船とし、寛文四年には鯨船は七挺立十二人乗りであったものを小みよし付八挺立て十五人とし、櫓も従来は延べ櫓としていたものを継ぎ櫓とし、高速化、機能化している(太地家文書)。勢子船としての役割を高機能船としたものと思われる。
このような技術革新の結果、当時、乱獲によるためか、突き取り捕鯨の主な対象だった脊美鯨が減少し、熊野での各浦々の鯨組同士の競合が起こり、捕獲した鯨をめぐり争いが絶えなかったため、延宝三年(一六七五年)、熊野の七浦庄屋が突取捕鯨に関する取り決めを行った。この時主導権を持ったのは角右衛門頼治と思われる。他の浦の庄屋は太田組、那智組、佐野組各傘下の庄屋であるのに対し、太田組大庄屋、太地浦庄屋を兼務する角右衛門は「太地浦大庄屋」として筆頭で署名している(太地家文書)。
角右衛門の脳裏には既に突取捕鯨の先行きの不安を感じていたようで、「丹後國入江に藁網を以て希に捕鯨をなすものあるを伝聞し延宝三卯年太地角右衛門頼治始て藁網を製して漁獲を試むと雖も其効を奏せず此後大に其術を研究するものあり遂に延宝五巳年に至り苧網を発明し以て捕獲を試みしに頗る便利にして獲る所多ければ刺銛之れが為めに衰へたり」(日本捕鯨彙考)、「丹後之国ニ而縄網を以小サキ鯨適々捕候事有之由ニ候」(太地家文書)とあり、これを太地浦で導入したが、立地の悪さと大型鯨対象が原因と思われるが失敗した。太地湾内への追い込みは大型鯨には適していなかったものと思われる。そこで、湾外の燈明崎山見と梶取崎山見の間の外洋での海域を網代場とし、苧網(麻製の網)を考案し、大きな鯨網の一部を藁縄の綱で結んで外れやすくして、鯨体全体に網を掛ける事をせずに頭部から手羽(腕・手の部分)までを被せるような形で、渦巻き状にして網に掛ける方法を行った。海上での網は直接鯨と接するため新しい網とし、海底の部分は古い網で賄った。鯨を拘束した後、勢子船による突取捕鯨を行うというものだった(東玉次編「熊野太地浦捕鯨史」)。
ここで重要なのは、網掛突取捕鯨法は、「延宝五巳ノ年ニ至リ、頼治網ニテ鯨ヲ捕ル事ヲ始発ス。(其頃ハ和田家ト其他近村ニモ戸々鯨魚ノ突取船ヲ出ス)。此時以来突捕ル鯨魚少ナクシテ座頭鯨ノ多ク来タリシナラン。察スル其頃脊美鯨児鯨ハ少クシテ座頭鯨ノ多ク来タルモ座頭鯨ハ銛ニテ捕リ得ル能ハズ。」(太地家文書)とあり、当時、かなり減少していた脊美鯨に代わり、豊富にあった座頭鯨を主に捕獲する目的で開発されたものだった。座頭鯨は脊美鯨と異なり、手羽が発達していて旋回能力に優れ、銛を打っても致命傷を負わない限り捕獲することは困難であった上、殺せば海中に沈んでしまうため突取捕鯨法では技術的に困難だった。捕獲できたとしても、偶々捕獲できるという確率の低いものだったと推測される。
しかし、網掛突取捕鯨法は、先ず座頭鯨を網で拘束して動きを止め、銛を打ち込むことで、座頭鯨の捕獲が飛躍的に向上したと思われる。
この方法を開発したのは、延宝五年(一六七七年)の時であった。この年、和田角右衛門は兄・金右衛門より家督を受け継ぎ、和田総本家として太地鯨方を「角右衛門組」とした。こうして網掛突取捕鯨法は太地浦で実践化されたのである。進取性を好んだと思われる角右衛門の登場により、太地浦での捕鯨業は技術的な発展があったと思われる。この私見は後に述べる多田吉左衛門との出会いの史料でも感じ取ることができる。
2,多田吉左衛門
天和元年(一六八一)、土佐(高知県)津呂浦(室戸市)の鯨方頭取、多田吉左衛門清平が太地角右衛門の網掛突取法の技術を得るため、密かに水夫に身を落として太地浦にやって来た。しかし、鯨方の組織は分業化され他の部署のことなど把握できず、自身の部署に専念しなければならないようなものであったであろうか、二年が経過した。左記の文書はその時の様子を具体的に記している。
(前文略)
