絵 山本 清衣
九死一生の馬太郎
室戸岬町津呂・王子宮の拝殿に、さほど大きくはないが、一枚の絵馬が奉納されている。その絵馬には「維持明治十六(一八八三)年旧七月十四日当時七歳、九死一生ヲ得シ、王子宮ノ崇高ナル霊験ニヨルヤ」と、報謝文が書き込まれている。
この噺は、今から約百三十年前の出来事である。 王子宮の「宮ノ瀧」のすぐ東側に中谷と言う家があり、そこに当時七歳の馬太郎という孫がいた。この馬太郎は三歳のとき両親と離別し、ただ一人祖父母のもとで育てられていた。
今でこそお宮の周りは、数百軒の家が建ち並び賑わいを見せているが、その頃は六、七軒の家があるだけで、周りは田圃《たんぼ》ばかりで、ひなびた風情であった。
明治十六年、夏も盛りの土用であった。浜辺は土用波と台風の余波が重なり合い、かなり高い白波が打ち寄せていた。漁師のお爺さん、今日のような波が高く船を出せない日は、岬の鼻へ磯釣りに行くのが常だった。この時、釣り餌を少々馬太郎に残してやることを忘れなかった。岬が波立つと木《こ》っ端《ぱ》グレが良く釣れる。そのグレを素焼きにして、素麺の出汁《だし》を摂れば絶品である。幼い馬太郎も大好物である。
馬太郎は隣り近所の遊び仲間とお宮の下を磯伝いに、藁草履《わらぞうり》を湿《しめ》しながら浮き浮きと浮き立つ気持ちを抑えながら、ショウクロ巌に立った。ここが木っ端グレを釣る定位置である。早速、釣り糸をたれた。次々と釣れ、予想以上の釣果である。その釣果に、唯々かまける馬太郎は、時として岬の巌に打ち寄せる大きな白波を見定めていなかった。
アッと言う間の出来事だった。大波がショウクロ巌と馬太郎達を、一瞬に呑み込んでしまった。友達二人は陸《おか》に打ち上げられたが、馬太郎は渦潮に足を取られ沖へ沖へと流されて行った。
陸に打ち上げられた二人は、泣きながらも機転を利かせ、「大変だ大変だ、馬太郎が流された」と、叫び続けた。宮ノ前や新町の人々が、わいわいがやがやと騒ぎ立てながら、助け船をどのように出すか、と口々に浜辺に大勢集まった、が波は次第に高く荒く遠くへ流される馬太郎を助けるすべが無かった。
新町の松井のオンチャンや松下・大西・山村のオンチャン等は何とか助けようと、うけ(鰯《いわし》の生簀《いけす》の浮け木)を担ぎ出し内港へ走った。伝馬船《てんません》を早速漕ぎ出し、外港へ出ようとしたが、波が高く船は後ずさりするばかり、仕方なく引き返した。浜辺の人々から「たまるか、かわいそうに」と、言う声が囁かれた。
馬太郎の祖母は若い時から非常に信心深く、今日も必死で王子宮と金毘羅宮に馬太郎の命乞いの祈願を続けた。どれだけの時間が経ったろうか。不思議な事に馬太郎の姿が、ショウクロ巌の西方のカンゴ巌の近くに現われた。人々はまさか生きている、とは誰一人信じなかった。幸いカンゴ巌の陸は、小さな入江のようになっていて、いつも、外の磯より波が静かな所だった。馬太郎の姿を見とどけた若い衆二人は、海に駆け込んで行き引き上げた。馬太郎は、あの大きな波の中で海水ものまず、至って元気であった。人々は王子宮と金毘羅宮の両祭神が、馬太郎を両脇から抱え上げていたからだ、お婆の信心が両祭神に届いたからに、ほかならないと讃えあった。
文 津 室 儿
暑い日が続いています。室戸はもっと暑いのではと思われます。
返信削除馬太郎氏の奇跡は、うれしい話ですね。御ブログで何度か紹介された植松龍太郎氏、の妹君お政氏が津呂中谷家に嫁いだとの情報があります。年代等から馬太郎氏の家系のどなたかと縁があったのではないかと勝手に推測するのですが。昔は地域の広がりのなかで縁が結ばれていったのだろうな、と思います。