有時両組室津前沖にて座頭鯨子持二本突留、一の銛は浮津二の銛は津呂にて、地方へ漕付る節両浦論に及び、耳崎上人ばへのくぼに、一日一夜繋ぎ置、くじに相成、段々才判人申候て、詮義の上相済、親鯨は浮津え漕、子鯨は津呂へ漕、両浦にて切さばき札入を以て賣揃、代銀一所に持寄り配分仕、其時津呂旦那多田吉左衛門殿、次郎左衛門殿、羽左衛門殿、源五郎殿、庄屋五郎左衛門殿〆六人、商人は津呂茂左衛門、彌五郎右衛門、源五右衛門、外一人、〆十人鯨頭取の分、札入商人は長五郎、唐津の助六、脇濱安右衛門、安左衛門、又兵衛、紀見井寺文左衛門、印南の喜兵衛、津呂浦平九郎、八左衛門、市郎右衛門、長三郎、助太夫、源右衛門、室津浦太左衛門、貞右衛門、七ノ丞、左近兵衛、庄兵衛、甚太夫、吉右衛門、覚右衛門、高八十六人仲間持、夫れより熊野鯨網仕成様習参相談極り、津呂より多田吉左衛門、浮津覚右衛門、水尻吉右衛門、右三人、熊野にて聞習ひ取入れ手立無御座所に、吉左衛門殿能碁之上手にて、碁會の案内仕、見物御出被為成、本より夫れ者故段々御心易く相成、先方よりも御尋有之、右之連々具に御咄し被為成候て、早速仕成様秘傳小間ケに習申候否、帰國至し、吉左衛門殿上方へ網苧調に御登被成・・・。 (後略)
宝暦九年 當國鯨組始寫書
(土佐室戸浮津組捕鯨史料 アキツクミューゼアム編)
寛文四甲寅年藩守吉左衛門ニ年俸十石ヲ給シ捕鯨ノ肝煎ヲ命ス後チ延宝五丁巳ノ年紀州熊野浦太地覚右衛門ナル者鯨網取ノ法ヲ開始ス吉左衛門之ヲ聞キ天和元辛酉年紀州ニ赴キ覚右衛門ニ對面センコトヲ請フ聴カレス此ニ於テ吉左衛門水夫トナリ小腕返シノ櫓ヲ押シ或ハ水練ノ妙術ヲナシ又ハ市中ニ入テ碁ヲ圍ム技倆群ヲ抜キ弟子日ニ集ル居ルコト二年始メテ覚右衛門ニ對面スルコトヲ得タリ覚右衛門曰ク汝何人ソヤ曰ク水夫ナリ覚右衛門其人品ノ卑シカラサルヲ見謂テ曰ク應ニ水夫ニハアラサルヘシ何ソ眞實ヲ告ケサル爰ニ於テ答テ曰ク予ハ土州津呂ノ住人多田吉左衛門尉清平ナル者ナリ當地ニ来テ鯨ヲ網スルノ業ヲ視ルコト已ニ二年其鯨ヲ網シ鈐ヲ伐リ船ニ繋ルニ及テ往々鯨躰ヲ沈没セシム是レ水練ニ長セサルノ致ス所眞ニ惜ムヘキノ至リナリ今ヤ予水練ノ術ヲ授ク應ニ幾分カ稗補スル処アルナルベシ予元捕鯨ノ家ニ生ル曩ニ乃父五郎右衛門國家ヲ益センコトヲ思ヒ突鯨ノ法ヲ得二百餘人ヲ扶持セシニ終ニ漁法ノ未熟ニヨリテ廢セリ實ニ蓋世ノ憾トス足下何ソ予ヲ門下ニ致シテ鯨睨ヲ網スルノ法ヲ傳綬セサル然ルトキハ一ハ以テ乃父ノ遺業ヲ興シ一ハ以テ國恩ニ報スルコトヲ得ン何ノ喜カ之ニ如カン予ノ遠ク郷ヲ離レ此地ニ来リ辛酸ヲ嘗ルハ斯ノ一事アレハナリ若シ聴カレスンハ唯一死有ル而已覚右衛門其志ヲ憫ミ盡ク其法ヲ授ケンコトヲ約ス紀伊ノ民之ヲ聞テ喜ハス皆曰ク今網取ノ法ヲ土佐ニ傳ヘンカ本國ノ衰微期シテ待ツヘシ決シテ教ユヘカラスト覚右衛門思ヘラク既ニ契約ヲナス之ヲ履行セサルハ人ニアラス我豈ニ之ヲ忍ハンヤト竟ニ新宮城ニ到テ此趣ヲ君主ニ稟申ス命アリ曰ク業ヲ建ツルハ天下ノ祥瑞ナリ宜ク羽刺十人其外漁夫六十人ヲ土佐ヘ遣スベシト吉左衛門之ヲ聞テ踴躍シ同三癸亥年漁夫七十人ヲ率ヒテ郷ニ皈ル即チ之ヲ十二艘ノ漁船ニ分乗セシメ加フルニ津呂漁民ヲ以テシ更ニ市艇弐艘、持雙船弐艘網船四艘ヲ造リ拮据経営終ニ網取ノ法ヲ習得シ頓ニ捕鯨ノ術一新ヲ来セリ吉左衛門常ニ曰ク斯ノ如クニシテ成効スレハ父祖ノ遺志ヲ継キ有為ノ壯丁ヲ扶持スルニ足ル以テ外冦ニ備フヘク以テ漁浦ヲ潤ベシ思ニ黒耳ノ口ハ肝要ノ場所異日如何ナルコトアルヤ知ルヘカラス宜ク遠見ハ注意ヲナシ漁夫亦常ニ同所ノ相図印並ニ松明ヲ見損スヘカラスト貞享元甲子年網取ノ法ヲ習得セシ趣ヲ藩守ニ上聞シ悉ク紀州ノ漁民ヲ其本國ニ皈ヘス是レ實ニ土佐網取捕鯨ノ創始ニシテ津呂捕鯨組中興ノ祖ト稱スヘキナリ浮津組ノ網漁ヲ始メシハ貞享二年ナリ(以上「高知縣勧業月報」、多田氏所蔵「工師良(※くじら)傳記」及ヒ「舊記」並ニ「南路志」ニ據ル)・・・。
「津呂捕鯨誌」 津呂捕鯨株式会社編 明治三十五年(一九〇二年刊)
筆者は、多田吉左衛門と太地角右衛門とが碁について「夫れ者」であったことからこのような形で出会い、親密となり、新たな技術を持つ者と旧来の技術しか持たない者という主従、優劣の関係の立場で、それを伝授したと理解していた。
当時の太地浦での周囲の人々が捕鯨技術を伝授することについて、「紀伊ノ民之ヲ聞テ喜ハス皆曰ク今網取ノ法ヲ土佐ニ傳ヘンカ本國ノ衰微期シテ待ツヘシ決シテ教ユヘカラスト」と反対の立場で述べていることでもその考え方に至ったのである。
ところが本年(平成十八年)四月二十九日、多田吉左衛門の子孫、多田運氏(室戸市室津)より一通のメールを賜り、右記「津呂捕鯨誌」の史料との関連で驚くべき新たな史料が届けられた。それは左記の史料であった。
平成十八年四月二十九日発信
延宝五(一六七七)年、紀州熊野浦太地覚右衛門なる者、鯨網取の法を開始する、吉左衛門之を聞き、天和元(一六八一)年紀州に赴き覚右衛門頼冶に対面せん事を請う、聴かれず、
此に於いて吉左衛門水夫となり小腕返しの櫓を押し、或は水練の妙術をなし又は市中に入りて碁を囲む、技術群を抜き弟子日に集まる、入る事二年、初めて覚右衛門に対面する事を得たり、覚右衛門曰く、汝何人ぞや、曰く、水夫なり、覚右衛門其の人品の卑しからざるを見、謂(い)ひて曰く、応(まさ)に水夫には有らざるべし、何ぞ真実を告げざる、爰(ここ)に於いて答えて曰く、予は土州津呂の住人多田吉左衛門尉清平なる者なり、誠に神妙の至り、及ばずながら網鯨の法を伝授致す、然らば、土佐の突鯨の法と比較し、網鯨の法の改良すべき処あらば、遠慮なく申せ、然らば申す、当地に来て鯨を網するの業を視る事巳に二年、其の鯨を網し、鈐(けん)を伐り、舟に緊(しば)るに及びて往々鯨躰を沈没せしむ、これ水練に長せざるの致す所、真に惜しむべきの至りなり、今や予水練の術を授く、応に幾分か裨補(ひほ)する処あるなるべし、予元捕鯨の家に生る、先に乃父(だいふ)五郎右衛門国家を益せん事を思ひ、突鯨の法を得二百余人を扶持せしに終に漁法の未熟によりて廃せり、実に蓋世の憾とす、足下何とぞ予を門下に致して鯨鯢(げいげい)を網するの法を伝授せざる、然るときは一は以って乃父の遺業を興し、一は以って国恩に報ずる事を得ん、何の喜びか之に如(し)かん、予の遠く郷を離れ此地に来り辛酸を嘗めるは斯の一事あればなり、若し聴かれずんば唯一死有るのみ、覚右衛門其の志を憫(あわ)れみ、盡(ことごと)く其の法を授けん事を約す、紀伊の民之を聞きて喜ばず、皆曰く、今網取りの法を土佐に伝へんか、本国の衰微期して待つべし、決して教ゆばからずと、覚右衛門思へらく、既に契約をなす、之を履行せざるは人にあらず、我豈(あに)之を忍ばんやと、竟(つい)に新宮城に到って此趣を君主に稟申(りんしん)す、命あり曰く、業を建つるは天下の祥瑞なり、宜く羽刺十人其の他漁夫六十人を土佐へ遣わすべし、吉左衛門之を聞きて踴躍し、同三(一六八三)年漁夫七十人を卒(ひき)いて郷に皈(かえ)る、則ち之を十二の漁船に分乗ケしめ、加うるに津呂漁民を以ってし更に市艇弐艘、持双船弐艘、網船四艘を造り、拮据(きっきょ)経営終に網取りの法を習得し、頓(とみ)に捕鯨の術一新を来せり(略)。
貞享元(一六八四)年網取りの法を習得し趣を藩守に上聞し、悉く紀州の漁民を其の本国に皈す、是れ実に土佐捕鯨の創始にして、津呂捕鯨組中興の祖と称すべきなり。浮津組の網漁を始めしは貞享二年なり。
(高知県室戸市室津 多田運氏提供)
同時に賜った同様の内容の史料が左にも記されている。
・ ・・・(前文略)誠に神妙の至りぢゃ。では及ばずながら網鯨の法を伝授いたそう。しかし、土佐の突鯨の法と比較して、網鯨の改良すべき処があるならば遠慮なく申すがよい。」「さらば申し上げます。当地に来て網鯨の法を見ること二年に及びましたが、鯨を網中に追いこみ銛を打ち、鯨体を船にしばる時、往々鯨体を沈没さすことがあります。これは漁夫が水練の技に長じていないのだと思います。網鯨の法を御伝授下さいますなれば、私が水練の技術を指導いたしましょう。・・・。 (後略)
・(安岡大六著 「室戸岬町史」昭和二十八年十二月十日 高知縣室戸岬町発行 )
明らかに両者の史料は同内容のものである。
筆者がこれを読んで驚いたのは、この「誠に神妙の至り、及ばずながら網鯨の法を伝授致す、然らば、土佐の突鯨の法と比較し、網鯨の法の改良すべき処あらば、遠慮なく申せ、」の文節があったからである。多田運氏によれば、遺憾ながら出典は不明とのことであるが、筆者が先ず疑問に感じたのは、この文節が加わることで、吉左衛門の自己紹介だけで、依頼されてもいない捕鯨技術の伝授を伝えている不自然さである。おそらく実際には、両者とのやりとりでこの文節の前文があったのだろうが、この文面だけでは、角右衛門がいきなり語る表現としては少々性急な感がしないでもない。しかし、この文節があることで後文の意味が具体化されよく理解でき、「然らば申す、当地に来て鯨を網するの業を視る事巳に二年、其の鯨を網し、鈐(けん)を伐り、舟に緊(しば)るに及びて往々鯨躰を沈没せしむ、これ水練に長せざるの致す所、真に惜しむべきの至りなり、今や予水練の術を授く、応に幾分か裨補(ひほ)する処あるなるべし」の文節が深い意味を持つことがわかる。つまり、吉左衛門は「今や予水練の術を授く」とあるので、太地浦で自己修練の結果、技術を身に付けたものと解釈していたがそうではなかった。多田運氏の説明によれば、この技術とは鯨を仮死状態にする技術が土佐にあったということである。従い、典拠不明ながら、座頭鯨捕獲の上で重要な史料と思われる。
前掲の「土佐室戸浮津組捕鯨史料」によれば、「有時両組室津前沖にて座頭鯨子持二本突留、一の銛は浮津二の銛は津呂にて、地方へ漕付る節両浦論に及び、耳崎上人ばへのくぼに、一日一夜繋ぎ置、くじに相成、段々才判人申候て、詮義の上相済、親鯨は浮津え漕、子鯨は津呂へ漕、両浦にて切さばき札入を以て賣揃、代銀一所に持寄り配分仕、其時津呂旦那多田吉左衛門殿、次郎左衛門殿、羽左衛門殿、源五郎殿、庄屋五郎左衛門殿〆六人、商人は津呂茂左衛門、彌五郎右衛門、源五右衛門、外一人、〆十人鯨頭取の分、札入商人は長五郎、唐津の助六、脇濱安右衛門、安左衛門、又兵衛、紀見井寺文左衛門、印南の喜兵衛、津呂浦平九郎、八左衛門、市郎右衛門、長三郎、助太夫、源右衛門、室津浦太左衛門、貞右衛門、七ノ丞、左近兵衛、庄兵衛、甚太夫、吉右衛門、覚右衛門、高八十六人仲間持、夫れより熊野鯨網仕成様習参相談極り、」とあるところから、吉左衛門が太地浦へ来る直前、土佐では座頭子持ち鯨の捕獲がなされ、その際の札入商人に紀見井寺(現・和歌山市紀三井寺)文左衛門、印南(現・日高郡印南町)の喜兵衛がおり、紀州出身と思われるので、この時、座頭鯨の捕獲目的から太地角右衛門の網掛突取捕鯨法の情報がもたらされたのではないかと推測される。では座頭鯨を仮死状態にする技術を持ち、座頭鯨母子という鯨の母性愛を利用しての捕獲という好条件であったとはいえ、現に捕獲しているにもかかわらず、何故郷士たる吉左衛門は水夫にまで身を落として身分を隠し、遠路、網掛突取捕鯨法の技術を求めたのか。筆者が推測するに、それは捕獲以前の問題で、座頭鯨は旋回能力が優れている上、死ねば海中に沈むということが、突取捕鯨法では確率的に困難な捕獲だったのであろう。網掛突取捕鯨法は先ず網で手羽(腕・手の部分)の動きを拘束するので、その確保が劇的に容易となったのであろう。脊美鯨は銛を打たれると、比較的に動きが止まり、仮死状態に陥りやすいのに対し、座頭鯨はそれにさほど影響されずに仮死状態にならず、致命傷を受けると海中に沈むとされている(熊野太地浦捕鯨乃話)。土佐で仮死状態にする技術があったとしても、基本的には突取捕鯨法によるため、捕獲以前に逃走されることが多かったため捕獲率が低かったのであろう。一方、太地浦では網で鯨を掛けることで拘束して致命傷を負わせることができるようにはなったものの、持双船に結ぶ以前に海中に沈んでしまい、やはり充分完成された技術とは言えなかったのであろう。
3,座頭鯨を仮死状態にする技術
古式捕鯨では、座頭鯨を仮死状態にするためにはどのようなことを行ったのであろうか。
長崎県新上五島町有川郷の荒木文朗先生提供の魚ノ目(長崎県新上五島町浦桑郷)における「漁業図解」によれば、
(左に写真掲載)
其二、 鯨網第二図
鯨敷網ノ中ニ入リテ漁獲スルノ図ナリ
凡ソ鯨網中ニ入レハ豫テ網ノ口ニ備ヘタル四艘ノ小舟其口ヲ括リ合図ノ票ヲ揚レハ陸地ヨリ数拾ノ小舟ヲ乗リ出シ網ノ周辺ニ蟻附シ又苧網ヲ以テ製シタル網(方言格子)ヲ二艘ノ大船(格子八田ト云)ニ積込ミ数艘ノ小舟ヲ以テ漕出シ其網ノ魚ニ至リ其格子ナルモノヲ敷キ(即区画ノ処)鯨ヲ其内ニ游キ入レシメ前ノ一面ヨリ手操揚ケ漸々一隅ニ至ラシメ数拾人漁夫(方言波坐士)各包丁ヲ持テ海中ニ飛入鯨ノ鼻ト背鰭(方言イボ)トヲ突キ穿チ綱ヲ以テ之ヲ結ヒ厳シク左右ヲ船ニ繋キ項ト背上数ケ処ヲ切断シテ殺スナリ 但シ長須鯨ハ包丁ヲ以テ切座頭小睨ハ銛釼ヲ以テ脇腹ヲ無数ニ突キ殺スナリ
長崎縣肥前国南松浦郡魚目村南部 平田 禄郎
同郡同村同部 平田文右衛門
同郡同村同部 松園牧三郎
(明治十五年 水産博覧会出品「漁業図解」長崎県漁業史研究会発行
これによれば「鼻ト背鰭トヲ突キ穿チ」が 仮死状態にする処置とも受け止められるが荒木先生のお便りでは「大敷網による鯨の捕獲について、大敷網に鯨を追い込んで、それを格子網と呼ばれる丈夫な網で掬い上げ、そこで羽指が海に飛び込んで鯨に跨りその背骨の脳に当たる部分に羽指包丁で切り込みを入れ、鯨を半身不随の状態にしたのではないかということです。」とのことであった。つまり脊椎を傷付けて半身不随にするという意味である。網で鯨を掬い上げているところから、湾内での捕鯨の方法と思われるが、では外洋での巨大な座頭鯨を対象とした仮死状態にする技術は如何なるものだったのか。
請川(現・田辺市本宮町)の医師、淵修礼が記した左の文書には、当時の太地浦での具体的な捕鯨の様子が記録されていて、貴重な文献である。
十月ヨリ霜月頃マデ座頭ヲ漁ス。座頭ハ手鰭長クシテ銛ノミデハ得ガタキ故網ヲ設ケテ之ヲ待ツ。其魚見附ケシ船ハ乃白幟ヲ立ツ、即チ諸船之ヲ望デ追従シテ逼ツ、網場ノ磯ヲ指テ追マハス、(魚ヲ見付テ諸船取囲ミ追フヲ一モヤイト云フ、復ツイデ魚来リ追フヲ二モヤイ、三モヤイト云フ)。磯手ニハ十余ノ網船カネテ苧網ヲ載テ待設ク。鯨漸々網場ニ向ヒ来レバ、候吏法螺ヲ吹キ采ヲ挙テ網ヲ張シム、或ハ二重或ハ三重其合スル所ニ従フ。鯨ノ既ニ網ニ罹レバ、直ニ網ヲ蒙テ狂騰ス。或ハ二頭連、或ハ三頭連アル事アリ、亦共ニ網ヲ被テ活俊乱跳ス。勢子船逸マリテ連ニ銛ヲ飛シテ之ヲ搠。快手攅刺数十百銛或は二百数ニ至ル(魚ノ大小強弱ニ応ジテ銛ヲ入ル)則鯨ノ一身一瞬息間乱麻ノ叢ヲナス、鯨大ニアセッテ弥網ヲ尾鰭ニ纒繞、水霧ヲ噀キ、浪ヲ摶摶テ、転回スル事甚シ。船モシ少シク之ニ触レバ即破却ス。故ニ諸船其獗勢ヲ避ケテ、進退倐忽前後ニ出没シテ先ヅ早銛、角銛、中銛ナド次第ニシテ擲々、又ハ柱銛ヲ投ズ。鯨身次第次第ニ大銛ヲ負テ疲困シ、気息奄々トシテ波上ニ浮出、其時大剣(大中小ノ製アリ)ヲ以テ其肺肝ヲ連刺ス(此時魚ノ疲ヲ見ルヲ要トス、若シ魚猶壮ナレバ狂テ船ヲ破ル、若又疲極レバ沈ム也)。之ヲ魚殪船ト号(凡ソ四艘也)、此刃刺ハ極テ強壮ノ者ヲ撰ブ。時ニ創瘢血迸ルノミナラズ。鼻口共ニ血潮ヲ噴佼シ蒼海タチマチ紅波ヲ起ス、又臨終ノ際、声ヲ発シテ雷吼スル事凄シ、其斃ナン期ニ及テ其機ヲ見ハカリ屈強ノ壮者(刺水主多ク之ヲツトム)刃ヲ口ニシテ海中ニ跳リ入、直ニ鯨脊ニ跨リ、其肉ヲ刳リテ竅ヲ穿事凡ソ三ツ(先ズ頭、次ニ背、次ニ尾ノ三所ナリ)乃チ苧綱ヲ貫シ来ル。之ヲ手形切ト唱(頭ハ鼻ヨリ三尺許後ヲ云フ、コレヲ大手形ト云、腰ヲ腰手形ト云フ)魚ノ大気既ニ去テ微息僅ニ存スルヲ候シ得テ之ヲ行事也。若シ早マル時ハ猖獗ノ勢慮カタク、脱ケレバ魚死シ、沈ンデ復得ベカラズ、故ニ此見切殊ニ大事ナリトゾ。然ドモ鯨魚時有テ忽然トシテ蘇息シ、海裏ニ没シテ奔ル、或ハ半里、或ハ里余ニシテ浮キ出ズ。或ハ潜行一時頃ヲ経ニ至ル。然ドモ壮者猶刃ヲ奉テ堅持シ、或ハ其負ル銛ニ取リ付テ確乎トシテ動カズ、魚ノ浮沈ニ随テ一死ヲ省ミズ。鯨又或ハ忽チ見ヲ転ジテ直下シ、没入シ海底ニ撞到ル者ハ、其狂猛ノ勢畏震スベキニ堪タリ。カカル者ニ偶バ輙チ手ヲ放テ棄返ル。此一件其危険ノ景状聞者猶心ヲ寒セリ。実ニ死生一瞬ノ手段也。(能此至難ヲ犯シ往ル者累進シテ刺水主刃刺トナル)於是持左右(二艘)鯨ヲ挟ンデ各手形銛ヲ撞込(左右一本ヅヽ苧綱付也)柱ヲ渡シ両船相渡シテ左右持合事ヲ要トス(持左右ノ名此ニ取ル)。又万銛(大カガスノ縄付也)ヲ刺事五、六本也。凡ソ鯨魚気絶スレバ輙沈淪シテ(之ヲオラスト云、唯マッコ鯨ハ死シテ沈マズ)復得ベカラザル者也。因テ手形切リ以下ハ其沈マスマジキ為メノ備也。偖巨索数条ヲモテ大マワシ等鄭重ニ縛緊シ列率船縄ヲハヘテ連々立ル、之ヲ頭ヲ漕ト云フ。魚又其最後ニ臨テ率爾トシテ凶躁悶乱シ持左右セシ船ヲ蕩上震下ス、之ヲ立ガヤリト云。カカリシカバ諸手ノ船取リ囲テ念仏称名シテ其寂滅ヲ取シム。斯テ一行競勇テ恰恰モ連城ノ壁ヲ奉ジテ喜見場裏ニ入ルノ形勢衆船各々幟ヲ押シ立テ櫓拍子相和シ曳々相応ジ山海ニ響答シテ凱歌ニ均シク粉彩水ニ映ジ飄帯風ニ靡キ屠所ノ浜手ニ漕寄レバ、老若群リナシテ喜色遠近ニ溢ル。・・・(以下略)
淵修礼著「南海奇賞鯨之紀」文政十年(一八二七)~天保十年(一八三九)
この中で「大剣(大中小ノ製アリ)ヲ以テ其肺肝ヲ連刺ス(此時魚ノ疲ヲ見ルヲ要トス、若シ魚猶壮ナレバ狂テ船ヲ破ル、若又疲極レバ沈ム也)。」の「肺肝を連刺」することが鯨を仮死状態に陥らせるのではないかと推測する。特に肺を狙うことで、呼吸困難に陥らせるということであろう。
この刺加子に関し、筆者は以前、明治十一年の鯨船漂流事故の死者の墓地を探すため、太地町の順心・東明の二寺院の墓地を詳しく調べたことがある。しかし、数百の墓石からは全く見つけることができなかったが、明治五年(一八七二)に刺水主が業務中死亡し、筆者の曾祖父が建立した墓地を偶然発見した。墓石には以下のように記されていた。
静海儀勇信士
抱エ指加子俗名千百大墓 太地覚吾頼次建之
明治五年壬申正月六日鯨漁切死
(太地東明寺墓地入口所在)
「太地覚吾頼次」とは太地角右衛門頼成(一八三三~一九〇九)の明治時代の名で、「右衛門左衛門停止令」により、覚右衛門の「覚」と、「衛」の文字の中央上部の文字を取り「吾」とした。筆者の曾祖父にあたる。明治初期、太地覚吾は北海道捕鯨の企画と共に「此当時(※筆者註 明治六年)土佐津呂浦鯨組ハ他力ノ仕入レヲ受ケタル事アリ、此捕鯨組ハ元禄年中(※筆者註 「天和三年」の誤り)我業祖頼治ノ男角右エ門頼盛ノ代(※筆者註 「頼治」の誤り )ニ網捕鯨漁ヲ伝習シテ爾後其法ニ基ヅキ居ル縁故アレバ此仕入レヲナサン事ヲ思ヒ」(太地家文書)とあるように土佐捕鯨も企画したが、融資元の突然の倒産により資金調達に失敗して頓挫している。
刺加子は「鯨網に掛り候而より小サキ銛より段々大の銛を突跡ニ而劔を数拾切込大体鯨よわり候ハヽ指水主と申者水中に入候而鯨ニ取付鯨之鼻江包丁を入れクリぬき縄を通し持左右と申ける船弐艘江ふときはしら弐本を渡しからミ付候而劔を切候而鯨をころし申候右持左右おそく相成候而ハ鯨死切り候時者もり浮上ル事なし右等之掛ケ引第一ニ心掛ケ申候事」(太地家文書)、「屈強ノ壮者(刺水主多ク之ヲツトム)刃ヲ口ニシテ海中ニ跳リ入、直ニ鯨脊ニ跨リ、其肉ヲ刳リテ竅ヲ穿事凡ソ三ツ(先ズ頭、次ニ背、次ニ尾ノ三所ナリ)乃チ苧綱ヲ貫シ来ル。之ヲ手形切ト唱(頭ハ鼻ヨリ三尺許後ヲ云フ、コレヲ大手形ト云、腰ヲ腰手形ト云フ)魚ノ大気既ニ去テ微息僅ニ存スルヲ候シ得テ之ヲ行事也。若シ早マル時ハ猖獗ノ勢慮カタク、脱ケレバ魚死シ、沈ンデ復得ベカラズ、故ニ此見切殊ニ大事ナリトゾ。」(「南海奇賞鯨之記」)とあるように、危険であると同時に重要な要職であった。そのため「能此至難ヲ犯シ往ル者累進シテ刺水主刃刺トナル」(南海奇賞鯨之紀)と配慮されている。刺加子の「千百大」という人物はこの時点でまだ姓が付けられておらず、家族及び遺族のいない他所者だったのであろうか、覚吾により永代供養がなされたらしく無縁仏とはなっていない。私見ながら、太地町が誇り得る貴重な文化財といえよう。
このように、鯨一頭を捕獲するためには細かい手法が必要であったことが理解されるが、多田吉左衛門清平が座頭鯨を「仮死状態にする技術」を角右衛門頼治に明かに伝えたと確信する客観的な事実が古文書に残っている。それは筆者蔵の太地家文書である。
一、鯨網方座頭多取申候ハ天和三亥暮より子春迄座頭九十壱本並ニ弐本せひ鯨ヲ取候(太地角右衛門蔵「捕鯨ニ関スル記録」)
頼治網捕リ編考密ナルニ随ヒ該業盛大ニ行ハル。天和三亥年暮ヨリ子ノ春迄座頭鯨九拾壱頭脊美鯨弐頭児鯨三頭ヲ得漁シ大井ニ家ヲ興ス。和田角右衛門ノ外一族和田家其他浦村ノ突鯨業ハ廃業セザルヲ得ズ、依テ和田一族ハ和田角右衛門ノ業ニ寄リテ家ヲ建ツ。(太地覚吾記「太地捕鯨業沿革記」)
技術交流後、九十一頭の座頭鯨の捕獲を伝える天和三年の太地家文書。
わずか数ヶ月で百頭近く捕獲し、しかも圧倒的に座頭鯨の数が多いという事実である。この天和三年(一六八三年)とは吉左衛門と角右衛門が出会った年に外ならない。つまり、吉左衛門より座頭鯨が仮死状態になる技術を提供された結果、太地鯨方はその年の暮れより翌春までの数ヶ月間で、九十一頭の座頭鯨の捕獲が達成されたともいえよう。当時、太地浦では毎日一頭乃至二頭が捕獲されていたことを意味する。これにより、太地角右衛門の名声は高まり、紀州藩内での太地鯨方は確固たる地位を得たのである。
多田吉左衛門が身分を隠し、しかも身分が明かになった際には死を覚悟してまで網掛突取捕鯨法の技術を得ようとし、当時、太地浦では持っていなかった鯨を仮死状態にする土佐の捕鯨技術を伝えて、網掛突取捕鯨の技術の更なる発展を行ったことは高く評価されるべきである。また、当時、他国者が技術を盗めば、即刻逮捕され死罪にされるような時代にあって、角右衛門が自らの秘法を詳しく教示し、更には新宮領主・水野氏も大局に立って、その趣旨に賛同承認の上、多額の派遣費を要したであろうに、土佐へ羽指・水主をも角右衛門に派遣させることを命じたことは、吉左衛門が帰国後、土佐の技術を他国に伝授したという背信行為を土佐藩主に咎められる事がないような手立てを配慮したようにも思えて美談といえようが、筆者自身最も感動するのは網掛突取捕鯨法を開発した当人が、技術を受ける側より土佐の優れた捕鯨技術を学ぼうとする謙虚な進取主義の姿勢である。結果的に天和三年暮れより同四年春までの大豊漁に結びついているからである。
このことについて、太地浦にはそれなりの事情もあったものと思われる。太地角右衛門頼治が多田吉左衛門と出会う天和三年(一六八三年)直前、それまで角右衛門・金右衛門・従弟の忠兵衛頼則の三名合体の鯨方であったものが、一時的に一族の内、分家筋の鯨組からの離脱独立、一方、紀州藩内では突取捕鯨と網掛突取捕鯨に関する新旧捕鯨技術での混乱があった。
一、三拾七年前(延宝五年・一六七七年)先角右衛門(頼治)御鯨網仕初申候処翌年地下よりも網可致由ニ付一家之内角右衛門金右衛門(頼興)家之外不残御加子米浦中並ニ出申候者留申事難致依之相談之上右鯨網六分ハ本網浦中四分ハ地下網定新宮江御断申上網方証文御役人様方御裏判申請所所持仕申候
一、鯨網之儀三拾四年以前(延宝八年・一六八〇年)申之年突方構罷成■■■浦〃より若山へ申入相止申候就夫先角右衛門(頼治)若山へ罷登段〃御訴訟申上御国中鯨突若山へ被召寄御吟味之上酉(天和元年・一六八一年)之霜月(十一月)御免被遊候 (正徳三年一類及び地下人覚)
角右衛門が網掛突取法を開発した結果、突取捕鯨法に頼る親類は、新しく鯨組を組織し、太地浦での鯨組は地下人組織一組、親類が三組となり、全体で五組の独立した鯨組が成立した。しかし、二代目角右衛門頼盛が「覚」文書を書いた正徳三年(一七一三年)までに一族、地下人はその経営がうまくいかず、二代目角右衛門頼盛の代になって全て傘下に治められ、一本化されている。
また、紀州藩内の鯨突方の組織が網取捕鯨の組織力と実績に驚異を感じ、突取捕鯨が行えなくなったとの認識があったものと思われるが、紀州藩に訴え、一旦この技術での捕鯨を禁止された。そこで角右衛門は逆に紀州藩に願い出て、訴訟の結果、翌年には網掛突取捕鯨の使用が再び許可されたという経緯があった。多田吉左衛門が太地浦へ来た年であった。角右衛門にしてみれば、地元でこのような反発が強いという裏事情の中、この捕鯨技術の革新性を見抜き、更にその技術を発展させようとする吉左衛門の姿勢に、伝授する気持ちが起こったのは当然だったのかも知れない。
多田吉左衛門の帰国数年後、新宮領主・水野氏の太地角右衛門についての評価は以下のようなものであった。
御領分大庄屋共へ御扶持方ニても被下候哉と御尋ニ付、太地角右衛門壱人ニハ扶持方取セ申候、其外ハ扶持方ニ而も切米ニ而も取セ不申候由御申達候
(貞享五年(一六八八)二月「慶長ヨリ元禄年中旧記書抜覚帳」)
網掛突取捕鯨法を発展させ、全国に伝播させた両者の労苦を讃えたい。
おわりに
本年、平成十八年(二〇〇六)四月二十三日、「第五回日本伝統捕鯨地域サミット」(会場・和歌山県太地町)が開催され、全国より約八百名もの捕鯨研究家が集ったが、前日、隣町の那智勝浦町で「前夜祭」があり、筆者は紀州藩営古座鯨方羽差・千大夫の子孫、方森一夫氏(串本町古座)と共に一人の人物と初めてお会いした。長年にわたり、「ぜひ、お会いしたい」と楽しみにしていた方である。その方は前文で記した多田吉左衛門の子孫、多田運(めぐる)氏である。多田吉左衛門と太地角右衛門が天和三年に出会って以来、その子孫同士が実に三百二十三年ぶりに運命的な初対面をしたことになる。筆者は多田吉左衛門が土佐の民のことを思い、決死の覚悟で太地浦を訪れたことを思うと、現在の出来事のように思えて胸を痛める。また、吉左衛門が、もし角右衛門に捕鯨技術の伝授を拒否され、罪人として公儀に引き渡されたとする記録があったならば、子孫として大変困惑したことであろう。幸い、この両者は囲碁を通じて親密になって、完成度の高い網掛突取捕鯨法を全国に伝播させたことは誇りとするところで、それがなければ子孫同士の出会いはなかったであろう。
筆者は多田運氏について、不思議なことに初対面とは思えない感覚を味わった。多田運氏との付き合いは二年前の平成十六年(二〇〇四)五月三〇日に室戸市で行われた「第三回日本伝統捕鯨サミット」の際、事前に当方より室戸市に多田氏の所在をお尋ねし、その結果、多田氏より電子メールでお便りを下さったのが交際のきっかけとなった。その際、多田氏を通じ、サミット会場で『熊野捕鯨史抄』の配布の協力依頼をしての御縁であった。土佐と太地浦との過去の捕鯨技術での交流のおかげで、このような方と出会えたということは感無量であり、多田吉左衛門と角右衛門に対し合掌して感謝したい。
(平成十八年十月二十九日)
この度、「津室儿」様の格別の御配慮により、拙稿をこの場に掲載下さって、大変光栄に思います。
返信削除私は、今から300数十年前に、50歳を過ぎた土佐の名門、多田家の当主が一漁夫に身を隠して太地浦を来訪した苦労を思うと、この人物の魅力を強く持っていました。史料の中でも当時の太地の人たちは網掛け突き取り捕鯨を土佐に伝えることに反対しているのでもわかります。そのような排他的な時代に遠路はるばる来訪した多田吉左衛門清平の勇気と行動力を、地元高知の方々がもっと知って欲しいと思っております。
太地亮氏の 「多田吉左衛門と網掛突取捕鯨」を読ませていただきました。少し難しい内容のところもありますが、その裏付けがしっかりしたもので、すごく歴史を感じますね。私はこれまで室戸の捕鯨は新聞記事などで知る程度でしたが、津呂浦の多田吉左衛門という人物が苦労をして土佐捕鯨の技術を発展させた功績に拍手を送りたいですね。また、捕鯨がとても重要な産業だったこともわかります。それにしても碁が縁で熊野の太地覚右衛門という人物と親しくなって更に捕鯨技術を発展させたという逸話は面白いですね。今風に言えばこの二人は「オタク」的な性格で、こだわり派だったのでしょうね。当時の太地の人が捕鯨技術の流出に反対した話も今では当たり前のことです。やはりこの二人は並みの人物ではありません。
返信削除貴重な研究資料をネット上に公開してくださった津室様、公開をご快諾いただいた太地様に御礼申しあげます。
返信削除古式捕鯨の歴史にあった人的交流が記録として残され、三百数十年を経てその子孫同士がふたたび交流しあう・・悠久のロマンを感じます。
時代小説の題材にできるのではないでしょうか。
今後も色々な資料、伝承など教えていただきたいです。
ありがとうございました。
太地家に伝わる文書を読ませていただきました。多田家の文書と同時に拝読でき感激です。明治後期「風姿花伝」が世に公表され人々は驚き感銘した、と聞いたことがありますが、このような感じだったのではと思いました。
返信削除説明されている御示唆部分は分かりやすいです。不漁が続くと漁民が多く欠け落ちしていく浦の窮状を救いたいとの誠心に意気を通じあってからも、特産にかかる技術が伝授されるためには、両藩の関係筋の許可なりを得ることが大変だったのですね。そして多くの辛苦を忍耐強く超えていった両氏の男気と使命観に改めて感動します。多田吉左衛門氏の帰国と、応援の太地の人々の受入れから帰藩までを土佐藩はどのように対応(評価や感謝等)したか、もしも藩の記録文書が残っていれば、目を見張ることになるのではと思われます。ありがとうございました。
2016年6月24日太地亮没 極鯨院角業亮守居子
返信削除2016年6月24日太地亮没 極鯨院角業亮守居子について追伸
返信削除私は太地亮の母方の従弟で彼より一級下で槇野繁です。去る6月27日(月)に彼の家の前を通りかかると同じ敷地内に住む義理の姉が私を呼び止め、亮さんがここ3日4日車が止めたままで、出入りする様子がなくおかしいとのこ事。翌日28日9:50に彼が住む家に入ったところ、座ったまま前のめりになり呼んでも反応することなく・・・。即119番通報救急車警察関係が・・・。司法解剖の結果冠状動脈破裂。で先祖の捕鯨史を研究し、よく聞いていましたが、捕鯨史研究の方々にどのようにお知らせすればと考え貴ブログにお知らせした次第です。合掌
kumanoriken@shi.cypress.ne.jp 090-7869-4446
漁業関係者の日本国内での移動交流がわかって興味深く読ませて戴きました
返信削除